19 停滞

 イタリアンディナーを鱈腹平らげ、川崎駅の電車内で神門と別れた葵は、そのまま自宅最寄りの駅まで帰ってきた。駅前にある「ノワール」に立ち寄り、お気に入りのブルマンNo.1をカウンター席で嗜んでいた。最高級品なのでまさに清水の舞台なのだが、給料が出た直後に月1ペースで飲むのが、葵にとっては自分へのご褒美であり、至福の時であった。

「葵ちゃん、新しいブレンド作ってみたけど、試してくれるかい?」

マスターが淹れたての1杯を差し出した。

「喜んでー!」

葵は嬉々として快諾した。

 葵は小学6年の頃からコーヒーをブラックで飲んでいた。中学3年時に1度だけ砂糖入りのコーヒーを試しに飲んでみたら、その後激しい腹痛に襲われたため、ブラックでしか飲めないのだ。そのためか、コーヒーに関しては人一倍舌が肥えていた。適切な評価を出すので、マスターが新作の試飲を毎回必ず葵に頼んでいたのだ。

 因みにブレンドの内容は、コロンビア·グアテマラ·ブラジルの同量ずつのブレンドだった。

「ねえマスター。このコロンビアって、エメラルドマウンテン使ってないですよね?」

葵は一口含んでそう訊ねた。

「うん、普通のコロンビアだよ」

「そっか。だからグアテマラの酸味に引っ張られてるんだわ」

「そうなんだよね。グアテマラの分量減らすかなあ」

「そうですね、バランス考えるとコロンビアが2でグアテマラ1くらいがいいかなって」

「ブラジルは邪魔してないかい?」

「そうですねえ……コロンビアの甘みを引き立たせるなら、コロンビア3、ブラジル2くらいがいいかも知れませんね」

「なるほどなあ……有難う葵ちゃん。今回は女性客に受けるものを作りたかったから、すごく参考になるよ」

「いえどういたしまして」

「今日のコーヒーは全部僕からのサービスだよ」

「えっ!?ダメですよマスター!ブルマンの分だけでもお金……」

「いいからいいから。また味見お願いするからさ」

「マスター……有難うございます。ごちそうさまです」

至福の時を味わっている葵に、マスターがこう声をかけた。

「なあ葵ちゃん。昨日来てたイケメンさんって、前に言ってた人かい?」

それを聞いて、葵は瞬時に顔面を強張らせた。間髪を入れず

「マスター、あれは別人です。人違いですよ!」

と力を込めて否定した。

「えっ、そうなのかい?特徴が似てたからてっきりそうかと」

「あれは大学の時の先輩です。例の人は同い年で、同じ福岡の出身なんですよ」

「そうか……。僕ちょっと不味いこと言っちゃったかな」

マスターは申し訳なさそうな顔で、右上を見ながら呟いた。

「何仰ったんです?」

葵は更にマスターに訊ねた。

「葵ちゃんの好きな人が彼じゃないか、って」

マスターは正直に白状した。

「あーそういうことか……」

その回答から、葵は昨夜から今日の昼頃までの執拗な洸二の電話攻撃の真相を掴んだ。洸二がマスターの言葉を真に受けて、葵が自分に脈があると思い込み、しつこく電話を入れていたと踏んだのだ。

「ごめんよ葵ちゃん」

マスターは小さくなって葵に謝った。

「そんな、謝らないでください。こちらこそすみません。マスターは全然悪くないですよ」

葵も申し訳なさそうな顔でマスターに謝り返した。そして、今一磨と別れを考えるほど気になっている〈例の人〉のことを滔々と語り始めた。


 やがて〈例の人〉について葵が語り終わったとほぼ同時に、ノワールの入口の扉のベルがカランコロンと鳴った。マスターがすかさず挨拶したものの、

「いらっしゃいま……あ」

と、突然固まってしまった。何事かと葵が振り向いた先にいたのは、噂の主の洸二だったのだ。例外なく葵も固まってしまった。

「ここにいたのか菱峰」

洸二はそう声をかけた。そして葵の下に脇目も降らず寄ってきた。葵は途端に眉間にしわを寄せ、

「何しに来たんですか」

と冷たい言葉を視線を浴びせた。そして

「マスター、コーヒーごちそうさまでした。お代はその人から取ってくださいね」

と言い残し、足早に店を出ていった。

「ちょっ、待てよ菱み……」

と、洸二が葵を追いかけようとしたその時、

「お客さん、昨日はすみませんでした」

とマスターが陳謝した。事情が飲み込めない洸二は

「な、何のことです?」

と訊ね返した。マスターは更に、

「昨日僕があなたに話したこと、どうやら僕の人違いでした」

と言葉を続けた。

「えっ、どういうことです?」

「すみません人違いなんです。僕にはそれしか言えません。昨日の話は忘れてください。それと……」

「それと、何です?」

洸二は少し苛立ちながらマスターに訊ねた。マスターは困惑しながら

「それと、葵ちゃんはあなたを赦す気はないと……」

と、先程の話の中で出てきた葵の言葉をそのまま伝えたのだ。

「……わかりました。ブレンド下さい」

洸二は内心納得がいかないまま、コーヒーを1杯注文し、一番奥のボックス席に移動した。

「俺が何をしたって言うんだ菱峰……」

洸二は俯きながら、小声でそう不満を口にした。

 一方怒りが収まらない葵は、駅前で電話していた。相手は一磨だ。

「一磨、これから会えないかな。急でゴメンだけど……」

いつもとは様子の違う葵の声に、一磨は何かを感じ取った。

『どうした、葵?今どこにいる?』

「うちの近くの駅前にいるよ。今から行っていい?」

『俺が車で迎えに行くよ。駅中で待ってて』

「うん。ゴメンね一磨。待ってる……」

 誰もいない駅中で待つこと12分。駅前のロータリーに車を横付けし、一磨が駆け足で葵の下にやって来た。それに気づいた葵も一磨に向かって駆け寄り、2人はその場でぎゅっと強く抱き締め合った。葵の目から大粒の涙がぼろぼろと零れた。

 そのまま2人は葵の住むアパートまで車で向かい、葵の部屋で一夜を共にしたのだった。

 事の最中、葵の携帯電話の電源は当然の如く切られていた。その間何度も何度も電話をかけ続けた洸二の努力はつゆと消えた。

「お前の好きな男は俺だったんじゃなかったのかよ、菱峰……」

洸二は『水曜どうでしょう』の大泉洋ちゃんのようにボヤき始めた。

「あの時公園で嫌がってなかったじゃないか……」

突き付けられた現実に全くもって納得できていない、女々しい男·深谷洸二。車の中で爆睡している葵にこっそり口付けしたことも、現時点では墓場まで持っていくしかなさそうなのであった。


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