三月十日 二十三時零一分 ハジメ

 三月というのは長引く冬景色のせいでこの世界は最初から白く、どこまでもずっと白であり続ける世界だったのだと錯覚してしまいそうになる時期だ。巷では卒業が取りざたされている頃で、何を歌うのがベストか、なんていう下らない会話がテレビの向こう側でさえ起こっている。歌で何かが決まってしまうわけでもないのに、そういう話題好きだな、と俺はここ数日は思ってきた。また、俺たちがここ最近頭を悩ませている一因もその卒業についてである。


「マスタードおおおおっ!?」


 小さな体にお似合いのツインテールを揺らしながら俺らを先導してきた彼女は「マスタード」と言った。入店早々、一体何を言い出すんだ、この娘は。この少女――といっても俺よりも年は三つも上らしい――は夕暮の知り合いらしいが、どうにも変わった人だと俺は思っていたし、正直あまり頼りになりそうに思えなかった。


「……マスタード、ですか?」


 俺は間抜けにもそう言ったが、白い髭を少し生やし、整髪な白髪と共に添えられたバーのマスターは、エレクトラの妙な挨拶にもピクリとも動じずに、常連を向かい入れる笑顔を作って応えた。


「いらっしゃいませ、エレクトラさん」

「マスター、とりあえず生ね」

「え、ここバーなんじゃ――」

「かしこまりました」

「まじかよ……」

「お客様は?」

「えっと、じゃあ、カシオレで」 


 俺は酒にはあまり興味もないし、詳しくもない。だが、ビールは嫌いだ。俺にはなんとも苦いだけに感じられる。それでも付き合いっていうのはどうしても生じ、避けられないものなのでいつもお酒っぽくないジュースに近いものを頼んでいる。カシオレだってカシスとオレンジジュースを混ぜあわせたものぐらいの理解でしかない。夕暮れと隼人もそれぞれビール以外のカクテルを注文した。



 エレクトラと呼ばれる少女は探偵だ。これでも現役の探偵らしく、プレアデス探偵事務所とかいう場所に勤めているらしい。この探偵によれば、暗号の類は全てこのバーのマスターが解読してくれるのだと聞いた。昔も今も名の通った元探偵らしいのだが、探偵など想像上の産物としか考えていなかった俺にはどうにも実感がわかなかった。それでも、他に頼れる伝てもないのでこのバーテンダーにお願いするしかない。


「今日は何ようでしょうか?」

「ふぅ……この子らがさ、ある暗号がどうしても解けないらしくてさ」


 エレクトラはビールを半分以上飲み干してから続ける。


「この子たちは大学生。小さな軽音同好会に入ってるそうなんだ。その先輩がもうすぐ卒業っていうんだけど、課題として暗号みたいな文章を渡されたんだって。それでどうしようもなくなったから私と知り合いだった夕暮れちゃんが相談に来て、暗号の専門ったらあんたしかいないから、マスターのご機嫌を伺いに来たって訳。どう? あ、それと超久々だね、いつ以来だっけマスター」


「ちょうど一年前ぐらいでしょうか、タクシーの事件の時だったと、記憶しております」


「ああ、あったねそんな事件。そっか、それ以来か」


「ええ、ご無沙汰ですが元気そうでよかったです」



 何か触れてはいけない事件だったのだろうか。二人の間にある空気が不味そうに見えた。それからエレクトラはそうそう、とわざとらしく言いながら一枚のコピー用紙を取り出した。空気を入れ替えたエレクトラが取り出した一枚の紙。そこには僕らに宛てられたメールの文面がコピーされていた。


「これ、これがその暗号。どう思う?」



 以下文面。

 >ステラのみんなへ。

 >ちょっとしたプレゼントを贈ります。この凍結ファイルを解凍するにはパスワードが必要です。


 pass:0.*****


 key :1.すなこいなとな

 2.ちすなしいこちすちみ

 3.こいくにほもらとな

 4.といち

 5.にはなすにほから

 6.とんいらすな


 >パスはキーの上にある五ケタの数字。キーは叩けば自ずと世界になる。



 以上だ。パスワードが五文字の数字であること、キーワードは叩く何かで、世界になるものだという。暗号なんてのは所詮嘘つきで隠すためだけのものだから、その裏を読んで法則を得ればあっという間に解けるものだと思っていたのだが、言うが易しだった。とっかかりすら掴めずに僕らは途方に暮れたのだ。夕暮れに探偵の知り合いがいたとは驚きだが、とても有り難い状況である。期待のまなざしをマスターに三人がむける中、エレクトラは金髪のグラマーな女性からおかわりを受け取っていた。


「なるほど、これは少々お時間をいただけますか?」

「へえ、マスターでも悩むことがあるんだ」

「ええ。これはちょっとヒントが少ないので難しいです。皆さんにも協力していただくかも知れませんので連絡先を教えていただけますか」


 俺は期待通りの答えでないことに、少し苛立ちカシオレを一口飲んでから言った。


「なあ、ほんとに全く分からないのか? 少しでも見当がついてるならおしえてくれよ」


 マスターは俺のことを表情を変えずに見た。その優しそうな笑顔が俺には不気味だった。


「これは、失礼。キーを叩くの意味は大方予想がつくのですが、専門的な用語については少し調べる必要があるように思えたのです」


「それはどういう意味なんだ?」


 マスターの笑顔が少し優しくなってからマスターは言った。


「それはこれから一緒に考えましょう。私は暗号解読のお手伝いは喜んでいたしますが、答えをお教えするつもりは御座いません。どうしても、というなら百万円お支払いただきます」


「なっ……なんだよ、それ」


 俺が反論しようとしたときにエレクトラが真面目な声のトーンで遮った。


「そう。少しは自分の頭を使うんだよ。すぐに答えとか結論を求めるのは悪い癖だね」


 俺は何も言えなかった。分からないことは調べればすぐに出てきて、知らないことは誰かに聞けばわかるものだと思い込んでいた自分に気づかされてしまった。それでも、考えずに教えてもらえるならその方が労力を掛けなくていいから得じゃないかと、俺には俺の考えがあったのでどうにも、もやもやしてしまった。本音を言いたくても声を取られてしまって何も言えない理不尽さに悶えているような気分だった。


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