第2話変わる世界
もう何度目になるか分からない七月十日。
起きるのがつらい。なんせ俺の中では昨日ゆかりが、
死んだばかりなのだ。気持ちよく目覚めるなんて出来る訳がない。
ゆかりの死というものは何度経験しても慣れるということはなかった。
それでもどうにかして体を起こし、ベッドから立ち上がる。そして洗面所へ。
果音が先に顔を洗っていたので、先に朝食を食べることにする。
しかし、食は進まない。無理矢理のどに流し込む。
それから、顔を洗って家を出た。
今日からまた同じ二ヶ月が始まる。気合いを入れなおす。
学校へ向かって歩いていると、後ろから挨拶をされた。
この挨拶も何度目になるのだろうか。
「よーっす!」
「おはよー!」
誠とゆかりだ。ゆかりが今回もちゃんと生きている。
俺はそのことに安堵しつつ、いつものように適当に挨拶をする。
「あとちょうど一週間で夏休みだな! すげー楽しみだよ。なあ、
今日の放課後、いつもの店で夏休みの予定考えねーか?」
「それいいね! 私さんせーい!」
「ああ、そうだな。俺も賛成」
と誠の提案に賛同する。
「今年の夏休みもたくさん一緒に遊ぼうね!」
ゆかりが満面の笑みでそういった。
俺はゆかりのその笑顔を見て、この閉じた世界を守ろうと
改めて強く思った。
学校へ着き、授業が始まる。
俺は当然ながら、これから夏休みまでの一週間にある授業は、
全て寝るつもりだ。
今まで何度も同じ授業を受けてきたのだ。寝るぐらいのことは許されるだろう。
そして俺は眠り続け、あっという間に放課後になった。
朝の約束通り、俺たち三人はいつものファーストフード店へ向かった
別に腹は減ってなかったのでドリンクだけ注文する。
誠は昼にがっつりカツ丼を学食で食べていたのに、
ここでもハンバーガーのセットを注文する。よく食う奴だな。
ゆかりはドリンクとパイを注文していた。甘いものが好きなあたり、
やっぱり女の子といったところだ。
三人とも注文を終え、いつもの席へ座る。店の奥にある窓際の席がいつもの
俺たちの指定席になっている。
席に座るなり、誠ははしゃいだ様子で話し始めた。
「さーて、今年の夏休みの予定を決める会議を始めます! お前ら、準備は
いいかー!」
誠は基本的にいつもテンションが高い。そうやっていつも、
テンションに身を任せ物事を決めていく。
いつだってそうだ。そうしてそれに俺もゆかりもついていく。
これが俺たち三人のいつものやり方。
「おー! 準備オッケー!」
とゆかり。
「まず、なんといっても外せないのは何でしょう!? はい優太!
答えてみなさい!」
「うん、俺たちの場合はまず補習かな」
「そういう悲しいこというなよ! 楽しい夏休みの話を
してんだぞ!? 補習なんて些細なことはどうでもいいんだよ!
もっと楽しいやつ! ということで、まずは海! 海だよ!」
「おお! 海! 青春だね! 今年は私水着買いにいきたいなー!」
「水着! そう! それだよ! それ! みんなで水着買いに
いこうぜ!」
「大賛成! 海! 水着!」
ゆかりが目をきらきらと輝かせながらはしゃいでいる。
こういうゆかりを見るのは大好きだ。
無邪気で、素直に可愛いと思える。
「つーわけで、まず海決定な! はい次! 優太、夏といったら?」
「うーん、夏祭りと花火とか?」
「そう! それだな! 祭りに浴衣に花火! 最高だな!」
「うん! 行きたいね! 私も今年は浴衣着るつもりだよ!」
「そうか! じゃあ余計に楽しみだな! ゆかりの浴衣かー。
今からわくわくするぜ」
確かに誠の言うとおりわくわくする。ゆかりの浴衣姿は何度見ても
飽きない。
こうして夏休みの計画は着々と決まっていった。
夏休みの予定に夢中になっていると、もう時間は七時を回っていた。
そのため、今日はこの辺でお開きということになり、
三人で店を出て、家路につく。
それから一週間はあっという間だった。それもそのはずだ。
授業はひたすら寝てたし、当然新しい面白いことなんて起きないのだから。
そして夏休みへ。
夏休みに入ったからといってすぐにみんながみんな、家で休めると
いう訳ではない。
俺と誠のような補習組がいるのだ。なぜ補習を受けるのかというと、
夏休み前の期末試験の結果が思わしくなかったから。
補習は終業式の次の日、つまり、夏休み初日から始まる。
期間は一週間。補習ではさすがに寝ていると怒られるので、
寝て過ごすことは出来ない。これがつらい。
学校へ到着すると、後から誠が気だるそうに登校してきた。
いつも元気な誠でも、勉強絡みになると、途端にテンションが下がる。
「なあ、なんで俺たち夏休みだっていうのに、学校きてるんだ?
