不具合 #012

二月十三日。


 くたばりなさい。なるべく早く。音も無く。

 明日なんか、だいきらいだ。


 冷たい布団を丸めて被り、巨大な大福を作り出す。福なんかとは縁遠い痛みにも似た寒さが足の指先を突く。知っていますか? 毛布は布団と自分の間に挟むよりも、布団の上にかけたほうが保温性が高く、更には自分と敷布団の間に敷くのが最も暖かく感じる使い方の一つなのだそうですよ。にーどれすとぅーせぇい、毛布持って無いんですけど。

 室内の、それも布団に頭ごとすっぽり被った状態じゃ外は愚か周囲の音も聞こえ難いはずなのに、耳を擦る布団の音が一度新雪を踏む足音に聞こえた気がしてしまうと、深々と降り積もる雪の音まで聞こえ始めやがりまして、一面の銀世界の真ん中でぎゅむぎゅむと雪を踏み鳴らして歩く情景が頭の中でとてもリアルに動き出し、より一層寒くなるのであります。ちくしょう。

 あぁ、雪の降らない所に住みたい。もっと言うと冬そのものが寒くなくて、夏は暑くなくて、年中同じ袖丈の衣類を着ることが出来て、でも四季はちゃんとあって、ここだ! という時に念じたら一日が二百四十時間になったり二時間になったりする所に住みたい。贅沢は言わない。最後だけ叶う場所ならそれでいい。ちなみに明日は二時間どころか二秒になっていただきたいですね、えぇ。


 「いや、ダメだろ」

 どんだけ不具合バグ抱えてると思ってんだ、今。時間十倍にしても明日に間に合うかかわかんねぇっつーのに、連日の不眠不休で体内電池が切れて止む無く睡眠を取らない方が効率が悪いと判断したばっかりじゃないか。だが、明日を二百四十時間にして間に合わせるくらいなら、高らかに笑いながら一日を二秒にして納期のロストを選ぼう。脳が、体中に何億あるか解らない細胞一つ一つが、まるで明日を受け付けない。口にしたくもない。思いたくもない。くたばりなさい。なるべく早く。音も無く。

 「だいきらい……だ……」

 足の指先が温もりを知り、程よくほぐれてくる。近づいてくる眠りとの絶妙な距離感を楽しむように逆に少しだけ冷たい部分に触れてみたくなってくる。力の入っていた全身もいつの間にか緩み、布団に丸め込んでいた頭が外気を求める。ぽこん。大きく一息。つんとくる冷気が逆に心地よくすら感じて、吐く息に混ざって至福の声が漏れてしまうのです。

 「もおおおぉお!!」

 違います。断じて違います。

 「どこがダメなの!? なんなの一体!!」

 こんなアグレッシブな吐息、した事ないです、念のため。

 「最初からやりなおす? 無理無理無理、絶対無理。間に合わない」

 思い切り深く眠ってしまっていたのだとしてもいい、夢なら一回覚めて。なんかすごい既聴感があって、すんげーイヤ!

 「どーする、どーする! 落ち着いて、落ち着いてから、どうするの!?」

 そりゃ、やるしかねーだろ。

 「やるしか、ないわよね」

 うん。だな。

 「ううぅぅ…………」

 からのー?

 「もおおぉおぉおおおおお!」

 「うるっせええぇえなおるぁああああ!!」

 「きゃあああぁあああーー!??」

 「ああぁあええええええぇえ!?!??」

 絶叫ラリーで大変申し訳無い。状況再現、臨場感をアナタに、というやつであります。


 寝ている時間などないのに寝ざるを得ず、いざ寝てみれば白銀の世界に呻き叫びの怒鳴り声。覚ました夢と視界の先に忘れる事など出来ぬ影。ただ一つ、違った事があるならば、ただ一つを除いて、何もかもが違った事だ。

 「いや、いやぁ!! 誰!? 誰なのアンタ!!?」

 「お前こそ何だよ! って、バグか? バグならバグでいいけどよ、なに人のパソコン勝手に触ってんだよ!」

 「おかしい、絶対頭おかしい。け、けいさつ……警察!!」

 「警察!? は!? どっちかっつーとお前が不法侵入だろうが!」

 「もういやぁ……夢なら覚めてぇ……」

 電気の付いていない六畳ワンルーム、中央に置かれているだろう小さなちゃぶ台を挟んで不具合バグの女性と対峙している。モニタの明かりが目の前の誰かをシルエットに変えてはいるものの、ふわっとウェーブのかかった長めの髪型、という事はなんとか解る。揺れ動く髪の隙間から真白の光がちくちくと痛い。

