第3話

 私は錯覚と考えようとしたが、たびたび「それ」を目にするようになった。時間と場所は関係なく、「それ」は目の端に見え、意識を集中すると消えた。ただ、「それ」に気づくのは、やはり外が濃霧の日だけに限られていた。

 そして、秋も深まった、ある日。

 私は霧が出ると、家の中を確認して歩く癖がついていた。その日も一階の部屋を見て回ってから、あの二階の客室に向かった。

 そこで私は、「それ」をはっきり認めた。今までは半信半疑だったためか、はっきり見ようとすると逆に見えなくなっていたが、その時以降は霧と共に「それ」が消えるまで、見失うことはなかった。

 わずかずつでも頻繁に感じていたためか、その時には実際に目にしても恐怖を感じなくなっていた。それに、どう見ても、「それ」は恐怖を覚えるような姿ではなかった。

 「それ」は幽霊ではないかと思う。

 ほかにそのようなものを見たことがないので、幽霊かどうか、本当のところは分からない。時空の断層があり、別の世界を垣間見ていたのかもしれない。その後、いろいろ調べてはみたものの、結局なにも分からなかった。

 最初に見た時に恐怖を感じたのは予想もしていなかったからだった。落ち着いて、よくよく見ると、それは蝋人形のように見えた。

 「それ」は中学生か高校生くらいの白いネグリジェ姿の愛らしい少女だった。少なくとも、私にはそうとしか見えなかった。

 少女は窓から外を眺めていた。肩までの艶やかな黒髪を銀のカチューシャで留めている。濃い眉と大きな瞳に意志の強さが現れていた。何が面白いのか、赤い口元がわずかにほころんでいた。

 私はふっくらとした少女の頬に触れようとした。おずおずと差し伸べた指は頬の中に食い込んでいったが、何の感触もない。そのまま手を動かしても、ただ空を切るだけだった。

 私の背に再び冷たい汗が噴き出した。だが、そのまま見ていても、少女は瞬き一つしない。私は手を離した。

「こんにちは」

 おずおずと、私は少女に声をかけた。

「聞こえますか」

 私は自分の猫なで声に顔をしかめた。たぶん赤面していたと思う。

 私は少し離れ、少女をじっと見つめた。ゆっくりとでも動いているのかと考えたが、少女は身動き一つしない。少女の微笑みに誘われて、私は少女のそばに立ち、その視線を追った。

 窓ガラスの向こうは白い世界だった。ただ世界を覆う霧しか見えない。

 その日は特に濃く霧が出ていた。ミルク色の綿菓子が幾重にも重なり、地表を覆い隠している。わずかに吹く風が霧を少しずつ動かしたが、見えるものは霧だけだった。

 飽きずに見ていると、次第に霧が薄らいでいった。枯れた葉と同じ色の大地が見え隠れし出す。さらに時が過ぎると、丘の下の町並みも少しずつ見えるようになった。

 周囲が色を取り戻していくにつれ、少女の姿は薄らいでいった。ただ、外を見つめる瞳だけが輝きを増していくように、私には思えた。

「何を見ているんですか?」

 思わず私はつぶやいた。

 だが、少女が答えることもなく、霧が消え去ると共に少女も姿を消した。

 次に少女を認めたのは、年が開け、暖かくなってからだった。やはり霧の日で、場所は書庫の一角だった。梅雨も終わりを告げ、暑さを増していた。家のまわりの木々では、うるさいくらい蝉が鳴いていたことを覚えている。

 少女の装いも季節によって変わるようで、その時は半そでのTシャツにショートパンツ姿だった。海かプールにでも行ったのか、剥き出しの肌は健康そうな小麦色に変わっていた。少女は何かを手に、難しそうな表情をして立ちすくんでいた。まるでたまたま見つけた本を読もうと手にしたが、難しくて困っているといった表情だった。

 手元を食い入るように見つめるまなざしは、真剣そのものだった。少女の手の形から察すると、何かの本を開いていることは確かだった。私はその本が何かを知りたかったが、私の目には少女しか映らず、本を見ることはできなかった。

