第10話:かけた夜
その日、俺が少し寄り道してみようと思ったのは単なる気まぐれだった。
過去問を解いていて質問がだいぶ溜まり、学校の先生に質問をしに行った帰り道のことだ。問題に手こずって学校を出るときにはもう夕方になってしまって、おかげで地元の駅に着いたときには空はすっかり暗くなってしまっていた。集中していたからか、模試の後のように頭に熱が残っている。家にすぐ帰っても勉強する気にはなれそうにない。ならば、とすこし遠回りして帰ることにしたのだ。バスで近くまで行き、一つ手前のバス停で降りた。なんとなく家の方向に目標を定めて歩き回っているうちに白石の家の前まで来てしまったのも、これまた偶然だった。
白石の家――つまり木ノ下のばあさんの家は平屋造りのでっかい家だ。玄関から入ると長い廊下があり、右手に大部屋、客間が三つ、向かいに台所、一番奥に木ノ下のばあさんの部屋と続く。南側には部屋をつなぐ縁側があり、後はトイレやら風呂やら物置きやらが部屋と部屋との間に挟まるように配置されてあった。白石は客間の一つを自室にしている。
生け垣の隙間から見てみるとその部屋の明かりは消えていた。当然だ。白石は今、この町にはいないのだから。何だか古典の垣間見を思い出して、首を振った。なんとはなしとはいえ、こんな行動をとった自分が馬鹿らしく思えたのだ。
やめだ、やめ。さっさと帰ろう。
舌打ちを零して、立ち去る。が、ちょうど門戸を通りすぎようとしたところで何かが見えた。すこし体を傾けて覗き込んでみれば縁側のところに木ノ下のばあさんが座っていた。膝の上に白猫のコンをのせてその背をゆっくりと撫で、物思いにふけっているように空を見つめている。同じ方向をみると一際大きな星が輝いていた。
今は二月の中旬だ。夜の空気は肌を刺すように冷たい。いつまでも縁側に座ってのんびりしていたら風邪を引いてしまうだろう。おまけにあのばあさん、寝こけてしまわないだろうか。
そんな不安に駆られて、俺は声をかけた。
「おい、木ノ下のばあさん」
俺の声に木ノ下のばあさんは反応し、こちらを向いた。それから柔らかい笑みを浮かべてこちらに手招きしてみせた。俺は断る理由もなく、門戸をくぐり、縁側のある庭のほうへ回る。
「こんな寒い日になにやってんだよ」
「いやねえ、健次郎さんに会えないかなあと思っていたのよ。そうしたらこんな若々しい恰好をして戻ってきたらびっくりして」
「……あのさあ、大真面目な顔して冗談いうのやめてくんねえか」
健次郎さんとはもうなくなった木ノ下のばあさんの夫のことだ。俺が小学校に上がる前に亡くなっていて、生憎と俺は覚えていない。
木ノ下のばあさんはふふっと笑って横を空けてくれた。
「ちょっと夜風にあたってたのよ。温かいお茶でも飲む?」
「飲む」
「少し待ってて」
コンを下ろして、木ノ下のばあさんは奥へと消えていく。途端寒くなったのかコンが俺の膝に擦り寄ってきた。眉間を擦るようにして撫でると耳をペタンとし、気持ちよさそうに目を細めた。
こいつは白石が中学生になるころ、死んだ一代目コンの次にやってきた奴だ。だから俺にも懐いていてくれてコンに会いに白石の家に来ることもあった。
そういや、母ちゃんはここに長居するの、良い顔しなかったよな。ふと思った。白石を送ったりするのは背中が痛くなるほど押して行ってこいと言うけれど、お菓子やらお茶やらを貰うのには難色を示していた。が、俺は遠慮というものを知らなかったので、値段や味の善し悪しも分からないまま、腹がいっぱいになるまでありがたく頂戴していた。どんだけ食べてもしばらく経てば腹がすいたので夕飯はきちんと食べていた。けれど問題はそこではないようで、母ちゃんの顔は渋かった。なんかいろいろあるのだろう。白石に聞けば分かるのかもしれない。
ぼうっと空を見上げていた俺の横にお盆が置かれた。そこには煎餅とお茶が置かれている。俺は礼を言って受け取り、木ノ下のばあさんはまた俺の隣に座った。
「……静かねえ」
ぽつりと木ノ下のばあさんが言った。俺は曖昧に頷いた。人通りはなく、車の音もしなかった。しかし木ノ下のばあさんはそういうことを言いたいのではないような気がした。
「大樹くんはどう? 受験でしょう?」
「俺は……これからだから」
なんとかセンターの足切りは免れたが、本番は二月の下旬だ。俺はそれに向けて勉強に励んでいた。
「そうなの……悠子ちゃんは頑張ってるかしら……」
「さあ」
「いないと寂しくてねえ」
木ノ下のばあさんは悲しそうに目を細めた。
「悠子ちゃんって決しておしゃべりな性格ではなかったんだけど……やっぱり人が一人いなくなると家ってこんなにスカスカに感じるものなのね。昔は一人で住んでいたのに……何だかいつもの冬より寒く感じてしまうの。最初のころは子供を預かるなんて、と思ったものだけれど」
「え、そうだったのか」
