第6話:遠い家

 お父さんの浮気が発覚し、離婚が成立して二、三日が過ぎた日、お母さんが言った。


「悠子はタエさんの家に行ってね。私は忙がしくてあなたの世話はみれないの。お父さんいなくなったからね。ま、清々したけど」


 ――清々したけど。


 それがお母さんの口癖だ。負け惜しみのように、本当にどうでもいいように。時によって違う声色で紡ぎ出されるその言葉は幼い私にとって心地良いものではなかった。

 結婚後も仕事を辞めず、キャリアウーマンとして生きてきたお母さんは格好良い。だけど少し遠くて、近寄りがたかった。いわゆる鍵っ子だった私は家族の時間よりも友達といる方が多く、その友達のお母さんの話を聞いては羨んだものだ。


「タエさん?」

「そう。分かるでしょ」


 タエさんはもう亡くなった私のおばあちゃんの妹にあたる人だ。おばあちゃんは私の物心がつく前に他界したので、私はタエさんを本当の祖母のように思っていた。年末やお盆休みに必ず遊びに行っているので顔もしっかりと思い出せた。


「分かるけど……。どうしてお家じゃだめなの」


 いつも大人しく留守番していた。何かいけなかったのか。

 お母さんは書類を捲る手を止め、私に言いきかせた。


「私はこれからすごーく忙しくなるの。村田課長も期待してくれてるの。だからお母さん、家に帰るのが遅くなっちゃう。それだと悠子が一人になっちゃうでしょ」

「別にいいよ、わたし、待ってる」

「はあ……だからそれだと危ないの。私が小さいころだってねえ……」


 言い聞かせるときに一人称が『お母さん』になること。


 仕事が好きなこと。期待されてること。


 ため息が重たいこと。



 自分の話をするのが好きなこと。


 私はまだ小学二年生だけど全部知っていた。

 たぶん私はジャマモノなのだ。

 悲しくなったが、タエさんの所というのを聞いて少しは気分が晴れた。タエさんの柔らかい表情は好きだ。街の安穏な雰囲気も嫌いじゃなかった。新しい生活に心が踊っていたのも事実。

 けれども私の転入はあまり歓迎されたものにはならなかった。


「白石悠子です。よろしくお願いします」


 教室のどことなく白けた空気を感じる。ちらちらとこちらを見る目は不審げだ。どこかおかしいのかと自分の姿を見てみるけれど、分からなかった。


「なんか、外国人に会ったみたいな。怪我の後ないし」


 その理由を教えてもらったのはしばらく後。同じクラスの平山春からだった。

 家が近所だったから、自然と登下校は一緒になった。ツインテールの髪がよく似合う元気な子。この話をしたのも学校から帰る途中だったと思う。


「外人さん? なんで?」

「感じが違うからかなあ」

「……違うんだ」


 私は少しショックを受けた。けれど、春はそんなことを気にしない。生き物係で一緒だとか、外で遊ばず浮いていて可哀相とか、そういう気持ちで接していなかった。それは春にとっては当たり前かもしれないけれど、私はすごく凄いことだと思う。だから春のことは好きだ。


「気にすることないよ。こっちがみんなサルみたいなんだから」

「さ、サルって……」

「いい例えでしょ」


 話していると二人の男の子が私たちを追い抜かした。しばらく行ったところで振り返り、一方がこちらに向かって叫ぶ。


「お前ら歩くのおせーんだよ! 地蔵だから遅いのかー!」

「おいおい、大樹。止めとけって」


 その声に私は肩を震わせた。

 竹内大樹くん。仲橋雄造くん。同じクラスの男の子だ。いつもキャッチボールをしているのをよく見かけた。


「ちょっと男子! うっさい!」


 春が手を振り上げて叫んだ。しかし、二人はくすくす笑っていて、痛くもかゆくもないらしい。そのまま走り去ってしまった。


「まったく、もう。悠ちゃん、気にしちゃだめだかんね。大樹の奴ってバカなんだから」

「大樹くん? えっと雄造くんは……」

「アイツ、頭はいいんだよね。意地悪するのも大樹といる時だけだし。普段は優しいのになー」

「そう、なんだ」


 春は拳を突き上げ、苛立ちを示す。二人とは小学生になる前からの付き合いらしいけれど、あまり仲良くないようだった。私は春の話に相槌を打ちながらも、先ほどの春の言葉を心の中で反芻させていた。


 ――雄造くんは、優しい、らしい。

 大樹くんのことは意地悪で苦手だったけれど、雄造くんのことは怖かった。何かしてしまった覚えがないけれど、転校してきた日か、私がタエさんの家に住んでいると知った日か、私が新しい服を着てきた日か。そんな辺りから私をこっそりと睨んでくるようになった。その瞳に込められた意味が妬み、恨みがこもったものだと知ったのは大分後のことだったけれど、当時の私も嫌われていることくらい分かる。その強く、澱んだ感情が私は怖かった。



