さらさら輝く証≪シルシ≫
「どうやら、雨が降っているようだね」
椅子に座る僕とベッドの床に就いている彼女は暗い部屋にいたので、僕は音だけで外の様子を判断していた。窓から外の様子を見ればわかりそうなものだが、実際はガラスが邪魔になって外の雨が見えない。曇天模様は確認できたし、目の前の街路樹も見えるが、その間を通過する雨はよくわからなかった。
ガラスの質が悪い。
悪天候のおかげで僕らの住む地域一帯は停電していた。もうすぐ一時間になるが、復旧のめどが立っていないようだった。幸い、昼間であったので明かりにはそれほど困らなかったが、電車が止まってしまい、僕は彼女の家から動けなくなっていた。
「どう、体調良くなった?」
「すこし」
「そうか」
彼女は多くの人に好かれる人間だ。皆から好意的な視線をいつも向けられていた。彼女はそれを大いに歓迎し、結果、友人に恵まれた幸せな日々を送ってきた。彼女とは幼馴染ではないが、小学校の六年の多くの時間を彼女と過ごしていたこと、小学校から今日まで互いに同じ学校に通っていたのでその縁から仲は良かった。そんな彼女が、すべての日々を平たんに生きてきたわけではもちろん、ない。彼女が一方から好かれたのと同じく片方からは避けられた。これ自体は普遍的なことで、よくあることだ。
ここで問題なのは彼女の方であった。彼女はただ素直で真っすぐなのだ。それがゆえに、時折みせるクールで冷静な彼女は時々他人を傷つけた。だから、中学の時にそれがエスカレートした時に、教室で前触れなく叫んだのには僕も戸惑った。僕も彼女に対するそれを何とか辞めさせようと、教師と相談しながら策を講じていた最中だったのだが、結局はその一発で彼女に対するそれはなくなったのだ。
高校に入ってからの彼女は人に対して真っすぐではあり続けたが、それを表現することは少なくなった。お茶を濁すような言葉をよく使うようになり、その変貌ぶりに周囲も彼女の接し方に困るほどだ。ガラス玉のピアスをキラキラと光らせるような時期には、髪の根本だけが黒の状態になり、喧嘩の度に腕を太くさせていった。だが、それは歪なやさしさを隠すためのものだと理解を示す人もいたので、彼女が一人になることは決してなかった。
受験生となる今年になってようやく彼女は髪の色を元に戻し、ピアスを捨てた。印象が良くなると、周りにまた人が集まるようになった。前のようにすべての感情と疑問を周囲にぶつけることはなくなったが、冷静でクールな一面はよく見せるようになった。彼女の実直な性格が会話や行動から垣間見える度に、その信頼度は増していった。
でも、それは彼女の表面をなぞった姿でしかなかった。
彼女は大事なことを忘れ、幸せの形を変えたことを少なくとも後悔している。だが、どれだけ後悔しても、たとえやり直せても彼女は同じことを繰り返したのだろうと、僕は思った。彼女は僕に背を向けながら言う。
「ねえ、大人になるってさ、どういうことかな」
「さあ、僕もなったことがないから分からないな」
「そっか」
「うん」
彼女が元気がない時は大抵眠い時だ。少し考えてしまって、不安になって眠りたくなる。眠いのであれば、思う存分一度寝てみればいい。僕は彼女が眠りにつくまで傍にいるのだから、異世界にでも行ってくるといいさ。
「大人になるって、なんかこわい」
自分をごまかすための装飾を外してから彼女は、度々この言葉をお気に入りの歌詞のように口にする。初めは彼女のまじめなこわいって呟きが分からなかったが、僕も大人について考えてみたら偶然にも同じ結論にたどり着いた。よくわからないけど、なんか怖いのだ。そこに答えがあるようで、だけどどうにも見当たらない。それは僕らを結ぶなにかがあるようでないのと同じだとも思えてしまった。
彼女が未来について悩むのと同じように、僕も彼女との関係についてはよく考える。僕らを結ぶのは何か。あるようでないというのはあるとほどけそうだが、でもないと結べないような関係だと思った僕は、彼女が寝るまでは少し遠くから見ていてあげようと思った。いつでも近くに来られるように。また、いつでも自分の世界を周りの世界に浸食させることができるように。
