1章 立春

 2月3日(木)


 某県に、姫木ひなぎという町がある。

 海と山に挟まれた、人口二万五千人ほどの小さな町だ。

 穏やかな気候で、都心のベッドタウンと云うには遠い。

 JRの駅周辺の開発はやや進み、ショッピングモールなどもできているが、田舎町の雰囲気のほうが強い。

 高い建物はほとんどなく、駅まわりの他は学校と、太平洋に面した漁港と、大きめの公園、山道を越える国道が、地図上の町の中で主な目印となっている。

 国道沿いには大型のアミューズメント施設もあるが、町からはやや外れる。

 主要な公共施設は駅に集中している。

 山々の中にクリーンセンターが建てられていて、ひとつの山の中腹あたりに神社と展望台があり、展望台からは町をほぼ一望できる。

 その展望台に、男がいた。

 二月頭の、昼過ぎでも冷え込んだ空気の下、浴衣姿だった。

 がっちりとした、髷を結っていたなら力士に見えそうな体格の男だった。

 短髪の頭を一度撫で、寒さを感じていないような表情で、細い目をいっそう細めて町を見下ろしている。

「ふぅ、む――」

 外見にたがわず、濁り気味の声で呟く。

「懐かしい匂いがした気がするが――何か、おるのかな」

 独り言にしては大きい声だった。

 男の足元に、蛇がいた。

 かなりの大蛇だった。

 艶気のある斑模様が全身に描かれている。

「町じゅうに残り香があるよう、さな」

 男は蛇に語りかけているようだった。

 大蛇はというと、返事のように舌を出し入れしていた。

 舌の動きに合わせてしゃん、、、、と弦を叩くような音がする。

 二月の冬場に蛇が活動しているのは、どこか違和感が漂っている。

「まぁ、少し歩き回ってみるかな。

 何者がおるかわからんが、仲間に引き込めりゃ僥倖ぎょうこうさな」

 男に応じるように大蛇が男の体を登った。

 体は胴に巻きつき、頭は男の肩で落ち着く。

 男は蛇を背負い直すように一度上体を揺すり、それから国道を町に向かって下り始めた。



 男は悠々と歩き、JR姫木の駅前に着いた。

 田舎町とはいえ昼の駅前にはそれなりに人もいて、男の風体は目立っていたが、男に周囲の目を気にする素振りはまったくない。

 むしろ自分から見回して、目のあった人がそそくさと避けている。

 男は人々を値踏みするように見ていた。

 時折、鼻をひくつかせる。

 姫木駅は南北で雰囲気が異なっている。

 南側は昔ながらの商店街につながり、狭めのロータリーが弧を描いている。

 北口は舗装された広いロータリーと、駅から連絡橋で接続しているショッピングモールのビルが新しい雰囲気を見せている。

 その南口のロータリーに男はいた。

 それも、車道の真ん中に立っていた。

 田舎町で交通量は少ないとはいえ、車にとって邪魔なこと極まりない。

 ロータリーに入ってきた一台のタクシーが、男に向かってクラクションを鳴らした。

 男がちらっと、接近してくるタクシーを見た。

 車道にいる男は邪魔というより迷惑行為であり、クラクションを鳴らされるのも無理はない。

 数人いた人が、音のした方に注目した。

 男は――煩わしそうにタクシーに近寄って手を伸ばし、低速とはいえ動いていたその車を片手で止めた。

 運転手の驚いた顔に不敵な笑みを見せ、男は両手でタクシーのバンパーを掴む。

 車の前部が持ち上がった。

 悲鳴のようなエンジン音が響くが、前輪は空しく空転する。駆動輪が前なのだろう、車に男を押しこめる様相がなかった。

「――ふ、ン!」

 やや鼻息を立て、男の手の甲に血管が浮かび上がる。

 後輪も地面から離れ、運転手の表情はパニックに近い焦りを見せていた。

