第8話:山眠る

 ゴーンと近所の寺からの除夜の鐘が響いた。近く、といっても歩いて二十分近くある。それでもよく聞こえた。腹に響くようなずっしりとした音だ。音に重さがあるのなら、かなり重いだろう。夜は気温差で…、音の屈折が……そんなことを話していた物理教師をふと思い出す。昔のことだからか、はたまた聞いていなかったからか、鮮明には思い起こせない。


「……集中切れたな」


 俺は参考書を閉じると、ぐっと伸びをする。頭の中は未だに積和やら三角関数やらの公式が意味なく頭の中をぐるぐる回っていた。そこにゴーンと音が重なる。煩悩一つが消えた、らしい。

 しばらく眠気と戦っていると、襖の外でドタバタと階段を駆け上がる音がした。そして制止する間もなく、襖が引かれた。


「あんた、年が明けたよ!」

「うっせーぞ、ババァ」


 言ってから少し後侮した。新年の一言目がこれか。


「親に向かって何言ってんだい。まったく……。ほら、神社行かないのかい」

「こんなクソ寒いのに誰が……」

「でも中学の時は行ったろう。私は朝にお婆ちゃんとお爺ちゃんと行ってくるけど。高校受験のときはご利益あったんだから行ってきたらいいじゃないか」

「行かねえよ」


 こんな日に外に出たら逆に体調を崩して悪影響が出そうだ。さっさと出てけ、と手で払うと母ちゃんはぶつぶつと不平をこぼして去っていった。俺ははあ、ととため息をつく。ここ最近、切実に部屋の鍵がほしい。自分でつけようにも襖なのでどうしようもないのだが。

 静謐を取り戻した部屋で俺は英単語帳をぺらぺらと捲り始めた。が、頭に全く入ってこない。飲み物でも取ってこようかと立ち上がったところでカーテンの隙間から、ふと白いものが見えた。まさかと思い、カーテンを開く。


「雪……」


 ふわふわと雪が舞っていた。三十分ほど前ちらと見たときには降っていなかったので、今降り始めたのだろうか。道理で寒いわけだ。外に出なくて正解だったと一人、頷く。寒さが侵入してこないよう、しっかりとカーテンを閉めようとしたところで――、


「あ! はあ?」


 白石の姿が見えた。こんな時間に何やってるんだと眉を顰めつつ、俺は慌てて窓を開けた。途端、凍えそうな冷たい風が吹き込んできた。身を縮こませながら、俺は叫んだ。


「おい! 白石!」


 白石はきょろきょろと首を動かし、俺を認めた。


「あ、だ、大樹くん。こんばん、は」


 鼻先を真っ赤にしながら、白石は言った。赤いマフラーに顔をうずめ、「どうしたの」と問いかけてくる。


「お前こそ、こんな時間に何やってるんだよ」

「えっと、神社に行こうと思って……」

「一人でかよ」

「うん」


 当たり前のように頷く白石に苛立ちが募る。俺はぐっと手に力を込めて、それから言った。


「俺も行くからちょっとそこで待ってろっ! いいな!」

「え、でも……」


 白石の声を最後まで聞くことなく、俺はぴしゃりと窓を閉め、カーテンを引いた。椅子に掛けていたコートを羽織り、ベッドの上にぞんざいに放ってあったマフラーを掴む。後は財布と手袋。少し迷ってからカイロを二つ持った。この間三十秒。襖を開け放ち、どたどたと階段を駆け下りる俺に母ちゃんが声をかけてきた。


「ちょ、あんた。どこに行くのさ」

「神社!」

「はあ!? さっきは行かないって……」

「行く気になったんだよ。そこに白石がいるから、一緒に行ってくる」

「あ、なるほどねえ。しっかり家まで送っていくんだよ。夜遅いんだから」


 視線もやらず、「わかってる」と返し、最後に懐中電灯を持って外に出た。やっぱり寒い。

 白石は俺の言う通り、その場を動かずに留まっていた。しかし不安そうにおどおどと自分の体を見ている。


「おい」


 声をかけると大げさに驚いて、白石は振り返った。


「は、はい」

「行くぞ」

「……うん!」


 白石と一緒に歩き出す。

 ここら辺は街灯があるにはあるのだが、切れていたり、点滅していたりするので薄暗い。夜中は懐中電灯が必需品だ。それなのに仮にも女が一人で出かけるとはどういうつもり何だか……。木ノ下のばあさんはこの辺りは安全だとなぜか過信しているので当てにならない。どうせ、「気を付けてね」の一言で済ませてしまったに決まっている。