 書庫のライトが少女を照らしているわけではないことは、その影を見れば明らかだった。幽霊という意味とは別の意味でも、少女がこの世の存在ではないことは明らかだった。

 人間嫌いであり、他人に干渉することも、されることも避けてきた私が、実在するかどうかも怪しい少女に関心を持つとは自分でも意外だった。私は少なからぬ金を使い、人を雇って、改めて屋敷の噂話を調べさせた。

 多くは私の両親に絡む噂だった。もっとも多かったものは闇に葬られた隠し子の話で、それに次いで多かったものが猟奇的な性の被害者という話だった。私はそれらの話を一笑に付した。私は両親を嫌っていたが、その性格を知り抜いてもいた。話的には面白いが、現実的ではない。

 丘の上の家に以前住んでいた家族の話もあった。だが、丘は両親が造成し、家も新築で建てられている。両親以前に住んでいた家族どころか、家自体存在していない。

 もっともらしい話は、運び込まれた調度品についての因縁話だった。確かに、どの家具もアンティークなもので、なにがしかの因縁がありそうな雰囲気は漂っていた。だが、それも、もっともらしいというだけで、一つ一つについて確かめようもないことだった。

 私は冬の間、調査の書類を読んで過ごした。思えば、自分以外の人間に興味を感じたことは、これが初めてだった。小説とは違い、思うように話が進まない苛立たしさを感じたが、悪い気はしなかった。

 だが、春になる前に、全ての調査を終了させた。一つ一つの話は面白くもあり、刺激的ではあったが、この先進展しそうな内容は一つもなかった。調査に必要とする資金も無尽蔵にあるわけではない。

 それに、少女はただ現れるだけで、それでなにか害をこうむるということもなかった。私は少女の幻影もまた、両親からの遺産として受け継ぐことにした。

 冬の間、私は少女を調べていたせいもあり、少女の出現を心待ちにする気分になっていた。春になり、霧が出始めると、少女はまた姿を現すようになった。

 その年、私は確認できる限り、霧が出ると少女を追いかけた。霧が出て、確認しなかった場所もある。一階と二階にあるトイレと風呂場、脱衣所だが、幾ら人ではないとはいえ、そのような場所へ少女を探しに行くことは性格的に私にはできなかった。

 少女を見つけて、何回かはなんとか意思の疎通を図ろうとした。だが、それもしょせんは無駄なことだと気づいた。触れることさえできない相手に、何度となく話しかけた。紙に文章を書き、消えるまで目の前に置いたこともある。その間、私は少女のそばに立ち、反応を見ていたが、見た目にはまったく変化がなかった。

 少女が美しいかどうかは、私には分からない。だが、表情豊かで、健康そうなところが好ましく感じられた。あるいは死んでいるのかもしれない少女を形容するにはおかしな言葉だが、まさに「生き生き」としていた。いつ、どこで見つけても、それは変わりなく、常に動き出してもおかしくない姿をしていた。

 特に大きな瞳は、いつも生気に満ちていた。全ての動作が分かったわけでもなく、その時、少女がどのような気分なのかを窺い知ることはできない。それでも、どのような時でも、その瞳が喜怒哀楽をはっきりと表していた。

 最初に出会ったからかもしれない。

 霧がなければ町並みが一望できる客室に現れ、窓辺に立っている時の表情を、私は一番美しいと感じていた。

 少女の現れる場所に規則性はなかった。が、もっともよく現れる場所は、その客室の窓辺だった。そこで、たいてい少女は微笑を浮かべ、窓から外を眺めていた。笑顔の少女の瞳は好奇心の塊というようにきらめいていた。

 小説の中でしか世界に興味が持てない私にとって、それは羨望を感じさせるものだった。彫像のようでありながら、少女は生き生きとしている。私はたびたび、少女と共に霧で視界が閉ざされた世界を見つめた。私にはミルク色の流れしか見えない。私にとって世界は希薄なままだった。私には少女が何を見ているのか、まったく分からず、ただいぶかしむしかなかった。

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