第4話 咆哮のメイルストローム
いつかわたしも流すのだろうか。あの水滴を。
でもそのとき、わたしはどうなってしまうのだろう。
それが、怖い。
―ある情報端末のささやき―
四月四日、二十三時五十四分。
(
人間の姿の見えない深夜の浄水施設。
その管理施設の上で、北方に広がる
(
(
(
最後の思考リンクによる返答は
彼女の合流で完全編成となった
涼宮ハルヒが東中へ入学したのは昨日のこと。
学校にいる間から、彼女の脳波がこれまでにない異常振動帯域のまま継続しているのを確認している。
入学二日目にして学校でなにかがあったのは確実だった。
彼女の異常な脳波振幅はさらに拡大を続けている。これが火点となり、これまで蓄積していた不安や不満がここで爆発するのかもしれない。
それにしても、と思う。
彼女がここまで溜め込んできた精神面の不安定さはなにに由来するものなのか、それを知りたい。なぜ焦燥に苦しみ、怒りや悲しみの感情を抱き続けてきたのか。
直接接触することが許されず、遠隔観測しかできない現状ではわからないことが多すぎた。
これから始まる情報フレアの観測で彼女の内面を少しでも理解したい。
そんなことを考えていると、フレア発生まで残り二〇〇秒を切っていた。
(全機、これより最終確認をおこなう。ブリーフィングにあったように、フレア発生にともなう
喜緑江美里が念押しをするように危険性を補足する。
(
その当時の状況を端的に表現するなら、思念体も端末たちも、突然発生した巨大な閃光と爆裂音に対して無意識に反応し、目を閉じ、耳をふさいでしまったようなものだった。
このため、なにかを変容させるような情報津波、つまり
だが今回の我々の立場は違う。
情報フレアが起こることをあらかじめ予期し、セーフガードによって情報を遮断することなく、あえてこの異変に身を晒そうとしていた。わたしたちはそこにふくまれるなにかの正体をつかめるかもしれない場所に立っている。
喜緑江美里は、昨夜おこなわれた思考リンク上でのブリーフィングの際に、ある程度の損耗覚悟でこの異常な情報を取得するとしても、限界点は見極めるべきだと主張していた。
(これらの事情にくわえ、端末支援システムも現在は消失しています。オーバーフローしたデータを退避させる余裕もない。そもそもこの観測自体、わたしたちの本来の任務にはふくまれていないものです。グレードⅠクラスの機能を与えられたとはいえ、無支援状況下の
喜緑江美里の指摘は現実的といえる。
だがわたしは、この時点でそれを却下することにした。
最初からそのつもりだったのだが。
(では、それらを踏まえて観測計画を変更する)
(は?)
ほんとうに意外そうな朝倉涼子の声だった、けど無視。
(もともと地球人類の思考を有意味情報として選択収集できるのは、そのために造られた
(それはおっしゃるとおりですが、まさか)
喜緑江美里も難色を示した。
(集積限界点の設定を解除するおつもりですか。再確認したように、なにがふくまれているかいまだ不明なままの情報波です。危険すぎる)
(あなたたちの設定はそのままでいい。ふたりは当初の予定どおり、獲得情報が
情報統合思念体という高次存在すら理解が及ばず、我々の直接派遣を即時決断したほどの空前の現象だった。その発現直前からの観測が可能な場所に立ち会うことができた、この千載一遇の機会を逃すつもりはなかった。
第一、対人機能を喪失した代償として獲得した容量のはずだった。それをいま生かせなくて、なんの意味があるのだろう。
だが朝倉涼子はあわてた様子で、計画にない突然のわたしの行動を止めようとした。
(ちょっと待って。ブリーフィングと話が違うじゃない。そこまでするって言ってなかったわよ)
(止められると思って黙っていた)
すでに付き合いは二ヶ月間になる。朝倉涼子がこちらの言い分にどんな反論をするのか、彼女の行動傾向から予想できた対処方法だった。
騙したというわけではないのだが、もし組成されたときのままの論理思考しかできなかったらこのような真似はできなかった。
過保護すぎる教育者の
(あなたの教育のおかげでここまで育った。評価してくれていい)
(……もう!)