 男が腕を捻る。

 タクシーは、軽い模型のようにくるりと横に一回転して数メートル向こうの、ロータリーのほぼ中心に落ちた。

 潅木が植えられた円形の場所だった。

 そこにすっぽりと埋まり、接地していないタイヤはやはり空回りを繰り返す。

 高い排気音が見物人を集める中、大蛇を体に巻きつけたままの男は指の骨を鳴らしながらその場を悠々と後にした。

「まったく、張り合いがないなあ、おい」

 独り言にしては大きい声で呟く声に、何者かが応えた。

「面倒なヤツに出くわすよりいいじゃねぇか」

 しゃらん、と楽器のような音がそれに続いた。

 男は声を上げて笑い、それももっともだと頷く。

「それにしても、判るか? 韶響しょうきょう

 懐かしい匂いがさっきより強い。

 ああ、これは同類の匂いさな、きっと」

 と、首のすぐ横に鎌首をもたげた蛇に言って、男はその『匂い』を探るように周囲を窺いはじめた。

 男は駅前から、バス道になっている県道をゆるりと歩いていた。

「同類か――懐かしいな。ここ百年近く会ったこともねぇ」

 男の相手をしている声は、大蛇から発せられていた。

檜助ひのすけの言うとおり、同類の気配がするな。

 ――ていうかこの『感じ』……知ってる奴じゃねぇ?」

「ほぉ。

 だったらなおのこと、探し出したいものさな」

 見た目と違って、檜助と呼ばれた男の歩みは身軽だった。足音もほとんどなく、鈍重そうな動きではない。

 軽い上り勾配になっている県道を、どんどん歩いてゆく。

「濃いぞ、濃くなってきた――」

 周囲は民家や畑が目立ってきていた。

 数百メートルから数キロおきにあるバス停の周りにはコンビニや店もあるが、その数はまばらになってきている。

 韶響と呼ばれ、男と会話している大蛇も辺りを見回し、弦の音のする舌をちろちろと躍らせていた。

「何か、違う匂いもするな。

 これは――狸か狐か鼬か、動物じゃねぇか」

 表情のないはずの蛇の顔に、どこか嫌そうな色が浮かぶ。

 やがて男と蛇は、バス停から二五〇メートルほどの所にある一軒の前で足を止めた。

「ここ、さな」

 昔ながらの喫茶店や、小さな本屋などの中でひときわ古風な造りの建物だった。

 濃い赤茶の瓦が葺かれた、一見ただの家のようにも見えるが、道路に面した擦りガラスの引き戸に店の名が書かれ、商店であることを示している。

 家のすぐ横には綺麗に磨かれた赤い原付が鎮座している。

 男が笑った。

「いかにも、というかそのままの名じゃないか、ええ?」

 蛇の舌の音色が重なる。

 男は勢いよく、<九十九つくも堂>と落ち着いた臙脂色の字が書かれた戸を開けた。


□■□■□■


 夕刻が近くなっていた。

 冬の夕暮れはやはり早く、ふと気づくと周りはもう薄暗くなってきている。

 学校から帰宅したばかりだった高野れんげは、スクールコートを脱いだだけの制服姿のまま<九十九堂>の店内にいた。

 店内に客はなく、作務衣姿の老人と、ふわっとしたワンピースを着た金髪の少女がいるのみだった。

 れんげはコートと鞄を店の奥――一段上がった、膝くらいの高さに廊下があり、その向こうは居間になっている、その廊下――に置いて店内に戻っていた。

 レジカウンターのすぐ横に置かれた宅配便の箱を開け、中身を確認する。

 れんげは艶やかな黒髪をお下げにした、小柄な少女だ。

 幼さの残る顔立ちだが、その瞳は深く強い意志の色を湛えている。

 人間ではない。

 古い道具が魂を得て変化した『付喪神つくもがみ』と分類される妖怪の類だ。

 生まれ変わる前は腰鉈として、人に使われていた。

 今はこうして、高校に通い、店を営み、人のように暮らしている。