部活やってる訳でもねーのに……」
そう呟いて自分の席へ向かう誠。まあ、一週間後には、
これでもかというぐらいに元気になっているだろう。
補習での俺は完璧だった。どこの問題を指されても即答できる。
いったいこの補習を何度受けたと思っているんだ。
誠もなんだかんだいってても、指されると即答していた。
なんだ、存外真面目じゃないかと思う。
それから一週間、退屈な毎日がやっと終わりを告げた。
「よっしゃああああああああ!」
誠のテンションも元に戻っている。
俺は家に帰り、自分の部屋で本を読んでいた。この閉じた世界で
見つけた、新しい趣味が読書だ。テレビなどはもちろん、
同じ内容しか放送しないのだからすぐに飽きた。
しかし、本であれば同じ物を買わなければ、当然、
内容が同じということもない。俺はいつも夏休みになると、
新しい本を買ったり、近所の図書館にいって時間を潰していた。
そんなとき、携帯が鳴る。ゆかりからのメールだった。
今度みんなで水着を買いに行こうという内容だった。
俺は分かったという内容を書いてメールを返す。
結局、三日後に買い物にいくことになった。
俺はその話を果音にもしてやった。一人だけ留守番じゃ可哀想だからな。
すると、
「うんうん! いくいく! 買い物も海も! やったー!
すっごく楽しみー! 最近みんなに会ってないし!」
と嬉しそうだ。果音は素直だから、微笑ましく思う。
そして三日後、最寄りの駅から電車で十分ほどの市街地にある、
ショッピングモールへと四人で向かう。
集合場所は最寄りの駅だったのだが、そのときも果音がはしゃいでいた。
誠とゆかりに会ったのが久しぶりだったからだ。
「お姉ちゃーん! 久しぶりだねっ! ずっと会えなくて、
果音寂しかったよ!」
果音はゆかりの事をお姉ちゃんと呼ぶ。小さい頃から一緒だったからだ。
実際の歳は一つしか離れていないのだが、果音が子供っぽいせいか、
実際以上に歳が離れているように見える。
「誠くんも元気にしてたー? お兄ちゃんと一緒に補習大変だったね!」
果音は誠のことをお兄ちゃんとは呼ばない。それは、俺という本物の
兄がいるからだろう。
「おうよ! 果音も元気にしてたか? 今日は俺が果音に似合う水着を
ばっちり探してやるからな! まかせとけよ!」
「うん、元気ー! まかせた! 可愛いの探してね」
こんな感じで普通の中の良い友達といったところだ。
市街地の駅に着き、俺たち四人はショッピングモールへ足を運んだ。
最近はどこの地方にも大型のショッピングモールがつくられている。
ここもその内の一つだ。
早速水着が売っている店を探す。どうやら二階のフロアにあるようだ。
果音が両手をぶんぶんと振りながら先頭をきって歩く。
よほど楽しいのだろう。
水着の店に着くと、誠のテンションが爆発した。
「よおおおおおおおおおおし! いいの探すぞおおおおお!」
それにつられ果音もテンションをさらに上げる。
「おおおおおおおおおおお!」
ゆかりはにこにこと微笑んでいた。
「おい、果音! こんなのどうだ?」
誠が果音の水着を選んできたらしい。
ん? いつも誠はこの水着を選んできていたっけ?
