第六話 喫茶店リドル
「よう、みこちんじゃないか! ひさしぶり!」
声をかけられた場所がどこだったか、全く覚えていない。でも、突然自分に向けられた声にほっとしたことだけはよーく覚えてる。顔を上げたわたしの目に、あらさーくらいの男の人が映った。背は高くないけど、がっしりした体格。穏やかで人懐こそうな顔。その顔にどこか見覚えがあった。もしや……。
「せん……せい?」
「わははっ! 前はな。今は喫茶店のおやじさ」
「ええーっ?」
声を掛けてきたのは、子供の頃に習っていた少林寺拳法のお兄さん先生。少林寺をやめてからはずっと会ってなかったんだ。
「それよか、どうした? 寒いのにそんな薄着で?」
死に場所探してうろついてたって。そんなん言えるわけなかった。黙るしかない。でも、先生はそれ以上つっこんでこなかった。
「まあ、いいや。店はすぐそこだから、コーヒーしばきにおいで」
「……はい」
「ああ、それと。俺はもう先生はやってないから、先生って呼ぶのは勘弁して。マスターでいいよ」
マスター、か。なんか、おっさんくさい。はつらつとしてた先生のイメージに合わないなあ。ふらふらとマスターの後を付いていったわたしは、古い商店街の中にあるくたびれた感じの喫茶店の前で足を止めた。ふうん。リドル、かあ。
マスターが扉を押し開けると、小さくちりりんとドアベルが鳴った。マスターの代わりに店番をしてたんだろう。ぼさ頭のごっついあんちゃんが、カウンターで音楽雑誌を読みふけっていた。
「お、マスター。買い物はどした?」
「あ! 忘れてた!」
「おいおい。まだ店番しててやっから、行ってきな」
「悪い」
「いいって」
マスターが慌てた様子で駆け出して行って、残されたわたしはゆっくり店の中を見回す。決しておしゃれなんかじゃない。くたびれた時代感のある店。中にいるのはさっきのあんちゃんだけ。間が持たなくて息が詰まった。ひょいと雑誌から目を離したあんちゃんは、わたしを見るなりずけずけ言い放った。
「ったく、しけてやがんなあ」
う……。
「そんなかすっかすじゃ、元広ががっかりすっぜ」
えっ? 思わず、座っていた椅子から飛び上がる。
「あんた、元広と同じ道場に通ってたやつだろ?」
「ど、どして……?」
「ぎゃははははははっ!」
とんでもなくでかい声で笑ったあんちゃんは、丸めた雑誌でカウンターをぱんぱん叩いた。
「元広が、いつもあんたぁイジったのをネタにしてたからだよ。すぐに突っかかってくる単純バカがいるってな」
あ、あんの野郎ーっ! 思い出すたび血が煮える。
「あの。あなたは?」
「ああ、元広の兄貴さ。孝広。タカでいいぜ」
げえっ! もっくんの兄貴? 兄貴なんかいたの? そんなん聞いてないよう。
「もっくん、そんなこと一言も」
「そらあ言えねえだろう。俺ぁ今でこそ魚屋のあんちゃんだけどよ。ガキの頃から筋金入りのヤンキーだったからな。そんなんが兄貴だってえのは人に言いたかねえだろ」
確かに。ガタイがいいっていうだけじゃない。体に押し込み切れない膨大なエネルギーが、ぎしぎし音を立てて軋んでるみたいだった。
「あの。もっくんは、今は?」
「受験生さ。あいつにしては珍しく悩んでる」
そうか。大学、か。
タカはカウンターの上に両肘を突いて、ぶつくさ言った。
「あいつも考え込む方だからなあ。んなもん、いくら考えたってしょうがねえと思うんだがよ。あほうの俺にはよう分からん」
ちりりん!
ドアベルが賑やかに鳴って、はあはあと息を切らしながら紙袋を抱えたマスターが戻ってきた。
「みこちん、タカ、済まん!」
「ああ、いいって」
のそっと立ち上がったタカは、丸めた雑誌でぽこんとわたしの頭を叩いた。
「てっ」
「まあ、なんとかなる。投げんなよ」
放り捨てるように言い残して、タカがのしのしと店を出て行った。
「なんか」
「うん?」
「もっくんとは全然違う感じですね」
「ああ、あそこの三兄弟はみんな性格が違うからなー。でも、どっちかといやあ一番毛色が違うのはタカじゃない。もっくんだよ」
「え? そうなんですか?」
「そう。異端児さ」
そんな風には見えなかったけどな……。
「それより」
マスターは、サイフォンを組み立てながらゲロを促した。
「どした?」
言いたくなかった。何も。何一つ。だって、何を言ったところで負け犬の遠吠えだ。言い訳や泣き言は、負けず嫌いのわたしがどうしてもしたくなかったこと。でも、黙って心の中に閉じ込めておくには、わたしっていう容れ物はぼろぼろ過ぎた。
出来るだけ素っ気なく、事実だけを。それでも、自分からちぎり取るようにして白状した。マスターに涙なしで話をしたことが最後の意地だったかもしれない。
「ふうん。なるほどね」
話を聞き終えたマスターの反応はすごく乾いていた。
「長い人生。そんなこともあるさ。まずは腹一杯食って、たくさん寝る。そっからだよ」
「でも」
「ああ、仕事だろ?」
「うん」
「まあ、食ってから話そう。コーヒーよりゃ飯の方が先だな」
ずっと飲まず食わずだったわたしのお腹は、さっきからぐうぐう鳴りっぱなしだった。
