第2話
嫌い抜いていた両親だったが、私はその両親の性格を確かに受け継いでいた。
両親は無類の小説好きだったが、私もまた小説に耽溺していた。人間嫌いの私が人間を描いた小説を愛するということは奇妙なことではあったが、遺産の中に膨大な量の蔵書を目にした時には、めったに笑うことがない私が声をあげて笑った。両親は屋敷の北側一階に、柱や梁を強化した書庫を作っていた。天井まである電動の可動式書架が六台置かれ、膨大な量の本が収まっていた。
一階には書庫のほかに、暖炉のある居間と二十人は楽に食事ができる食堂、巨大な冷蔵庫が置かれ、シンクが二つあるキッチン、たぶん使用人を住まわせていた部屋が四部屋あった。二階には今まで住んでいた1DKがそのまま入りそうな洋室が二部屋と、やや小さめの客間が三部屋あり、それぞれの部屋に六畳ほどのウォークインクローゼットが設えられていた。
二階の広い洋室は父と母の寝室だったのだろう。用品はそのまま残されていた。私は懐かしむこともなく、家具だけを残し、全ての用品を売り払うか、捨てた。そのほかの使わない部屋は整理してから鍵をかけた。その後は月に一回、業者に清掃を頼み、風を通す程度しか開けることはなかった。
遺産は屋敷のほかに、株や現金などの動産が一億円ほどあった。これに私自身の退職金と年金があれば、少なくとも死ぬまで金に困ることはないだろう。事実、引っ越してからの私は食料品と生活用品、それに月に数冊の本を買うくらいで、特に大きな買い物はしなかった。
私は本に埋もれる暮らしを始めた。
平らに切り開かれた丘の上には、ガレージと屋敷のほかに、百坪の庭と三百坪の菜園があった。敷地全体は黒壁で、ぐるりと囲まれている。私道から入る門のほかに、海側の崖に出る裏木戸があったが、切り立った崖のほかに何もなく、特に用がなければ開けることはなかった。
門を出て私道を降りていくと、小さな町があった。東京から比べれば田舎の小都市の、さらにその片隅の町ではあった。それでも、小さいとはいえ、スーパーやいろいろな食料品店、食堂、レストランなどはあり、生活に不便はない。特にスーパーのあるじは生前の両親と懇意にしていたということがあってか、注文をすると配達を行ってくれた。
インターネットの恩恵もあった。都会にいた時同様に、ほとんどの情報はインターネットから得ることができ、必要な物を買うことができた。あるいは恩恵は都会にいた時以上かもしれない。
私は少しずつ庭と菜園をいじり出した。農作業などやったこともなかったが、やってみると思いのほか面白かった。インターネットや本でいろいろ調べ、晴耕雨読の言葉どおり、晴れた日は庭や菜園で働き、雨の日には一日本を読んで過ごした。
部屋もあり、一人二人であれば、住み込みで人を雇えないこともなかった。住み込みではなく、かよいの家政婦に食事の用意を任せることも考えたが、それもわずらわしく思え、しばらくは一人の生活を楽しむことにした。
二年ほど暮らすうちに、屋敷での暮らしにも慣れた。一人の生活に慣れ親しむ頃には、人を雇うことは考えなくなっていた。
出歩くことのほとんどない私を、町の者たちは人畜無害な変わり者と考えてくれたようだった。移り住んだ当初は多少の詮索もあったが、それは一年もしないうちになくなった。
その間に、弁護士が話してくれた幽霊屋敷、お化け屋敷という噂を聞いた。私はそのような話を新鮮な小説を楽しむかのように楽しんだ。話をしてくれた者たちは、笑顔で聞いているだけの私に呆れているようだった。
幽霊屋敷には似合いの人間と思われたのだろう。
私が他人にどう思われているかは私にとってはどうでもいいことで、私が他人に関わらずに生活できることが重要なことだった。幸いにも、町の住人たちは一通り私に話をすると満足し、その後は私を放っておいてくれた。
一年目、二年目は、あっという間に時が流れ過ぎた。毎日が新鮮で、草花を育てる難しさや、作物を収穫する楽しさを知った。自然と生活するようになり、都会ではさほど気にも留めていなかった四季の移ろいを感じるようになった。
庭や菜園が片付くと同時に、痛んでいた屋敷の改修工事も終わった。なまこ壁は元の白さに戻り、少し傷みが出ていた黒塀も威厳を取り戻した。
その土地は暖流の影響なのか、冬でも雪が降ることはなかった。床暖房もあったが、暖炉の暖かさはエアコンとは違う快適さがあった。冬の間、薪のはぜる音を聞きながらの読書は私が夢見ていた生活だった。春から夏にかけて屋敷周辺は、緑と色とりどりの草花に囲まれる。庭いじりや畑仕事のあとで、木陰にロッキングチェアを出しての読書は時には眠りを誘った。秋の収穫期には読書量が減った。それは収穫と翌年の準備に追われたせいだが、自分が育てた作物の収穫は読書以上に刺激があり、楽しいものだった。
