第五話 ステージフライト
わたしは、小さい頃からずっと上に『超』がつく負けず嫌いだ。勉強でもスポーツでも単なる遊び事でも、負けるのは大っ嫌いだった。だからすぐに熱くなる。頭に血が上る。口だけじゃなく手も足も出ちゃう。当たり前だけど、それじゃあ勝てる勝負にも勝てなくなる。体力や精神力がいくらあっても、それだけじゃ勝てない。状況を見極めて作戦を立て、自分を押したり引いたりする冷静さがないとだめなんだ。
どたまがとことん単純に出来てるわたしは、そういう臨機応変の判断が苦手だった。全力で突進して、だめなら玉砕。ものすごく効率が悪いやり方だと思うけど、それしかできなかったんだ。そんな単細胞のわたしでも、負けが混めばさすがに考えるよ。このままじゃまずいってね。
小さな頃からずっと続けてた少林寺拳法を止めたのも、勝ちにこだわるのは無理だと判断したから。だってわたしより後から始めた子が、あっという間に腕を上げてわたしを抜き去ってしまうんだもん。それが悔しくて。悔しくて悔しくて悔しくて。負けたという事実だけにとことんこだわって、突っかかって、さらに無様な敗戦を重ね続けた。ほんとに、ばかみたいだ。
で、思ったんだ。勝ち負けのあることをするのはもう止めようって。スポーツも勉強も習い事も、勝ち負けを競うことを目的にしたら絶対にわたしは潰れる。だって頂点は一つしかないんだし、力の使い方が下手なわたしは何をどうしてもてっぺんには届かないだろうから。闇雲にヒートアップすれば、持ってるエネルギーを無駄に浪費しちゃうことになるんだ。
わたしが『歌』を選んだのは、勝敗がないからだった。自分が満足するまで歌えばいい。勝ち負けを決めるという考えは要らないんだ。何も余計なことを考えずに、ただ歌うことだけに無尽蔵のエネルギーをぶち込むことが出来る。
声楽家になりたい! 方針を決めてレッスンに明け暮れ、音大を受験するまでのわたしは百パーセント充実していたと思う。でもエンジンだけがやたらにばかでかいわたしっていうロケットは、発射されたが最後、勢いで飛び続けるしかないぽんこつだった。それなのに、わたしの行く手を阻むアクシデントばっかが続いたんだ。
もう受験が目前に迫っていた高三の年末。両親が、突然離婚を決めた。
いいよ。別れるなら別れるで、それぞれ勝手にすればいい。だけど決戦控えてるわたしを巻き込まないで! それが、わたしの偽らざる気持ちだった。でも父も母も、自分のことしか考えていなかった。ダブル不倫の末の離婚。それぞれの不倫相手の家族から激しく責められていて、補償問題にまでこじれていた。
カネのかかる音大への進学なんて冗談じゃない。父も母も、わたしに向かっていけしゃあしゃあと言い放った。それが、猫なで声でがんばれがんばれって昨日までわたしの背を押してきた親の言うセリフか? 自分たちの不始末の責任を、娘のわたしに押し付けないでよっ! 親の裏切り行為にぶち切れて、絶縁を宣言した。冗談じゃない! あんたらの汚い泥なんか、誰が被るものかっ! わたしの面倒を見ないで放り出すなら、カネは一切要らないから家だけ置いてって!
