第9話:かけた熱
確かあれは高校に入学してひと月ほどの頃だった。
「なあ、お前暇だろ」
大樹くんはつっけんどんにそう言った。私はちょうどその時、次の時間の準備をしていたので小さく「ひ、暇じゃないよ」とそれが事実だとでもいうような強い声に反論した。
「じゃ、家で何やってんだよ。木ノ下のばあさんがこの前なんもしてないって言ってたぞ」
それを聞いてどうやら今の話をしているのではないようだ、と分かった。
「ねえ、いつの話してるの?」
「あ、放課後だよ、放課後。暇だろ、どうせ」
これには反論の言葉がすぐには出てこなかった。確かに家に帰っても何をするわけでもない。部活も中学の時から帰宅部だった。特にやってみたいこともなかったし、お金がかかることはどうしても敬遠してしまいがちだった。
「夕飯の支度の手伝いとか」
苦し紛れにそう言うと、大樹くんははあ、とどうでもいいようにため息をついた。実際にどうでもいいのかもしれない。それから唐突に囗を開く。
「なあ、お前マネージャーやれよ」
「え。ま、マネージャー……?」
「今高三しかいなくて、新しい奴がほしいんだってさ。俺、当てがあるって言ってきたから」
「む、無理だよ!」
私は慌てて口をはさんだ。マネージャーというのはきっと野球部のことだ。けれど生憎と私は野球に興味はなかった。お父さんは好きだったけれど、私には魅力が全く分からない。さらに言えばルールなんて物も分からなかった。盗塁、フライ、ボール……未知の単語だ。
大体、大樹くんとは高校入学以来、話した言葉は片手で数えられるほどだ。それなのに当てにされても、少し嬉しいけれどやっぱり困る。
「無理って……なんでだよ」
「だってよく知らないし、お金だって……」
大樹くんが過敏に反応するところを突いた。悪いかな、とは思ったが、事実、思っていることなので仕方がない。
これで引いてくれるだろうと楽観していた私だったけれど、意外なことに大樹くんは意地悪な笑みを返して自信満々な声をつづけた。
「それは大丈夫だ。ほら」
ぺらっと紙を一枚、手渡される。それを見て、私は目をしばたかせた。
「入部届って……へ? な、なんで!?」
その紙自体は勧誘しているのなら持ち歩いていてもおかしくはないだろう。問題なのはそこにはもう保護者署名と保護者印がすでに記入されている、ということだ。
「この前回覧板、届けに行ったときにもらってきたんだ。あ、お前がいねえときな。ついでに洋菓子もらって食ってたんだけど、木ノ下のばあさんにお前が毎日、家と学校の往復しかしてないから心配だって相談されてよ。ならちょうどいいし、野球部のマネージャーはどうかって聞いたらいいかもしれないって話になった」
大樹くんがまさか根回ししてるとは思っていなかった。昔はこんなことに気が回るタイプじゃなかったのに……。
「これでいいだろ」
「え、でも。ほんとに私、分からないし」
焦りが募る。あの一件以来、大樹くんのことはきらいじゃない。けれど、いきなりだ。
「おーい。竹内どうだー? お前が当てあるって言ったんだべ」
教室の入り口から同じ野球部らしい男の子が叫ぶ。大樹くんは「うるせえよ」とぞんざいに返した。私は入部届と大樹くんの顔とに視線を何往復もさせている。
「なあ、なに迷ってるんだよ」
断り方を迷ってるんです。
しかし、そうとも言えず、私は黙り込む。大樹くんの口からため息が漏れた。
「はっきり言えよ。まあ、お前運動神経悪いし、絵も下手だけど、洗濯とかはできるだろ。ぴったしだと思うけど」
「う、ん」
「それに……お前って人を見る目があるっていうか、そういうの得意だろ。いいと思うぜ」
その言葉で私の心はぐらりと動いた。おもはゆいが、褒められて嫌な気にはならない。そもそも私の取柄なんて多くはないのだ。ちょっとぐらい何かに挑戦してみてもいいんじゃないかって思った。
そっと入部届を受け取る。焦りの代わりに気恥ずかしさが顔を出した。自分がひどく単純な人間に思えた。結局私は大樹くんと同じ部活に入るのが居心地悪く感じていただけなのだ。
私の「考えてみる」という言葉に大樹くんが安心したようにほっと息をついたのを見て、それだけで満たされたような気になった。
◇◇◇
まもなく東京に着くというアナウンスで私は目を覚ました。終点なので乗り過ごす心配がなかったからか、お昼ご飯を食べた後、眠りについてしまったらしい。膝の上に広げられたままの古文単語帳は二、三ページ辺りで止まっていた。私はそれを閉じ、ぐっと背筋を伸ばした。
車窓からの景色は新幹線が進む速度と一緒に目まぐるしく変わっていく。林立するビルが視界を刹那のうちに横切って消えた。十年ぶりの東京に懐かしいという気は起らず、何だか疲れそうだなあ、という予感しかなかった。
東京駅の丸の内南口というところの改札の手前でお母さんと待ち合わせた。そこは何度かテレビで見たことがあり、つい上を見上げてしまいたくなる。春のために写真でも撮ればよかったのだが、改札を出ないとうまい具合に撮ることはできなそうだった。
「悠子」
しきりに携帯を確認し、おどおどきょろきょろしていた私にお母さんが声をかけたのは十五分ほど経ったときだ。
仕事だったのか黒のスーツを身に着け、カバンを片手に引っ掛けていた。化粧はばっちりだったけれど、疲れからかどこか顔は衰えてみえた。どうせ二月には会うことになるんだからと正月にはこっちに来なかったので顔を合わせるのはお盆以来だ。
