第十五話 解放
満足げに会場から出て行くお客さんを見送り、会場が無人になったのを確かめてから、座席点検に回る。忘れ物や落し物があれば、すぐに受付に届けてアナウンスしないとならない。幸い帽子とか手袋止まりで、貴重品の落し物はなかった。それを串田さんに報告して、さっとステージ裏に行く。
スタッフは機材搬出で出払ったみたいで、ステージ裏には誰もいなかった。わたしは、ステージの袖からさっきまで上がっていた舞台にもう一度『戻った』。
今日のコンサート。歌ったわたしは、浜草さんの代役だ。浜草さんのイメージを壊さないように、控えめに控えめにとしか歌えなかった。だから、やっと出てきてくれた歌姫に何も歌ってもらえてないの。
ごめんね、歌姫。観客がわたし一人しかいなくて。でも、あなたがこれから歌っていくなら、ここで自由になってください。本当の意味で、全ての束縛を解かれて自由になってください。いつでも。どこでも。どんな時でも。これからわたしがあなたの歌声に耳を塞ぐことは、決してないから。
「グノー。アヴェマリア」
背筋をぴんと伸ばし、両手を天に差し上げて。喉をいっぱいに開いた。
『Ave Maria, gratia plena
Dominus tecum
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui, Jesus.
Sancta Maria, Sancta Maria, Maria
ora pro nobis peccatribus,
nunc, et in hora mortis nostrae. Amen』
わたし一人しか聴衆のいない、でもわたしの生涯たった一度の、プリマドンナとしてのステージ。
あれから長いこと歌ってなくて、歌うのに必要な筋肉がどこもかしこもぶったるんでる。三分にも満たない曲なのに、息が切れちゃう。それでも、わたしの全ての想いを乗せて……最後まで歌い切った。
不思議と。涙は一滴も出なかった。きっとさっきのコンサートの時、わたしを縛り付けていた鎖を溶かすのに全部使い切っちゃったんだろう。
差し上げていた両手を下ろして、観客席に向かって深々とお辞儀をする。
ありがとう。もう一度歌わせてくれて。本当に、ありがとう。胸いっぱいの感謝を全ての人たちに捧げたくて、わたしはじっと頭を下げ続けた。
と、突然ホールの客席ドアがばんばんと開いた。
「え? な、なに?」
どどっとなだれ込んできたお客さんが、わあっと歓声をあげながら拍手をし始めた。
「ブラヴォー!」
「すごーい!」
「ぴーっ! ぴぴーっ!」
歓声と拍手と口笛で突如満たされた会場。照れと驚きで、思わずおちゃらけてしまう。
「すんませーん。清らかなマリア様がすんごいがらっぱちになっちゃいましたー。はははー」
どわははははははっ!! 会場が爆笑の渦になった。
観客席に向かってもう一度深々とお辞儀をし、満場の拍手の中をゆっくり袖に下がった。
うん。クリスマスなんだもん。こんなご褒美があるのは本当に嬉しいよね。きっと、わたしがステージに立ったのをナベさんが見てて、音を拾ってホールに流してくれたんだろう。
リドルのマスター、リドルに来てくれてた大勢のお客さん、タカやナベさん。みんな、壊れる寸前だったわたしを心配して、これまでそっと支えてくれた。わたしはまだそれに十分応えられないけど。でも、こうやってお礼が言えるようになった。
助けてくれて、生かしてくれて、本当にありがとうって。
——心から。
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