いつも木ノ下のばあさんはにこにこして白石に接していた。単純な俺にはそこに悪感情を見出すことはできなかった。木ノ下のばあさんは悩んでから「秘密よ」と言い、困った顔で話し始めた。
「私は二人子供がいるの」
「へえ」
噂話で耳にしたことはある気がした。確かあまり良くはない噂話。木ノ下の家は昔は凄かったけれど、もう跡継ぎがいない、とかなんとか。
「上が男で下が女の子。二人とももう四十過ぎのはず……最近は会ってないからよく顔も分からないんだけど」
「ふーん、どれくらい」
「最後に顔を合わせたのが健次郎さんの十三回忌の時だから……五年近く会ってないわ。大学の時に出で行ったきりなかなか家に寄り付かなくなった。私と健次郎さんが家を継げ継げうるさく言ったのが悪かったのね。結子――下の子のほうは家出同然で大学も行かずに出ていってしまったの。その、だから、子供を預かってもうまくいく気はしてなかったのよ」
木ノ下のばあさんは自分のお茶を口にしてほっと息をついた。その膝にコンがすり寄る。
「でもなんだかんだで悠子ちゃんと十年近く一緒にやってこれたのよねえ。……姉さんの孫だからよかったのか、自分の娘じゃないからよかったのか。お互い不器用だったからそれも良かったのかもしれないわ」
しみじみと言葉を口にするその横顔に俺は近所のばあさんではなく、木ノ下タエという人物が垣間見えた気がした。
「ばあさん、酒でも飲んでるのか?」
「え、飲んでないわよう。なんでそんなこと言うの?」
「いや、いつになく饒舌だったから」
「あら、そうかしら」
木ノ下のばあさんは眉間にしわを寄せて考える仕草をした。不意にそれをふっと緩ませて、「満月だからかしら。月に酔わされた気分ね」と言った。
「は?」
「あら、男の子ってこういうの通じなかったかしら」
いつものふんわりとした空気ではなく、木ノ下のばあさんは歯を見せてにこっと笑った。何だかその声色がクラスの女子のものにひどく似ている気がして、おかしくなった俺の口から笑いがこぼれた。もう六十過ぎのばあさんだってのに。
「悠子ちゃん、貴子ちゃんと二人で何話してるのかしら」
「貴子?」
「ああ悠子ちゃんの母親よ。聞いたことない?」
「少しくらい、ある」
白石の口から何度か聞いたことがある。俺の中では冷徹なキャリアウーマンが完全に出来上がっていた。確かに、白石と気が合いそうな相手ではない。むしろ木ノ下のばあさんとの方が相性がよさそうだ。そんな考えのままに口を動かすと、ばあさんはため息をついて顔に影を作った。コンを膝に乗せ、そちらに視線をやりつつもポツリポツリと言葉を作った。
「うーん、そう思ったこともあったんだけどねえ。悠子ちゃん、お母さんの前だとがちがちに緊張してるの。校長先生に挨拶しに行くくらい。でも、ダメなのよ。負けたっていうのはおかしいかもしれないけれど、悠子ちゃんは結局お母さんのところに戻ることを選んだんだもの。それはとてもいいことなの。……でも、やっぱり私じゃダメなのよ。そういうものなの。私は失敗したけれど、貴子ちゃんは昔からしっかりとした子だったからねえ」
「まどろっこしいな」
俺がついそう言うと、木ノ下のばあさんは虚を突かれた顔になった。俺は白石がいじいじしているくらいにイラついていた。そのまま普段通りに言葉を紡いでしまう。
「はっきり言えよ、ばあさん。悔しい、とか。寂しいんだったら俺じゃなくて白石に言えよ。俺、口に出さねえで完結されるの、大っ嫌いなんだ」
一息にそう言って、残っていた茶を煽った。木ノ下のばあさんは眉尻を下げた。
「言えないわよ……」
「言えないんじゃなくて、言わないんだろ。まあ、俺はどうでもいいけど」
俺の言葉にどう思ったのかはさっぱり分からないが、木ノ下のばあさんは白石よりも柔軟な思考の持ち主ではなかったようだ。曖昧な笑みを浮かべて、茶をすすった。どうやらこの話は終わりにしたいらしい。
「大樹くんはお家のことはどうするの? それとも……町を出るのかしら?」
「さあな」
俺は一言だけ返して、立ち上がった。色々考えてはいるが、今は木ノ下のばあさんに言う気分じゃない。
「じゃあな、ばあさん。さっさと家の中に入れよ」
「ええ、またいつでも来てちょうだい」
それについては何も言わず、俺は歩き出した。門戸を通り過ぎるときにちらりと後ろを盗み見れば、まだ木ノ下のばあさんは縁側のところにいた。話を聞かねえばあさんだ。もうこれ以上は知らない。
俺は何かを振り払うように速足で歩く。空を見上げると木ノ下のばあさんの言う通り、今夜の月は満月だった。
――白石は木ノ下のばあさんの寂しさに気が付いているのだろうか。
欠けたところのない丸い満月が、今夜ばかりは虚しく思えた。
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