霧の世界

久遠了

第1話

 窓辺に立つ二人の姿が、私の目に入る。

 どちらが生者で、どちらが死者か?

 ふと、脳裏にそのような疑問が浮かんだ。

 その疑問に、どう私は私に答えたらいいのだろう?


 親の遺産という屋敷に引っ越して、かれこれ半世紀になる。当時、私はすでに若くはなかったが、年老いたというにはまだ早すぎる年令だった。

 すでに仕事から退いているという、父の顧問弁護士だった枯れた肌の老人は、父からの最後の依頼を果たすために私を十年以上探し続けたと話してくれた。ご苦労なことだが、それで私が喜んだわけではない。

 両親との生活を私は嫌い抜いていた。大学に入学して親元から離れたことを幸いに、私は実家との連絡を絶っていた。

 まったくやり取りがなかった親の遺産など興味もなかった。

 遺産を放棄する旨を連絡したところ、翌日の夜に老弁護士自らが私の部屋にやってきた。涙ながらに相続を勧める姿に、私の心も動いた。私は不承不承ではあったが、まず相続する家を見に行くと答えた。

 両親の住まいは緩やかな丘を切り開いた頂上にあった。丘のそばまでは家々が迫っていたが、丘自体が両親の土地のため、私道の先には他人の家は一軒もなかった。

 切り開かれた場所には、五台は楽に車を止められるガレージと、天使を配した噴水がある庭があった。

「お庭とは別に、屋敷の裏には菜園がございます」

 車から降りて目を見張る私に、弁護士は自慢げに言った。

 家自体も私の想像の及ばないものだった。家というよりも屋敷というにふさわしい建物で、部屋の数だけで二十はあると言われ、私はさらに驚いた。

「ペンションにしたいから売ってくれ、という話をお断りするのが大変な時期もございました」

「バブルの頃ですか」

「さようでございますよ」

 私が問いかけると、昔を懐かしむように目を細めて弁護士が答えた。

 私は人間嫌いではあったが、社会人としての礼儀はわきまえている。社会生活を営む上での最低限のものでしかないが、都会で一人暮らしをしていくには充分だった。

 そのような私がコミュニケーションの要である語学の才能があったことは、皮肉と言えた。中学や高校の英語でも、大学時代のドイツ語やフランス語でも習得に苦労をした覚えがない。私はアメリカ留学から帰ると、それほど大きくない出版社に入社し、翻訳者兼任の通訳として働いた。

 人の言葉を通訳する分には、自分から他者と関わることはない。ただオウムのように言葉を繰り返していればよかった。人付き合いの悪さが昇進に響いたが、地位を気にする性格ではなかった。昇給も最低だったが、食うに困らなければ問題とも思わなかった。

 そういう私がクビにもならずに社員としてやっていけたのは、なによりの幸運と思えた。とはいうものの、そこそこ以上に仕事をこなし、問題も起こさないとなれば、クビにしようがなかったというだけだったのかもしれない。五十五才の定年を待たずに、四十五才で早期退職制度を利用して退職すると部長に告げた時のほっとした表情が、それを物語っていた。

 弁護士が私を見つけることに苦労した理由は、私の引っ越し癖のせいらしかった。私は近所づきあいを避けるために、早くて半年、長くても二年と同じところに住まなかった。たいてい安アパートに住んでいたが、気に入った物件が見つからない時はウィークリーマンションや安ホテルに住んでいたこともあった。

 親が私のことを知らなかったように、私も親がどこに住んでいるのかを知らなかった。両親が残した屋敷は海沿いにあったが、それは私が生まれ育った場所ではない。遺産相続に乗り気の薄かった私だが、東京の過密した街とは違い、ゆったりとした土地は一目で気に入った。

