第八話 籠の鳥
そして、リドルでの新しい毎日が始まった。
音大を目指していた頃のとてつもない高揚感も、大学での崩れていく足場に追われるような切迫感もなく。指の間から砂が滑り落ちるように、たださらさらと時間だけが流れていく。歌のかけらも出ないのに、いらっしゃいませだけはすらすら言える自分の喉を何度も呪った。マスターの配慮やタカのど突きがあっても、こわばってしまった足はぴくりとも前に向かなかった。そんなだらしない自分自身がいやでいやでしょうがなかった。
でも、マスターは口癖のように言い続けた。時間がかかるよって。それが順風満帆の人の口から出た言葉だったら、わたしは真っ青になってそいつを殴り倒しただろう。だけど、マスターもわたしと同じだった。わたしもマスターも、描いていた青写真は破れたんじゃなく燃え尽きてしまったんだ。未来図がもう二度と描けないんだということを心底納得出来ない限り、わたしたちはもう一度描こうとする足掻きをやめられないんだろう。
必要な時間。それは、諦めるか再挑戦するかを決めるまでの時間。立ち直るまでに時間がかかるんじゃない。立ち直ってからもっともっと時間がかかるんだってこと。リドルで、わたしは自分を作り直す難しさと辛さをこれでもかと思い知ることになった。
◇ ◇ ◇
外見はともかく、
穏やかで礼儀正しいマスターは常連さんから信頼されてるけど、それだけじゃ集客の切り札にはならない。特にイケメンでも、すごくおもしろい人ってわけでもないから。それにマスターには、一人で店を切り盛りしながらお客さんとのやり取りまでテンポよく仕切る余裕はないんだ。だからこそ、真剣に看板娘を探していたんだろう。
わたしは正直言ってがらっぱちだ。丁寧な応対が必要なお客さんが出入りする上品なお店だったら、まるっきりそぐわなかったと思う。でもリドルの常連さんは気のいい人ばかりで、わたしを容赦なくいじった。そんな気取りのない空気が、わたしにぴったり合ったんだ。自分を装わなくても済む。地を丸出しに出来る。そういう気楽さは、わたしが失っていた陽気さを徐々に連れ戻してくれた。
わたしがお客さんと軽口を叩き合えるようになった頃にはリドルの売り上げがだいぶ増えて、バイト代もかなりましになった。とりあえず、師弟で枕を揃えて討ち死にっていう心配はしなくてもよくなった。
でもその頃から、わたしは歌を失った痺れるような痛みを、以前よりずっと強く感じるようになってきた。何も。何一つ、歌の代わりになるものはない。ただ漫然と生きてるだけで、自分を駆動する動力がどこにもない。
このまま、だらあっと生きていっていいんだろうか? その疑念が頭に張り付いて取れなくなって。わたしは陽気になったんじゃなく、どんどんとんがって行った。マスターより偉そうな、とことん口が悪くて態度のでかい姉御。わたしはそうなりたかったんじゃない。そうなってしまったんだ。
こんなんじゃいけない! ごたごたがあった時よりもっと劣化してるじゃないか! だけど、どんなに自分を戒めても投げやりな姿勢を変えられなかった。
傷付いてリドルという籠に逃げ込み、閉じこもってしまったわたしは、自力で籠から出られなくなっていた。動けなくなった自分自身に苛立って、とんでもない悪声で毎日があがあがあがあ喚き続ける。
うるさい! うるさいっ! 黙れええっ!
自分でも耳を塞ぎたいのに、わたしの口は乱雑で尖った言葉を無神経に吐き散らかし続けた。歌を取り戻すどころか、歌の欠片すらどこからも出て来なくなって……しまったの。
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