朝倉涼子の思考が、みるみるうちに怒りの成分をにじませていくのをリンクを経由して感じる。
もっとも端末だから、彼女がそう設定した人格が演じる、擬似的な感情の発露なのだろうけど。
不思議なのは、それと同時に喜びにも似たような気配も感じ取ったことだった。怒りというのは理解できるとしても、彼女の意向を無視した行動に喜びが混じる意味がよくわからない。
一ヶ月前のスーパーマーケットでのわたしが見せた初めての反抗のときもそうだったが、いったい彼女はわたしの行動のなにを評価し、喜ぶというのだろう。
朝倉涼子は、そのようなわたしが抱いた疑問を感じ取ることもないのか、無謀といっていい決断を中止するよう説得を続けていた。
(とにかく冷静になってよ。宇宙全域を、それも全重力場を無視して時間差なく、瞬時に覆うほどの規模の非局所性浸透情報波なのよ。いくら容量がわたしたちより多く設定されてるからって、そんな無茶は――)
(わたしが侵食、あるいはほかの理由で
(この意地っ張り)
思考リンクによる情報伝達に、わざわざ舌を出すイメージまで添付しなくてもいいのに。あいかわらず彼女はユニークな存在といえる。
(
おせっかいな教育者と比べ、感情を感じ取ることができない、喜緑江美里の抑揚を抑えた声が割り込んできた。
(前例がなく、実際なにが起こるのか予測できない現象が始まろうとしています。自壊を
穏健派端末の彼女の言葉はわたしの行動をいさめる内容ではあったが、朝倉涼子とは違って理性的で落ち着いたものだった。どことなくわたしに似ている印象を受ける。本来の端末はこういうものではないか、というような。
自身の欠陥ともとれる構造にのみ目が向けられ、ひたすらそれを是正しようとしていたわたしだったが、新たに加わったこの三体目の端末との対話によって、まったく別の視点を持った自分を意識する。
むしろ朝倉涼子のほうが異常な存在ではないのか――。
喜緑江美里という新しく加わった要素との接触によって、組成されたときからずっとそばにいた彼女の異質さを、このときにはじめて認識したのかもしれない。
◆
さかのぼること一ヶ月前の、三月四日、土曜日。
食事を終えた昼過ぎの七〇八号室にはどことなくゆるい空気が漂っていた。
学校に通学していておかしくない年齢を世間の目から隠すため、半強制的に引きこもりモードに突入している微妙な立場のわたしは、ウィークデー以外は日中外出することもできないまま、自室で涼宮ハルヒの精神面の観測を継続している。
まだ調理はできないものの、片付け程度は担当できるようにはなっていた。
自分の役目となった食器の後片付けを済ませてリビングに戻ると、ソファにだらしなく座る朝倉涼子に、この数日間、懸念材料になっている案件を伝える。
「接触してこない」
「んー?」
テレビに視線を向けたまま生返事を返してくる。
なに、その弛緩しきった顔。
「穏健派端末のこと?」
「そう」
彼女が到着してからこの日で三日目。
それにもかかわらず、依然としてその姿をわたしたちの前に見せることはなかった。
「同じマンションに
「そうみたいね」
まるで問題視していないような返答だった。
無言のままのわたしに気づいたのか、こちらに振り返って微笑む。
「まぁ、そう怖い顔しないで」
「わたしのこれは素顔」
眼鏡に指をそえて上げなおした。
表情を作れないのを知ってるくせに。
「長門さんも、予備端末ってのはそういうものってわかってるでしょ。あくまで、主任務に就くプライマリとセカンダリ、つまりわたしたちの補助なわけで」
「予備端末が、緊急性の高い事態が発生するまでは介入することなく、別命あるまで待機状態を保持するということは知っている。だが姿を見せるどころか、ステルスモードのまま現在位置を特定させないのは気がかり」
「実際、いまのところは緊急性の高い状況にないからね」
確定している緊急事態、というのも変なのだが、あるにはある。
確実に到来するはずの極大異変、非極性浸透情報爆発。
「一ヵ月後、四月四日に発生する規定事項、涼宮ハルヒを震源地とした情報フレアの観測には参加してもらいたいと考えている」
