第十話 潮時
わたしともっくん。未来を見通せなくなってしまった者同士で、リドルでずっとど突き漫才をやらかしてた。もちろん、それがいいわけなんて一つもない。表面上どんなにつんけんやり合っていても、結局は傷の舐め合いに過ぎないから。
もっくんにだけは負けたくないわたしは、自分なりに再起のタイミングを見計っていたと思う。一分一秒でも早く、もっくんより先に一歩を踏み出そうって。でも、わたしを失意のどん底に突き落とす出来事が、ダブルでやってきてしまった。
「何、これ?」
リドルで働く生活が三年めに入った頃、家に一通の招待状が届いたんだ。それは、ヒサと教授の娘の結婚式の招待状だった。
なんて恥知らずなやつっ! 怒りと絶望で、その場に倒れそうになった。人をぺろっと裏切っておきながら、謝罪もなく、関係の整理もせず、いけしゃあしゃあと自分の幸福を敗残者に見せ付けようってか? ぶっ殺してやるっ! いきり立って招待状を引き裂こうとした矢先に携帯が鳴った。教授からだった。
「佐竹さん、かい?
まだ怒りでぶるぶる震えていたわたしは、辛うじて返事の声を絞り出した。
「は……い」
「申し訳ない」
は? 先生が謝罪? なぜ?
「あ……の?」
「私の手違いで、声楽関係者の名簿を精査しないで招待状を発送しちゃってね。済まない。もし届いていたら破棄して欲しい」
ああ、そうか。少なくとも、ヒサの当てつけってわけじゃなかったのか。溜飲が下がることはなかったけど、少しだけ煮えたぎっていた頭が冷えた。
「お嬢様のご結婚、おめでとうございます」
それは精一杯の皮肉だった。人の努力や幸福を踏みにじって足蹴にするようなやつが、真っ当な人生を送れるはずがない。あんたの娘は、ヒサのいいカモにされるだろうよってね。だけど、先生の返答は重く沈んでいた。
「ふう。めでたくなんてないよ。最悪だ」
「は?」
「別れ話の最中に娘の妊娠が分かってしまってね。もう結婚に踏み切るしかなくなったんだ」
げえええっ! ヒサのだらしなさにも絶句したけど、身内の恥を臆面もなく晒した教授にも驚いてしまう。そういう人じゃ……なかったよね。
「式の直後から、すぐ離婚調停だろうさ。親としては恥ずかしいもいいとこだ」
「なんでそんな面倒臭いことに」
「
……。先生は、わたしたちの付き合いを知ってたのか。
「そういう無責任なやつに娘と付き合わせたくなかったんだけどね。いくら親とは言っても、成人してる大人同士の恋愛には口を挟めないよ」
「そうですよね」
「だが、子供のことが絡むなら話は別だ。出来ちゃったという事実を公表し、結婚というけじめを示して二人にきちんと責任を果たさせる」
「うわ」
「懲罰さ。それで娘を許してやって欲しい。虫のいい話で済まない」
懲罰、か。教授の顔に泥を塗ったヒサは、一生表舞台には立てないだろう。娘さんも望まなかった赤ちゃんを抱えて、これからシンママとしての生き方を探らないとならない。
あいつらは自分の欲しか見ずに、わたしの夢や希望を一方的にぶち壊した。バラ色の未来? そんなもんなんか最初からないでしょ。都合のいい幻想に身を任せた挙句、足を踏み外してドブに落ちただけ。人の心を無神経に踏みにじった連中の当然の行く末、因果応報だ。でもね……。
「先生」
「うん?」
「わたしの歌は、ヒサや娘さんとは関係なく、もう戻ってこないんです。わたしがものすごく悲しくて辛いのは裏切られたことじゃない。歌えなくなってしまったことです。どうかそれに気付いてください」
ぷつ。電話を一方的に切って寝室に駆け込み、布団をかぶって一晩中泣いた。
両親は今裁判の泥沼にはまってる。それは、無責任に娘を放り出して自堕落な生き方を選んだ報い。わたしを好き勝手に利用したヒサも、結局自分の人生で代償を払うことになった。どっちもざまあみろ、だ。
でも、わたしは自分の不幸を誰のせいにも出来なくなってしまった。だって、わたしが恨んで、反発して、再起のバネにしようとしていた相手がみんな勝手にこけちゃったんだもの。じゃあ、わたしは何を目指せばいいの? 枯れ果てたわたしに水を与えてくれるのは誰?
