第7話:綻びなおし
「えー、仲橋くんはお家の都合で転校することになりました。急なことだったので、えー、みんなに挨拶することができませんでした」
その言葉に教室がざわついた。あちこちで顔を見合わせて囁いている。どことなく、不快な音であった。
「悠子ちゃん、知ってた?」
横の席の子が小さな声で話しかけてくる。
「う、ううん」
つい先日まではいつも通りだったはずだ。仲の良い子たちとも「またな」と挨拶していたのに。
「あのね、わたし知ってるの」
「え……?」
「『夜逃げ』なんだって。家が火の車で、生活できなくなっちゃったんだって」
とっておきの秘密を明かすように言った。
「そうなんだ」
それ以外に何も返せなかった。ただ嫌われていた私はきっとさらに嫌われているのだろうと思った。斜め後ろを振り返ると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている大樹がいた。しかし、すぐに表情が移る。呆然とし、困惑し、苛立って、怒って、最後は下を向いて動かなくなった。
――お前んちひーのくるーまー、やーい。
そう言って、私を虐めた大樹くんを思い起こす。あれからずっと会話らしい会話をしていない。最初の頃は意識的に避け、無視していたけれど今では自然と話さなくなった。ふとしたときに激情を思い出すことはあれど、怒りはとうに消化されている。怒りは炎のように激しく燃え上がるが、やがて弱まる。つまり、怒り続けるというのは案外エネルギーを使うもので、私はもう怒ることに疲れてしまったのだ。
「……ひのくるま、か」
おそらく大樹くんは雄造くんが私に向けた憎悪を露ほども気づいていなかっただろう。それは愚かしく、けれど確かな一筋の救いだった。
それから大樹くんは抜け殻のようだった。良くも悪くもみんなを先導し、扇動するガキ大将だったはずなのに、口数も減り、元気もなくなった。元気がなくなった理由をみんなが知っていたけれど、みんなどうすることもできなかった。仲の良い子も話しかけては俯いて帰ってくることがほとんどだったのだ。
そんな様子だったのだから、縁がほぼ切れていたといってもいい私がどうこうすることはできないのは当たり前だと思っていた。それでも私が話しかけた理由はただ一つ。――大樹くんの家の前に救急車が止まったのを見たからだ。例のごとく噂によるとどうやら運ばれたのはお母さんらしい。タエさんが気の毒そうにそう話していた。私はその話に頷くばかりだったけれど、どこか胸がもやもやした。
皆が皆、噂が当然のものだと受け入れている。それはどうやら大人になるほど傾向が強まるようだ。それはタエさんも例外ではなく、この地で生まれ、生きてきただけあり、噂話はむしろ好んでいた。タエさんのことは好きだったけれど、この点においてだけは受け付けることはできなかった。それは今でもそうだけれど、どこか拒否反応を示してしまう。胸の奥にわだかまりが生まれてしまう。本人の了承を得ていない情報はどこか棘を含んでいて、苦くて、苦手だ。
だから、この時も私は知ってしまったという負い目があり、一人でいた大樹くんに話しかけた。知ったままの状態で知らんふりしているのがさらに重い業に思えたのだった。とどのつまり――私は自分可愛さに、大樹くんに話しかけたのだ。言葉を交わすのは実に二年ぶりの出来事だった。
「ねえ、だ、大樹くん」
大樹くんは体育の後、校庭の隅で一人座っていた。その背に私が話しかけると少し驚いて身じろぎする。
「……何だよ」
テンションが低い。大樹くんが好きなティーボールだったのに、淡々とした調子で終わってしまっていた。先に行ってもらった春は心配そうにしていたけれど、こんな大樹くんは怖くないし、何だか寂しい。
「お母さん、大丈夫?」
「……なんでお前がそんなこと、聞くんだよ」
家も近いので知られていることは承知していたらしい。私はそう聞かれて言葉が詰まった。
「り、理由って必要なの?」
「だってお前が話しかけてくるくらいなんだから」
確かに口をきいていない相手からいきなり話しかけるというのは反応に困るかもしれない。私は早くも掛けるべき言葉を失って途方に暮れた。沈黙が流れて、それが苦手だった私は所在なく、体操服についた土ぼこりを払った。