 「い、一回落ち着こう、お互い。なんかいつもと様子が違う」

 「様子も何も、あんたなんか知らないわよ」

 「そうじゃねぇよ。そっちもこっちも、ここが自分の部屋だと思ってる。わけあって、こっちは突然見知らぬ人が部屋の中にいた、っていう状況が珍しくない状況下にいるんだ。でも、その相手はいつも、妙に落ち着いていて、すぐに状況を受け入れてたというか……今思うと何なんだろうなあの厚かましさは。もう少しパニックになってもよかったんじゃないか、ってくらい――」

 ぱ。天井にへばりついている円盤宇宙船みたいなやつが突然白色の光を放ち、辺り一帯を照らしだす。

 「不法侵入はあんたよ!!」

 薄汚れていない白い壁、ちらかっていないシンク。木目むき出しだったはずのパステルカラーちゃぶ台、敷いているはずがありませんマーブル模様のカーペット、こんなのありませんよ電気ストーブ、自分とこのせんべい布団にイースト菌混ぜて寝かせて焼いたらこうなるのかなってくらいふかふかな布団と枕。淡いピンク、青、紫でまとめられた小物達が所狭しと並ぶデスク、ヘッドレストレス全然エキストラハイバックじゃないチェア、丸みを帯びたケースにモニタフレームの上に小さなマスコット人形を並べてあるパソコン――既視感しかない六畳ワンルームの間取り以外は、まるで別人の部屋だった。更に続けると、そう認識したのは暫く経ってからの事であって、そんな事よりももっと目を離せない事が目の前で起きていた。白系にも関わらず膝上まである長くて暖かそうなロングニットのチュニック縦編セーターにシンプルなスキニージーンズ、こんな寒いのに何故裸足。そして、忘れるはずがない綺麗な明るい茶色にカラーリングされた愛されゆるふわヘアー。極めつけはアンダーリムの細フレームメガネ。

 「き……」

 「き?」

 半歩、前に出る。半歩、下がられる。

 「き!」

 半歩、前に出る。一歩、下がられる。

 「喜雨さん!!!」

 喜雨さんと呼んだ目の前の彼女は、それ以上は眼球が落ちてしまいますというくらいに目を見開いて、

 「どうして……どうして知って……い、いやぁ! 誰か! 誰か助けて!!」

 「落ち着いて喜雨さん! 忘れてしまっても無理は無いけど、あ、そうか、一回いなくなったら記憶は無くす感じなんだな。一から説明するから、まず落ち着いて、喜雨さん、お願いだから」

 「ストーカー! 誰か! お願い助けて!! ころ、こ、ここ殺される、う……うぅ……」

 うわぁぁん。その場に膝から崩れ落ち、その細い体のどこから出るのか不思議なくらいの大声で泣きだしてしまった。泣いた顔もって違うだろ! どうしよう、泣かせてしまった。どうしよう、どうしよう。何をどう言おうがしようが、この部屋が明らかに彼女の部屋の様相である以上、不審者は自分だ。ストーカー、警察、もっともだ。でも自分はどうにかしなきゃいけない。何がどうなっているのか、誰よりもよく解っていないのも自分なのだから。座り込んだまま上を向き大声で泣き出してしまった彼女に一歩近づこうとして、やめた。違う、逆だ。持ち上げた足をそのまま後ろに戻し、大きく数歩下がって電気ストーブとベランダの窓ガラスの間まで下がった。うわ、さむ……! でも、これでいい、こうするしか、思いつかない。

 「喜雨さんが落ち着くまで此処にいます。いや違う、落ち着くまで、居させて下さい。お願いします」

 両手を顔の高さに挙げ、手のひらを彼女に向けた。そのままヒラヒラと手を振って変顔をすれば完全に相手を馬鹿にする仕草になる手前のあの状態。

 「いや、いやぁ……もう、いやだぁあ」

 「あつかましいのは承知ですが、落ち着いてから、説明をする時間をください。きっと信じてはもらえないし、理解もされないだろうけれど、この互いが理解しきれない状況について話をさせて下さい。その後で、それでもストーカーと断定して警察を呼ばなければならないと、喜雨さんが判断したなら――」

