18 疑問

 葵と神門は再びサロン·デュ·コヤマの前まで戻ってきた。只今の時刻16時52分。17時閉店まであと8分しかないが、2人は意を決して店の扉を開けた。

「うわ……綺麗……」

店内を見渡し、思わず葵は声を上げた。

 入口すぐのホールの床には大理石が敷き詰められ、壁面や柱は艶やかなアイボリー色で彩られており、柱は古代ギリシアのドーリア様式を模して造られている。それだけでなく、所々にピンクのバラと白のコチョウランが金色の花挿しに生けられているのだ。高さ3mはあるであろう天井にはシャンデリアが、白亜の神殿をきらびやかに照らしている。極め付きに、店内は掃除が隅々まで行き届いている。葵が綺麗だと言ったのも無理はなかった。

「いらっしゃいませ」

奥から黒いスーツの中年の紳士が現れた。

「あ、こんにちは。こんな時間に大丈夫でしょうか」

神門は申し訳なさそうな表情で紳士に尋ねた。

「大丈夫ですよ。この度はご婚約おめでとうございます」

紳士は微笑みながら応えた。葵はさりげなく紳士の胸元のネームプレートを注視した。「店長 小山郁夫」と書いてあった。あの小山貴美江の夫、本人だ。

「あ、有難うございます。あの、小山さんってオーナーの小山さんですよね」

葵は小山に尋ねた。

「ええ、左様でございますが、当店では店長として勤めているのですよ」

小山は笑顔でそう返した。

「そうなんですね。オーナーってもっと偉そうにしている奴も多いんですよ。小山さん素敵ですね」

葵は感心し笑顔で思った通りに声を掛けた。それを聞いていた神門の右肩がピクッと動いた。すかさず神門が小山に質問した。

「小山さん、挙式のプランについてのパンフレットを幾つか頂けますでしょうか?」

「畏まりました。準備いたしますので、奥のテーブルにお掛けになってお待ちください」

小山は2人をテーブルに案内し、サロン最奥の扉の向こうに消えていった。店内には他に店員はいないようだ。壁のアンティーク時計は5時3分を指していた。既に閉店時間を過ぎていたのだ。

 葵は神門に尋ねた。

「課長……どうします?」

「そうだなあ、今日はこれくらいで留めておこうか」

神門も流石にこれからの時間聞き込みをすることに抵抗があった。幾ら潜入捜査とはいえ、初対面の相手に警戒心と自分達に対する悪印象を持たれては、進む筈の物事も立ち行かなくなるためだ。ファーストコンタクトとして、2人はパンフレットの取得のみに留めておくことという結論に至ったのだ。

 しかし、葵はあることに疑問を抱いていた。そしてそれを神門に小声で話しかけた。

「これだけの規模のお店に他に店員がいないのっておかしくないですか?」

「あ、そう言われてみれば……。閉店時間を過ぎているからじゃないのかい?」

神門は葵に同意しつつも、営業時間が既に終わっている事実に納得していた。

 その答えに葵は、

「だけど普通は閉店後も客がいれば、客が帰るまでは勤務するんじゃないですか?」

とサービス業を営む店舗の従業員の常識的な態度を示した。

「申し訳ないことでございます。今日は暇でしたので、早めに上がってもらったんですよ」

唐突に小山の声が背後から聞こえた。

「あ、失礼しました」

一瞬ビクッとしながらも、葵は振り向き様に小山に返事した。

「いえ、お気になさらずに。私の責任ですので……」

小山はそう返した。それに対し神門は

「こちらこそ、閉店時間に伺ってしまってすみません」

と丁重に詫びを入れた。

「こちらがパンフレットでございます」

「有難うございます。頂戴します」

神門は白いA4サイズの封筒に入ったパンフレットを受け取り、

「さ、葵。帰ろう」

と声をかけた。

「あ、は、はいっ!」

葵は内心ドキドキしながらも返事をした。

「またまいります。お邪魔しました」

「ご来店有難うございました。またお越しになってください」

葵と神門はサロン·デュ·コヤマを後にした。結局肝心な貴美江の話は聞けずじまいだったが、小山との接触ができた。

 横浜駅に着いて、帰路のホームに向かう途中、神門が

「菱峰君、こうやって2人でいる時は下の名前で呼んでいいかな」

と葵に尋ねた。葵は(えっ?)と引っ掛かったが、小山の聞き込みの時限定だろうと考え、

「あ、いいですよ。私はどうしましょう?」

と尋ね返した。

「そうだね、僕も『龍彦』と呼んでくれたまえ」

神門はそう返答した。そして、

「もう夕方だけど、何か食べて帰らないか、葵?」

と声を掛けた。

「あ、は、はい課長!」

葵は慌てて返事した。

「龍彦、だよ葵」

「あ……はい、龍彦……さん」

葵は照れながら神門の下の名を呼んだ。年上の男性を下の名前で呼ぶのは、大学の3回生の夏、イタリアに1か月間ホームステイして以来だった。無性に項の辺りがむず痒くなった。

(聖子、捜査とはいえゴメン)

心の中で、葵は聖子に謝った。


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