「今回も大したモンはなかったけどな」

 カウンターの傍にいた、そのれんげより小柄な老爺が関西訛りのイントネーションで言った。

 箱の中には緩衝材に包まれた、いかにも古そうな道具が数個入っていた。

 老爺は茂林もりんという。

 やはり、人ではない。

 長い年月を経て妖力を得た動物妖の一種で、その正体は狸である。

「『平和が一番』って言うわ。

 それでいいんじゃないの?」

 廊下に腰かけ、足をブラブラさせている少女はメル、という。

 やはり人間ではなく、もともとの姿は車のハンドルだった。波を描く金髪と碧眼、雪のような白い肌、と日本人ぽくない外見に、ロリィタファッションに近い雰囲気の服がよく似合っている。

 れんげと同じく、付喪神だが、変化したのはごく最近のことだ。

 何か、精神的に成長する要因があったか、数ヶ月前に生まれた当時より若干の落ち着きが見え隠れしてきている。

「メルの言う通りです」

 れんげは丁寧に箱の中身をカウンターに出してゆく。

「寒いな、しかし……」

 茂林が呟いた、その時だった。

 入り口の引き戸が荒々しく開けられた。

 三人一斉に入り口を見る。

 男が、そこにいた。

 立方体体型、、、、、、という表現が的確な印象の、背はそれほど高くないが横幅と厚みのある体躯で、二月だというのに浴衣一枚に雪駄せったという格好だった。

 その腰辺りから大蛇が絡みつき、男の肩に鎌首を乗せている。

 メルの腰が退けていた。

「――れんげちゃん、すまん。

 全然注意してへんかった……」

 茂林が小声で言い、その場でくるりと宙返りした。

 着地した時には狸に戻っていた。

 毛をやや逆立て、尻尾を立てて、男と蛇を見上げる。

「茂林?

 ――いえ、あなた方……」

 れんげは茂林の警戒に一瞬驚くが、すぐに入ってきた男に注意を払う。

 男ががらりと笑った。

「誰かと思うたら――これはこれは。

 まさか蓮華刀、、、とはな。

 まだ生きておったか」

 男の笑いに合わせて蛇の舌が見え隠れする。

 れんげは数日前に見たばかりの夢と、断片的な記憶を辿って言う。

「檜……助?

 それにその蛇は、確か――韶響」

「よく覚えてるなぁ、感心感心」

 蛇が言った。

「れんげちゃん、知り合いか?」

 茂林の尻尾が下がる。

「ええ――」

 れんげは持っていた小さな陶器の器をカウンターに置いた。

「私と同じ時に付喪神になった、物です」

「なるほどなぁ」

 茂林は腰を下ろす。

 れんげは微笑を浮かべた。

「お久しぶりです。

 お達者なようで何よりです」

 立ち話もなんだから、と奥に誘う。

 檜助らがやって来ると、メルは立ち上がった。

「お姉ちゃん、あたし――何だかイヤな感じがする」

 と、れんげにそっと耳打ちする。

 れんげはメルを押しやって言った。

「無闇に疑っては駄目よ。

 仕方ないわ――自分の部屋に行ってなさい」

 ワンピースの裾を翻して二階へ行くメルを蛇――韶響が見送っていた。

 れんげは靴を脱いで廊下に上がり、台所へお茶を取りに行った。

 れんげが戻ると檜助は廊下に座り、檜助に巻きついていた韶響も廊下でとぐろを巻いていた。

「あの小娘も――同類か」

 韶響の言にれんげは頷く。

 四人分のお茶を淹れて、れんげは廊下に正座した。

 茂林はカウンターに置いている丸椅子に乗る。

「旅路、ですか?」

「そう――さな。

 山城から、箱根を越えてきた。ここのところ、とんとあやかしの類を見なんだが……まさかお主に会えるとはなぁ」

 檜助はしみじみとした口調で言い、湯気の立つお茶を一気に空けた。。

「何か――求めているのですか?

