第4話

 私は日に日に年老いていった。それは誰かに指摘されるまでもなく、自分で分かった。体は枯れたようになり、声もしわがれていった。

 そして、当然、あるいはそうではないのかもしれないが、見かけ上、少女の姿はまったく変わらなかった。

 春から秋にかけて少女は若い姿のまま現れ、冬になると現れなくなる。数ヶ月ののち、年が変わり、濃い霧と共に再び同じ姿でやってきた。

 いつしか私は杖をついて、少女を迎えるようになっていた。

 人間嫌いというだけではなく、体力的にも屋敷の外に出歩くことが億劫になり始めていた。買い物以外で外に出ることは、めっきり少なくなった。

 少女との逢瀬だけが、私の楽しみになった。膨大な量の書物も、それほど感慨を抱かなくなっていた。小説を読む日々には変わりはなかったが、それは楽しみというよりも少女が現れる霧の日までの暇潰しでしかなかった。それでも、少女を待つ長い冬の間、わずかばかりの慰めにはなった。

 どこに少女が現れても、椅子に腰かけて、ゆっくり眺められるようにするために、背もたれと肘掛のある軽いが座り心地の良い椅子を注文し、屋敷のそこここに置いた。同じように、足つきの灰皿も同じ数だけ揃え、椅子と共に置いた。私は少女がやってくるとそばに座り、パイプをくゆらせることに至福を感じるようになった。

 だが、それは長くは続かなかった。私は少女を見続けたが、いつしか心境は変わっていった。

 私の髪は灰色が混ざるようになり、皮膚は老人特有のかさついたものになった。顔には皺が増え、それにより見た目には気難しい印象を与えるようになっていた。外見は内面を表しているのだろう。事実、私は昔より気難しくなっていた。腰が曲がった私の背は、少女と変わらないくらいになった。

 私が変わっても、少女は変わらなかった。

 今までと同じように健康そのものといった様子で現れ、まなざしは相変わらず好奇心に満ちていた。

 私は少女を愛でながら、一方で憎み始めた。

 最初は小さな泡のようなものだった。心の奥底に生じた泡は、少女を見ている間に膨れてはいったが、少女が消えると同時に弾けていた。だが、次第に泡の数は多くなり、少女の姿が見えなくなっても弾けることもなく、そのまま心の表面に浮かび上がるようになった。

 少女も私と同様に年を取っていれば、それほど感じもしなかっただろう。だが、変わらずに若いままの少女の姿は、着実に近づきつつある死を私に意識させた。いつしか、私にとって少女は死と同様に思えるようになっていた。

 私は少女の姿を狂ったように追いかけ、見つけると、杖で叩いた。少女はその時々の表情を崩さずに、私の狂気に付き合ってくれた。私はくたびれはてるまで杖を振るい続け、疲れきって杖を落とすと、倒れ込んだ。少女の形の良い足にすがろうとしても、手は空を切るばかりで、私はただ呻くように泣くしかなかった。

 私は少女と会うたびに、何もなかった人生と、そのままで終わる死の恐怖を訴えかけるようになっていた。少女は老人の繰言に付き合ってはくれたが、なんの素振りもなく、返事もしない。若い頃であれば、私に無関心な良き同居人と喜んだはずだ。だが、年老いた私に関心を示すことがない少女の存在は、絶望を深めるだけだった。

 私の高ぶった気持ちは少女が消えても収まらなかった。私はパイプをふかし、ブランデーを飲んでは心を静めようとした。かつては紅茶に入れ、香りを楽しむだけだったブランデーをなみなみとグラスに注ぎ、あおるようになっていた。

 心の荒廃は外界を侵食していった。かつて丹精に育てた草花や作物は今ではその養い手を失い、庭も菜園も再び荒れ果ててしまった。塩風の影響なのか、黒塀は痛んで、木地を出し、なまこ壁もくすんでいった。

