第4話一縷
「大樹ったらダメダメ。さいてーだぜ、それ」
それから雄造は「ばーか」と続けた。
そのストレートな言葉は俺の胸をちくりと刺し、しかしそれを気が付かれたくなくて、すまし顔を作っていた。
「あいつが急に怒るから」
「そりゃあ怒るだろ」
真っ当なことを返されて何も言えなくなる。それでも認められない。
「あいつが悪い」
「どこがだよ。何も悪くねーじゃん」
雄造がカラカラと笑う。
あの白石激怒事件の次の日だった。よそよそしい――もともと仲良くもなかったが――俺と白石を見て雄造がしつこく尋ねてきたのだ。
算数の宿題を忘れた俺たちは貴重な放課後をプリントに向き合って過ごしながら、話を続けた。
「謝んねーの?」
「うっ」
「まあ今日は無理だな。これあるし」
キャップをつけてやっと親指ほどの長さになる鉛筆で雄造はプリントをトントン、と突いた。
「雄造、なんで覚えてねーんだよ。俺もだけど」
「そうそ。なんで大樹も覚えてねーの。ま、大樹は忘れ物多いから仕方ないけど。二人そろって忘れるとかバカじゃん」
「お前だって給食費袋、よく忘れるくせに」
「……それとこれとは違うのー」
毎日のように遊んでいた俺たちは宿題の話題は二人で共有していた。どっちかが忘れていても、どっちかが覚えていたのだ。大勢で遊ぶときは尚よし。確実に「宿題何だっけ」と言う奴がいるから安心だった。が、昨日は一緒に帰ったものの、妹の世話があると言って雄造とは遊ばなかったのだ。他の友達とも遊ばなかった。おかげで宿題のことなんてすっかり忘れていた。
「あれ4×7しひち……にじゅうなな?」
「バカ。二十八! それは3×9さんく!」
習いたてのかけ算に四苦八苦しながら、鉛筆を動かし、終わったときにはもう十六時近くになっていた。ぐちゃぐちゃ話しているのがわるかった。鐘が鳴るのが十六時半だから今日は遊べない。
「あーあ、つかれたー」
「はあ、今日も野球できねー」
俺たちは傾いた太陽を背に帰り道をゆく。
目の前にはのっぽの影がある。
その影を見つめながら、俺は言った。
「明日、謝る」
「ふーん、いいんじゃね」
雄造の肯定を受けて、少し勇気が出た。何でもないように言うから余計にありがたかった。
もし白石が泣き叫んでくれたら……。「面白かった」――さすがに高校生にもなれば最低だと分かるけども――で済んでしまったかもしれない。けれどあれはおふざけで過ぎないのは小学生の俺にも分かった。
だから謝る。俺なりに、馬鹿なりに考えた結果だった。こうして俺は白石に謝罪の言葉をかけたのだが……。
「わるかったな」
「……」
「おーい、聞いてんのか」
「……きらい」
白石は許してくれなかった。
五回謝罪し、うち三回は「きらい」と返され、二回に至っては無視だ。何とか我慢した俺だったが、もう五回となれば堪える気になれない。最後には「お前なんか知るか、ブスー! 地蔵ー!」と叫んで終わった。この件で学んだのは白石悠子という人間は頑固で執念深い奴だ、ということだった。
それからは一回もロを聞かず、なんとそれは五年生まで続いた。約二年間。俺も白石も意地になっていた。クラスの奴らは俺たちを不思議そうに見ていて、平山は俺を睨み続け、雄造はよく続くものだと呆れ続けていた。
その長すぎるケンカが終わったきっかけは――――雄造が転校したことだった。小学五年生の秋、落葉が地面を彩り始めた頃だった。
小学五年生になっても俺の生活は変わっていなかった。かけ算はできるようになったけれど、今度は社会で躓いていた。どうやら俺は暗記物が苦手らしい。
だがそんなことは気にしない。受験なんて言葉は小学生の俺の頭の中にちらりとも浮かんでこないのだ。家に帰ってきて、ミットと一日おきにボールを持って出かける。鐘が鳴ったら帰ってきて宿題をやる。それのただ繰り返すだけ。なのにとても楽しかった。
その日も俺はミットを手に家を出かけた。今、思えば少し町が騒がしかったかもしれないが、疎い俺が気づくわけがない。いつも通り校庭で雄造を待っていた。家までの距離からして常に俺が先に到着するのだ。