少し違和感がある。
もっと違う雰囲気の水着だったような気がする。
もしかすると些細な世界の変化なのか、俺の思い違いなのか。
「可愛い! でももっと可愛いのないかな!?」
「よーし、まかせろ! どんどん探してくるぜ!」
二人でなにやら盛り上がっている。果音は誠にまかせて、
俺はゆかりと一緒に水着を見る。
「ねえねえ、見て。これ横に紐のリボンがついてる!」
「本当だ。可愛い水着だね」
「でもこれ解けないのかなあ……あ、やっぱり解けちゃう。
これじゃちょっと恥ずかしいなあ」
俺は解けたところをつい妄想してしまう。
顔に出ないよう気をつけなければ。
ゆかりは結局、胸のところにふわふわのレースのような
ものがついた、いかにも女の子らしい可愛い水着を選んだ。
誠も太鼓判を押していたし、かなり可愛い。
果音の方はというと、腰にパレオのついた、露出度が少ない
水着を選んでいた。
誠ナイスだ。兄としては、妹の露出は少なめがいいからな。
水着を買い終えると、他の服屋も見たいと、ゆかりも果音もいうので、
俺と誠はそれに付き合うこにした。
しかし、女の買い物っていうのは長い。
男は買いたいもの買ったらすぐ終わりだからな。
それから二、三時間が立ち、ショッピングモールから見る外の景色は
暗くなり始めていた。
「なあ、もうこんな時間だし、ついでに飯でも食っていかねーか?」
誠が提案する。
「私もお腹空いたし賛成かな!」
「果音もお腹ぺこぺこー!」
「よーし、じゃあ、あそこにあるレストランにしようぜ」
そこはよくあるファミレスみたいな店だった。
値段も手頃だし、特に文句もないので賛成する。
レストランでは誠が今年の夏の予定について果音に話していた。
その話しを聞く度に目を輝かせる果音。どうやら、
夏祭りも一緒にいくことになったらしい。
それから海に行く具体的な日も決まった。今日から数日後の
七月の末だ。三人とも今から楽しみで仕方がないといった様子で
はしゃいでいる。
俺もそれに合わせる。別に楽しみじゃない訳ではない。
ただ、どうしても、何度も同じ事を繰り返していれば、
新鮮味もなくなってきてしまう。
食事も終わり、電車に乗って、家の最寄り駅に着く。
そこでさよならの挨拶をするとき、ゆかりが、
「夏休み本当に楽しいね。ずっと続けばいいのにね」
といった。
俺は、「ああ」とだけ返した。
俺も心からそう思っている。ずっとこの夏が続けばいいのに。
いや、続けなければいけないのだと。
そして数日後、今日は海へ行く日だ。
待ち合わせはいつもの駅。海へは電車で30分ぐらいのところにある。
忘れ物がないようにしっかり確認をしてから、果音と一緒に家を出る。
この日は快晴で、まさに夏真っ盛りという具合だった。
空はどこまでも大きく、バカでかい入道雲が夏らしさをさらに
演出していた。太陽もこの日を待っていたかのように、光を惜しみなく
吐き出している。朝だというのにこの暑さ。海に行くには今日以上の
日はそうそうないだろう。
駅に着くと、すでに誠とゆかりがいた。
誠は何やら大きなクーラーボックスを肩にぶら下げている。
「飲みもの担当は俺だからな! 後はお楽しみが入ってる!」
中身は当然知っている。飲みものと、「お楽しみ」っていうのは
スイカのことだ。みんなで海の定番スイカ割りをやろうって魂胆。
だが、実際にはスイカは入っていない。誠が家の冷蔵庫に忘れて
くるのだ。そして誠のテンションが一気に下るというのが決まっている。
ゆかりは青色のワンピースに麦わら帽子をかぶっていた。
いかにも夏の少女といった感じ。とても似合っていると思う。
そして鞄。きっと水着やタオルなどが入っているのだろう。
