第九話 ライバル
自分自身の不甲斐なさ、情けなさに押し潰されそうになって。情けない姿を棘を立ててごまかしていたわたし。もしそのままなし崩しに年を重ねていたら、腐っていたわたしはいずれリドルから追い出されていただろう。でも、リドルのマスターに拾ってもらえたと同じくらい大きな幸運がわたしを待っていた。それは宿命のライバル、もっくんの再臨だった。
◇ ◇ ◇
三つ年下のもっくんは、最初からわたしに対してだけ態度がでかかった。少林寺の師範代やわたし以外の先輩にはとても礼儀正しいのに、わたしに対してだけは徹底してタメ口をぶちかました。わたし以外にも女の子はいたから、女をバカにしてたわけじゃないと思う。なんでわたしにだけ?
それだけでも十分気分が悪いのに、もっくんはとにかく上達が早くて、わたしはあっと言う間に抜かれた。師範代や仲間が、年齢に似合わず落ち着いていて礼儀正しいもっくんをこぞって賞賛するのも気に食わなかった。
すかしやがってっ! 絶対に化けの皮を剥がしてやるっ!
いきりたって何度も組手に挑んだけど、まるっきり勝てない。いや、勝てないどころじゃなく、腕の差がどんどん大きくなっていった。
もっくんが自分の腕前を自慢して人にひけらかすようなやつだったら、わたしは割り切れたと思う。ああ、やっぱりガキはガキだよねって。だけどもっくんと組手をすればするほど、逆に自分のガキっぽさばかりが浮き彫りになってしまう。負けず嫌いのわたしは、絶対に負けたくないもっくんに負け続けることで少林寺が嫌になってしまったんだ。
少林寺をやめる時に大きな葛藤があったのは事実だ。あんたはあいつに負けて逃げることになるんだよ? それでいいの? もちろん絶対に嫌だった。敵前逃亡なんか死んでもしたくなかった。でも、負け続ける自分をこれ以上見たくないっていう意識の方がずっと強かったんだ。
気分は最悪だったけど。もっくんという越えられない壁の存在が、結果としてわたしを勝敗への過度なこだわりから引き離すことになった。
少林寺をやめて歌に全力投球している間は、もっくんのことはまるっきり頭になかった。だって歌はわたしの一生をかけた大事な夢であって、勝ち負けなんかじゃないもの。わたしは少林寺を習ってた頃のこと、そしてもっくんのことを、記憶の本棚の端っこにほっぽってあったんだ。ああ、そんなこともあったよねって。
◇ ◇ ◇
わたしが音大をやめてリドルで塞ぎ込んでいた頃。もっくんは名門R大理学部の数学科っていうとんでもない難関をやすやすと突破して、見事に合格を決めた。そんなの、聞きたくなかった。挫折したわたしと違って、輝かしい将来が約束されているもっくん。きっと何の悩みも焦りもなく、順調に人生の階段を登って行くんだろうなって。
もしその頃に顔を合わせたら、嫉妬と劣等感に蝕まれて爆死していたかもしれない。幸い下宿生のもっくんがわたしの周囲に現れることはなく、わたしの中ではずっと遠い世界の出来事だった。
だけど。歌を失ったストレスが再燃してわたしが荒れ始めた頃、夏休みを前倒ししたもっくんが突然リドルに現れたんだ。
「ういーっす」
ガキの頃のもっくんしか知らないわたしは、その時とあまりイメージの変わらないもっくんを見て戦慄を覚えた。落ち着き払ってて、大人っぽくて、何でも余裕でこなしてしまうスーパーマンみたいなもっくん。何をどうやってもわたしはもっくんに勝てない。コンプレクスにどかあんと火が着いて、どうしようもなく辛かった。でも、もっくんはわたしを見るなりいきなりイジリ始めた。
「あれ? 誰かと思ったら、みこちんじゃん。ふっけたなあ」
「ごるああああっ!」
トレイでどたまを張り倒そうとしたら、その腕をたぐられて。
ぱかあん!
「ぷぎっ」
……持ってたトレイに自分の顔が直撃。自爆した。
「ったく、相変わらずの単細胞だなあ。ちぃとも進化しとらんやん」
こ、こ、こいつーっ!
わたしの憤怒の表情なんか見もしないで、手にしていた文庫本を広げたもっくんがつらっと注文を口にした。
「コーヒー」
怒りでわなわな震えていたわたしはまともに注文が取れないと思ったのか、マスターが助け舟を出してくれた。
「もっくん、今日のお勧めでいいかー?」
「いいよー」
くっそおおおおおおおおっ!
◇ ◇ ◇
ライバル。そういう言い方は、相手と自分の力量が拮抗しているから使えるんだろう。年齢差に関係なく、知力、体力、精神力のどれでも、わたしがもっくんに対抗出来るポイントはなかった。そもそももっくんのライバルにはなりえなかったんだ。
そのままなら、わたしはもっくんに対する莫大なコンプレクスだけを抱え込んで、ネガを千倍万倍に膨らませていたかもしれない。だけどもっくんは、入学した名門大学を一年ちょっとであっさり自主退学した。数学はやっぱり自分には合わない。出来ることとやりたいことは違う。そう言って。
もっくんの放言を聞いて、頭が煮えたぎった。自分に出来ることの中から未来を選べるなんて、最高の贅沢じゃないか! どんなに望んでも、もう夢が叶わない人がいるのに! でも、同時に安堵もしていたんだ。だって、未来を白紙に戻したっていうのはわたしと同じ。その点だけはもっくんをライバルとして置いとけるって。
そしてタカがぼやいてたみたいに、もっくんはずっと考え込んでいるようだった。声楽家っていう目標があったわたしと違って、もっくんにははっきりした目標がない。まだ完全に歌を諦めているわけじゃないわたしは、その点だけはもっくんに勝てる!
目標喪失のストレスから来るわたしの棘は無軌道にばらまかれなくなり、もっくんに一点集中するようになった。何を言われても動じないもっくんが、苛立ち紛れのわたしのど突きや当てこすりに動揺するはずもなく。いつもかるーくスルーされてしまったけど。それでもライバルもっくんという安全弁が出来たことで、わたしの破壊衝動はだいぶ丸くなっていった。
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