 少し後ろで歩いている白石に声をかける。


「カイロいるか?」

「え、でも。大樹くんのが」

「間違えて二つ掴んできちまったから」

「じゃあ……」


 おずおずと差し出してきた手の上にカイロを渡す。「ありがとう」という声に俺は無言で頷いた。






 白石は山本の告白を断ったらしい。

 それは本人の口からきいたことではなくて、中村から聞いたことだった。いつだったかの昼休みに中村がまた教室にやってきて一方的に話していったのだ。


「なあ、断ったんだってな」


 第一声がこれだった。俺は訳が分からす、「何が」と聞き返した。


「ああ、もう! 白石のことだよ。知ってるんだろ」

「知らねえよ」


 ――友達でもないのに。


 そう続けようとしたが、やめた。自虐趣味はないのだ。

 中村は大袈裟にため息をついて、首を振った。明らかな呆れてますアピールだ。イラついた。


「お前、ありえねーべ、それは」

「うぜえ」


 拒絶を示したのに中村は気にせずに話を進めた。


「実はさ、一つウソついたんだけど」

「はあ?」

「白石がいっぱい告られてるみたいなこと言ったろ? あれ、ウソ。後、俺が告ろうかなってのもウソ」

「はあ!?」


 俺の叫び声に対し、中村は肩をすくめただけだった。大して悪いとは思っていないらしく、声は軽い。


「なんでそんなこと……」

「だってさ、お前らこう……磁石でいえばN極とN極を必死にくっつけようとしてるように思えんのかもしれないけどさ、オレらとしては何かN極とS極をギリギリ引っ付かないところで動かしているようにしか思えないの!」

「はあ?」


 本気で訳が分からず、俺は眉間にしわを寄せた。


「何だよ、それ」

「分かんねえかなあ、こう……」


 腕をぐにょぐにょと動かし、言いたいことを伝えようとしている中村を俺は視界の端へと移動させた。こいつはおそらく国語の成績は芳しくないだろうということだけは予想がついた。







 近所の神社には意外と人が集っていた。しかし、初詣のためではないようだ。境内の端の方には町内会のテントが張ってあり、そこから賑やかな声が響く。覗いてみると爺さんたちがビール缶を片手に騒ぎまくっていた。石段を三十段も上って、わざわざそこで酒を飲まなくても良いだろうと思うが……。


「よーう、竹内んとこの! 悠子ちゃんも!」

「どうも」

「酒くせえな」


 そう悪態をつくと、近くにいた昌じいさんが肩を組んできた。地蔵の近くに田んぼをもつ、あの爺さんだ。


「おうおう、元気がいいなあ! 昔は夜に出掛けたら泣きべそかいとったくせに。夜行が出るって」

「おい! 何年前のことだよ」

「そういや小学一年生くらいの時に……」

「アーアー!」


 大声を出して、遮った。こうなってしまうとこちらが不利だ。あっちには一晩語ったとしても余るほどの情報がある。笑い上戸らしい昌じいさんが大笑いしながら、再び何かを言おうとしたとき、「あ、あの」と黙っていた白石がふいに声を上げた。


「タエさんが明日の朝に伺うと言ってました」

「おう、そうか。米の準備は頼んますって伝えといてくれ。毎年悪いなあ」

「いえ、じゃあお参りしてきます」


 会話の内容を一瞬思案し、何のことか思い当たった。毎年恒例の餅つきのことだろう。俺も無料でたらふく食えるので参加していた。今年は行くか悩んでいたが、白石はどうだろう。

 白石が軽く会釈をし、二人で参道に戻る。途中、白石は持ってきていた破魔矢を返し、ほどなく本殿に到着した。先に俺が行く。石段を四段上がり、賽銭を入れて鈴を鳴らす。二礼二拍手。ばっと思いついた大学受験のことを祈る。上手くいきますように。そして一礼。俺と入れ違いに白石が石段を上がった。律儀な奴だと思う。別に並んで一緒に参拝したって俺は別にいいのに。

 白石が下りてきたのを確認して、俺は来た道を引き返す。おみくじくらい引いておこうかと、一人考えていると声を掛けられた。


「あらー、大樹くん」


 振り返ると今度はおばさんが沢山だ。爺さんたちが大騒ぎしている所と反対側にもう一つテントが張ってあり、その中で丸眼鏡をかけたおばさんが俺に手招きしていた。顔に覚えはある。地元から同じ高校に通う田中のお母さんだった。


「どうも」

「大きくなったわねえ。あら、悠子ちゃんも。明けましておめでとう」

「あ、明けましておめでとうございます。あ、あの大樹くんとは偶然そこで会って……」

「そうなの? まあ、いいわ。甘酒とお汁粉あるから飲んでいって。適当に椅子使っていいから」


 少し迷って俺は頷いた。ほいほいついていくのは癪だったが、腹は減っていたし、のども乾いていた。大鍋から甘酒とお汁粉をよそってもらい、そのままテントの中の椅子に座ろうとした俺だったが、そこに白石の制止の声が飛んだ。


「あ、あの外で飲まない?」

「はあ? なんでだよ。こっちにはストーブあるぞ」

「う、ん。でもほかの人たちは外で立ってるし……」


 歯切れの悪さに俺の苛立ちがたまり始める。


「ちっ! 言いたいことがあるなら言えよ!」

「外で、飲みたいです」


 はっきりとそう言い、さらに「舌打ちきらい」と加えた。白石の好き嫌いなど気にすることではないが、こう言いだすと白石は意見を変えない。頑固だ。このまま俺が反対し続けたところで一人で外に行ってしまうのがオチだ。

