第七話 ラストギグ
何もかも喪失した人生の崖っぷちからちょっとだけ離れて。それでもわたしは、自分を駆動するエネルギーを失ったままだった。マスターはわたしの置き場所をあてがってくれただけで、自分の中身は自力で作り直せって突き放してる。そして、わたしはまだ自分の中身なんか考えられる状態じゃなかった。歌の代わりなんて、見つかるはずなんかない。その絶望感で、悲しくて悲しくて仕方なかった。
マスターと昔話をしている間だけは、その悲しさからちょっとだけ逃れられる。でも会話が途切れると、また寂しさの底なし沼にずぶずぶと沈み込んでいく。何もない空虚な家に、もう帰りたくなかった。
ばん! ぢりりん!
ぶっ壊れるんじゃないかってくらいの勢いで扉が開いて、さっき店番していたタカがなだれ込んできた。
「よう、ねえちゃん! くさくさしてる時はぱあっとやろうぜ! ギグだ!」
「は?」
な、なに? タカは、狼狽してるわたしの顔なんか見もしない。
「ベルエアで、でけえ花火を打ち上げる。あんたも来な!」
返事する前に、もう腕を掴まれてリドルから引きずり出されていた。な、なんて強引な! 店の前には楽器やアンプを満載したぼろい箱バンが停まってて、その隙間に押し込まれた。運転席からひょいと顔を出したタカが、マスターに手を振った。
「借りてくぜ!」
「はっはっは。頼むわ」
「うーす!」
ちょ! どういうことよーっ!
◇ ◇ ◇
どこへ連れてかれるかとびくびくしてたんだけど、車に乗っていた時間は十分もなかった。
「さあて、派手にぶちかますぜーっ!」
運転している間ずっと目をぎらつかせていたタカが、車を倉庫みたいなところの側に留めてそう叫んだ。
「ここ、どこ?」
「スタジオ・ベルエアさ」
「ライブハウス?」
「いや、貸しスタジオ。全室音響機材も防音設備も整ってっからな。バンド練習するには最高のとこだ。料金手頃だしよ」
タカは、でかいアンプを事も無げに肩に担ぎ上げてすたすた歩いていく。ここで置いて行かれたら、わたしはどうしようもない。慌てて後を付いていった。バックステージに繋がるんだろう。裏口のドアが開いてて、誰かがタカを待ち構えてる。タカがアンプを担いだままその人に話し掛けた。
「よう、ナベさん。ジェームズは?」
「もう来てるよ。準備万端だ」
「くっくっく! 今度こそぶちのめしてやる」
「返り討ちにあうなよー」
「ちっ!」
タカがナベさんと呼んだ中年の穏やかそうなおじさん。この人が、スタジオのオーナーなんだろう。
「おい、タカ。この子は? ファンか?」
「違うよ。わけありさ」
「は?」
「見りゃ分かるだろ。ぐだぐだだ」
かちんと来る言い方だったけど、それが間違いなく今のわたしだった。
「ふうん」
「景気わりぃときゃあ、ぶちかますのが一番よ」
「はっはっは! そりゃあそうだ」
タカは、そのまますたすたと建物の中に入っていった。わたしも付いて行こうとしたら……。
「ああ、済みません。一応、ここから先はスタッフオンリーなんでね。大スタで待っててください」
あ。そっか。
「あの、入場料とかは」
「かかんない。ってか、今日のは特別でね。招待客しか来ないよ」
「しょ、招待、ですか?」
「そう。まあ、聞きゃあ分かる」
ナベさんは、こっちこっちとわたしを正面入り口に誘導した。
「玄関入って、突き当たりの左側が大スタ。そこで待っててください」
「分かりました」
おっかなびっくり、へっぴり腰で大スタと言われた部屋に近付く。そこは廊下に面した壁がガラス張りになっていて、中の様子を見ることが出来た。そして中は……とんでもないことになっていた。
「う……そ」
どこからどう見てもとことんガラの悪い連中が、この野郎絶対ぶちのめしてやるっていう敵意を剥き出しにして、いっぱいうろうろしていたからだ。それも、全員男。女は一人もいない。こ、怖くて……入れない。大スタの入り口でこちっと固まっていたら、背後からごっつい声が掛かった。
「よう、ねえちゃん。そこに立たれると邪魔だ。どいてくれ」
ひっ。思わず首をすくめて恐る恐る振り返った。そこにいたのは、もう頭がごま塩になっている年配のおじさん。
「あの。大丈夫、ですか?」
「はあ? 大丈夫もなにもねえだろ。ここで音出す以外に何するってんだ」