その間に弁護士が話してくれた霧の日にも出くわした。霧は思っていたよりも濃いミルク色で、時には窓から外を眺めても真っ白な風景しか見えないこともあった。それほどひどくない時には雲海のように地面すれすれに濃霧が漂い、霧の隙間から表の町並みや裏の海が垣間見れた。そのような日に下から見ると、場所によっては屋敷が雲に浮かんでいるように見えるのだろう。実際住んでいる私が二階から外を見ると、部屋が雲に浮いているように思えた。
三年目には少し余裕が出始めた。庭の手入れや、菜園の農作業にも幾らか体が慣れた。定期的に町に出かけ、自分自身で買い物をした。スーパーのあるじとは、それなりに打ち解けて話をするようにもなっていた。
その年の六月。梅雨に入り、毎日小雨が降り続ける鬱陶しい日に、私は異変と出くわした。その時は月並みだが、さすがに背筋も凍るという思いを知った。
午前十時頃だったと思う。レースのカーテン越しに窓から外を見ると、もやが漂い、次第に風景の色が薄まっていた。もやは濃くなり、色はさらに薄くなっていった。気がつくと、外はミルク色の霧に塗り潰されていた。
居間で紅茶を飲みながら本を読んでいた私は、ふと何かの気配を感じた。特に物音がしたということもない。ただ、一人で住むことに慣れた私には、いつもとは違う何かが感じ取れた。
サイドテーブルに本を置き、各部屋の鍵をまとめているキーホルダーを手にして、私は居間のドアをそっと開けた。廊下は玄関先の明り取りの窓から光が入る場所だけ明るく、ほの暗かった。壁のスイッチを押すと、天井の明かりが灯り、影を追い払った。
私は下の部屋を順々に開け、中を覗いた。廊下を玄関に向かって音を立てないように歩いているつもりだったが、それでもスリッパがたてるパタパタという音が耳についた。階下から踊り場を見上げると、そこもまた夕暮れ時のような薄暗さだった。私は再びスイッチを押した。踊り場が明るくなったことを確認して、私はスリッパを脱ぎ、階段に足を乗せた。日ごろは音一つたてない階段が、呻くようにきしんだ音をたてた。私は手すりに手を置き、ゆっくりと二階に向かった。
なぜ、その部屋の扉を開けたのか、今になっても私には分からないでいる。
ただ、その時、まずはその客間を調べてみようと考えた。
鍵穴に鍵を入れようとしたが、なかなか上手く入らない。わけもなく、右手が細かく震えた。私は一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。次に鍵を差し込むと、すんなりと鍵は鍵穴に収まった。ゆっくりひねると、鍵が開く小さな音がした。
ひんやりとしたドアノブを握り、ゆっくり回した。少しだけドアを開け、中を覗いた。ウォークインクローゼットに続くドアと壁際に置かれたテーブルと椅子が見えた。窓際を見るには、もっとドアを開かなければならなかった。私はゆっくりとドアを開け、「それ」を見た。
私はドアを閉めることも忘れ、一階の居間に駈け戻った。階段で足がもつれ、落ちそうになった。飲みかけだった紅茶にブランデーをなみなみ注ぎ、一気に飲み干した。半分以上ブランデーが混ざった紅茶が喉を焼き、胃を焦がしたが、冷えた心が温まることはなかった。
静けさの中、私の動悸だけが部屋の中に轟いていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
玄関先で振り子時計が鳴らす十一時の鐘の音が静けさを破った。その音は私の耳には雷鳴のように聞こえた。体がギクリと震え、それで呪縛が解かれた。私は大きくため息をつき、体を支えるためにサイドテーブルに手を置いた。
私は暖炉の横に立てかけた火掻き棒を手に、二階に戻った。今度は静けさを破るために大きく足音を立てて、階段を上った。
左手の火掻き棒を肩まで持ち上げ、右手で客間のドアノブを握る。手のひらが異様に汗ばんでいた。
ドアを開け、私は勢いよく部屋の中に飛び込んだ。
誰かが見ていたら、気が狂ったと思われたに違いない。
部屋の中には、何もいなかった。
私は火掻き棒で、ベッドを数回叩いた。こわごわ、ベッドの下を覗いたり、ウォークインクローゼットも調べた。部屋の中は静まり返り、私の荒い呼吸だけが聞こえた。
カーテンを開き、窓を開けた。霧はわずかに残っていたが、その部屋からは眼下に町が一望できた。
私はため息をつき、部屋を出て、再び鍵を閉めた。
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