 修行の場を探しているとか――?」

 れんげが言うと、檜助は再び声を上げて笑った。

「修行! 修行と!」

 韶響も、声にならない笑声を立てるように舌を躍らせた。

 しゃん、と鳴る。

「百年前とちいとも変わらぬな。

 相も変わらずそんな事を言いおって」

 れんげが眉をひそめる。

「あなたたち――」

「探しておる、といえば探しておるよ。

 儂らの味方になる妖をな。

 蓮華刀もどうさ、いい加減退屈な修行などやめて、今度こそ儂らの自由に、好きなように暮らさぬか」

「――あなたたち、っ」

 れんげは廊下に置いたままの鞄から独鈷杵を取り出した。

 茂林の尾がやや上がる。

「護法童子に滅されかけ、しかし命拾いをした恩は生まれていないのですかっ。

 しかも一度は菩提を求めようと、皆で言っていたのではないのですか――っ!」

 強い口調で言うのを、檜助も韶響も笑ってかわす。

「あんなもの、辛抱が利かぬ」

「あんなもの、地味でやっておれるか」

 れんげは、独鈷杵の先端を檜助に向ける。

「まだそんな事を言うのですか!

 改めてくださいっ」

 れんげと檜助は数秒睨みあい――檜助が両手を挙げた。

「わかった、わかった蓮華刀――からかって悪かった」

「……えっ?」

「すまんな、今のは冗談さね」

 手をひらひらと振って檜助が言う。

「あの頃の仲間で成仏できた者もおるのに、儂も韶響も未だにこうしている。

 迷いもするし、不安にもなる。

 こもっていた山にも人の手が入り、居れんようになった」

「それは……」

 独鈷杵が下がる。

「ではやはり、修行の場を探して……?」

 檜助は手を下ろし、何か言いかけた様子の韶響を押さえた。

「この町で、懐かしい『匂い』がしたのでな。

 探って来たら蓮華刀、お主だったと言うわけさね」

 感慨深げに檜助は腕を組む。

「結局、お主が求めていた道が正しかったということ、さな」

「檜助――」

 れんげは独鈷杵を廊下に置き、嬉しそうに微笑んだ。

 茂林の尻尾も下がり、茂林自身は興味を失ったように椅子の上で丸くなった。

「しかし蓮華刀、お主が最も菩提に近そうだったのに、まだ修行の身とはなぁ」

「私は――」

 れんげは独鈷杵を示した。

「あの時の護法童子の一人、瑞さまに従い、こうしています。

 人に害なす妖の類、鬼に代わって諫める役目を負っています」

 と、いきさつを簡単に説明する。

 檜助の細い目が大きくなった。

「なんとっ」

 れんげの真っ直ぐな瞳は檜助を見据え、嘘ではないと頷いた。

「ですから――変な事は言わないでください。

 役目とはいえ、できれば戦いたくありません」

「そうか――いや、悪かった」

 檜助は頭を下げ、腰を上げた。

「邪魔をした。

 儂らはもう少し旅してみよう」

「そう、ですか。

 ゆっくりしていっても――」

 ひらひらと檜助は手を振る。

「良い話が聞けた。それで充分さね。

 変わらぬ蓮華刀にも何というか――安心した。

 儂らは儂らで、迷わず励むとするさ」

 と、押し黙ったままの韶響を肩に担いで出入り口に向かう。

「――待って!」

 ふと気付いたれんげが呼び止めた。

 小走りに駆け寄り、首だけで振り向いた檜助に言う。

「さっきからずっと、檜助は私のことを『れんげとう』と言ってますけど――何故ですか?」

 檜助は質問の意味を図りかねたように眉間に皺を作る。

 れんげが更に言いかけたところを、韶響が口を挟んだ。

「なるほど、そうして鬼に従っているのか。

 気にするな。言葉の綾、ってヤツだ。

 じゃあ、何と名乗っている?」

「れんげ――高野れんげ、ですが……」

 韶響の笑い声は囃子のようだった。

「そいつぁ佳い名じゃねぇか、ええ?