ドスの効いたバス。いい声だなあ……。わたし以外に毛色の違うお客さんが来たってことで、やっと中に入る勇気が出た。
「あの、先にどうぞ」
そう言ってドアを開けた。開けた途端にドアからどおっと溢れてきたのは、男のくっさい匂い。ううっぷ。その男の人に付いてこわごわ中に入ったけど、いつでも逃げ出せるようにってドアの近くに立って震えていた。
座席がなくて、オールスタンディング。ステージと観客席との上下差がほとんどない。ほぼフラットだ。集まったギャラリーは殺伐としてる。もしここでいざこざが始まったら、恐ろしいことになりそう。でも大スタの天井照明がぱっと消えて、ステージにスポットライトが落ちた途端に、空気ががらっと変わった。
ラフな服装の若い男が、黙ってドラムキットの後ろに陣取った。続いて、作業服姿の坊主頭の男が使い古された感じのベースをアンプに繋いだ。ぶーん……。低いハムノイズが室内に流れて、それまでの殺伐とした空気が期待感に変わる。
「よう」
そう言って、塗装がはげちょろけたレスポールを手に袖から出てきたのは、黒人の青年だった。人相は良くない。でも、暴力的な感じには見えなかった。そうか。この人がさっきタカやナベさんがジェームズって言ってた人だな。ジェームズはギャラリーをじろっと睨み回すと、持ってるギターを機銃掃射をするかのようにぐんと振り回しながら、でかい声を出した。
「待たせたな、ろくでなしども!」
うわ。いきなり挑発したよ。こ、こわ。
ぶーっ! だんだんだんだん! ブーイングと床を踏み鳴らす音がスタジオ内に炸裂する。でも、その音を蹴散らすように、アンプから派手なスクラッチノイズが響き渡った。がりがりがりがりがりっ!
「ちゃーっす! よう、おまえら準備出来てっかあ?」
でかい体には小さく見えるフライングVを抱えて現れたのは、タカだっだ。音楽雑誌読んでたから何か楽器やってるのかなと思ったけど。そっか、ギター弾くのか。なんか派手な音出しそうだなあ……。
ステージの真ん中で向かい合わせに立った二人のギタリストは、これから殴り合いでもするかのように、顔と顔をぎりぎりまで突き合わせて睨み合った。
「今日こそぎったぎたにぶちのめしてやるぜ」
「けっ! 口ほどにもねえ」
ごくり。ほんとに……今にも拳が飛びそうなヤバい雰囲気だ。二人の衝突を煽るかのように、殺気立ったギャラリーから容赦なく罵声が飛んだ。
「くらあ!」
「さっさとやれえ!」
「しばき倒すぞ、ごるあ!」
ぐるっと首を回したタカが、観客に向かってぐんと中指を突き立てた。ぐわあ。
「はっはっはあ! まあ、ちょい待てや。これがラストだからな」
し……ん。その途端、さっきまでスタジオに充満していた熱気と殺気がすうっと消えた。
「わりぃ。シラケさせちまったな。だけど、こればっかはどうにもなんねえんだ」
タカが、隣にいた青年の肩をぐんと抱き寄せる。
「ジェームズは向こうで、アメリカで夢を追っかける。俺にやめろっていう権利はねえ。だから、今日がツインDのラストギグだ」
抱えていた肩を乱暴にぼんと突き放して、タカがものすごい形相で吠えた。
「いいかっ! しみったれた終わり方にはしたくねえ! 今度こそぶちのめしてやるぜっ!」
ぐぎゃあああん! ぎっちりディストーションのかかったぎざぎざの音が、アンプから銃弾のように発射されて。
「遠州つばめ返しいっ!」
タカがそう言い終わらないうちに、ド派手なギターバトルが始まった。
うわわわ! た、たしか、これってジャズ……だよね? なんでツインギターで、こんな暴力的な仕上がりになるわけ? でも暴れまわる音の洪水をよーく聞いてると、二人して好き勝手に弾いてるようでいて、ちゃんとアンサンブルになってる。まさに丁々発止の真剣勝負だ。そして、二人とも恐ろしく手練れだった。うまい下手っていうより、自分のカラーがはっきりしていて絶対に妥協しない。
力任せにねじ伏せようとするタカ。自由自在に躱して、隙あらば斬りこもうとするジェームズ。
「ちっ!」
「ドローだな」
十分以上のバトルで汗塗れになった二人が、ぼそっとそう言い合った。ぶるぶるっと顔を振って汗を振りまいたタカが、客席に向かって声を掛けた。
「よう、親父。ダンがこの肝心な時に風邪で喉潰しやがってよ。代わりやってくれや」
え? お、おやじぃ?
