人形の興味

 ――私は普段、どのようにして自分の歯を磨いているのだろう。


 口を目一杯に広げたリオネの前で、私はそんなことを考えていた。


「ゆっくりと磨くから、痛かったりしたら手を挙げるんだよ?」

「ふぁ……」


 口を開いたまま「はい」と返事しようとすれば、当然そんな発音になってしまう。この融通の利かなさが、どうにも可愛らしい。


 慎重に子供用の歯ブラシをリオネの口に差し入れる。自分の歯磨きの手順を改めて思い出しつつ、左の奥歯から磨いていく。


 今、私たちがいる場所は、我が家の洗面所である。

 時刻は午後七時半ほど。夕食のカレーを食べ終えてから三十分ほどが経っていた。


 久しぶりに自分で作ったカレーの味は、市販のルゥの箱に書かれているとおりに作ったのだから当然とも言えるが、おいしかった。リオネと一緒に食べたからかもしれない。


 しかし、問題もあった。


 夕食は私一人で作ったのだが、その間、リオネが何をしていたかというと、リビングのソファで、ただじっと座っていた。

 暇つぶしに本でも読ませようにも、生憎、私は子供が楽しめそうな本は一冊も持っていない。そもそも、リオネがどの程度の読解力を持っているかも不明だし、まさか千ページを超える長編ミステリーを読ませるわけにもいかない。

 では、テレビの子供番組でも見せようか、と思っても、我が家にあるのはアンテナを繋げられないパソコン用のディスプレイだけで、テレビは一台もない。


 仕方なく、リビングでじっと待っていてもらったのだが、何も言わずに一人ポツンとソファの上に佇むリオネの姿に、どうしようもない申し訳なさを感じた。


 私の頭の中にある『リオネ用の買い物リスト』に、衣服と食器に続いて、子供でも楽しめる本、という項目が書き加えられたのだった。


「……はい、終わり。綺麗に磨けたよ。じゃあ、さっき私がしたみたいに、うがいをしてごらん」

「はい」


 洗面台に向かってうがいをするとき、リオネは少し背伸びをしていた。

 どうやら、リオネにとっては洗面台が少し高すぎるようだ。明日、踏み台になる物を買ってこよう。

 そろそろ買い物リストをメモ用紙に書き出したほうがよさそうだ。


「うん。上手にできたね。ちょっと口の中を見せてくれる?」


 リオネの小さな口内を、歯磨き粉が残っていないか確認する。


 歯を磨いている間にも思ったが、やはり人間の口内と変わらないように見える。唾液も分泌されているようだ。これも疑似体液という物なのだろうか。


 口の周りに残った歯磨き粉をタオルで拭いてやると、リオネは少し、くすぐったそうな顔をしていた。


 さて、夕食を食べ、歯を磨いてしまえば、あとは特にやることがない。食器洗いは先程済ませたし、昼間にシャワーを浴びたばかりでは風呂に入ろうという気も起きなかった。

 普段、私一人であれば、適当に読書するなどして就寝までの時間を潰すのだが、今夜はリオネがいる。彼女を放置して、私だけ小説の世界へと没入してしまうわけにはいかないだろう。


 しばし考え、私はリオネの手を引き、二階の書斎へと上がった。


 パソコンデスクの椅子に座り、膝の上にリオネを座らせ、インターネット上の動画をいくつか見せてみることにした。無論、子供に見せても問題のない、おもに可愛い動物が出てくる動画だ。


 画面に映し出される動物について、私が簡単に説明してやると、リオネは時々質問を返してくることがあった。


「リオネ。これがなんの動物か、わかるかな?」

「はい。これは、猫です」

「うん。猫の中でも、ロシアンブルーと呼ばれる種類の猫だね」


 私がそう言うと、リオネは少し考えるような間をおいて、


「ブルーとは、青色のことですか?」

「そうだよ」

「でも、この猫は青色ではありません。灰色をしています。何故、ブルーと呼ばれているのですか?」


 そんな風に訊ねてきた。


 昼間、外出したとき、リオネは外の世界に積極的な興味を抱いているようには見えなかった。電線にとまった小鳥を見ても、風に揺れる草木を見ても、私にそれらについて何事かを質問してくるようなことはなかった。


 だが、もしかすると、それは私が話しかけなかったせいかもしれない。


 本当は、小鳥にも、草木にも、すれ違う人々にも、リオネは子供らしい興味や好奇心を抱いていて、私が「何か気になるものはあるかな?」とでも声をかけていれば、疑問や質問を素直に口にしていたのかもしれない。


 私は今日、リオネの『ご主人様』になった。

 人形にとっての『ご主人様』とは、掛け値なしに、世界の全てなのだ。


 リオネが、もっと人間らしく、感情豊かに、屈託なく成長していくためには、私がそれを促していかなくてはならないのだと、今さらながらに気づかされた。


「……リオネ」


 私が呼びかけると、リオネが振り向いて私を見上げた。


「お話ししよう。これから、もっと沢山」


 リオネは円らな瞳でじっと私の顔を見つめながら、


「はい」


 と言った。

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