「
ソファの前のコーヒーテーブルに置かれた茶をすすりながら、のんびりとした声の彼女だった。
「支援システムが使えないから、ダイレクトリンクでわたしのところに送付されてきたの。よほど慎重なのか、位置特定されないように量子系通信を使用してて距離どころか方位もつかめないけど」
「わたしにはそのような連絡はなかった」
「長門さんが涼宮ハルヒの遠隔観測に専従してるのを知ってるから、ノイズになるのを気にしてわたしに送付してきたのよ。観測を休止しているときに渡してくれって」
「いま渡してもらって構わない。端末の基本情報程度なら負荷にもならない」
「了解。いま送るわね」
朝倉涼子から受信したデータ量は、実際たいしたものではなかった。
・個体識別コード/SID-S-03A-0998
・所属派閥/穏健派。
・身体構成情報/モンゴロイド大人種系、一七公転周期生体構成。女性格。
・編成状況/
・主任務/最重要観測対象「涼宮ハルヒ」への直接観測計画に投入。
・配置状況/SID-S-03A-0998は、SID-S-01A-1001、SID-S-02Ω-1000とは別に独自の行動を取る。なお通称「北高」には、観測対象に一公転周期先行し所属する予定。
・端末個体性能緒元/極秘。
・他情報/極秘。
・付随情報/
わたしたちより生体年齢が一歳年上に設定されていることに気づいた。
一年間先行して北高に入学するというのは、露払いの意味で学校内の状況を把握するつもりということなのか。
それにしても、と予想以上に容量の少ないデータを閲覧しつつ思う。
「コードと配置状況以外はほとんど機密扱いで、とくに個体性能緒元にアクセスできない」
「それはみんな同じようなものだし。わたしの詳細な機能情報も、長門さんには読めない設定になってるはず。そもそも個体識別コードのほんとうの意味も、わたしたちには知らされてないものね」
朝倉涼子は口の端を歪めた。
「わたしも、あなたも。そして彼女も。みんな所属派閥が違うって意味、わかってるでしょう?」
「理解はしている」
複数体の端末から編成される観測ユニットを
通常、特定の目的を達成するために観測計画を発案した意識派閥が、その計画任務を遂行するために最適化した
実体を持たず、地球人に直接干渉できない統合思念体意識派閥の手足となり、彼らが要求するものを満たすために存在する。
だが今回は違った。
観測史上最大級の異変である、宇宙全域へ浸透した情報波と時間の断裂、それを可能にした、たった一人の有機生命体という特異点の観測に際して、有力意識派閥すべてが参加の意向を示したのだ。
最終的に現時点での最大規模の勢力を持ちつつ均衡する三派閥が、それぞれ一体ずつ創造することで折り合いをつけるという、異例中の異例の編成になったという。
そのような経緯があるため、それぞれの端末が各意識派閥の意向を内密に受けて活動することになるだろう、というのは暗黙の了解ではあった。わたしもおそらくだが、創造意識派閥である主流派の意向を反映した内部構成になっているはずだったが、それがどんなものなのか実のところ把握していない。
創造主である主流派がわたしの基本コードに刻み込んだのはただひとつ、『涼宮ハルヒの観測を実行せよ』。それだけだった。
ほかの端末、朝倉涼子や喜緑江美里には、それ以外のなにかが託されているのだろうか。
自分の不完全ともいえる内部情報に、その回答があるのかもしれない。
それを答えてくれるはずの統合思念体はいま現在姿を消してしまっているのだが。
◆
そんなふうに、喜緑江美里の情報に触れたときのことを思い出していた。
欺瞞情報を織り交ぜてステルスモードにしているせいか、配置位置がわかっている現在でも、どんな姿かたちをしているのかすら読み取ることができない彼女だった。
こうして思考リンクを経由しての相互連絡はしていて、今回の観測に関してもそれでなんの問題も発生してはいないのだが、独立行動が前提の予備機とはいえ、なぜこうまでして距離を取るのだろう。
(彼女のこと、まだ気になる?)
