第9話 深夜に来る
睡眠管理アプリという便利な代物がある。
最新のスマートフォンが内蔵している振動感知センサーなどを利用し寝返りなどを感知し、それらを記録して睡眠の質を計算する物だ。
その男は、最近睡眠不足に悩まされていた。
特段理由と呼べる物に心当たりはない。
ストレスや寝具、病気の類ではないことは確認済みだ。
睡眠時間はたっぷり7時間はとっているし、仕事も順調だった。
家庭はーー独身ではあったが、付き合ったばかりの女性とはなかなかに良い雰囲気で、このまま順調にいけばいずれ結婚を視野に入れた関係になることはななんとなく分かった。
順風満帆なのだ。
なのになぜか朝になると倦怠感が酷く、まったく眠れた気がしない。
事実ここ最近では仕事中にぼんやりとすることも増え、ミスが重なるようになった。
不安になり精神科で診察を受けてみたが、進展はなし。
貰った睡眠導入剤ですっかり朝まで意識は消失するのだが、起きてみればまた酷い疲れが全身を襲っている。
藁にもすがる思いで導入した睡眠管理アプリもどうやら無駄らしく、朝ちゃんと起こしてくれるものの身体を襲う不調までは管理してくれなかった。
ため息混じりにスマートフォンをいじりながら設定を見直す男。
ふと、アプリの中に気になる機能を発見した。
寝言録音機能ーーそれは睡眠中のいびきや寝言を自動的に記録し、夜中に自分がどのような状態になっているのかを確認する為の機能だった。
便利な機能に科学の進歩を感心しながら、男は自動で保存されていた音声データを確認する。
おもしろいもので、寝返りを打つさいに起きる布切れの音や、外でならされた車のクラクション音、かすかな男の寝息などが断続して録音されている。
それらを聞きながら、男は自分が知らない時間の出来事に奇妙な思いを抱きつつ、同時にまた原因不明は分からずかと落胆の色を見せ始める。
だが、もはや聞き慣れてしまった音声に変化が起きる。
不意に音声にざざざとノイズが走り、ナニカがガサガサと動き出す音が入り込んだのだ。
おや?と思い耳を澄ませてその音に聞き入る男。
だが次の瞬間、突如情けない声を上げてスマートフォンを放り投げる。
落ちた衝撃か、それとも別の原因か、音量が最大まで上がったスマートフォンのスピーカーからは絶えず、
ぐるじいぐるじいぐるじいぐるじいぐるじいぐるじいーー
ナニカが繰り返し呟いている声が流れていた……。
………
……
…
「と、そういう経緯があるものなんだ。いま送った音声データは」
「なるほど、それは凄いですね」
スマートフォンに届いたデータ。『秘蔵丸秘音声』と銘打たれたそれを部室で眺めながら、僕は黄昏先輩の言葉に曖昧に頷く。
茶道部とは名ばかりの帰宅部の部屋、二人きりの空間。い草の香りがほんのりと鼻をくすぐる中で唐突に「いいものをあげよう」なんて言うから期待してみたらこれだ。
まぁ十中八九分かっていたんだけど。
僕は指を滑らせて早速その音声データを選択する。
「そうだろう、そうだろう、実に凄いんだ。……って、なんだ竜胆くん。今回はやけに物わかりがよいじゃなーーあっ! なにしてるんだ!? あーっ!」
「デリート完了です。お疲れさまでした先輩」
こういう物は消すに限る。
なぜなら、大抵の場合において先輩が渡してくる物はガチだからだ。
そして先輩はあれで結構適当なところがあって、時として危険な選択と何の気なしにすることがある。
今までの様々な面倒ごとからそれを推測するのは容易だし、先ほど送られてきた音声データがとても良くないものであるということは明らかだ。
万が一データを再生してしまった日には、そう遠くないうちに恐ろしい目に遭うことは間違いないだろう。
もちろん僕も特殊な趣向を持つわけではないので、その様な経験をしたいと望むはずもない。
故にデータは削除するに限る。
先輩はへそを曲げる……が。
「なんてことするんだ君は! せっかく時間かけて送ったのに!」
「むしろそっくりそのままお返しします。先輩はこれを僕に送ってどうするつもりだったんですか? 明らかに良くないものですよね。どうリアクションすれば良かったんです?」
「なんだ、君は幽霊とか信じていなかったんじゃないのかい? まるで何かを察したみたいだなぁ」
「話をはぐらかさないでください。先輩はこれを僕に送って何を企んでいたんですか?」
「うーん……、特に理由はないが、強いて言うならこの感動を共有したかったのかもしれない。なんだかそんな気分になったんだ」
「それはご愁傷様です。残念ながらその感動を共有できる人は世間にそう多くないことをお伝えしておきます」
僕はノーと言える男だ。
特に先輩に対してはしっかりと駄目と伝えておかないと、後でどうなるか分かったものではない。
本当なら彼女の言葉は全部聞いてあげたい。今回も喜んだ振りでもして彼女の機嫌をとったりするのも正解かもしれないが、それによって被る悲劇を考えるとまぁ僕の選択は間違っていないと思う。
上辺だけのおべっかはもっとも先輩が嫌う行為であるというのも、僕の決断を後押しする遠因なのかもしれないが……。
「全く、君はいつもそうだ。もう少し先輩を敬う必要があると思うんだが……」
ぶつぶつ文句を言う先輩に「ほんと子供っぽいんだから」と呆れた感想を抱く。
もちろん口には出さない。そんなことを言った日には彼女の機嫌が斜め急降下することは確実だから。
僕は早速彼女の機嫌をなおすために冷蔵庫からあらかじめ用意しておいたアイスクリームを取りに席を立つ。
が、ふとスマホの画面に表示された通知が目に留まる。
それは音声データの送付が始まったことを知らせるものだ。
タイトルは『秘蔵丸秘音声』。
つい先ほど消した嫌な予感のするデータだ。
……先輩め、性懲りもなく。
「ちょっと先輩! そう何度もまた変なファイルを送ってこないでください!」
少々悪ふざけがすぎる先輩に、若干機嫌を損ねつつ文句を言う。
子供っぽいところも彼女の魅力だが、しつこいのはあまり好きではない。
ここは強めに注意をしたほうが良いだろう。
だが声を張り上げると同時に向けた視線に映るのは、ぽかんとした表情でこちらを見つめる先輩だった。
「ん? 私は何も送ってないぞ?」
「え? ……あれ?」
ふてくされる先輩は畳の上で体躯座りだ。
手に持っていると思われたはずのスマートフォンはテーブルの上に放り出されている。
木製の丸テーブルと先輩はそこそこ距離が離れているので、僕に気づかれず触る余裕などなかったと思う。
つまり僕に音声データを送ったのは彼女ではない……。
慌てて自分のスマートフォン、その画面を確認する。
先ほど消したはずの音声、嫌な予感がするそのデータの送り主。
名前が書かれているはずの場所には、文字化けしたような単語の羅列が並ぶまったく身に覚えのない相手が表示されていた。
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