 行こう、檜助。あとで説明してやる」

 韶響はひとしきり笑って、檜助を促した。

「じゃあな、れんげ、、、

 れんげが店の外まで出て見送る。

 檜助と韶響は振り返ることなく山に向かって去って行った。

 見えなくなるまで、れんげは店の外にいた。


□■□■□■


「――くわばら、くわばら。

 あ奴らしいといえばあ奴らしいがしかし、鬼の手下になっているとはな……」

 檜助はおどけたように言って、首を振った。

 その体に韶響が巻きつく。

「とっさに冗談だとごまかしたが――

 そういえば韶響、さっきのは何さね?」

「名のことか?」

 韶響の頭が檜助の肩に落ち着く。

 ふたりは、県道を歩いていた。

 山道から駅前へ出て<九十九堂>へ行き、ぐるりと回って展望台のあった山にまた近付いている格好になっていた。

 檜助が頷いて、答えを促す。

 韶響の舌が音を立てた。

「あいつな、鬼に名を支配されてやがる。

 自分の真の名を解っておらん」

 韶響は侮蔑の口調で続けた。

「しかしまったく、変わりもせずに抹香臭い。それに加えて鬼などと、うざったいことこの上ない。

 昔からそうだったが、挙句の果てに明王の手下の、そのまた下になっておるとは」

 韶響は、檜助より物知りだった。

「嘘はないだろうしな、あ奴に。

 ――そうか、鬼の支配、か」

「しかも――命拾いしたと集まって合議していたあの時、あいつはそんなこと言いもしなかったじゃねぇか。

 ま、あいつは戦うと言うたが、今は多分あいつの真の力の半分も使えてはおらんだろうがな」

「面白いな」

 檜助がにやりと笑う。

「あ奴が儂らの邪魔に来たとて、恐るるに足りず、というわけか」

「用心に越したことはないし、目障りではあるがな」

 県道は国道に接続し、山越えの道に向かっていた。

 人通りはほとんどない。

 ぽつりぽつりと点在する街灯が道路を照らす。

 山に登ってゆく国道は、途中で分岐していた。

 片方は展望台と神社へ続き、そこから山を越えて隣町へ。

 もう片方は連なる山の更に奥へ行き、クリーンセンター、つまりごみ処理施設がその先にある。

 ふたりは神社を避け、そのクリーンセンターへの道に入っていた。

 収集日ではないからか、登ってくる車はない。

「――何さね、ここは」

 しばらく登ったところで、檜助が周囲を見回して言う。

 処理施設へ行く道路は綺麗に整備されていて、曲がりくねって登っているが狭くはなかった。

 しかし、その道路の脇に、様々なものが捨てられていた。

 空き缶や丸く膨らんだレジ袋などから、勾配を登るにつれそれらは増えていき、細かなごみや廃棄物の中に大型の家電製品なども転がっていた。

 処分費用を支払うことを拒み、不法に捨てられたものたちだ。

 白い明かりに照らされる様は滑稽でもあり、哀愁を感じもする。

 檜助は手の届くところにあった電子レンジを拾い上げた。

「こいつにしても、まだまだ使えそうさね。

 可哀想になぁ。

 ――なぁ、こんなことをする人間に味方する理由がどこにある。

 やっぱりそう思わんか」

 檜助の声に怒りが混じっていた。

「まったくだな。

 まぁ、それほど古いものはなさそうだが――いや」

 韶響は言うと、檜助から降りて投棄物の間に分け入った。

「韶響?」

 檜助の呼びかけには応えず、韶響は舗装路から茂みにどんどん入ってゆく。

 檜助は電子レンジを放り、韶響を追った。

「この辺りに……」

 韶響は言いながら山の奥へと進んでゆく。

 暗い中に行くが、ふたりとも気にする様子はない。

「何か、古いものの気配がしたんだが……」

 言われて檜助も周囲に注意を払う。



 やがて、ふたりは『それ』を見つけた。

 薄闇に眠っていたものを引っ張り出して、韶響が言う。

「あいつが邪魔なことには違いない。しかも生半可なことをしてもしや鬼でも現れようものならそれこそ薮蛇だ。

 そこで、だ」

 ふたりは道なき道を、けっこう登っていた。

 柔らかい月光にふたりと、その道具が映る。

「こいつらを見てて思いついた。

 昔、絵で見たもの、俺らで造ってみねぇか?