 私は遺産を相続することに決めた。両親が全てを任せた弁護士は有能だった。煩雑な手続きも、その場で弁護士が提示する書類にサインをしていくだけで終わった。

「これで肩の荷が下りました」

 むやみと広く、天井の高い居間の、豪奢なテーブルの上に置かれた書類を確認した弁護士はほっとしたように言った。

「お疲れ様でした」

 私の心にもないねぎらいの言葉に、弁護士の目が潤んだ。

「ありがとうございます」

 弁護士は心から感謝しているようだった。

「お屋敷は町から離れていますが、ご両親はここからの景観がお好きでした。特に裏手から海を臨む光景は見飽きないと申されておりました。ただ……」

「ただ?」

 聞き返すと、弁護士は少し慌てた素振りを見せた。

「いえ……」

 雇い主の依頼を守り抜いた愚直な男にしては、珍しく言いよどんだ。私は意地悪く、さらに尋ねた。

「どんなことでも良いんです。私は両親と疎遠だったものですから、全て聞かせてください」

 私の穏やかに聞こえる声音を聞いても、弁護士は額の汗を拭いているだけで答えようとしなかった。だが、私の視線に気おされてか、ゆっくりと話し出した。

「さようですな。全てお伝えすることが、私の務めなのかもしれません。ここは海に近いせいで、春から秋口にかけて、年に数回濃い霧に覆われることがございます。海沿いの漁師町で聞いたのですが、暖流、黒潮の影響だと言っておりました。その時なのですが、高台にあるせいで、この家は霧の上に浮かんで見えることがあるのだそうです」

「幻想的ですね」

 私の言葉には揶揄する響きがあったが、弁護士は気づきもしない様子だった。あたりをはばかるように声をひそめて告げた。

「確かに。ただ、その時、遠目に窓辺に立つ若い女性が見えるらしいのです」

「若い女性?」

 私は一人っ子で、姉も妹もいない。記憶の中の母も、すでに若いと言われるほどの外見ではなかった。

「誰か、同居人でもいたのですか。あるいは賄いに人を雇っていたとか」

「いえ、その…… そのような女性も確かに数人雇っておりました。が、その誰でもないのです」

 弁護士はうつむき加減に目をそらし、しきりにハンカチで額を撫で回した。上目遣いに見上げた弁護士の目と私の目が合った。私はできるだけ柔らかな表情を保ちながら尋ねた。

「どなたなんですか」

 弁護士は諦めたようにため息をついた。

「どなたかは存じません。と申しますのも、わたくしはお会いしていないものですから」

 まだ弁護士は躊躇しているようだった。それでも、心なしか青ざめた表情をうつむき加減にして、言葉を選びながら話をした。

「霧が出ますと、時には屋敷が霧の上に浮かんだように見えます。その時に二階の窓辺に立つ女性が見える、と町に住む者から聞きました。中には双眼鏡や望遠レンズで確かめた者もおります。長い黒髪の美しい女性だそうです」

「望遠レンズであれば、写真を撮った人もいるんじゃないですか」

「おります」

 私の問いに弁護士は即答した。が、その後の言葉が続かない。私は黙って弁護士を眺めていた。弁護士は眉間に皺を寄せ、天井のシャンデリアを睨んでいた。しばらくして、再び額を拭きながら渋々と話し出した。

「何人も写真を撮っております。が、誰も写っておりません。ただ、屋敷が写っているだけで。それが一人二人であれば根も葉もない嫌がらせと申せますが、多くの町の者たちが目撃しておりますもので、そうとばかりも言えない状況なのです」

 弁護士のかすれた声を私は笑い飛ばすべきだったかもしれない。いつもであれば、そうしただろう。だが、その時は暖炉のある無駄に広い居間に吸い込まれるような弁護士の声に、私の背にも冷たい嫌な汗が流れた。

「もちろん町では噂になりました。ですが、ご両親は町、特に小中学校に多額の寄付をしておられました。それだけではなく、ご承知のことと存じますが、ご両親は親切で実直なお方だったため、町の者たちから愛されておりました。ご両親が気になさっていないということもあって、噂は街の中に留まり、広がることもありませんでした」

 親切かどうかは人それぞれだろう。ただ、他人から見た父と母は実直であり、誰にも迷惑をかけないが故に好かれる人物たちだった。だが、身内である私には両親のその性格が耐えがたかった。あるいは肉親だからより厳しかったのかもしれないが、幼少の頃から異常に規律にうるさく、物事に厳格にすぎる両親が疎ましくてしかたがなかった。

 私の口元に浮かんだほろ苦い微苦笑を、弁護士は勘違いしたようだった。穏やかな微笑を浮かべ、うなずきながら私を見た。

「町の者たちは、密かに『霧の幽霊屋敷』と呼んでいるようです。と申しましても、幽霊というより精霊といいますか、守り神のような意味で言っておるようです」

「守り神ね」

 私はうなずいた。

 他人に興味がない私にとって、屋敷に幽霊が存在しようがしまいがさして関係なかった。私は屋敷を相続し、そこを終の棲家にした。

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