20 噂
早めの朝食を部屋で摂り、一磨の車で県警本部まで送ってもらった葵を待ち受けていたのは、横浜市内全区の住民の、紙ベースのデータの山だった。
「おはよう葵」
大きな溜め息をついている葵に、聖子が挨拶の言葉をかけた。相変わらず露出度の高い女装ぶりだ。
「おはよう聖子。昨日はゴメンね」
葵は非番が1日ずれたことに対し、陳謝した。
「川上さんから聞いたわよ葵。昨日は神門課長とどこ行ってたの」
「どこって、昨日の中華街の現場と、サロン·デュ·コヤマとサイゼリヤよ」
「プッ!サイゼリヤって何」
聖子は思わず吹き出した。そして腹を抱え大笑いしながらこう付け加えた。
「あははははは!菱峰グループの令嬢が行くようなとこじゃないでしょ!」
そのセリフに少しムッとしながら、
「関係ないわよ!私サイゼリヤ大好きやもん。安かし、ことふと食べらるっし、がばい美味かし」
と葵は九州弁を交えながら答えた。葵の中では何故か〈イタリアンディナー=サイゼリヤ〉という等式が成り立っているのだ。
「僕もサイゼリヤ好きだよ。フォカッチャが美味しいんだよ。ね、菱峰君」
2人の会話に神門が加わってきた。
「課長おはようございます!昨日はごちそうさまでした!」
葵は昨日のお礼を言った。
「ええーっ!?葵ってば課長に奢ってもらったのー!?」
「ああ。昨日は僕が無理言って菱峰君に付き合ってもらったからね」
「ええーっ!?葵にじゃなくって私に無理言ってくださいよー課長!!」
体をクネクネさせながら駄々をこねる聖子に対し、神門は
「じゃあ無理言うよ。昨日逮捕した鈴村純代の取り調べを頼む。男の刑事には喋らないけど、伊藤君になら喋りそうだからね、彼女」
と申し付けた。
「えええええ……。それなら葵がいるじゃないですかぁ」
「菱峰君には別件の捜査をお願いしてるんだ。あと住民の絞り込みも君にお願いするよ」
「えええええ……」
「僕が君のこと見込んでるから頼んでるんだけどな」
神門はキラーワードを投げかけた。聖子の両肩が微かにピクッと動いた。
「は、はい課長!私頑張ります!!」
嬉々とした表情で踵を返し、スキップしながら取調室に向かうドラァグクイーンがいた。その様子を見ながら
「罪作りですね、課長……」
と、神門にだけ聞こえるように葵が口走った。それに対し、
「まあそう言わないでくれたまえよ。さ、僕達も出掛けるよ菱峰君」
神門は葵にそう声をかけ、ブリーフケースを持って足早に1課を出た。
「あ、待ってください課長!」
葵も慌て気味に神門の後を追いかけた。
一方で、検察庁にいる筈のあの男の姿がなかった。
洸二は、昨夜のショックが元か定かではないが、この日は39度超の高熱を出して自室で寝込んでいた。検察事務官の武末と入江は2人で
「深谷検事って、あの警部補の彼女にフラれたらしいよ」
と、事実ではあるが勝手に庁舎内で噂を流していた。
そんな中で、神門と葵が検察庁を訪れた。昨日発生した殺人未遂事件の指揮官である洸二に、これまでの捜査の報告を行うためだ。警官は飽くまでも検察官の部下でしかない。容疑者の送検含め、打ち合わせをする予定であった。
しかし、彼らの上司は欠勤していた。
「どうしましょうか課長。深谷検事いませんよ」
葵は半ば呆れた様子で神門に尋ねた。
「仕方ないな。捜査に戻るか」
神門は表情を変えることなく、葵にそう応えた。
すると、葵の携帯電話がワルキューレを奏で出した。表示された名前を見て、一層険しい顔になり、
「課長すみません。代わりに出ていただけますか?」
と神門に願い出た。
「いいけど、どうしたんだい?」
様子がおかしい葵を見て神門は訊き返した。しかし、待受に表示された名前を見て、
「ああなるほど。わかった。要件聞いとくよ」
と、納得した様子で応えた。
「すみませんお願いします」
深々とお辞儀をして、葵は電話を神門に渡した。神門は通話ボタンを押した。
「はい」
『誰だお前!?』
「神門です」
『な、何であなたが菱峰の電話に出てるんですか!?』
「理由を話す義務はないと思いますが」
『菱峰に代わってください!』
それを聞いて、神門は葵に身振りで代わるか尋ねた。勿論葵の答えはノーだった。言葉を発することもなく、首を何回も横に振った。神門は右手で、オーケーサインを無言で葵に出し、
「出たくないそうです」
と返答した。
洸二は当然納得いかないため、
『あなたと菱峰、どういう関係なんですか!?』
と神門に電話口で詰め寄った。
「上司と部下ですよ」
神門は間髪を入れずそう答えた。やはり納得いかない洸二は更に食いかかった。
『それ以上に何かある筈だ!でしょう、神門課長!?』
しつこい洸二に半ば呆れながらも、神門はこう返した。
「それをあなたに話す義務もないと思いますよ」
ベッドで横になっていた洸二は、居ても立ってもいられなくなったのか、重い体を起こして神門に
『あなたなんじゃないですか、葵が今好きな男って!?』
と、精一杯の力を振り絞って語気を強めて訊いた。神門はひとつ大きな溜め息を吐いて、
「私なら兎も角、彼女に至ってはそれはないと思いますよ。残念な話ですが」
と、飽くまで冷静沈着に返事した。そして
「ご加療中すみませんが、明日改めて捜査の件で参りますので、ご出勤お願いします。お大事に」
と終話の挨拶を行った。
『ちょ、待ってくださ……』
と言葉をかけかけた洸二を遮って、神門は切電のボタンを押した。
「何だったんですか、深谷検事?」
少し離れた場所にいた葵が電話の内容を訊ねた。
「うん、明日は何とか出勤するから改めてくれ、だって」
神門は電話を葵に返しながら、虚偽の言伝てを教えた。
「じゃあ誰なんだよ、葵の好きな男って……」
洸二は高熱に浮かされながら、頭痛を更に悪化させたのだった。
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