わたしが朝倉涼子の擬似感情表現を知覚できるように、今度は逆にこちらの疑念の思考パターンでも感じ取ったのか、個別リンクでひっそりと問いかけてくる。
(彼女、たぶん
(
(わたしたちが涼宮ハルヒを観測するのと同様に、そのわたしたちを見張る役目ってこと)
(なぜあなたがそんなことを知っているの)
(穏健派は石橋を叩いて渡るほどの慎重派でもあるのはよく知られているわ。今回、予備端末の創造を担当したのもそういう意味があるのよ。以前言った「意識派閥ごとの別命がある」というのがそれね。推測でしかないけど)
その言葉を聞き、以前は確認しそこねた疑問が浮かんだ。
(では、急進派が創造したあなたにも、本来の任務にはない別命があるということになる)
(まぁね。でも、それは秘密)
おどけたようにして彼女は言った。
(意識派閥ごとの意向はどの端末にも設定されてるわ。当然といってもいい。もちろんあなたにもね)
(わたしには、そういったものはなにも託されていない)
それはほんとうだった。
むしろ知らないことのほうが多すぎるくらいだった。
(わたしの任務は涼宮ハルヒという特異点を観測する、それだけしかない)
(いいえ。あるのよ)
朝倉涼子はやや低い、小さい声でそう断言した。
なぜそうだと、派閥の違う彼女が言い切れるのだろう。
怒りと喜びが同居するような奇妙な感情表現もそうだったが、ときおり朝倉涼子の言動や行動には理解できないものがあった。それは、わたしや喜緑江美里と比較した場合、朝倉涼子のほうが端末としては異質な存在ではないか、という推測にもつながるものだった。
彼女はわたしが知らないことを、それも、とても重要なことを隠している。
そんな気がする。
(朝倉涼子。あなたは……)
(ごめん、変なこと言っちゃった)
重くなった雰囲気を打ち消すように、意識しているとわかる明るい調子の声で話を続けた。
(所詮わたしたちは操り人形。創造主の意向が仕込まれているのはお互いさまということ。そういうわけだから姿を見せないままの彼女の動向は気にしなくていいわ)
(わたしの指揮下にあるという事実だけあればいい)
統合思念体の端末たちの指揮系統は絶対だった。
自律思考と行動は容認されてはいるが、端末群に組み込まれている以上、たとえ意識派閥独自の特命があったとしても、命令系統自体は絶対的で、任務を主導する
(あなたとのように協調行動をともにすることはないとしても、同じ任務を達成するために派遣されているのは変わらない。それなら問題があるとは思わない)
(まぁそうね。べつに敵になるわけでもないんだし)
敵?