「別に大した事ねえよ」
風の音に乗って、やっと大樹くんの声が聞こえた。私はすぐにそれを掬い上げる。
「そ、う……ならよかった」
「盲腸だってさ。手術もしなくていいらしいし、大したことない。痛いって騒ぐし、オヤジいないしで驚いたけど、拍子抜けってやつ? ババアは大げさなんだよな。むしろ入院してくれたほうが静かで良かったのに。っていうか知ってるか? 盲腸はチュウスイエンっていうらしいぜ」
ポンポンと言葉が飛び出した。私はその言葉を不快に感じた。かつての激情が蘇ってくるようだった。やっぱり気落ちしていても大樹くんは大樹くんで、意地悪ないじめっ子だ。お母さんの様子を聞くという目的を達成した私は教室に戻ろうと足を踏み出した。次は給食なので少し余裕はあるが配膳が始まるまでには戻らなければならない。今日のメニューの酢豚を思い浮かべたところで――私は足を止めた。
手が震えていた。もちろん私のではない。ずっと大樹くんの真後ろにいたので気が付かなかった。ほんの少し、ほんの一歩ずれると、それが見えた。黒い体操服のズボンの上で握られた拳が震えている。見てはいけないものを見てしまった気分になって、私は逃げるように目を背けた。思考を巡らせる。指摘するべきか、しないべきか。知らんふりするべきか、しないべきか。考えて、考えて……そこで今日は知らんふりしないようにやってきたということを思い出した。一息吸い込んで、
「私、そういう言い方、きらい」
「知るか」
「雄造くんと何かあったの」
唐突すぎる話の転換に大樹くんは戸惑ったようだった。「別に……」という言葉が上ずっている。私は刀で切り込むような気持ちで口を動かした。そんなことをするのは初めてだった。
「何かあった、よね」
「……」
「たぶん考えたって大樹くんには分からないよ」
大樹くんが勢いよく振り返った。ようやく顔が見える。ぐちゃぐちゃだった。驚きと哀しみと怒りともどかしさが入り混じったどうとも表現できない表情。それを見て、私の囗からポロリと言葉が漏れた。
「でも、たぶん、それでよかったんだとおもう」
「なんで……」
大樹くんが唇をかんだ。
「お前もおんなじこと言うんだよ! 雄造も『ありがとう』って言ったんだ。『わからなくて良かった』って言ったんだよッ! 意味わかんねえ! 勝手に納得してんじゃねえよ!!」
大樹くんが立ち上がって、手を振り回す。その瞳が熱をもって私を射貫いた。
体を竦ませ、けれど私は少し迷って私の考えを口にすることに決めた。どうせ雄造くんはもういないのだ。惨めだろうか関係ない。言われたくなかったのなら、私に脅しの一つでも残していけばよかったのだ。加えて意趣返しの意味もあった。
「雄造くんは私のこと嫌いだったから」
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「わ、分かるよ。睨んでくるんだもん」
「俺は……何を分かってないんだよ」
力ない声だった。
「……雄造くんのおうちって、その……いろいろ大変だったから。タエさんちは大きいし、お母さんは働いてるから私はそんなに困ってない。だから嫌い……というか羨ましい、というか憎かったんだと思う」
憎い。それが一番しっくり来た。両親が離婚して、親戚に預けられた子。可哀想な子だと期待したのかもしれない。
「それで、なんで」
「雄造くんは私のことが憎かった。けどそれを醜いって思ってた。いやだって思ってた。でも知られたくなかった。だから大樹くんが分からないでいてくれて良かったんだよ」
一つ一つ順を追って説明する。それども大樹くんは理解できないようだった。
「意味わっかんねえ……」
俯いて、そう呟く。
たぶん大樹くんは分からない人なのだ。そういう人なのだ。
「でも、そうなのか」
しかし私の言葉を飲み込んでくれた。少し、意外だ。「お前の言うことなんてどうでもいいんだよ、ばーか」ぐらい言われるかと思っていた。それだけ大樹くんは弱っているのかもしれない。
「俺さ。バカだからさ、人のこととかよくわからなくてよ」
大樹くんは私のほうを見て、言い訳するように弱弱しく笑った。