俺たちは電車に乗り、海へと向かった。
磯の香りがする。砂浜は灼熱のような熱さだ。
水平線が見える。海も空もどこまでも青いから、境界があいまいだ。
海に着くと、すでに大勢の人たちが泳いでいた。
急いで、場所を確保しなければならない。
俺と誠は目を凝らし、空いているスペースを探した。
海の家からは少し距離があるが、空いているところがあった。
早速、俺が持ってきたパラソルを突き立てる。
そしてビニールのシートを敷いた。
先に、ゆかりと果音を更衣室へと向かわせる。
レディーファーストってやつだ。
しばらくすると、二人が水着を着て戻ってくる。
二人とも少し気恥ずかしそうにしている。
「おお」
と感嘆を漏らす誠。
気持ちはよく分かる。
俺も安直だが、「似合ってるよ」といった。
それから俺たちはその場で服を脱ぎ出す。男なんて
みんな始めから服の下に水着を着てくるもんだ。
果音は鞄から浮き輪や空気で膨らませるボールを取り出していた。
泳げない訳ではなく、単純に浮き輪が好きなんだそうだ。
果音は俺と違って運動神経がいい。
というか、この四人の中で運動神経が普通なのは俺だけだ。
誠もゆかりも運動神経がよく、飲み込みも早い。
四人で一斉に海へ走っていく。海の水は冷たく、
最高に気持ちがよかった。
誠はクロールで一気に沖まで向かって泳いでいく。
開幕から全力だ。残された俺たち三人は、優雅に泳いでいた。
俺は平泳ぎですいすいとのんびり。
果音は浮き輪にすっぽりとはまってぷかぷかと。
ゆかりは果音の浮き輪を押しながら泳いでいた。
こうして見ると、本当の姉妹みたいだ。
しかも美少女姉妹。
ゆかりはいわずもがな、整った顔をしていて美少女といって差し支えがない。
果音も、身内の贔屓目を差し引いても、可愛い部類に入るんじゃないかと思う。
実際、よく学校の連中に告白されているらしい。
そういえば、ゆかりも結構告白されているって聞いた事があるけど、
彼氏がいたことなんてないな。
どうして断り続けているのだろうか。
もしかして、誰かと付き合ってしまったら、俺や誠と遊べなくなるからとか
考えているのか、それとも好きな奴でもいるのかな。
そのうち誠が戻ってきた。今度は果音にバタフライを教えるらしい。
さすがにバタフライはそう簡単には出来ないと思うけど。
でも果音はノリノリだ。
「いえーい! バタフラーイ!」
果音の浮き輪を俺が預かる。
そんな果音の様子を見てゆかりが優しげに微笑んでいる。
俺もその顔を見て思わず微笑んだ。
そろそろお昼の時間だ。お腹も空いてきた。俺よりたくさんはしゃいでいた
誠と果音はきっともうぺこぺこだろう。
そんな事を思っていると、
「おーい! そろそろ飯にしよーぜ」
と誠の声が飛んできた。
お昼は海の家で食べることになっていた。
俺はラーメンを、誠はカレーを、ゆかりと果音は焼そばを
それぞれ注文した。
それにしても、海の家の料理というものはどうして
こんなにも具が少ないのに高いのか。
ぺらぺらのチャーシュー、ほとんど肉も野菜も入っていない
カレーと焼そば。
まあ、これも海の風物詩の一つといってもいいのかもしれないな。
お昼を食べ、パラソルの日陰の中で食後の休憩をしていると、
誠が、「食後のデザートなんてどうだ?」といい出した。
スイカのことだろう。
しかし、スイカは誠の家の冷蔵庫の中のはずだ。
そしてそれに誠が気づき、みんなのテンションが
多少下がるというのが、いつもの約束だ。
約束だったはずだ。
それなのに、誠はクーラーボックスからスイカを取り出した。
え? 俺は少し驚いた。今まで毎回忘れてきているはずなのに。
水着のときもそうだが、世界が少し変わってきているのか?