朝倉涼子の声は、不穏な言葉のわりにのんびりとしたものだった。
(ああ。まだこのチェニックだけじゃ夜は寒かったかな。なにか上にひとつ着てくればよかった)
ごまかすつもりでもあるのか、また端末のくせに妙なことを言っている。
今夜彼女が着ていったのは、桜の咲くこの季節に合わせたというウェッジウッド・ブルーのチェニック。お気に入りらしい。
こっちはようやく自分で選んだカーキグリーンのプルオーバーパーカーと、安いデニム地のハーフパンツに白のスニーカーというラフな組み合わせだった。
もう少し女の子らしい服にすればいいのに、とは朝倉涼子の評だった。動きやすいのでいいと思ったのだが。春物のバーゲンセールで適当に選択したのがいけなかったのかもしれない。
春か、と季節の移り変わりを思う。
想定外の真冬に生まれてから季節は春へうつろっていた。本来のわたしたちが投入されるはずだった時間が到来しようとしている。
(
喜緑江美里の警告メッセージ。
ついにその瞬間が訪れた。
◆
散布した探査モジュールが最初に知覚したのは、涼宮ハルヒがいる場所から上空に垂直に向かって延びる、薄い一筋の情報波だった。
その光線状の情報波現象は実際に光として見えるものではない。人間がこのとき、偶然に空を見上げていたとしても、そこになにも見つけることはできないだろう。
そして発生からコンマ数秒の間もなく膨張していき、巨大な柱へと変化し――。
音もなく爆発した。
浄水場施設の上から知覚できる範囲が、一瞬にして覆い隠されてしまうほどの情報の奔流に飲み込まれる。
この時点で光学視認機能のすべてがホワイトアウト。
どの端末も成しえなかった、爆心地で観測する情報フレアの姿だった。
あらかじめ周辺空間に放っていた複数の観測用探査モジュールから得られる白い光の構成成分を、自分に許された限界速度で解析を開始するのだが、不明瞭な成分を取りのぞき、廃棄していく作業は困難を極めた。
そのなかで意味を持つものとして読み取れた情報は意外なものだった。
すべてが少女の悲鳴だったのだ。
涼宮ハルヒの声。それだけは間違いない。
泣いている。悲痛なその叫び声はもはや咆哮しているといっていいものだった。
そんな彼女の絶叫に近い泣き声の解析を続けていくうちに、その声量に比例して、それまではわずかに感じ取れていた周辺環境音も、表皮の体感も、知覚可能だったものが、白い声によって塗りつぶされていく。
だが、違和感がある。処理機能が追いついていないとか、観測システムが破損したとか、そういう問題ではないなにか。
自分の体を取り巻くすべてが変質し、世界がまるごと消失していくような気配を感じていた。
(全機、状況を)
異変を感じ、ほかの端末がこの現象をどう捉えているか確認しようとしたのだが、朝倉涼子、喜緑江美里ともにリンクがうまく接続できない。
この環境下ではほかのふたりも同様の状況にあると考えるべきか。
もはやすべての粒子、波長域が無効化されていると見るのが妥当なのだろう。すでに、いま立っている場所の、正確な重力下方位置も感じることができなくなっている。
気がつけば、どこまでも続く白い空間のなかにひとり浮かんでいるようなありさまだった。
(……
かすかに喜緑江美里の声がリンクを伝わって聞こえてくる。
(長門さん…………これは、違う)
彼女の冷静な声のなかに、はじめて感情的なものが浮かんだ。呆然か、絶望なのか判断がつかない。
(これは、有意メッセージを強制伝播する目的の
わたしも彼女が言いたいことを理解しつつあった。
いま見ているこの世界は、宇宙そのものを強引に上から塗りつぶし、抹消し、虚数空間へと変質させていく、その経過現象の光景なのだと。
当初、情報フレアは、涼宮ハルヒ個人がなんらかのメッセージを伝えたいがために起こしたものだと思われていた。
だが、いま目にしているこの様相はそんなものではなかった。
涼宮ハルヒは自分の意思で世界を作り変えようとしているのだ、と。
彼女が放った情報の波が一瞬にして事象地平の彼方まで浸透し、それらが絵の具のように機能し、白い無垢へとすべてを染め上げる。