三年経っても籠の中から出られない。歌を忘れたまま、いつまで経っても出られない。わたしは……それがものすごく悲しかったんだ。
◇ ◇ ◇
たった一枚の紙切れが、立ち直りかけていた心をずたずたにした。いや、立ち直りかけてたんじゃない。わたしは……ただ喪失から目を逸らし続けていただけ。胸のど真ん中にでっかい穴の空いた自分を見たくなかっただけ。そのでっかい穴から、汚いものがだらだら漏れるようになってしまった。
もっくんに八つ当たりすることで、辛うじて抑え込んでいたヒステリーの爆発。それが、招待状のことがあってから自力で制御出来なくなった。誰彼構わず不機嫌に当たり散らすようになったわたしは、常連さんにどうしたのって心配されるようになってしまった。このままじゃ自滅してしまう。その焦りがヒステリーを増幅する悪循環をどうにもできなかった。
そんな最低最悪のわたしの上に、招待状のことなんかどうでもいいってくらいでかいショックがどかあんと降ってきた。
◇ ◇ ◇
もっくんが大学をやめて実家に引き上げてから、彼のライフスタイルはフリーターそのものだった。まんま、モラトリアム。もっくんに何一つ勝てないわたしが唯一対抗出来そうなのは、ジャストそこだったんだ。さっさと自力で過去に踏ん切りを付け、もっくんを見返そう。あんたはいつまでちんたらやってんのよ、根性無しがっ! 先にそう突き放せるようにって。
リドルでの蟄居生活は自分を甘やかすことにしかならない。だから、一歩でも、一分一秒でも、もっくんより早くここを出よう。新しい自分を創るために歩き出そう。あとは、踏み切るタイミングを決めるだけだったはず。わたしは楽観視してたんだ。タカと違って、考え込むもっくんはそう簡単に結論を出せないだろうってね。
だからいつものように、いい若いもんがいつまでもふらふらとってもっくんに嫌味をぶちかましたんだ。そしたら……いきなりとんでもない返事が跳ね返って来た。
「うん? ふらふらはしてないよ。受験勉強中」
「え? どっか受け直すの?」
「そ」
しまった……もっくんの方が先に動いてたのか。でも、負けを認めたくないわたしは、その時もっくんがどうするつもりなのかを聞きたくなかったんだ。もっくんに突っ込み切れなかったわたしは、ますます機嫌が悪くなった。
◇ ◇ ◇
冬が近付くにつれ、もっくんの行動はくっきり受験生のそれになり、わたしのイライラはますますひどくなった。そして、とうとう目の前で巨大爆弾が炸裂してしまった。
一人身のわたしにはまるっきり縁がないクリスマスイブ。お客さんがうんと少なかったリドルにもっくんがふらっとやってきて、常連さんと話を始めた。そこで、もっくんが
何をバカなことを! これまでのわたしなら、必ずそう言って
でも、もっくんの眼中にはすでにわたしたちのことなんか一つも入っていなかった。もっくんは、もう師匠に師事して稽古を受けていたんだ。しかも師匠のアドバイスを受けて、大学進学やその先々の修行スケジュールをかっちりと組み上げてあった。
周囲の人たちの勧めを断り切れない優柔不断が招いてしまった回り道。成績だけを考えて自分の望みとは違う大学や学科を受験してしまったこと。もっくんにも後悔はあったと思う。わたしが歌を失ったのと同じだ。でももっくんは、しでかした失敗が嘘のように自力で全てのレールを敷き、合格した大学をやめるという形で退路を絶って全力で走り始めていたんだ。
やられた……。脳天をハンマーで粉々に打ち砕かれたような激しいショックを受けた。夢がないことと夢を失うこと。どっちが不幸? どっちも悲しいと思うけど、新たな目標に挑むスタートラインは変わらないはず。だけど、そのとっ始めでわたしは座り込んでしまい、もっくんはロケットスタートを切った。