「お話でもしようか」
「なにそれ」
「寝る前って退屈じゃない?」
「少し」
「どうする?」
「じゃあ、おねがい」
「わかった」
***
この話は手紙が届くところから始まる。名前も聞いたことのないような街から差出人不明で届くところから始まる。受け取ったのは中学生の少年で、彼は疑問に思うよりも先にワクワクを感じた。聞いたことのない名前だったのでどこか遠くの街かもしれないと少年は思った。一体、何がかいてあるのだろうって。取りに来たはずの新聞を地面に置いてから封を切って中身を
「蝶……?」
その蝶は白かった。白い紙で折ったのだから当然と言えば当然なのだが、紙の白よりもよりモンシロチョウのような白に近い気がした。やがてその蝶は近くを舞っている内に消えてしまい、少年は今朝の夢の残りかなと思った。
それから少年は学校へと向かった。今日も学校に行くのは少し気持ちが重かったけれども、母さんや父さんには迷惑を掛けたくなかったので、今日も何もない素振りで学校へと行った。少年は人と話すのが苦手だった。話しかけられたり、質問をされると、頭の中にはたくさんの言葉や考えが出てくるのが、それがかえって一層に少年を混乱させた。どれが正解なのか。なんて言葉を返せば相手にとって、一番満足できて、今後の人間関係をより円滑にできるのか。最も大事なことは、相手が傷つかないかどうかってことで、少しでも不幸がよぎると少年は口を閉ざしてしまうのだった。言いたいことや、伝えたいことは一杯あるのに、それよりも先に不幸が先行してしまう。彼はこの体に刻み付けられた消したい印を、忌み、嫌っていた。
学校に到着すると、今日はいつもと皆の顔が違う気がした。いや、個性ある面面は普段通りなのだが、なんだろう。僕を見た時の顔の作りがいつもと違うのだ。自分が何かしてしまったのではないかと、思った少年は、怯えながらも挨拶をした。すると同級生は口々にこう言ってくるのだ。
「おはよ。ねえ、なんか雰囲気変わった?」
本人は何か特別なことをした覚えは一切なかったので、否定しつつも「そうかな」と返答していたのは、他人に言われてみれば本人が何か変わったのかもしれないと思ったからだ。それは劣等感で日々の空間が満たされているような心地しかしなかった彼にとっては、文字通りスキップしたくなるような気分だった。もちろん、少年は多くの級友にその要因を尋ねたが、「なんとなく」という言葉が多く、はっきりとは分からなかった。はっきりとは分からなくても、彼の心に久しぶりに喜びが生まれたことは事実であり、普段通り休み時間に人が少なくなった教室で読書している少年を躍らせ続けた。さらに今日を最高の一日だと思わせたのが、クラスの中にいた一人の少女が彼に話しかけてくれたことだった。なんの本を読んでいるのかという質問だったのだが、その少女は学年中で男子がよからぬ妄想を捗らせる程の可愛い少女だったのだ。正直なところ、少年は春に同じクラスになれたというだけで、踊りだしたし、
でも、頭の悪い級友に絡まれるのは
「おい。お前今日葵と話していただろう。仲いいのか?」
〝葵〟というのは先ほどの超美少女――少年の主観では超が付くほどの美少女に見えるということ――の名前である。少年は子の名前さえも美しいと思うほどに、普通に恋していたのだが、彼はその感情を表に出したことはない。なかったはずだった。
「おまえ、葵のこと好きなんだろ? なあ、そうなんだろう?」
「そ、そんなことは……」
「今日のお前っていつもとちょっと違うように思えたんだが、それは、あれか。恋すると人は変わるっていうやつか?」
「え、まじかよ、キャハハ、恋とか、『君のことが好きです~』ってか、キャハハ」
今笑ったやつはとりあえず殴られた。そして今日の本題へと移っていった。この集団を取り巻かせている人物の登場である。
「あのさ、正直それ邪魔なんだわ。お前はクラス一緒でいいかもしれないが、俺は違うんだよ。それとも、俺の恋路を邪魔しようってのか?」