 小娘も、もし出てくるなら鬼も蹴散らし、俺らを阻むものなど何もない世にしようじゃねぇか」

 山一つ挟んでいるため、町を見下ろす見晴らしには恵まれていない。

 それでもふたりは町の方を眺め、檜助がにやりと笑う。

「そいつは妙案さね」

 手には見つけ出した『古いもの』があった。

 韶響が言う。

「節分の、陰陽の入れ替わりはもうすぐだ。

 早速、やろうじゃねぇか」


□■□■□■


<九十九堂>では、茂林が逸早いちはやく感付いた。

 夕方の、檜助と韶響の来訪からあと<九十九堂>に来客はなかったため、早々に店を閉めていた。

 れんげが夕食の準備をはじめ、それをメルが拙いながらも手伝う。

「――そろそろ、『気』の流れが変わってきたで、れんげちゃん」

 茂林は老爺姿で、居間でテレビを見ながら寛いでいたが、その『気配』にややソワソワとしはじめる。

 チャンネルは地元のケーブル局がやっている、ローカルニュースになっていた。

「ええ。

 節分――ですね」

 台所から声だけで応じる。

「私でも判ってきました」

「一番大きい入れ替わりやからな」

 春夏秋冬の節気を境に、『陰陽の気』がそのバランスを替える。その節目が『節分』で、たとえば付喪神はこの陰陽の入れ替わりの、いわば気の混濁とした状況を利用して造化の神に縋り、姿形を変えて妖物となることが叶う。

 中でも冬から春へと変わる立春は最も大きい陰陽の渦となる。

 一般に節分として知られているのもその所以だ。


 れんげとメルが、それぞれに盆を持って居間に入った。

 この日の夕飯は、太巻きだった。

 関西発祥と云われる『恵方巻き』が十本ほど、皿に積まれている。

 炬燵に、太巻きと吸い物が並べられた。

 メルの抱える盆には、大きな枡にぎっしりと詰められた煎り豆がある。

 数百はありそうな量だった。

 世間に倣っての献立だったが、鰯はない。

 この時期門に掲げる焼嗅やいかがし、つまり鰯の頭と柊の枝葉は疫災の神や・鬼避けのためのものだ。護法童子――鬼に従っているれんげにとって、鬼忌みの飾り付けは無用のものだ。

 鬼喚びの意味で飾る地方もあるが、柊の棘で刺すのは同じだ。

 鬼にとって罠である飾りを立てることはない。

 煎り豆は邪気払いのために鬼にぶつける、という意味もあるが、無病息災を願うということもあり、れんげは用意していた。

『鬼は外』と撒くことはもちろんない。

 かといって、『鬼は内』ともしない。

「これはまた、いかにも節分ものやな」

 茂林が楽しそうに言った。

「豆、足るか?