親が手切れ金代わりにわたしに投げつけていったのは、一軒の家。親から受け取れたのはたったそれだけだ。でも、それで十分だった。だって、わたしには歌があるもの。形も中身もない親の半端なサポートなんかより、時間を気にしないで歌やピアノの練習が出来る防音設備のある家が絶対に必要だったんだ。
わたしは恥知らずの両親をさっさと家から追い出した。ピアノと防音室だけあれば、あとは家具や贅沢品なんか一切要らない。捨てるって言ったら、親が全部持って行った。まるで、ハイエナみたいに……。
◇ ◇ ◇
わたしは親のおっぱい飲んでるガキじゃない。もう自力で稼いで暮らせる年齢なんだ。割り切って予定通りに音大を受験し、合格を勝ち取った。そして元親の扶養に入るのを拒否し、身分的にも金銭的にも親から独立した。収入をゼロにすれば、奨学金や授業料の減免をフルに受けられるから。
だけど学費はけちれても、生活費はかかる。個人レッスンの費用もひねり出さないとならない。いくらしゃかりきになってバイトしても、お金が追いつかなかった。切羽詰まったわたしは、水商売……いや、風俗で体を売ろうとすら考えたこともあった。それをすんでのところで思いとどまったのは、同士を見つけたからだ。
同じ声楽科の貧乏人の男。ヒサ。
わたしと違ってヒサにはその貧乏を楽しんでいるような余裕があった。わたしは彼のおおらかさに惹かれたんだ。独りで踏ん張るのはしんどいよな。ヒサのその言葉を信じて彼のアパートでの同棲に踏み切り、身を粉にして働いた金でプロに師事して二人でレッスンを受けた。あの頃は本当に楽しかった。歌うことが、じゃない。声を合わせることが。これが歌なんだなって。そこがいいんだよねって、心の底から思えたんだ。
でも。充実していた日々はほんの少ししか続かなかった。
わたしは、ヒサの魂胆に気付いてしまった。独りはしんどい。それは、二人なら頑張れるじゃなかったんだ。しんどいからどっかに寄り掛かろうだったんだ。いつの間にか、働いて稼ぐカネの割合がわたしの方だけ増えて。挙句の果てに、ふっと部屋からいなくなってしまった。学校やレッスンには来てる。でも、わたしとは顔を合わせようともしない。
何が? 一体何があったの? 理由はすぐに分かった。ヒサの羽振りが急によくなったこと。そして、ヒサの隣に声楽科教授の娘が並ぶようになったこと。
そうだったのかっ! カネもコネも技量も何もないわたしには、もう旨味がなくなったってことね! 全身の血液が煮えたぎった。もしわたしに歌がなかったら、逆上したわたしはヒサをめった刺ししてぶっ殺していただろう。それくらい、ヒサの裏切りが絶対に許せなかった。
だからと言って、わたしに出来ることは何もなかった。まんまと利用された悔しさも、踏みにじられた信頼や愛情も、わたしがどんなにやっきになったところで何一つ戻って来ない。
もういいや。わたしは最初から独りだった。それなら独りに戻るだけ。それより、歌に没頭しよう。やっと気持ちに区切りをつけて。自分自身に何度もリセットを言い聞かせて。
それなのに、わたしは歌を……失った。
◇ ◇ ◇
「一種の失声症かなあ」
受診した心療内科で、診てくれた医師はそう言って大きな溜息をついた。
異変を覚えたのは、ヒサとのトラブルでしばらく休んでいたボーカルレッスンを再開した時。自宅で譜面を見ながら歌っている時にはなんともないのに、先生の前で歌おうとすると喉が詰まってしまう。声が細るとか音程がふらつくとか、そんなテクニカルな問題じゃない。まるで喉にコルク栓を詰められてしまったみたいに、歌が出てこなくなった。足が震え、冷や汗が流れ、いくら踏ん張っても喉が開かない。異変に気付いた先生が、すぐに心療内科の医師を紹介してくれた。
「あの、治るんでしょうか?」
「分かりません」
宣告は冷徹だった。
「たとえばね、デッドボールで選手に大怪我させたピッチャーが、その後ボールをコントロール出来なくなる。試合で信じられない大叩きをしてしまったプロゴルファーがクラブをまともに振れなくなる。そんな風に、心理的な傷が元で行動が制限されてしまうイップスという現象があるんです」
「イップス……ですか」
「はい。厳しい練習や自己暗示で自信を増強し、それで傷を克服出来る人もいますが、現実問題としてはなかなか完治させるのが難しい症状だと思います」
そのあと医師が、ものすごく残酷なことをつらっと言い放った。
「あなたの場合、傷の影響で支障が出るのは人前で歌う時だけです。変則なんですが、重度のステージフライトということになるのでしょう。幸い日常生活には影響しませんので、時間をかけて心の傷と向き合ってください」
歌はわたしの全てなのに。そう言うの? 言えちゃうの? あんただって、いきなり手足を全部失った時に、でも生きてるからいいでしょって言われてごらん? それに耐えられるの?
辛さをかけらも思い遣ってくれない医師を張り倒してやろうかと思った。でもわたしには、怒りをぶちまけるエネルギーすらどこにも残っていなかったんだ。
◇ ◇ ◇
歌を取り上げられたわたしは、もはや抜け殻だった。
師事していた先生には、休学して心と体をちゃんと癒しなさいとアドバイスされたけど。もう大学なんかどうでもよかった。退学届を出し、家に引きこもった。ほとんど何もないがらんどうの家。それは、まるでわたしそのもの。いつもわたしをいっぱいに満たしていたエネルギーはどこに行ってしまったんだろう? 自分で、自分自身が信じられなかった。
こんなの、わたしじゃない。わたしなんかじゃ……ない。でも、わたしには何もない。もう何も残っていない。働く気力もなく。いや、それ以前に生きる気力すら失って。わたしは、着の身着のままでふらふらと家を出た。
空っぽの自分を、本当に空っぽにするために。
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