第5話:私の知り合い
顔が熱い。たぶんこれは気温のせいだけじゃない。
私は階段を駆け上り、春が待つ教室へと急ぐ。リノリウムの床を見つめ、早足で歩いていれば、ふと影が私を遮った。
「おい、白石」
日に焼けた肌。丸刈りに少し髪が生えてツンツンしている頭。小学校の時から見知った顔である。
私の知り合いの竹内大樹くんだった。二十センチ近い身長差も相まって見下ろされるとかなりの威圧を感じる。それで舌打ちされるととても怖い。
「な、なに。大樹くん」
顔、まだ熱いかも、しれない。どこかふわふわとした世界で私の頭はやけに素早く回転している。不審に思われないよう、平生を装い言葉を紡いだ。というのに――。
「お前、山本に――」
「ひきゃ!」
『山本』と言う言葉を聞いて、私は一目散に逃げ出した。
な、なんで大樹くんが知ってるの。ついさっきのことだというのに。
背に何か声をかけられたような気もしたけれど、立ち止まれなかった。ごめんなさい、と心の中で謝っておく。
そのまま三年二組の教室に駆け込めば、友だちの平山春が受け止めてくれた。そして開口一番に尋ねてくる。
「どうだった!」
「こ、告られました!」
「ヒュー、やるねー、後輩の……」
「や、山本くんです」
初めて告白された。その事実に顔がいっそう熱くなる。
「で? で? なんて返事したのよ?」
「断わったよ」
「なんで?」
そう問われても私は即座に答えることができなかった。嫌いではない。だがお付き合いとなると想像できなかった。確固たる理由はなく、なんとなく、なのだ。
その曖昧な理由に春は苦笑した。
「うーん、悠ちゃんぽいけどね。それじゃあ一生結婚できないよー」
「それに遠距離とかハードル高いし……」
「そっか……東京帰るんだっけ」
さびしいなあ、という春の言葉に私は色々な思いが錯綜する。ここを離れたくないような、お母さんの元に帰りたいような、悲しいような、嬉しいような。相反する感情だ。
「あ、そういえば……」
「なに?」
「竹内にはそのこと言ったの?」
首を横に振った。
「いつ言うの?」
その言葉の意味を捉えられず、私は首を傾げた。
「言うつもりなかったんだけど」
「はあ!? なんで!」
「だってきっと大樹くん、興味ないだろうし……」
「興味は示さないだろうけどさ……絶対気にしてるよ」
「そうかなあ、だって友達でもないのに」
春はあっけにとられたように囗をポカンと開けて、次いで盛大にため息を落とした。
確かに礼を失した行為かもしれない。関係性はどうであれ、十年ほどは同じ学校に通ってきたのだ。家も近く、帰りも一緒になることが多い。そう、今日も。
「あ」
「……おう」
昇降口を出ると大樹くんに出くわした。携帯を弄りながら、出てすぐのところに階段に座っていた大樹くんは私を見ると立ち上がった。
「帰りか?」
「う、うん。大樹くんも?」
「ちッ。その呼び方止めろって言ってんだろ。……まあ、そうだ」
「誰か待ってなかったの?」
「別に」
私たちは歩き出した。まるで昨日の夕暮れのように。
「平山は?」
「部活だよ。美術部は秋の文化祭までやるんだって」
「ふーん」
大樹くんが空を見上げてそう応えた。会話は途絶えた。
ほら、春。大樹くんは私の言うことなんて興味ないんだよ。
心の中でそう呟いて少し悲しくなった。
私は駅で電車に乗って十分。そこからバスに揺られて三十分。さらにバス停から歩いて家に到着する。大樹くんは家まで送ってくれることがほとんどだから約五十分は隣にいるのだ。しかし、ちっとも話さない。
電車もバスも座席を一つ開けて座る。歩く時も私は半歩下がる。まるで淑女のようだが、実際は隣にいる気はないのだ。私も、大樹くんも。
駅につき、ようやく最近導入された電子カードで改札をくぐった。時間を見て学校を出たため、電車は程なくホームに入るだろう。
「あ、あのさ。大樹くん」
ふと思い出し、タイミングも分からず囗を開いた。大樹くんは鬱陶しそうに振り返った。
「何だよ」
「あのね、私、大学は東京の方に行くことにしたの」
僅かに瞳を大きくした。
大樹くんは何かを振り払うかのように前を向いた。
「何で俺に言うんだよ」
「う、うん。私も言うつもりはなかったんだけど……」
「な、なんで言わないんだよ!」
大樹くんは前を向いたり、振り返ったりして忙しない。私はその声に肩を跳ねさせ、小さく言葉を続けた。
「だって大樹くんは気にしないと思ったから」
「き、気にはしねえけどよ……。普通友達には言うもんじゃねえの」
私は首は傾げた。大樹くんは私の疑問が分からないようで眉間に皺を寄せた。
「えっと……トモダチって…………私と大樹くんが?」