 嬢ちゃんでも百個はいるんやろ? ワイとれんげちゃんで――」

「余りますよ、たぶん」

 れんげがお茶を淹れる。さよか、と笑って茂林は太巻きに手を伸ばした。

「――それでれんげちゃん、夕方の……あいつら、何て言ったか」

 茂林は、あっという間に一本平らげていた。

 二本目を取る。

「檜助、ですか」

「そうそう、そいつや。

 あいつら信じて大丈夫か?」

「信じたい、ですけど――」

「気持ちは解らんでもないけどな」

 二本目もすぐになくなり、茂林の手には三本目があった。

「あたしは何だかイヤな感じがしたよ。

 なんていうのかな……よくわかんないけど」

 メルが太巻きを食べ終えて、口を挟む。

 テレビで知ったのだろう、律儀に黙って食べていたようだ。

 れんげは困ったように眉を寄せた。

 れんげも一本目の太巻きを食べきった。

「それも解りますけど、やはり信じてあげたくもあります」

「まぁ、な」

 茂林は空になっていた湯飲みに、自分でお茶を注ぐ。

「念のため聞いとくけど、あいつらはもともと何やったか、覚えてるか?」

「確か……」

 れんげが記憶を辿る間に、茂林は四本目の太巻きに取りかかっていた。

「檜助は、荷車です。

 それもけっこう大きなものだったと思います。

 韶響は……三味線、ですね」

 茂林が手を打った。

「なるほど。あの音はその名残か。

 まぁ、気ぃつけといた方がええかもな」

 茂林は片手に五本目を持ったままで豆をがばっと取り、一気に頬張った。

「そうならない事を祈ります」

 れんげは言いながら、豆を一粒ずつ取っていた。

 テレビはニュースから地域情報に変わっていた。

 小慣れていない印象のアナウンサーが明るいテンションで喋っている。

「あの時――」

 れんげは、曖昧で断片的な過去を繋ごうとしていた。

「瑞さまのこと、言えなかった……」

「優しいな」

 茂林の豆の食べ方は、数を数えている様子がなかった。

 対してメルは、二本目を食べながら豆を皿に一つずつ数えて取り分けている。

「言うて、変にビビらせたくなかったんやろ?

 それか『監視役』とか思われるのがイヤやったとか」

「そう、だったのでしょうか」

 れんげは手にしていた、次の太巻きに視線を落とす。

「いい方に考えとかな、滅入ってまうで」

 茂林は笑って、湯飲みを空けた。

「まぁ、心入れ替えて修行しよか、って時に言うことやないとも思うで」

 メルが自分の皿に移した百数個の豆の他、枡には三分の一も残っていなかった。

 太巻きはすべてなくなっている。

 最後の一本はやはり茂林の腹に収まっていた。


□■□■□■


 2月4日(金)


 田舎町にしては珍しく、姫木には高校がふたつある。

 そのひとつ、私立桐梓館とうしかん大学付属学園にれんげは通って、もう一年以上になる。

 山に近いところに広い敷地を持っており、展望台からとはまた違う眺望で町を眺められる。

 伝統的な、濃い灰色のセーラー服はアイボリーのセーラーカラーに入ったラインと胸当ての色で学年を区別している。

 れんげの登校時間は早く、まだ教室に人は少ない。

 れんげの席は窓際にある。

 簡単に挨拶をして自分の席につく。クラスメイトともそれほど親しい者はほとんどなく、れんげは窓の向こうに広がる景色を眺めはじめた。

 机に落ちるお下げ髪の先をくるくると弄る。

 やや遠く、駅に入る電車の行き来を見ていると、背後から抱きつかれた。

「おはよぉ、れんげっ」

 毎朝の恒例になっていた。

 が、いつもより多少早い。

「おはようございます、翠穂さん」

 れんげの背に、豊かな胸の圧力が伝わっていた。

 国安翠穂は数少ない、れんげと親しいクラスメイトだ。

 ボブカットの髪を踊らせ、表情豊かな瞳を輝かせてれんげに笑いかけている。

 抱きついていたれんげから離れて前の席に座った。

「れ・ん・げっ」

 いつもより笑顔の度合いが深い。

「今日は何か予定ある?

 あ、三原クンとデートだよね、やっぱり」

「?――いえ、特に予定は……」

 翠穂は鞄から小さな包みを取り出していた。

 可愛らしいリボンまで付いた包装が施されている。

「あら。でも特別な日だしね。向こうは何か考えてるかもよ」

「特別な日……ですか?」

 翠穂が目を丸くした。

 それから大袈裟に頭を振る。

「ああっ、そうじゃないかと思ってたけど、やっぱりれんげは天然だわっ」

 小さな包みをれんげの目の前に掲げて言った。

「誕生日でしょっ、れんげのっ」

 しばしきょとんとして、れんげはああ、と思い当たった。

 戸籍の便宜上、、、、れんげの誕生日は二月四日になっている。

 れんげが人ではないことを翠穂は知らない。

「あ……ありがとうございます」

「覚えとく、って言ったでしょ。

 有言実行なんだから、あたしは」

 翠穂は包みをれんげに渡した。

「ね、明日お昼からさ、一緒にケーキ食べに行かない?