 私は少女を追うことをやめた。霧の日には分厚いカーテンを閉ざした自室にこもり、ブランデーを飲みながら、パイプの煙の向こうで書物の文字が踊る様子を眺めるようになった。たまたま私の部屋に少女が現れると、悲鳴をあげ、泣き叫びながら部屋を飛び出した。少女の健康的な明るさに、私の神経は耐えられなくなっていた。パイプもブランデーも、心の平静を戻す役には立たなかった。

 私にとって、少女は死神であり、死そのものでしかなかった。かつては私の心を癒した微笑も、死の恐怖に怯える私を侮蔑する嘲笑にしか見えなくなっていた。

 無慈悲にも、時は私の意志とは関係なく流れていった。私は屋敷内でしか歩かなくなっていた。病院にかかるほど体は弱っていなかったが、健康と言えるほどでもない。体を動かすと、どこかに必ず鈍痛が走り、歩くとすぐに息が上がった。

 食料品や生活用品は週に一度電話で注文し、玄関先まで持ってきてもらうようになっていた。スーパーのあるじは代替わりし、長男になっていた。父親同様親切な男で、私の顔色の悪さをいつも心配してくれた。

 それが今の私には涙が出そうなほど、ありがたかった。

 私の髪は真っ白になっていた。屋敷から外に出なくなったこともあり、肌も色が抜けたようになっている。鏡に映る目はどんよりと濁り、細かい血管が浮き出ていた。幽鬼さながらの姿としか、自分でも思えなかった。

 私は頑固にも家の中に他人を入れなかった。今更、他人との暮らしは私にはできなかった。ましてや、病院に入院することなど考えることもできない。食事も気が向いた時に少し取るだけになっていた。

 老い先短い、死が間近な私には、それで充分だった。

 目が覚めると、私は窓から外を見る。霧が出ていない日は失望のあまり、再び寝込んでしまうことが多い。それでも午前中、あるいは午後、そうでなければ夕暮れには霧になると考え、なんとか一日をやり過ごす。

 私にとって、屋敷の中が世界の全てだった。ここ以外の場所は存在しないにも等しい。

 そして、その世界の住人は、私と少女だけだった。

 霧が出た日は手早く食事を済ませ、日がな一日、屋敷の中を徘徊した。少女を見つけると、そのそばの椅子に腰を降ろし、少女が消えるまで眺めて過ごした。たいてい、少女が消えるまで、かつての無礼な振る舞いを小さな声で詫び続けた。少女が応えることはなかったが、私を責めることもなく、ただ黙って聞いてくれた。

 そのような日々も、あとわずかだろう。

 私の命は尽きかけている。

 今でも、白いネグリジェ姿で客室に現れる少女の姿は美しかった。私の目には神々しいと言ってもいいほどだった。

 少女の瞳は好奇心に満ち、その頬は薔薇色に輝いている。

 時には、痛みを堪えながら、きしむ体を動かして、私は少女の横に立った。今では、わずかに少女の方が背が高くなっていた。

 少女の視線はいつものように、ミルク色の世界を注視していた。私もいつもと同じように少女の視線を追う。何度繰り返したことだろう。やはり今でも私にはミルク色の霧が重なる白い世界しか見ることができなかった。

 少女の表情は昔同様に、今にも感嘆の声を上げそうだった。私はその表情を見て、少女と同じ世界を見ることができないことを少し寂しいと感じていた。

 窓ガラスに映る二人を私は見つめた。生き生きとした少女と老いさらばえた幽鬼のような私が、肩を並べて立っている。ただじっと外を見守る二人を見ていると、どちらが生者で、どちらが死者か判別できなくなる。

 いつか。

 近いいつか。

 少女が動き出し、私が霧と共に消える日が来るに違いなかった。

 その時、外の世界では、霧の日に幽鬼のような男が窓辺にたたずむ屋敷の噂が立つのだろう。その噂を聞き、好奇心に溢れた少女が私を見つけ出す。

 そう考えると、なぜかおかしくなり、私の頬が緩んだ。私の心は今までになく平に満ちていた。

 私たちはただ黙って窓辺に並び、ガラスの向こう、たゆたう霧の中にある別々の世界を眺めていた。


- 了 -

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霧の世界 久遠了 @kuonryo

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