 嫌だけど。

 「――そうしてもらって構わないです。それくらいの事をしてしまったわけなので」

 不可抗力だけど。

 「最後に、泣かせてしまってすみません。そんなつもりは」

 ありませんでした。

 「危害は絶対に加えません。ベランダに出ていたほうが良ければそうします。ってか、そうしようと思ったんですが、カーテン屋窓の鍵、部屋のあらゆる物に触れる事も失礼だと思ったので、ここに立っている事が精一杯です。絶対に危害は加えません。でも、どうしてもしておきたい話があるんです。落ち着いたら、落ち着いてからでいいです。どれだけでも待ちます。待たせて下さい、お願いします」

 願いが強すぎて、思わず感嘆符を付けてしまいたくなるのを、怖がらせまい一心で抑えこむ。

 「……どうせ、嘘でしょ」

 危機的状況にも関わらず心底安心した。話をしたい、という願いは聞き入れてもらえそうで。

 「喜雨さんからしたら頭おかしいやつの戯言だと思うけれど、どうか聞いて下さい。頭の中がパニックなのは自分も一緒なんです」

 「……さっきから」

 「え」

 「さっきから……人のこと気安く名前で呼ばないで! 知り合いでも無ければ変態のくせに!!」

 やっぱり、記憶は無いんだな……対峙した時に分かりきっていた事でもあるし、あからさまに口調があの時の喜雨さんではないもんな。でも、それを除けば、背格好や声は、あの時出会った喜雨さん以外の何者でもなかった。

 「す、すみません。貴女に瓜二つの女性が部屋に突然――」

 少しだけ、嘘をつきます。

 「――部屋を訪ねてきた事があって、その人も自分を"きう"と名乗ったものだから、つい……やめます、金輪際やめます」

 完全に腰が抜けてしまったのか、彼女はこちらへの視線を途切れさせないようにしつつも手を伸ばせる範囲で掴める物を探していた。多分、殴ったり、叩いたり、切ったり抉ったりするような何か。残念ながらショック吸収性抜群のクッションしか無く、それを掴んで胸元に思い切り抱え込んだ。数秒の硬直をあざ笑うように電気ストーブが大音量の場違いなメロディを放つ。二人の背筋が伸びに伸びたのは言うまでもない。

 「こ、これ、何の音ですか……」

 「……タイマーアラーム。電気ストーブの」

 「すげぇな昨今のストーブ……じゃなくて、このまま放っとけば消えますか?」

 ピーピラリー♪ ピロピロリラリー♪

 「消えるけど、ストーブも消えちゃう。延長ボタンを押さないと」

 「言われた場所に離れますんで、押して下さい」

 彼女は、両手で床を何度か押す仕草を見せるが、うーといった顔。

 「……押して」

 「いや、でも」

 「いいから、押して。手前に緑に光ってるボタンがあるから」

 「はい、押します。押すために一歩前に出ます」

 彼女をこれ以上怖がらせないために、自分の行動の全てを彼女に伝え、許可を得てから動く。これがあの窮地でたどり着いたただひとつの答えだったが、なんとか上手くいってるみたいだ。細かいくらいに自分のする事を言葉にし、異論の無い事を確認してから作業に移ったので、ストーブの延長ボタンとやらを押して元の位置に戻るまで何分かかったかわからない。能の演者はそのスローでなめらかなな動きを体現する事によって酷使される心身に、心拍数が二百を超えるなんて事もあるらしい。電気ストーブとカーテンの間の定位置に戻ってきた時には、額から汗が滴り落ちそうになっていた。

 「……話って、なに」

 「聞いてくれますか」

 「聞かないと出てってくれないんでしょ!」

 そうなんです。靴があろうがなかろうが、玄関からさよならーって逃げてしまえば済むものを、この時はまるで選択肢にあがらなかった。考えにも及ばなかった、といった感じだ。それはきっと彼女も同じだったのか、そう進言される事も無かった。パニックというのは、きっとそういうものなんだろう。