 今日の放課後は三原クンのために邪魔しないから」

 と笑う。

 その三原クン――三原守弘はれんげの正体を知っている数少ない人間で、まだ登校していないが翠穂と同じくクラスメイトだ。

 れんげは微笑んで頷いた。

「いいですね」

 れんげは、ちょうど節分であることと、昨日の檜助らが若干気にはかかっていたが、翠穂の『人らしい』心遣いが嬉しくなっていた。

「よっっっし、決まりっ」

 ハッピーバースデイ、と口ずさむ翠穂に、登校してきた他のクラスメイトが何事かと尋ねに来る。

 誕生日だと楽しそうに教える翠穂を微笑とともに眺めながら、れんげは翠穂から受け取った包みを開けた。

 中身はアルファベットでブランドのロゴが入った黒い小箱で、箱を開けると――革のキーケースが入っていた。

 全体は黒だが、縁には赤い模様が点々と透かしで見られ、蓋の真中に艶のある薔薇のオーナメントが埋まっている。

 開けてみると三つ折りになっていて、内側の折り目部分に細く貼られた、和柄の花模様の布が可愛らしいアクセントになっている。

 人気のあるガールズブランドのものだ。

「原付のとか家のとか、鍵増えてきたでしょ」

 翠穂はれんげにウインクして見せた。

「使ってね」

「あ――あの、ありがとうございます」

 れんげはキーケースを両手に抱いて、深々と頭を下げた。

 翠穂から聞いたクラスメイトが「おめでとう」と肩を叩いたり、「言えばいいのに」と自分の携帯電話から数本つけてあったストラップの一本を外して渡したり、と今までほとんど話もしたことのないクラスメイトが数人、れんげに祝福の言葉をかけていった。

 れんげは一人ずつに丁寧に礼を返してゆく。

 それは初めてで、不思議なくらいに心地良い感覚となってれんげを包んでいた。

 れんげの頬が軽く上気してくる。翠穂や守弘との仲が近くなってもまだあまり感情を露わにしないれんげにしては珍しかった。

 人が落ち着いたところで、その様を嬉しそうに見ていた翠穂に言う。

「こういうことに慣れてないのですが――何といったらいいのか」

「素直に喜んだらいいの。

 イヤじゃないんでしょ、こういうの」

 翠穂は、硬いのもほぐしてね、と笑って言った。

 本鈴の直前に守弘が登校してきた。

 守弘は周囲が軽く冷やかす中、まっすぐれんげと翠穂の所に向かう。

 机の横に立った守弘をれんげは見上げ、

「おはようございます、守弘さん」

 と微笑みかけた。

 十一月に起こった、メルが変化した時の騒動をきっかけに、れんげと守弘は距離を縮め今に至る。

 現役のレーサーでもある守弘は、その時にれんげの正体を知った。

 守弘は年末、クリスマスの時にあった事件のあと時折何か考え込むようにすることもあったが、れんげとの付き合いは変わらず――れんげが変えずに、続いている。

 やや彫りのある顔に緊張の色が漂い、アッシュカラーの短髪に一度手を突っ込んでから守弘は言う。

「放課後――」

 が、チャイムに遮られた。

 担任が入ってくる。

「残念、タイムリミットっ」

 翠穂が守弘の筋肉質な背を叩く。

 ふたりがそれぞれ自分の席に戻って朝のホームルームが始まり、れんげの周囲はようやく落ち着いた。

 一時間目の授業が始まるまでの僅かな時間に、さっきもらったストラップを付けておこうとれんげが携帯電話を取り出すと、メールが入っていた。

 翠穂からだった。

『三原クン何か企んでるね』

 れんげが翠穂の方を見ると、翠穂はにやっと笑い返してきた。

 すぐにメールが届く。

『素直に楽しみなね』

 れんげはくすっと笑って、携帯電話を閉じた。

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