今日も一方的であった。少年は彼らに逆らったことはこれまで一度もない。それは優しすぎるが故で、きっとこの態度のでかい少年たちにもやさしさはあるのだと信じて止まない優しさなのだ。傍から見れば、大人しいとか、礼儀正しいとか、まじめだとか、そういう印象を持たれかねないのだが、それは少年の持つ過剰な優しさによって引き起こされた行動であり、そして不幸にも周囲は彼の言葉と行動で判断するしかなかった。よって、彼の過剰な優しさは少年の体内で渦巻くだけだったのだ。
「なあ、何か言ってくれよ。俺たちはお前がどう思っているのかが知りたいんだよ」
「それは、その……」
「あ”っ!! はっきり言え!!」
少年は下を向き、それから二度言うのだ。「そんなことはないです」というのだ。一度目は声が小さく聞こえないと言われ、二度目は彼らを満足させるために言うの。すると、彼らは守らなかったらどうなるのか、一発だけ教えてやるというのだ。
そう、一発だけ。
それで今日も終わり。少年は再び明日から一人だけの一人っきりの世界に舞い戻るのだ。さながら蝶の羽ばたきのように。しかし、彼の羽ばたきはすぐに起こった。グループのいつもの奴が少年を殴りに来たのだが、その彼が殴ったのは少年の影だった。少年からすれば、自分が殴られると思っていたのだがその左を思いっきり殴っていたので驚いていた。また、向こうのグループからは少年が消えていなくなり、その隣に少年が現れたように見えたのだ。
その場にいた全員が困惑した。
すると、そこに全員の頭上を蝶が悠然と舞った。真っ白な蝶だった。モンシロチョウのような、そんな蝶が全員の間を舞い続けた。少年は思った。きっとこの蝶が助けてくれたのだと思った。
少年グループの方は再び一撃を見舞うにはタイミングが悪いと判断したのか、それ以上何もしなかった。ただ、帰り際に消化不良の腹いせか足元を飛んでいた蝶を踏みつぶしていった。白い蝶に八つ当たりしたことに少年は心が痛んだ。
それ以来あの蝶が、紙で折ったはずなのにモンシロチョウのょうな白い蝶は少年の周りを飛武事はなかった。また、少年も蝶の鱗粉によって周囲が彼の印象について変えられたことも今一つ理解していなかった。気持ちをうまく表現できないという少年の消したいシルシはさらさら輝くシルシにいつのまにか変わっていたのだ。短所は長所であり、長所は短所でもある。物は言いよう、見方によって変わるもの。別に彼自身が変わったわけではなく、この場合は変えられたという表現が最も的確である。周囲の視点や取り巻く環境なんかが、変えさせたのである。
***
「あれ? 少年の話終わり? 葵とかいう少女との恋は?」
「さあ、どうなったんだろうね。僕の知っているのはここまでだから」
「ふーん、なんかよくわからない話だったね」
「そうだろ。つまらないところがいい感じに寝れるかと思ったけど」
「別に……あっ」
「あっ……電気、点いたね」
部屋の明かりが点いた。また、雨の音も止み、いつの間にか部屋を埋め尽くしていなかった。僕はポケットからスマホを取り出して電車の運行状況を確認する。うん、無事に電車も動き出したようだった。
「雨も上がって電気もついたし、そろそろ僕は帰るね」
「そっか、送ってく」
「え? いや、いいよ。体調が悪化したらいけないし」
「ううん。おかげでだいぶ楽になったから、大丈夫」
「……そっか」
彼女の家は駅から徒歩十五分圏内にあるので、天気の話をしていたらすぐについてしまった。なぜか改札の中まで来た彼女は、僕が電車に乗ってそのドアが閉まるまで見送ってくれた。その時の彼女の笑顔は先ほどまで病人であったとは思えないような憎たらしいものだった。こちらが何もできないことをいいことに好き放題に笑顔を振りまいてきた。
一体、何がしたいんだか。
彼女は当然のように手ぶりを交えて見送ってくるのだが、それもまた、何かよくわからなった。手をただ振っているようであもあるが、僕だけに送る合図のようでもあった。片手を振ったり、両手を振ったりするのは少し盛大で、大げさだった。僕がその合図を受け取った瞬間、僕は君と生きていくことを決めたのだ。
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