スイカでテンションが上がっているみんなとは裏腹に、
俺の心はいい知れぬ不安に襲われていた。
世界が変わる、それは俺にとってとても恐ろしいことだ。
もしかしたら、この閉じた世界が終わってしまうかもしれないのだから。
この世界はどんなことがきっかけで終わるか分からない。
そもそも、なぜ世界が閉じたのかすら全く知らないのだ。
「ん? どうした? そんなにスイカが嬉しかったのか?」
と誠が声をかけてくる。
俺が不安で固まっていたからだろう。
「え? ああ。ちょっと誠が気のきいたもの持ってくるから、
少し驚いちゃってさ」
俺は狼狽しながらいった。
「俺だってたまにはサプライズとかするんだぜ」
そしてスイカ割りが行われることになった。
スイカを割る木刀は海の家の人が貸してくれた。
料理はいまいちだが、サービスはいいようだ。
まずは果音がやることになった。
「果音がいっちばーん!」とうるさかったからそうなった。
果音に目隠しをし、その場でグルグルと体を回す。
そしてふらふらになったところでスタートだ。
「果音ちゃん、右ー!」
「果音! そのまままっすぐだ!」
ゆかりと誠の声を頼りにスイカを目指す果音。
そして、握りしめられた木刀が振り下ろされた。
見事、木刀がスイカにヒットした。
さすが運動神経がいいだけのことはある。
スイカ割りは一人目で終わってしまった。
それから、割れたスイカをみんなで分けて食べた。
味はほとんど覚えていない。
世界が変わった事に対する不安でそれどころではなかった。
海からの帰り道もずっとそのことを考えていた。
世界は次もまた同じように繰り返してくれるのだろうか。
変わらずにいてくれるのだろうか。
ゆかりといつまでも一緒にいさせてくれるのだろうか。
*
海から帰ってきてからの数日は平穏な日々だった。
何も起こらず、何も変わらず。そんな毎日。
俺は趣味になっていた読書をして過ごした。
夏休みに入る前に、数冊ほど、新しい本を買っていたから、
それを読んだ。
しかし、もう本を読むことに馴れていたせいか、すぐに
読みきってしまう。
新しい本を買うのにも金は必要だ。
小遣いは心もとない。
俺は、近所の図書館にいくことにした。
家を出て十五分ぐらいの場所に図書館はある。
ここ数年に建てられたもので、まだ真新しい。
今風のデザインで曲線的な形が目立つ。
俺は図書館に入り、適当に面白そうな本を探す。
図書館の中は冷房がしっかり効いていて涼しい。
しかも、利用者はまばらで、静か。
本を読む環境としてはこれ以上にないだろう。
俺は適当な小説を手に取り、席に座って読み始めた。
こうしているときが一番落ち着く。何も考えずに本の物語に没頭できるから。
世界の事もゆかりの死も何も考えずに済む。
なにもしていないと、
いつの間にかどこからか不安が心に忍び込んでくる。
不安はいつも、俺を窺っていて、隙を見つけるとすぐに襲ってきた。
不安って奴はいつでもそうだ。人の心にいかに侵入するか、
そんなことばかり考えているのだろう。
一度不安に襲われれば、振り払うのは容易ではない。
一つの不安は別のもう一つの不安を呼び、連鎖していく。
そして、俺は不安の中にどんどんと落ちていく。蝕まれる。
小説を読み始めて一時間ほどたった頃だろうか、突然、
「優太?」と声をかけられた。
聞き慣れた声に顔を上げる。
そこにいたのはゆかりだった。
「優太が図書館で読書なんて意外だね。本読むの好きだったっけ?」
「最近読書がマイブームなんだよ。本読んでると落ち着くからさ。
ゆかりも本読みにきたの?」
「たしかに本読んでるときって落ち着くよね。本の中の世界に
入っていけるっていうか。心だけ別の世界にいくって感じかな。
今自分がいる世界と離れられるよね。だから私も本好きだよ。
嫌な事があったりしたら、自分の好きな本読むんだ。
そうすると、もう今いる嫌な世界とはバイバイできる。
でも、今日は本読みにきたんじゃなくて、宿題しにきたんだ。
いっぱい量があるからコツコツやらないとね」
「いいたい事よく分かるよ。俺も嫌な世界にバイバイしたいんだ。
宿題ね。ゆかりは相変わらずしっかりもんだな」
「なにか嫌なことでもあったの?」
「いや、別に」
今までと世界が変わってきて不安なんだ、なんて普通の人間が聞いたら
意味の分からないこといえる訳がない。
頭がおかしくなったのかと思われるだろう。
「じゃあ、本ばっかり読んでないで宿題もやったら?」
「俺は宿題があるこの世界にバイバイしたいから本を読むことにするよ」
「まったくもう。いつもしょうがないんだから」