もっくんは、今まで一度もわたしに偉そうなことを言ったことはない。自分のことを真剣に考え続けていて、人のことに口を挟む暇や余裕なんかこれっぽっちもなかったんだ。それを、今更のように思い知らされる。
自分の目指すものを決めて、それに向けて死に物狂いで突き進んでたもっくん。それも力任せにじゃなく、きちんと段取りしてこつこつと。もっくんの目指すものは絵空事の夢やあやふやな青写真なんかじゃない。すでに実行に移されつつある現実そのものだったんだ。
わたしはもう競うことすら出来ない。ライバルなんておこがましい。もっくんの足元にも及ばない。耐え難い屈辱と猛烈な敗北感。ねえ? わたしは超負けず嫌いだったんじゃないの? なのに、どうして今までぐうたら怠けてたの? 三年間何もせず、ただだらだらと時間だけを垂れ流して。
悔しかった。どこまでも悔しかった。あいつにだけは負けたくないって思ってたけど、もう失地回復は出来ない。それなら、これ以上は離されたくない。
わたしを三年間守ってくれたのはリドルだ。マスターや常連さんに、傷付いたわたしをかくまってくれたことをどこまでも感謝したい。でも座り込んでしまったわたしの中で、歌姫はずっと沈黙したまま。わたしはもう立てるのに。もう歩き出せるのに。ずっと怠け続けて、歌姫を起こそうとしなかったんだ。
もうここにいちゃいけない。だって、ここでもらえるものは全部もらえたんだもの。タカがジェームズとの真剣勝負にピリオドを打ったのと同じだ。もっくんに少しでも追いすがりたいのなら、リドルと訣別しなければならない。
これまでどうしても思い切ることが出来なかったリドルからの卒業。わたしはもっくんという爆弾に吹き飛ばされるようにして卒業を決意し、マスターにそう告げた。
歌の代わりはない。でも、自分の生き方を探すなら……もうここにいてはいけないんだって。
◇ ◇ ◇
わたしは以前楽器店でバイトをしていた経験を活かそうと考え、店員を募集していた楽器店を見つけて飛び込みでアプローチした。音楽の世界とすっぱり縁を切るっていう道もあったかもしれない。でも、歌がわたしを見放したんじゃない。わたしが一方的に歌を手放してしまったんだ。歌や音楽から完全に離れて、自分の不戦敗を認めてしまうのがどうしても嫌だった。わたしは、しょうもない空意地をまだ全然制御出来ていなかったと思う。
面接してくれた店長に、音大の声楽科にいたけどステージフライトの症状が出て歌えなくなったことをしつこいくらい訴えた。でも店長は、わたしの申告をさらっと聞き流した。
面接官に向かってしょうもないネガぶちまけてどうすんのよ。後ですごく後悔したけど、その時はまだいっぱいいっぱいだったんだ。でも店長は、楽器店でのバイト経験があることと仕事に対して熱意があることを評価してくれたんだろう。なんとか採用してもらえた。
リドルのマスターや常連さんは、就職が決まったことを本当に喜んでくれて。わたしも、自力で再起への一歩を踏み出せたことが素直に嬉しかった。
リドルも含め接客のバイトをたくさんこなしてきたわたしは、楽器店での仕事にすぐに慣れた。給料はちょぼだったけど、持ち家に住んでいるから住居費がうんと安くあがる。贅沢さえしなければ安定した生活が送れる。いい意味で落ち着いたと思う。
もっくんに引きずられるようにして転身を決めたのは情けなかったけど、リドルという籠からはなんとか出られた。だけど羽も手足も折れ砕けたままの歌姫が、いつまでも心のどこかにうずくまっていて。それだけはどうすることも出来なかったんだ……。
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