「母ちゃんにもそう言われてよ。大きい囗開けて笑ってた。なのに母ちゃん昨日はあんなに痛がってて、うずくまってて。俺はさ、便秘じゃねえの、とか言ったんだ。けど、息荒くて、顔が青いし、何かライオンに食いつかれたシマウマとか思い出して、俺がまっしろになって、訳、分かんなくて――――死ぬのかと思った、ほんと、マジで」
「うん」
「雄造もさ、いきなりいなくなりやがって、意味わかんねえこと言いやがるし。ボールは無理とか言うし、謝るし、笑わねえしっ!」
「うん」
支離滅裂に言葉が紡がれる。解らないことも多かった。それでも私は頷いた。
「だけどさ……。俺は馬鹿だから、それだから仕方がないのかもな」
「うん」
「そこは『違う』って言えよ、お前」
ははっと大樹くんはようやく笑い、顔が弛む。それに安心して私も笑顔になった。きらいだと思っていた大樹くんと笑い合えることが嬉しかった。一歩踏み出して、大樹くんの新しい一面を知れて嬉しかった。
「お前は何だかいろいろ分かってそうだな。今日、そう思った」
「……でも私もね、分からないことたくさんあるよ」
「へー」
この時は私の囗は軽かった。きっと心が軽かったからだ。思い返すと少し恥ずかしくなってしまうくらい。
「お母さんのことはね、分からないの」
「……別々に暮らしてるんだっけ」
「うん」
「どんなとこが? 俺はよく分かんねえな」
「いろいろ、かな。なかなか会えないし、……た、誕生日も祝っていいかもわからない」
大樹くんは眉を顰めた。なんでわからないんだ、とでも言うように。
「祝っていいだろ」
「め、迷惑かもしれないよ」
「お祝いはあった方が良いだろ」
「なくて清々したかも」
昔からお母さんや、お父さんのの誕生日を大々的にやったことはない。仕事で家にいない日も多かった。それでも「おめでとう」の一言は伝えてきたのだ。
本当は大樹くんに偉そうな囗なんて私は叩いたりするべきではない。人の気持ちはわからないのだから。それでも色々と考えてしまう。わからないことを、わからないのに考えてしまう。それは高校三年生になっても変わらない。三つ子の魂百までだ。時々、目眩がするほど、いやになる。
「お前、めんどくさいな」
言葉に心がひやっとした。悪意ある言葉は鋭く、重い。銃弾で撃たれたような衝撃が心にやってくる。血が頭から全て消え失せてしまう気がするのだ。なのに怖くて反論することはできなくて、大樹くんに言い返したのもたった一度だけだ。
しかし今回はなぜか平気だった。声色は穏やかで、ただ呆れて大樹くんは言う。
「そんなこと考えてっと、何も言えなくなるぞ」
「そう、だね。……めんどくさい?」
「うん、すげえ」
「そっか」
何だか笑いが込み上げてきた。面倒くさい私が、それをはっきりと言った大樹くんが、おかしい。クスクス笑う私を大樹くんが訝しげに見る。
「……変な奴」
傷つけられたはずの言葉が今は平気だった。
「そうだね、良く言われる」
笑うと、大樹くんは少し罰の悪そうな顔をして、「悪かったな」と言った。
「え?」
「前、言ったこと。悪かったな」
「すごく、今さらだね」
「お前が許してくれなかったんだろ!」
「……そうだった。もう、いいよ」
「私もごめんなさい」と言って、私たちは仲直りした。
大きな仕事をやり終えた気がして息をつく。話しかけて良かったと思った。大樹くんは意地悪で、人を簡単に傷つけるけれど、もうきらいだと言えなくなってしまった。一歩先に踏み出して、違う一面を見つけてしまったから。それをすきと呼ぶべきなのかはまだ分からないけれど。
二人で誰もいない校庭を歩き出した。校舎の窓から騒がしい声が聞こえてくる。脇の道路をバイクがけたたましい音をたてて、走り去った。何処からかやってきた赤トンボが視界を掠め、空の彼方へと飛んでいく。
それを目で追いながら、私は小さく声を上げた。
「あ、そうだ」
「なんだよ」
大樹くんが首を捻って隣の私に視線を送る。
「あ、あの、謝ってくれてありがとう」
私がそう言えば、大樹くんは呆けた顔をして、「おう」と応えた。
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