「お母さん、久しぶり」
「ええ、久しぶり。少し痩せたかしら。仕事は終わらせてきたから一緒に帰れるわ。行くわよ」
キビキビとお母さんは歩き出す。私は慌ててキャリーバックを転がして、そのあとを追った。私にとっての迷路のような駅構内を歩き回る。電車を一つ乗り換えて、二十分ほど揺られたところで駅を降り、その近くにお母さんの家があった。家といってもマンションだ。二十二階建ての、私には高いか低いかわからない建物だった。見上げてぼうっとしていると「行くわよ」と急かされた。
「な、何階?」
「二十階」
「窓って開くの?」
高層マンションだと窓がはめ込めれていて開かないことがある、という情報を以前に聞いたことがあった。何度か息が詰まりそうでいやだなあ、と思っていたのだ。
お母さんは呆れた顔をして「大丈夫」と言い、エレベーターのボタンを押した。
「二十階は窓が開かないほどじゃないわ。昔住んでたマンションだって十階だったじゃない」
「十階も違うもん」
「はあ……まあね。あ、寝るところなんだけど敷布団でいいかしら? 私のベッドを貸してもいいんだけど、悠子はずっと床で寝てただろうからそっちのほうがいいかと思って」
私は肯った。
「うん。別にわざわざ布団じゃなくて寝袋とかでも大丈夫だよ」
「逆に寝袋なんてないわよ。あなた……なんか逞しくなったわよねえ」
しみじみとお母さんはそう言った。その時ちょうどエレベーターが来たので乗り込む。お母さんは独白じみた口調でつづけた。
「本当は田舎なんかにやるのはどうかと思ってたけど……うん。良かったかも。向こうの生活はどうだった? 私向こうに行っても、ほとんどとんぼ返りだったから」
ああ、自覚はあったんだ。
エレベーターの独特の持ち上げられるような感覚。久しぶりのそれにジェットコースターに乗った気がして少し恥ずかしくなる。お母さんとこうしてゆっくり話せるのも久しぶりのことだ。
「どうって言われても……楽しかったよ」
「そう? ほら、私が学生の頃はいろんなところにショッピングに行ったりして……いや、今は悠子のことね。どうなの友達とか」
好きな自分の話を切り上げて、お母さんは私に問う。それだけで十分だ。それだけで私はお母さんとまた暮らしたいと思うようになった。
「前に話したっけ……春とは小学生から仲良しだよ。後は何人か高校に入って仲良くなった子もいるし。部活の後輩もいい子だし」
「あら、部活って……なんだったかしら」
唇を噛みしめて、話を続ける。
「野球部のマネージャーだよ。前に言った」
「あ、そうそう。意外だったの、覚えてるわ」
エレベーターがチンッと音を立てて停止した。開いたドアから廊下に出る。マンションの廊下というと屋外だと思っていたのだが、このマンションは内側に配置されているらしく空を拝むことはできない。
「なんでそんなのに入ったの? あ、まさか……付き合ってる人とか」
冗談めかした声に私は慌てて否定した。
「ち、違うよ!」
「あら、そうなの。ほら、私は学生のころ……あら、また私ったら」
「ううん。それ、聞きたい」
本心からだ。珍しく食いついてきた私にお母さんは笑った。
「高校のとき、好きな人がサッカー部で……だからサッカー部のマネージャーになったのよ。どうにか付き合うところまでこぎつけたはいいんだけど……結局は三か月ぐらいで浮気されちゃって別れた、のよね。たぶん。清々したけどね。昔から私ってそういう感じだったから。ああもう、なんだか恥ずかしくなってきたわ」
赤裸々に語りすぎたと思ったのか……、お母さんは手を扇にして顔を仰ぎ始めた。なんだかその様子にお母さんと思えなくなって私は話を掘り下げる。
「ど、どうやって付き合ったの?」
「ど、どうって……昔は携帯もなかったからね。家電いえでんするにも誰が出るのか分からなかったから直接言うしかなかったのよ。普通に『好きです、付き合ってください』って。……もう! 恥ずかしい! 娘に何してるのかしら」
お母さんは早足になって一つのドアへと向かう。そこがお母さんの部屋らしい。ガチャガチャと鍵を差し込みながらお母さんを顔の火照りを逃そうと、早口になって言った。
「悠子こそ、どうなの? 初恋の一つや二つ、済ましてきたと思ってたわよ」
「へ?」
私は言いよどむ。
「あら、まだなの」
「…………済ませては、ないかな」
「へ?」
お母さんには珍しい、間抜けな声が聞こえた。手を止めて私のほうを振り返る。
「付き合ってる人、やっぱりいるの?」
「いないよ。……一緒にいたいなって思う人なら、いるけど」
そう口に出したのは初めてのことだった。春にだって言ったことはない、心の内にあった想い。
告白したわけでもないのに言った瞬間、私の頬を熱が駆けた。自分でも予想外の出来事だった。逆立ちしたように血が頭に上った気がする。別に怒っていなくても頭に血が上るということを初めて知った。
「あら」
一瞬で頬を赤く染めた私に何を思ったのだろう。
お母さんはコイバナに勤しむ少女めいた笑顔を見せ、「卒業式の日には紹介しなさいよ」と瞳を輝かせた。
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