「わあた」
さっき戸口で会ったおっさんが、頭に豆絞りの手拭いを巻いてのそのそと前に出てきた。うっそおおおっ! どう見たって年代的に演歌路線でしょ。洋物なんか歌えるの?
「行くぜえっ! ボドムアフターミッドナイト!」
げえええっ! デ、デスメタルじゃん。こいつら、なんつー……。
さっきのギターバトルの時は聞き役だった観客は、今度は主役になった。全員派手にヘドバン! スタジオ内の温度が、天井知らずにがんがん上がっていく。おっさんのボーカルも素人じゃないね。すっごい年季が入ってる。とても、その年代の人の声とは思えない。すごい……。
四方八方男しかいないくっさい空間に、一人だけ場違いに女が挟まってる。でも、そのわたしを誰も見ない。気に留めない。一瞬たりとも演奏を聞き逃すものかと、全身全霊をこの場に投げ出して音と一体化する男たちの塊。わたしは、その途方もないエネルギーに叩き伏せられていた。
演奏時間は一時間くらいだったんだろう。でも、それが一日くらいに感じられた。それくらい、恐ろしく濃かった。
汗塗れになった二人のギタリストが、ステージの真ん中でがつんと拳を合わせる。
「わりぃ。次のがラストだ」
タカが、観客に向かってぐんと拳を突き上げた。
うおおおおっ! 観客の雄叫びが、スタジオをぶっ壊す勢いで弾け飛ぶ。
「俺はしょうもねえワルだった。けどな、誰とど突き合いやっても負けたこたあねえ。一度もだ。その俺が、いまだに勝てねえやつがいる!」
タカがジェームズの肩を抱く。
「勝てねえ間は、俺はずっと夢を見れる。いつか、こいつを叩き伏せてやるってえ夢をな! だから、ジェームズ!」
「おう」
「おめえも負けねえでくれ。おめえがへたったら、俺がおまえをぶちのめすチャンスがなくなんだよ!」
「けっけっけ!」
ジェームズがしらっと笑った。
「百年はええ」
「抜かせっ!」
ジェームズの返事に安心したんだろう。タカは陽気にぶちまけた。
「ツインDは、これで終いだ。でも、俺もジェームズもこれからがんがんギターを弾く。また聴きに来てくれやっ!」
どおおおおっ! 観客が拳を突き上げ、吠えながら床を踏み鳴らした。
「最後は、俺がジェームズにギター教えてもらった最初の曲だ。ユーリアリーガットミー! ジェームズ、またな!」
「うーっす!」
じゃがずじゃじゃずじゃっ! じゃがずじゃじゃずじゃっ!
ぎゃあああん!