手際よくハンバーグランチの支度をするマスターの横で、サイフォンがぽこぽこと軽快な音を立ててる。肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、口の中に唾液が溜まっていく。さっきまで死ぬことばっか考えていたはずなのに。わたし、なんて浅ましいんだろう。
「ほい。おごりだ。コーヒーはその後な」
じゅうじゅうと油を跳ね散らかし、こんがりふっくら焼き上げられたハンバーグと山盛りのライスが目の前にどんと置かれた。
「あの、いいんですか?」
「飯食ったら、話がある」
な、なんだろ? でも、空腹は限界まで来ていた。鉄板まで食い尽くすような勢いで、ハンバーグランチに飛びかかる。
「う、うまいー!」
「はっはっは! 空腹は最上のソースって言うからな」
「いや、まぢでうまいー!」
そこで、初めて涙腺が弾け飛んだ。わんわん爆泣きしながらご飯を食べるなんて、ものすごく滑稽だったと思う。だけど、滑稽さに隠さないと涙を流せないほど崖っぷちまで追い詰められていたんだ。ランチを食べ終わっても、わたしはしばらくしゃくりあげていた。
熱々のコーヒーが、下げられたランチプレートの代わりに置かれて、肉の匂いがコーヒーの芳しさに入れ替わった。コーヒーを口に含んだら、マスターが話し掛けてきた。
「なあ、みこちん」
「はい」
「いくら昼時は過ぎてるって言っても、寂しいと思わんか?」
はっとして店内を見回す。さっきまで店にいたのは店番のタカだけだ。他に誰もいない。マスターはさっきまでの柔和な表情をかなぐり捨て、脳裏にいやと言うほど焼き付けられている師範代の頃の厳しい顔付きになった。
「はやってないんですか?」
「論外だよ」
はあっとでかい溜息をついたマスターが、カップボードにどすんともたれかかる。
「手を抜いてるつもりはないさ。コーヒーも料理もサービスも、俺に出来る最善を尽くしてるつもりだ」
「うん」
「でもな、この店には華がないんだよ」
ぐるっと店を見回すマスター。確かに、見るからに古臭い店だ。正直わたしも魅力を感じなかった。
「改装とか、しないんですか?」
「しない。カネがない」
「う……」
「それに、俺はこの店の雰囲気が好きで、前のオーナーから店を引き継いだんだ。下手にいじれば、今の包まれ感が消えちまう」
そうか。
「てか。先生はどうして少林寺をやめたんですか? あんなに熱心だったのに」
「先生はやめれって、みこちん」
わたしは、みこちんという言い方をやめて欲しかったけど。お互い様か。しょうがないという表情で、マスターが何度か腰を叩いた。
「腰をな、やっちまったんだ。ヘルニア」
「ええっ?」
「もともと腰痛持ちだったんだが、稽古をつけられないほどひどくなってね。手術も受けたけど完治しなかった。激しい上下動やひねりを繰り返す武術は、爆弾抱えてる腰への負担が大き過ぎる。もうやめた方がいいって言われてな」
「そ、そんなあ」
ふっ。マスターが寂しそうに笑った。
「こんな結末は全然納得出来ないよ。でも不運を全部避けることはできない。それが人生ってものなんだ」
「……」
「しゃあないさ。だが、残り人生を搾りかすみたいに過ごすのはまっぴらだ」
ぎいっと口を固く結んだマスターが、店内の隅々まで見回す。
「形は違うが、この店は俺の道場だ。ここで自分を鍛えて、立て直さんとならん」
ひゅっ! 鋭い手刀が、わたしの顔のすぐ前を切り裂いて行った。
「勝負もしないで、白旗揚げるわけにはいかないんだよ!」
マスターの説教がわたしに向けられていたら、絶対に受け入れられなかったと思う。わたしにはもう何も残っていなかったから。でも、わたしが目の当たりにしたのはマスターの生き様だ。自分と比べてもしょうがない。意味がない。
「なあ、みこちん」
「はい」
「さっきも言ったが、ここには華がないんだ。その華になって欲しい」
「は、華ぁ? どういうことですか?」
「看板娘だよ」
経営者が変わっても、中身が同じなら常連さんしか来ない。看板娘で新しいお客さんを呼び込もうってことかあ……。わたしなんかが売りになるのかな。
でもマスターの口調は切羽詰まってて、わたしに対する憐憫のれの字も混じっていなかった。鋭い視線がわたしを容赦なく貫く。
「みこちんに同情はしない。そんな余裕はない。これはあくまでビジネスだ。現状がこんなだから、バイト代はそんなに出せん。額は売り上げ連動ってことになる。その代わり、ここにいる間のメシは持つ。どうだ?」
どうもこうもなかった。ハンバーグの匂いであの世からほいほい帰ってきてしまうわたしは、負けず嫌いって言っても口先だけなんだろう。自分が負けず嫌いなんだって思い込まないと、自分の尻を自分で蹴飛ばせない弱虫。そういう弱い自分だっていうことを悟らないとならない。マスターが鍛えるって言ったみたいに、わたしもなんとか立て直さなきゃ。
「お願いします」
「バイトはしたことあるんだろ?」
「てか、学費稼ぐのにバイトばっかしてたんで」
「心強い。その経験、活かして。客扱いは任せる」
「はい!」
歌を失ったわたしは、代わりにリドルっていう居場所をもらえた。今は、そのことにうんと感謝しないとならない。
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