そうやってできた巨大なキャンバスに、自分の望む世界を描き込み、新しい世界を描き出そうとしているのではないか。
その可能性を喜緑江美里は指摘したのだ。
だが、もしそれがほんとうだとしたら……。
発生直後のこの場所には、もともとわたしたちは存在していないことを思い出す。
(各機、ただちに自己閉鎖モードへ。この光に侵食された場合、存在が抹消される危険がある)
急ぎ、連絡を取るが返答はない。手遅れだったか。
というか、こんな現象の前に端末個体で取りえるどんな対抗手段があるというのか。
おそらく時間の流れも遅延か、あるいは停止しているのだろう。
自己存在が消されてしまう危険を感じつつも、白色で塗りつぶされた異常環境のなかで唯一意味を持つ涼宮ハルヒの声の発生源を特定しようと、追加の探査モジュールを緊急解凍し、周辺へ展開する。
だがまるで手ごたえが感じられない。確認すると、これまで構築した探査モジュールも、そのすべてが消失していた。
擬似的に構成された自身の肉体もそうだ。手だけではなく四肢のすべて、自分の肉体構造の感覚を喪失しつつあった。侵食率が許容限度を超えはじめている証拠だった。
この分では、ほかのふたりもバイパスをこちらにまわすような余裕もないだろう。
やがて、自分の
それでも継続している情報を選別消去するための処理だったが、まったく追いついていない。解析もなにもできない雑多なノイズデータのようなものに押しつぶされるなか、唯一理解できるのは涼宮ハルヒの叫び声だけだった。
どうにかその声をたどって、彼女の内面に近づきたかった。
いったいどんな不安や不満を持ってこの現象を起こしたのか、それを教えてほしかった。
『ひとりはいや』
混乱のなか、ようやく意味のある涼宮ハルヒの言葉を捉えた。
爆心地の中心部と思われるひとつの方向から、まだ幼い少女の泣き声が伝わってくるのを感じる。
もう彼女は叫んではいなかった。ただ静かに泣いているだけだ。
そこへ意識を集中し、わたしが見たものは、涙をたたえて立ちつくしている幼い顔立ちの涼宮ハルヒの姿だった。
『みんなは違う。わたしとは違う。みんな夢も希望も、なにもないようなこんな世の中でずっと生きていくつもりなの?』
声量は小さいが、強い圧力を持った言葉だった。人間でいう
一言一言が重くのしかかるようにして知覚領域に割り込んでくる。
彼女の言葉以外の、解析できないほかのものはすべて排除することに全力を注いだ。白い波をかきわけるようにして、彼女の声だけを拾い集めるように。
『こんなはずじゃない。もっと楽しくて、もっともっといろんなことが起こる、退屈なんかこれっぽっちもするはずがない、広い世界のはずなのに…………』
涙声の彼女の感情が再び高ぶってくるのがわかる。
ストレージの限界量に迫るほどの情報は、次に放った彼女の絶叫だった。
『誰かひとりくらい、わかってくれる人がいてくれてもいいじゃない!』
その叫びとともに、いままでにない勢いで情報が爆散し、これまであった白い世界は完全に崩壊した。
その衝撃をまともに受け、端末としての自律意識が途切れそうになるのをどうにか持ちこたえた。静まり返った周辺に意識を向けると、もはや白い空間はどこにもなく、代わりに漆黒の世界が姿を現わしていた。
新たに現われた暗黒空間のなかにあるものを見て、完全に思考が停止する。
そこにあったのは認識できないほどの超高速で組み上げられていく、非ユークリッド的なモザイク状の幾何学的立体構造物だった。
これは、なんだろう。いま、わたしが見ているこれは。
認識が追いつかないわたしを置いて、複雑怪奇で
これはイメージだ。現実世界で物理的にこんな構造物は存在できないのだから。
涼宮ハルヒが思い描き、彼女が自分で理解できるような形でこの現象を表現している。それをいま、見せられている。
その様子をたとえるなら、ひっくり返したおもちゃ箱の中身というべきか。
そうやって放り出され、細かく砕かれてしまった玩具を無造作に手でつかみあげ、自分が造りたいように感性のみで