ゆかりはそう言うと、俺の隣に座り宿題を始めた。
俺は読書に戻る。
俺が読書をし、その隣でゆかりが宿題をする。
そんな穏やかな日がしばらく続いた。ゆかりの横で読書をすると心が和んだ。
ゆかりと一緒にいたいと思う気持ちは、夏を繰り返すほどに
強くなっているように思う。
家のベッドでうたた寝をしていると、誠からメールがきた。
夏祭りの事についてだ。集合は俺の家の前とのこと。
了解とメールを返し、惰眠の続きに入る。
夏祭りの当日、果音は母親に浴衣を着つけてもらっていた。
よく似合っていると思う。自分の妹ながら可愛い。
頭を撫でてやった。「いきなりなにー!」と抵抗する果音。
誠もゆかりももう家の前にいると連絡があったので、玄関を開け外に出る。
ゆかりの浴衣姿もとても似合っていた。なんだか色っぽい。
自分の浴衣姿に恥ずかしがっているところがまた可愛い。
俺たちは祭りの会場である、近所の神社へと向かう。
神社の境内は屋台がひしめき合っていた。狭い境内によくもまあ、
ここまで店があるもんだ。
家族連れや恋人たちで祭りは賑わっている。
行き交う人たちはみんな幸せそうな顔をしていた。
その中に俺たち四人も入っていく。
屋台から様々ないい匂いがしてきた。焼そばだったり、たこ焼きだったり、
広島焼きだったり。
各屋台を周り、それぞれが好きなものを買っていく。
みんなそれぞれ手にはたくさんの食べものを持っていた。
それを持って、神社の石段へと向かい、そこに座った。
神社はちょっとした丘の上にあり、ここからだと打ち上げ花火が綺麗に
見えるのだ。
「花火楽しみだね」とゆかりが呟いた。
「花火ってさ、打ち上がって大きく花みたいに広がったときも、
もちろん綺麗なんだけど、散っていくときもすごく綺麗。
なんの未練もないように儚く散っていってさ。私もそんなふうに
散りたいな」
ゆかりの言葉にどきっとした。今までゆかりはそんな事を口にしなかったからだ。
会話の内容が変わるぐらいは些細なことだ。
でも、「散る」っていう言葉が胸に引っかかった。
これからあと二週間ぐらいで儚く散ってしまう女の子。
花火の打ち上げが始まった。たしかに、ゆかりのいう通り、なんの未練も
ないかのように花火は綺麗に散っていった。
こうして、夏祭りは無事に終わったのだが、このときの俺はまだ知らなかった。
この世界が大きく変わり、閉じた世界が終わりに向かっているということに。
*
夏祭りも終わり、八月の中旬もすぎた頃、誠からみんなで夏休みの宿題を
一緒にやろうという連絡がきた。
場所は俺の家。数日間続けてやろうってことだった。
俺も宿題には全然手をつけてないから丁度いい。
そして、初日を迎えた。
「お邪魔しまーっす」
「お邪魔します」
と、誠とゆかりがやってきた。
「優太、誠、一緒に宿題をやるのはいいんだけど、少しはやってる
んでしょうね?」
ゆかりが俺たちを睨みつけながらいう。
「心の準備はしてきた!」と誠。
俺は正座をし無言で俯く。
「まったくもう! 宿題はこつこつやるもんなんだよ!
本当に二人ともしょうがないんだから」
ゆかりはそういうものの、しっかり俺たちの宿題を見てくれる。
俺たちはそれぞれの宿題を広げ、勉強を始める。
量は多いが、俺は何度もやっているので、すらすらと解ける。
誠はそうはいかないだろうと、横目で見てみると、
なんだか順調そうである。
こいつ、補習のときもそうだったけど、もしかして割とちゃんと
勉強をしているのか?すごく意外だ。
宿題を始めてしばらくたった頃、誠がそろそろ一旦休憩をしようと
いい出した。三人で駄弁る。
これまでいった海や夏祭りの話しをしていたのだが、なんだか違和感を
感じた。なんだろう?
よく様子を見て考える。
そうすると少し分かってきた。誠とゆかりが少しいつもと違うのだ。
なんというか、よそよそしい。距離もいつもより心なしか離れている
ように見える。なにかあったのだろうか。それとも考え過ぎなだけか。
結局違和感の原因は分からなかったので、そのまま宿題に手を戻した。
みんなの宿題は四日ほどで終わった。ゆかりはそもそもはとんど最初から
終わっていたのだけれども。
しかし、あの量が四日で終わったというのもすごい。
俺も誠も、それほどまでに順調だったのだ。
「じゃあ次に会うのは始業式だな。それまで元気でなー!」
「うん、二人とも元気でね」
そういって、帰っていった。始業式まで、あと約一週間。
つまり、ゆかりが死ぬまで約一週間だ。
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