しかし雄造は三十分経ってもこなかった。その頃にはおかしいな、と思い始めていて、校舎についた時計を眺めていた。
暇つぶしするにもミットしかない。ボールはその日、雄造が持っていたのだ。
ボールは中学校の野球部から古くなったものを譲ってもらったものだ。だからどちらのものでもないから、一日おきにそれぞれが持って帰ることにしていた。
俺は周りのやつと遊ぶ気にもなれなくて、校庭の端で土を弄くる。何となく心細くて、心底つまらなかった。だから雄造が駆けてくるのが見えた時、安心しつつ苛立った。それに手にはミットを持っていない。
「ミット忘れるとかバカか、あいつ」
からかってやろう、と思って立ち上がって手を振った。
だけれど必死の形相で走ってくる雄造を見ると、その気持ちは消える。俺の目の前で立ち止まった雄造は息が整わぬ間に、こう言った。
「転校、することになった」
小さくなったズボンを強く握りしめていた。
開口一番にそう言われた俺は呆けて、言葉を繰り返す。
「転校?」
「う、ん」
「い、いつ!?」
雄造は黙ってしまった。首を振って何かを否定する。
今日の学校では普通だったはずだ。帰り道も。一体何が何だか分からない。
「あの、俺……」
突然雄造が覇気の無い声で言った。
「さいてーだったんだ」
「は?」
「謝りたいこと!」
なんで、そんな最後みたいに。バカな俺には意味が理解できなかった。
「大樹に白石のこと話して、白石のことうらやましくて、あいつ広い家に住んでて。ランドセルも服も新しいし」
「は? 意味分かんねーよ……」
「分からなくて、いい。分からないでいてくれてありがとう」
勝手に完結させようとしている。そう感じとって俺は焦燥に駆られた。
「どういうことだよ」
「俺は白石を妬んでた。なのに大樹が悪いって言ってごめん。ずっとケンカさせてごめん。ごめん」
そんなに謝られても俺の頭は働かない。手の先が冷たくなり、焦りで訳が分からなくなってくる。
「あ、あとこれ。もう無理だから」
そう言うとボロボロの野球ボールを差し出してきた。買い替えることはなかった。二人のボールだから。なのに雄造は一生俺に預けようとしている。
そこで俺のキャパシティは限界だった。
「だからっ! 意味分かんないってッ!」
言葉と共に雄造の手を払った。ボールがグラウンドの上を転がる。雄造は自分の手とボールとの間で視線を彷徨わせた。
「……ごめん」
「俺も、ごめん」
俺が小さく謝れば雄造も謝った。だけれど俺は決して謝罪が欲しかったのではない。身勝手かもしれないが、雄造が笑ってくれさえすればよかった。カラカラと俺の不安と苛立ちを吹き飛ばしてほしかった。
だが、
「――」
雄造は無言に耐えられず、俺に背を向けて駆けだしてしまった。そして俺はその背中を追うことができなかった。そんなことをするのはひどく恥ずかしいことのように感じた。すでに校庭の幾人かの視線が俺たちに向けられていることに気がついていた。
――明日とっちめてやる。
そう決意して、その日は家に帰った。
――けれど次の日、雄造は学校にこなかった。次の日も次の日も、こなかった。やがて気まずそうな先生の囗から転校したことが告げられた。俺が気になって家に行ってみると、空っぽになっていた。人のいない家は廃れるのが早い。あっという間に廃墟となった。
雄造の父親が勤めていた町工場が潰れたという報を聞いたのはそれから幾日もたたないうちだ。大分前から経営が立ちゆかなくなってらしい。
――夜逃げ。
そんな言葉がこそこそと町を這いずり回っていた。心底気持ちが悪かった。
会社が潰れるなんてこと、俺には全く関係の無いことだと思っていた。大人になれば心配になることで、ケイキもエンダカも縁のないことだと。しかし、それらは無情にも日常を奪っていくものなど初めて知った。家計簿の前でため息をつく母の背中も、イラつく父の大人げない態度も、少し考えてみれば関係ないことなどではなく。気がつかないだけだったのだ。
――白石と仲直りしたのは、そんな時の出来事だった。
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