「はあ!? 逆に誰と誰だよ」
「で、でも私と大樹くんって……ともだち?」
「お前は今まで何だと思ってたんだよ」
「知り合い、かな? あ、クラスメイト!」
閃いたと私が視線を上げれば、大樹くんは大きくため息をついていた。何だか今日の大樹くんは分かりやすい気がする。物分かりの悪い私に呆れ、苛立っているのだ。
しかし仕方がないのでは、と私は心の中で不平をこぼす。一体友達か、そうでないか、という線引きをどこでして良いかなんて分からない。自身の直感に依るものであり、きっと普遍的な定義は存在しないのだ。そして、私の判断では大樹くんを『友達』と呼ぶには違和感が大きすぎた。
しばし二人とも囗を紡んだ。私はてっきりこの話は終わったとばかりに思っていたから、大樹くんが言葉を発したときには虚をつかれた。
「……母親の所が良いのかよ」
私ははっと顔を上げた。
東京に帰る。お母さんと暮らす。
結果的には同じことになるのだが、多少の事情を知る大樹くんには違いが分かるのだろう。だから私に何のために帰るのかを問うているのだ。
「で、電話がね、あったの」
聞いていることを示すように大樹くんは小さく肯く。それに背中を押され、私は言葉を続けた。
「『戻ってきて一緒に暮らしてくれないか』って言ってくれたの」
「お前ッ!」
大樹くんははっきりと怒った。もしかしたら、と予期していたことだったが、あまりの剣幕に息を止まった。
「そんなんで良いのかよッ! ずっとほっとかれて、年に一度会ってるくらいだろ! それなのに帰ってきてくださいって頼まれたら帰るのかよ!? プライドあんのか!? お前……なんか、スゴくバッカみてえッ!!」
――バッカみてえ。
子どもの口喧嘩で飛び出すようなその言葉は私の心を深く抉った。私は思わず胸に手をあてる。小さな鼓動に一息ついた。
別に暴力を受けていた訳でも、無視されていた訳でも、食事を与えてもらえなかった訳でもない。年末には会えたし、時間が合えば電話もできた。私とお母さんは十年ばかり離れて住んでいただけだ。それだけだが、幼い私には少し遠く、長すぎた。たぶんもう、お母さんとどう接すればいいかさえ、覚えていない。否、一緒に暮らしていた時も分からないままだったか。
「……で、でもお母さんなんだよ」
「理由になってねえ」
それ以上の理由は見当たらなかった。しかし私は場に流され、仕方なしに東京へ戻ることを決めた訳ではない。そのことが大樹くんに伝わらないことが悔しかった。下唇を噛み、絶えていると大樹くんの小さな声が耳に入った。
「……金か?」
それは大樹くんが過剰に反応するものだ。私は首を振った。大樹くんは一息つき、
「お前はさ……」
何だか酷く寂しそうな声だった。
「雄造のこと覚えてるよな」
私は肯く。
「お、覚えてる。大樹くんの友達の」
私のことが大嫌いだった男の子――。
憎らしくて、憎らしくて、仕方が無いかのように私を睨んでいた。
「覚えてる、か」
力の無い声に戸惑って、さらに説明を加えた。
「冬でも薄着で野球が好きで……えっと妹さんがいたよね」
最後は泡沫のように消えていってしまった。学校の先生からは「転校した」としか伝えられなかったけれど、皆その事の顛末を知っていた。小さい町だ。良くも悪くもすぐに情報は伝播する。
大樹くんは首を縦に振り、合っていることを示した。しかし、未だ眉間に皺が寄り、口元は強ばっていた。
電車がホームに入るアナウンスが流れる。
「じゃあ俺は?」
「え?」
私の囗からポロリと言葉が零れた。
「お前はさ、よく人のこと見てるし、他の奴がぼんやりとしか覚えてない奴のことも覚えてる。けどよ」
車体が揺れる音とプオーと電車のなき声。
「――俺のことは、どうでもいいよな」
「違う」と叫ぼうとした声は丁度目の前を通過した電車に掻き消された。風が吹き、反射的に目を細めた。電車がブレーキ音とともに停車する。大樹くんはそれ以上何も言わず、開いたドアから車内に足を踏み入れた。
否定しようと思ったのに、もう言葉を紡げなかった。
――本当に?
否定しようとして、しなかったんじゃなくて、出来なかったのではないか? だって、それが……。
――そこでようやく私は大樹くんのことを全然見ていなかったことに気がついた。
高校生の大きい大樹くんの背が体操着姿で震える小学生のものに重なる。
その幻想を首を振って払い、私も黙ってドアをくぐった。車内は閑散としており、席は何処も空いていた。
いつも通り、私たちは離れて座席に座る。
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