だが、その子供の遊びのように見える振る舞いは、世界そのものを改変していく過程なのだということがなぜか理解できた。彼女がいま、でたらめに造っているこの創造物たちが、世界の
ほんとうなら、こんなことができる存在などいるはずが、いやあっていいはずがない。
高次空間に君臨する情報統合思念体ですら持ち得ない、この世界の定理などをすべて無視してやりたい放題の、法理の外にある常識はずれな力としか表現のしようがなかった。
だが現実はさらにそれどころではなかった。
ひとつの大きな構造物が造り上げられていくのを感覚の隅で発見したのだ。
その構造物はわたしのよく知る情報生命体の、実際には知覚できない写し身の姿だった。
信じられなかった。
しかし、わたしの創造主がはっきりと姿を見せたその瞬間、そうだと認めざるを得なかった。
だからなのだ。
この四月四日の前の世界には情報統合思念体は存在していなかったのは、このためだったのだ。
彼ら統合思念体が作り出した情報端末も。あるいはいまだ正体不明な広域帯宇宙存在といった別の情報生命体、珪素生命といったものたちも認識できないわけだった。
そのすべてがいま、彼女の手によって生み出されたのだから。
呆然としかいいようがない感覚でそれらを見続けていたのだが、まだ涼宮ハルヒの作業は続いていた。
その彼女の横には、それらの宇宙存在たちとはまた違う、いくつかの人間の駒のようなものが置かれいることに気づく。
彼らは涼宮ハルヒによって選び出された人類を模したもののようで、やがて自律して動き回るようになった。
その人間たちは「選ばれた」というそのこと自体に、最初は驚き、戸惑い、恐怖し、ためらいを見せていたのだが、しばらくすると自ら赤く光る玉に変化した。
その奇妙な赤い光の玉となった人間たちは、ヒステリックに泣きながらも構造物を作るのをやめない涼宮ハルヒの周囲を、心配そうに、まるで蜜蜂のように飛び回り、なだめたり、面倒を見たりとかいがいしく世話を始めたのだった。その様子は最初の頃の動揺とは違い、どことなく楽しそうに見えた。
最後にもう一人。これは人間の男の子。
六〇億にものぼる地球人類のなかからたった一人だけ選ばれた少年がいた。
涼宮ハルヒと相似する、そういう意識傾向を持つ人間のようだった。
その少年が誰なのか興味をもって観察しようとすると、まるでわたしの視線を感じたのか、恥ずかしいとでも言いたそうにしてこちらの視界から隠してしまう。
いったいこの少年は誰なのだろう。大切に懐にしまいこんだように見えたのだが。
そうやってすべてが彼女の思い通りに、そうであればいいと願うように、実に細やかに都合よく、的確に再構築されていく。
どうやら彼女の満足のいく世界の雛形ができあがったらしい。
ようやく泣き止んだ彼女は、それらの構造物や人物像の後ろにある空間に向かって大急ぎで走り始め、同時に右手に何かを作り上げた。
作り出したのは、彼女の体と同じくらいの大きさを持つ
いったいなにをするつもりだろうと思った瞬間、その
いま彼女が破壊しているそれこそが、この宇宙の時空連続帯をイメージしたものだと直感した。
つまり彼女にとって都合の悪い過去を見られては困るということらしい。
なんてことを。
こうして過去は、涼宮ハルヒの造り上げた
無茶苦茶にもほどがある。
◆
(…………全機、状況報告を)
フラッシュアウトした端末機能が復元を始めている。
場所は変わらず浄水場の建物の屋上で、そこに立っているのをようやく理解できるようになっていた。
蝋人形のように固まった身体が、少しずつ感覚を取りもどし始めている。回復した視界には、これまでと変わらない街の景色が広がっていた。
どうも消えずには済んだようだった。
「長門さん、だいじょうぶ?」
気がつくと朝倉涼子がそばにかがみ込み、心配そうに下からわたしの顔を見上げていた。
ここからおよそ一kmほど離れた西山の妙龍寺から、位相空間転移を使用してここまで来たのだろう。わたしよりも回復は早かったようだ。
「無茶するから。自力で復旧できるくらいならたいしたことないのかもしれないけど」
「喜緑江美里は?」
身体を慣らすように首筋を伸ばして空を見上げながら、もうひとりの状況を聞いてみる。