二分ちょっとの短い曲に、惜別と激励がみっちりねじ込まれていて。それでも最後の最後まで戦う姿勢を崩さず弾き切ろうとする二人の姿に、思わず涙が込み上げた。ぎざぎざのギターの音。腹に響くバスドラの一撃。それがいつの間にか消えて、わたしははっと我に返った。ふうふうと荒く息を吐き出した二人のギタリストは、ピックをぽんと背後に放ると、にやっと笑ってもう一度がつんと拳をぶつけ合った。
「元気でな」
「おう!」
それだけ。最後はそれだけだった。
アンコールも何もない。いきなりスタジオの天井灯が一斉にぱぱぱっと点いて、充満した熱気で吹き飛ばされるように観客がスタジオからどっと吐き出された。すげえすげえを連呼しながら。
ああ、そうだね。こんな魂のこもった演奏は、どんな有名アーティストのビッグコンサートでも聞けないだろう。ただで聞かせてもらったわたしは、本当に運がいいのかもしれない。
演奏の間ずっと握り締めていた拳をゆっくり開く。わたしの手にもじっとり汗が滲んでいた。そして……わたしが歌でその汗を作り出せないことに、もう一度強いショックを受けてしまった。
スタジオにぽつんと一人残ったわたし。気にしたのか、ナベさんが近寄ってきた。
「どうだった?」
「すごかった……です。お世辞抜きに」
「だろ? あいつらにとって、うまい下手は関係無い。どこまで本気で殴り合い出来るかが大事なんだよ」
「ええ。分かります」
「ただね」
ナベさんの話には、思いがけない続きがあった。
「あんなガチバトルは、あいつらにしか出来ないんだ。タカもジェームズもこれから苦労するだろうよ」
「あ……」
「だからこそ、あいつらは
ナベさんが、無人になったステージに向かって呟く。
「音楽ってのは、一人じゃ出来ないのさ」
「えー? ソロって形が」
「はっはっは。一人しかいない部屋で音出して楽しいかい?」
「う……そっか」
「だろ? 音楽ってのは聞いてくれる客が居てなんぼ、さ。一人でいきり立ってるだけじゃあ意味がない」
「ええ」
「もちろん、あいつらだって分かってる。だから組んで演るって形を模索していたんだ。ずっとね」
両拳をがつんとぶつけ合ったナベさんが、ふっと吐息を漏らした。
「本当に組んでりゃ、もっと上へ行けたんだけどな」
「さっきのはバンドじゃないんですか?」
「違う。あいつらはずーっとジャムってるのさ。バンドとしての完成度を追ったことは一度もない」
「いや、さっきの演奏、バンドとしてもすごかったと」
「とんでもなく、アンバラだよ」
「そんなー」
「二人でど突き合いばかりしてちゃ、いつまでたっても一足す一が二にしかならん」
「あ……」
「バンドってのは足し算じゃダメなんだ。メンバーの音を掛け算して、音世界をがんがん膨らませないと意味がない」
ナベさんの目には、まだ二人のバトルがくっきりと焼きついていたんだろう。残像を振り払うかのようにゆっくりと首を振った。
「あいつらのエネルギーは、ぶつかって弾けてなんぼ。でも、それだとジャム以上にはならんのさ。相方がいないとまともな音にならないんじゃ、ミュージシャンとしては半人前以下だよ」
「だから解散、ですか」
「そう。どのみちこの時は来たんだけどね。解散を最高の花火にしたい。タカの願いは叶っただろう」
ナベさんは腕から垂れていたコードをたぐって、その先のジャックを見つめた。
「二人で出来ることはやり尽くしたんだ。もっとでかいやつに挑むには、外に出ないとどうにもならない」
最良の出会いが、最大の壁になる、かあ。
「タカは家業を継いだからプロにはなれん。ジェームズには自分の腕しか頼れるものがない。どっちも前途多難だ。それでも二人は、あいつにだけは絶対負けたくないって頑張るだろさ」
「うん」
「まあ、ごっつい音をどかんとぶつけるのがあいつらの生き様だ。いいも悪いもない」
ナベさんが、肩をぽんと叩いて退出を促した。
「さあ、帰った帰った」
帰れって言われても、いきなり引きずり込まれたからなー。
「あの。ここって、どこですか?」
どてっ。ナベさんがぶっこけた。
「ああ、そうか。タカに引きずられて来たんだっけ?」
「はい」
「あいつも、そういうところがまだまだガキなんだよなあ。大雑把でかなわん」
ぶつくさこぼしたナベさんは、音響助手の
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