「ただいま」

「あら、悠子ちゃん、お帰りなさい」


 家に帰るとタエさんが迎えてくれた。ただいまとお帰りなさいに慣れていなかった私は最初こそ戸惑ったが、今では自然にできるようになった。

 タエさんの家は数年前に改装した部屋やトイレなどを除き、基本的に和室だ。タエさんは自分の部屋で縫い物をしていた。昨日、私が枝に引っかかってしまった時に破ってしまった服を繕ってくれているのだ。外で遊ぶのが苦手な私には珍しいことだったが、タエさんは笑って「元気が一番」と言ってくれた。


「タエさん、電話使ってもいい?」

「もちろん。今日は特別な日だからね。でももう少し夜の方がお母さんに繋がるかも」


 私の意図が分かったようでタエさんはそう助言してくれた。私はそれを受け入れ、八時、九時と二回お母さんに電話した。けれどどちらも繋がらなかった。


「もう寝たら?」

「うーん……まってる」

「そう?」


 うつらうつらしながら私は言う。電話の横で座って待っているとタエさんは毛布を持ってきてくれた。お礼を言い、温かなそれに包まって電話を待った。


 その次の記憶はけたたましい電話の音だ。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。私は飛び起きて受話器を取る。体中が軋み、慣れない夜の空気が痛かった。


「もしもしっ!」

『あら、悠子? まだ寝てないの』


 咎めるような響きがあった。私は萎縮し、小さく「うん」と言う。


『ダメじゃない。もう十一時になるわよ』

「うん」

『あ、それよりタエさんはいる? 電話がきていたからかけたの。留守電も入っていないから緊急ではないと思ったんだけど』

「あ……それわたしが」

『悠子?』


 その声色に私は電話の前で肩を小さく跳ねさせた。


『お母さん、お仕事忙しいから平日にはかけてこないでって言ったわよね』

「うん」

『はあ……。寂しくなったの?』

「えっと」

『友だちは出来たの? ちゃんとご飯食べてる? タエさんにご迷惑かけてないわよね?』

「うん。大丈夫」

『なら良かった。それからこんな夜更かししちゃ駄目よ。体調崩したら大変なんだから。これから寒くなるんだから気をつけて』

「うん、ありがと……」

『じゃあ夜も遅いし、またね』

「あ……」


 応えたのはツーツー、という無機質な音だった。言葉を選べず、囗の中で言いたいことが溜まっていく。窒息しそうだ。それを何とか唾と一緒に飲みこんで、そっと受話機を置いた。

 迷惑だったのかな――。

 放り出していた手布を拾って、薄暗い廊下を歩く。寒さが足から這い上がってくる。

 誕生日。そのたった一単語をどうして言うことが出来ないのだろう。喉の奥が焼けたようにかっと熱を持った。


 迷惑なんか掛けてないよ。すごく優しい友だちもできた。苦手な子も。ご飯もおいしい。夜更かしだって全然してないんだよ。でも今日は特別だったから。

 ねえ、お母さん。――体調を崩して大変なのは誰?


「悠子ちゃん?」


 寝間着に着がえていたタエさんが部屋の中から首だけ出して私を見ていた。


「ダメ、だった」


 私はへらっと笑ってそう言った。


 お母さんはすごく格好良い。それに私を大事に思ってくれている。朝食と夕飯はどんなに忙しい時でも置いていってくれたし、時々はメモも残してくれた。入園式や入学式の行事には遅れてでも来てくれた。卒園式の日には泣いていて少しびっくりしたっけ。


「そう……あの子ったら」

「言わないでね」


 タエさんは憂いの表情を浮かべて少し迷い、結局頷いてくれた。それから私の好きな笑みを浮かべて笑う。


「今日は同じ部屋で寝ましょう。その方が温かいわ」

「……うん!」


 ――お母さん、今日はね、特別な日なんだよ。


 私は部屋から自分の布団を持ってきて、タエさんの布団の横に敷き直す。


「ねえ、タエさん」

「なーに?」

「……なんでもないっ!」


 私は布団を被って夢の中に逃げ込もうとした。心の中で呟く。


 ――お母さん、今日はね、お母さんの誕生日なんだよ。祝ってはいけなかった?


 お母さんは決して私の誕生日は忘れない。祝ってくれる、けれど祝わせてはくれない。

 善意は必ず受け取られる訳でもなく、伝わる訳でもないことを初めて知った、夜だった。

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