ぐったりした疲労感のようなものが強く残っていた。端末という身体構造なのに、神経シナプスの伝達が滞っているようなだるさを感じる。
幕が下りる最後の限界まで、涼宮ハルヒの世界構築劇を見学していたせいだ。
「無事という連絡だけは届いてるわ」
「…………あなたも、見た?」
情報統合思念体やそのほかの高次存在や宇宙生命の数々が、あの涼宮ハルヒの手によって生み出された存在だとはにわかに信じられないことだった。それも、イメージとしてあれほどはっきり見せつけてくるとは。
「遠目といっていいのかわからないけど、ほんの瞬間だけ。だけど、当の統合思念体のほうは理解できてないみたいね」
「連絡がついたの?」
「自分でコンタクトしてみたらわかるわ。もう端末の支援システムも存在している。ほかの先遣端末たちも、ずっと昔からいることになってる。すっかり世界は元通りっていう感じね」
「…………」
つまり、涼宮ハルヒは過去にさかのぼってすべての事象を書き換えたということか。表現を悪くするなら捏造、あるいはでっちあげの
「情報統合思念体は、宇宙の始まりのときから存在していた、はずだった」
「そうね。そうなっちゃってるわね、いまは」
「…………その設定も、彼女がすべてそうであればいいと願い、そうなったというの」
「ほかの先遣端末たちも同様よ。地球人が知性を獲得してからずっと派遣され、そして人類との接触をはかり、彼らとのコミニュケーションをどうやっていくのか学んでいった。その過程もふくめて全部そのまま、そういうことになってる」
自律進化の
情報統合思念体も、まさか自分たちが情報フレアを観測したその瞬間に生み出されたとは予測などできようはずもなかった。
「統合思念体はなにか伝えてきた?」
「お気楽なものよね。『新編成の
そういうことになるのか。
四月四日のこの時間に、わたしたち三体が派遣される予定だった。
彼らからは時空連続体が破断された過去、つまり朝倉涼子の出現からこの三ヶ月間を認識できていない。
情報統合思念体にとっては、予定どおりにわたしたちを派遣したというようにしか見えないのだ。
わたしたちが体験した不可知時間領域を考慮しなければ、矛盾なくこの世は動いている、というわけだった。
もちろん時空連続帯が途切れてしまっているという現実もふくめて。
なんてご都合主義な力だろう。
「あきれちゃうくらいすごい力」
彼女はわたしの隣に並ぶと、涼宮ハルヒの自宅のある方向に向かってそうつぶやいた。その視線に気づいて途絶えていた
「力を使い果たしたのか、現在の睡眠状態は相当深いレベルにある」
「それも当然よね。これから彼女のそばで、あの力をどう制御できるのか、あるいは観測していくのか悩みどころになる。自覚しての行動だったとしたらすごいけど、でもあの様子だと違うのよね」
彼女の言うようにきっと自覚はない。あれは無意識の行動だろう。
一ヶ月前に遭遇した、おそらくはいまではないどこかの時空に存在していた彼女の言葉から推測してもそうなる。
『無意識にやらかしちゃってるから』
もしこの力を自覚させてしまったらどうなるのか。
想像することもできない事態に発展するのは間違いなかった。
「そういえばデータ収集、どうだった?」
「…………解析できないデータの塊がいくつか、ストレージに残っている。時間をかけてどうにか読み解ければいいと思う」
「そっか」
朝倉涼子はそっと、わたしの胸の上に手を添えた。
「ここに、入ったのね」
「…………?」
なにか寂しそうな、満足そうな、表現のしがたい表情を見せている。
「あともう一度だけ……」
「なにを?」
「…………」
わたしの問いには答えなかった。
じっと添えた手を見つめて、そして目を閉じる。
「ねぇ、長門さん」
「なに」
ささやくような声だった。
「こっちは育ってないのね」
おおきなお世話だった。
―つづく―
機械知性体たちの輪舞曲(ロンド) 篠宮コウ @hurahura979
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