 俺はため息を溢してテントを出る。雪がふわふわと舞い、うっとうしかった。だからテントが良かったんだ。文句を舌打ちに込め、しかし結局は近くのベンチの端と端に俺と白石は腰を落ち着けた。

 ちびちびと甘酒とお汁粉を口に含む。甘い。組み合わせを間違っていると思う。煎餅が欲しくなってきた。

 ちらと横を見れば、白石も黙ってお汁粉を啜っていた。先ほどの頑固さはなりを潜め、おどおどと頼りなさげな雰囲気を漂わせている。


「おい、お前はこれからどうするんだ」

「え?」

「受験」


 センタ一試験まで二十日をきっている。志望校はとっくに決まっているはずだ。

 白石は目を瞬かせ、驚きを示した。


「何だよ」

「いや、えと、聞かれると思ってなかったから。ほら、中学の時も」

「ああ」


 三年前の記憶を呼び起こす。俺は三年前の一日にも白石と会っていたのだ。確かあの時は境内だった気がする。俺は田中と、白石は平山と一緒だった。今回と同様、合格祈願のお守りやらを買うためと、気晴らしのために訪れていたのだ。二、三言、言葉は交わしたのだが、志望校までは話さなかった。学校で噂もちらほら聞いたが、白石のものはなく、だから入学式の日にアイツが同じ学校にいてひどく驚いたものだ。


「そういや平山は?」


 ほとんど一緒にいるものだと思っていたのだが、今日はその姿がない。白石はその問いを進路のことだと思ったらしい。


「もう決まったよ。専門学校は早いから」

「へー。一緒に来なかったんだな」

「今日はタエさんに頼まれたの」


 久しぶりにこれほど長く白石と会話をしたかもしれない。夏の日、俺が変なことを言ってしまったが為に暫くはぎくしゃくしていた。自分でも少し小っ恥ずかしいことを口にしたと思っている。秋が過ぎ、冬がやってきて、またどうにか元通りになった。


「で、お前は大学どうするんだよ」

「う、ん。二月はたぶん東京、かな。受けるのがそっちの学校ばっかりだから、お母さんのところに行くことにしたの。あ、卒業式は戻ってくるよ」

「ふーん、あっそ」


 前はついつい熱くなって強く詰ってしまったけれど、今の白石の自然な口調を聞いていると別段母親のことで俺が気にするようなことはないのかもしれない、と思った。

 ――小学生だった、あの日。白石と仲直りをした日。

 俺はいつも自分のことは多く語ろうとはしない白石の秘密を教えてもらえたような気になって嬉しくなっていた。自分でもバカだと思うくらい単純だ。あれから特に白石との関係が激変することはなく、しいて言うならば淡々としたものに落ち着いた。

 白石にとっての俺は友達ですらないらしい。あれを言われた日は本当に、少し、ちょっと、ショックだった。


「そういえば大樹くんは? し、進学先」


白石をおずおずと見つめてくる。今度は俺が驚く番だった。


「な、なに?」

「いや、お前に聞かれるとは思ってなかったから。関係ないし」


 先ほどの白石と同じようなことを繰り返してしまった。白石自身、らしくないことをしているという自覚はあるのか、少し恥ずかしようにして前髪を爪繰った。


「な、なんとなくだよ」

「まあ、なんとなく、だよな」


 そう言いあって俺はなんとなく話し始めた。


「俺は一番近い国公立だけど……一校しか受けねえから落ちたらそれまでだな」

「浪人?」

「一年間何もせず勉強してる余裕なんて、俺ん家にはねえよ。ダメだったら、親父の仕事を手伝う」


 白石は考えもしなかったであろう選択を口にする。案の定、白石は「そっか」と気まずげに言った。

 たぶん格差が一番大きいのは小学生なんじゃないかと俺は思う。自分たちはとくに意識していなかったけれど、あそこには元地主の家の子も、平山みたいな普通のサラリーマンの家庭の子も、白石が住む木ノ下のばあさんのように元大農家だった家の子も、雄造のような貧しい家の子も、すべてが集まっていた。小学校が町に一つしかないのだから当然だ。しかし中学になると、少し遠くにある私立に通うやつもいて、高校になると公立に行く奴、私立に行く奴や働く奴だっている。学校内には同じような奴が多くなって、格差が減っていく。大学になれば町から出ていく人も多くなるだろう。

 それは良いとか、悪いとかではなくて……すごく自然なことだと思う。ただ、小学生のころからある格差ってものが、俺たちに関係ないわけではないということを痛感させられた思い出があるので、どうにも心細い気持ちになることがある、というだけだ。

 俺は飲み終わった甘酒とお汁粉の容器を放って、ゴミ箱に入れる。白石は歩いて近くまで行き、そこで入れる。

 なんとなく帰る雰囲気になったので俺たちは歩き出した。白石はまた少し後ろをついてきていた。

 雪の空はどんよりと曇っている。耳の先やら鼻先やらが尋常なく痛い。カイロの温かさを求め、俺はポケットに手を突っ込んだ。

 ――白石は何になりたいんだろう。何を勉強しに、東京に行くのだろう。

 本当に聞きたかったのはそういうことな気がして、しかし改めて口を開く気にはなれず、俺は黙って歩いた。

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