12 軋轢
午後7時の待ち合わせの為、急いで電車で自宅の最寄り駅まで帰った葵は、その待ち合わせ場所である喫茶店「ノアール」に駆け足で向かった。「カランコロン」と扉を開けた時刻は午後6時57分、ギリギリセーフだった。
「おっ、葵ちゃんいらっしゃい!」
そう声をかけたのは、ノアールのマスターだった。白髪が多い胡麻塩頭の、黒縁眼鏡をかけ口髭を蓄えた60台前半のふくよかな男性だ。
「こんばんは。まだ来てませんよね」
葵は待ち合わせの相手の事を訊いた。
「ああ、まだ来てないよ。いつものでいいかい?」
「うーん、今日はブラジルにしときます」
「珍しいね、どうしたんだい?」
「うん、今日はちょっと……」
「そうかい、濃いめに淹れるよ」
「お願いします」
葵が改めて店内を見渡すと、一番奥に帽子を被った男性が1人、背中を向けて座っているだけだった。
その時間にしては珍しくノアールは暇だった。(こんな日もあるのね)葵は不思議がった。
7時を少し回ったところで、「カランコロン」と再び扉の開く音がした。
「あ」
葵は入ってきた人物に目をやって、思わず声を上げた。
葵の目線の先には1人の男性が立っていた。身長175センチくらいの、ブラウンアッシュ系無造作ヘアの細身のイケメンだ。
「こっちよ、一くん」
葵はその男性に声を掛けた。
「待たせてすまない、葵」
「おう、日下部君久しぶりだな」
マスターも声を掛けた。
「ども」
日下部一磨(くさかべ·かずま)、JAPANリーグのYチームに所属するプロのサッカー選手(26歳、#10)だ。A代表の背番号10でもあるエースで、葵の今彼である。
「葵、この前はすまなかった。俺が完全に悪かったよ」
一磨は葵に詫びの言葉を掛けた。
「この前」=前回のデートを、葵は一磨にすっぽかされていた。これが既に6回も繰り返されていたのだ。
「ううん、それはもういいの」
そう答えた葵は、下を向いて暫く何かを考えていた。
そして次にこう放った。
「一くん、もう終わりにしよ」
「えっ?」
一磨は何を言われたのか、瞬時に理解できなかった。
「私達、もう終わり。別れましょ」
「な、何言ってんだお前」
「知ってるんだ。一くん、二股してるでしょ」
葵の一言で、一磨の顔色が紅潮した。
「は?そんな訳あるかよ!俺がそういう男に見える!?」
「この前私の部屋の前で、知らない女の人に『一磨とは別れて!』って言われたの」
「はあ?誰だよその女!?」
「知らないわよ!私より年上っぽかったけど、まだ20台後半って感じの髪の長い人だったわよ!右目の下にホクロがあったわ!」
「……あいつか……。たぶんそいつ俺のイタイ追っかけだわ」
「追っかけ?じゃあ何で私の部屋がわかるのよ!」
「……俺が尾けられてた可能性が高いな」
「ここ2か月部屋では会ってないでしょ!」
「……俺、お前がいない時も何度かお前の部屋の前まで行ってたから……」
「何で?」
「お前にどうしても伝えたいことがあって!」
「何!」
葵は強い口調で一磨を責めた。一磨は静かに話し始めた。
「……俺、今イギリスのプレミアリーグのチームからオファーが来てるんだ」
「えっ?」
「ここのところ6回お前とのデートに行けなかったのも、そのチームのスカウトと会っていたからなんだ」
「ええっ!?」
「俺、オファー受けるかどうか悩んでるんだ。イギリスに行ったら暫くお前に会えなくなるだろ。俺お前がいな……」
言い切る前に、葵がこう返した。
「何言ってんの一くん!!あなたにとってチャンスでしょ?行きなさいよイギリス!!」
「お前、ホントに俺と別れたいのか?」
「そ、そうよ!あなたの将来の目標だったじゃないの、イギリスでフットボールをプレーするのが!その為に英語の勉強もしてたでしょ!それを私が邪魔したらダメじゃないの!!」
「葵……」
「悩む必要なんかないわよ。Yチームが問題なければ、今すぐオファーにオーケー出すの!」
「葵、俺は……」
「何!」
再び葵は強い口調で一磨に返した。一磨は左の拳を握りしめながら、頬を赤らめてこう言った。
「……俺はお前と一緒になりたいんだ」
紛れもないプロポーズだった。
葵は開いた口と目が塞がらなかった。そして次に出た言葉が
「……えっと、……考えさせてください……」
だった。
暫く2人の間に沈黙の時間が流れた。
いたたまれなくなったマスターがそばに寄ってきて、
「日下部君、ブラジルでいいかい?」
と尋ねた。一磨は「はい」と答え、また黙り込んでしまった。
そして10分後、葵と一磨が座る席に2杯のブラジルコーヒーが運ばれてきた。2人はそれを黙って飲み干し、やがて黙って一磨が会計を済ませ、2人ともノアールを後にした。
店の前で一磨が
「俺、真剣だから!」
と葵に声を掛け、
「今日はここで帰るわ、じゃね」
と駅に向かって急ぎ足で去って行った。
葵は本気で一磨と別れるつもりでいた。しかし予想に反したプロポーズを受け、内心動揺しまくっていた。
店の前で立っていると、扉が中から開いて、帽子の男性が出てきた。
「おいどういう事だよ菱峰!」
そう言いながら帽子を取ったのは洸二だった。
「えっ、深谷さん!?こんなとこで何してるんですか!!」
葵は更に驚きを隠せなかった。
「何って、俺はたまたまここでコーヒー飲んでたんだよ!」
「深谷さんのご自宅、横浜市内でしょ!?」
「横浜の人間が川崎でコーヒー飲んでちゃいかんのか!!」
「盗み聞きしてましたよね……。最低……」
そう言い放った後、葵は怒って自宅に戻ってしまった。
1人残された洸二は、
「何でハッキリ断らないんだよ……」
と、葵に対して軽い憤りを覚えていた。
葵と洸二の間に軋轢が生まれた。
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