16 挑戦
「もう一度言うよ。僕の婚約者になってくれないか?」
神門は繰り返した。
真っ赤な顔をした葵は開いた口が塞がらないまま、一所懸命状況把握を試みていた。(何この状況!?課長は何を言ってるの!?課長って気になる女性がいるって話してたけど、私に直接話してるから、私の筈ないよね!?私は飽くまでも相談相手であって、課長の部下でしかないでしょ!?)との1秒ほどの思考を経てある結論に辿り着き、
「……捜査に関わりますか?」
と神門に尋ねた。
「ああ、やっぱ鋭いね、菱峰君は」
神門はにこにこしながらそう応えた。そしてこう続けたのだ。
「小山貴美江の旦那さん知ってるかい、菱峰君?」
「え?うーん、知らないです」
葵は有名人関係の話には疎かった。
「旦那さん、小山郁夫氏はブライダルサロンの経営者なんだよ」
「そうなんですか?」
「『サロン·デュ·コヤマ』って聞いたことないかい?」
「あ、あります!福岡にも支店がありますわ!てことは……」
「潜入捜査するんだ、君と僕で」
「!!」
「初めての客がブライダルサロンに1人で行くのは何となく不自然だろう?」
「そりゃそうですけど……。でも何で私に?他にもいますよ、聖子とか同じ課の篠原さんとか」
「伊藤君は男だろう。篠原さんは……ちょっとニガテでね」
「篠原さんが聞いたら殺されそうですね」
「頼む菱峰君!」
そう言うと神門は両手を合わせて葵に頭を下げた。その様子を少しだけ引き気味に見ていた葵は、
「了解です。適任とは思えませんが、婚約者役お引き受けします」
と苦笑いしながら応えた。
「有難う菱峰君!では早速サロンに向かうとするか」
神門は、プレゼントを貰った子どものような満面の笑顔で、前のめりになりながら葵に声を掛けた。
「課長!私こんな格好ですけど大丈夫です?」
葵は限りなくラフな服装で来ていたため、まさかの神門の発言に躊躇した。
「ん?構わんよ。ものすごくキマってるじゃないか菱峰君!」
「はあ……」
「僕もラフな服装に着替えるから、少しだけ待っててくれたまえ」
「はあ……」
神門は6畳の部屋のそばにあるウォークインクローゼットに、鼻歌交じりで飛び跳ねるように駆けていった。
「私たちって今日非番だわよね。何故に潜入捜査などを……」
想定外の目まぐるしい展開に、堪らずボソッとぼやいた葵であった。
2、3分後に戻ってきた神門は、セミロングの髪を焦げ茶色のゴムで結び、白地に水色のピンストライプのシャツに黒地のデニムのストレートパンツのスタイルに変身していた。先程までの黒スーツ(料理の際にはジャケットは脱いで、割烹着スタイルだった)とはまた違い、パリコレなどに出演するような一流モデルのようであった。
「嘘……」
葵は再び開いた口が塞がらない状態で佇んでいた。
「お待たせ。ほら、行くよ菱峰君!」
神門はさりげなく葵の手を引いた。
「は、ハイっ……」
握られた手に、赤面する葵がいた。
一方その頃県警本部では、2人の「女性」が同時にくしゃみをしていた。1人は今日も変わらず女装している聖子で、もう1人は紺色の事務服に身を包んだ、30代後半くらいの小柄で色黒な女性こと1課所属の警察事務員·篠原まり子だった。2人は互いに顔を見合わせ、互いに首を傾げながら、それぞれのデスクワークに戻っていった。
「神門課長、急に休み取って。何かあったのかしら……?」
聖子は目の前にいない最愛の人のことを思い浮かべていた。彼女の女装は、いわば神門に見せるためのものなのだ。健気な「女」伊藤聖子。その一途な愛は報われることはないのに。
そんな折に1本の通報が入った。横浜中華街の1本裏の路上で30代後半くらいの男が出刃包丁で刺され動かないという。足許に返り血を浴びた40代前半くらいの女が立っているとのことだ。たまたま巡回を行っていた交通課の巡査が悲鳴を聞きつけ、犯行現場に駆け寄ったらしい。女性はその場で現行犯逮捕された。1課は署轄から応援要請された。
勿論この件について神門の携帯電話にも連絡が入った。神門と葵はみなとみらい付近にあるサロン·デュ·コヤマの前に並んで立っていた。まるでこれから最強の敵に挑戦するかの如く身構え、今にも入店しようかとしていた矢先のことであった。
「わかった。これからそちらへ向かう」
と神門は聖子の電話に応えた。
「私も行きます」
先日の失態を反省して、葵は警察手帳や手袋その他の捜査アイテムをバッグの中に周到に忍ばせていた。
「いいのかい?」
神門は葵を気遣った。
「もうこうなったらヤケクソですけど、大丈夫です課長!」
空元気で返した葵を見て、優しい笑顔を向けながら、神門は声を掛けた。
「行こう、菱峰君」
2人は踵を返し、中華街に急ぎ足で向かった。潜入捜査は、今日のところは敗北という結果となった。葵はまたしても、非番返上の憂き目にあったのである。ブラック企業を地で行くような仕打ちに、
「刑事辞めようかなあ……」
神門にすら聞こえない程度の小声で呟いた葵であった。
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