 「じゃあ……沢山ありすぎて、何から話せばいいかわからないんですけど……」

 自分の部屋に突然現れた人たちの事を思い出しながら、すんなり状況を受け入れざるを得なかったのは、例え引っ込み思案の小心者で話す事すらままならなくなってしまうのだとしても、相手が女性だったからという要因が強かったのだろうと今この状況に立ってみて痛感する。同時に、ほぼ全ては仕事の納期が迫ってきている緊急事態の畳み掛けだったので、細かい事がどうでもよくなってしまう勢いがあった。だが今回は、そもそも大前提が違う。ここは自分の部屋ではない。まるで、自分が不具合バグの化身となって彼女の家に突然現れたような――

 「あ」

 え、うそでしょ。

 「あ? ってなによ」

 「あ、いや、えっと」

 は? そんな事あるの? そんな事つーたらこれまでの数々の妄想だと思いたかった色々も十分値するんだけどさ。

 「あの、説明をする前に、まず最初に聞いておきたい事があります」

 ですよね、話すと言っておきながら聞くとかやっぱ頭おかしいって顔しますよね。

 「……なに」

 でも、でもだ。それを確認して何になる? そうだろう事はこれまでの独り言や唸り声で察しが付いている。ワタクシは不具合バグの精。あなたが創りだした不具合バグの精なのです。こんばんは、はじめまして、フェアフェアリー☆ とかやりゃいいのか? アホか、最短ルートで檻の中だ。

 「すみません、やっぱりいいです。すみません。自分も何が起こっているのか状況が掴めていないのは同じで」

 疑いの沈黙。切羽詰まっている状況にこんな仕打ち、本当に申し訳ない。できるだけ早く仕事に戻ってもらえるようにはどうしたらいいかを必死に考えながら、滴りそうな汗を絶対に床に零すまいと、出来損ないのパントマイムみたいな手つきをしながら続けた。

 「あの時、明日に備えて自分の布団で寝ていました。暖房器具など持っていないのでとても寒くて、頭から布団を被って、ようやく温まってきたからと布団から顔を出したら――」

 信じてもらえないでしょうけど、

 「――あなたの、もおおぉお、という声が聞こえてきたんです」

 自分も、飛びかけていた記憶を少しずつ集めながら、ゆっくりと話した。あからさまな異論が彼女の眉間に集中するのが解る。

 「そんなの信じろっていうの? バカじゃないの? ストーカーの妄想とか虚言でしょどうせ……」

 彼女は、はぁ、と詰まりに詰まっていた息を吐きつつも、何度も視線が仕事机に行っては戻りを繰り返す。困った。起こす側と起こる側、性別が違うとこういう事になるんだな。そりゃそうだ、超常現象だろうがなんだろうが相手から見りゃ犯罪だ。こっちも納期ギリギリの戦いの所でつかざるを得なくなった床の顛末がこんな事になってしまい、どっちをどうしてなにをどうなったら何が収まるのか皆目見当もつかない。でも、そんな事よりも、恐怖心や猜疑心の方が人を壊す。彼女が例え別人の喜雨さんであったとしても、誤解は解いてから逮捕されたい。嘘、出来る事ならされたくない。そういう強烈なエゴが様々な迷いを振り払いながらなんとか話を進めている状況が今です。

 「はぁ……もう間に合わない……」

 頭を抱えてしまった彼女を見ていると、独り寂しくもがき苦しんでいた自分が何度も何度も投影されて、こんな姿だったのかと思い知らされる。きっと彼女は沢山の親友と素敵な恋人に囲まれて暮らしているのだろうけども。

 「あの、初対面の貴女に、最初で最後、一生に一度のお願いがあります」

 「聞くわけないでしょ!!」

 「じ、自分に何かをして欲しいとか、こっちが何かをしたいとか、そういうんじゃないです。ただ……その"間に合わない"が間に合うように、何もしない事をしていても、大丈夫ですか、と、思って……」

 「……はぁ?」

 「絶対に危害は加えません。許可をいただかない限りは一切此処を動きません。何もしません。貴女はその"間に合わない"が間に合うように今すぐ取り掛かってください。ただ、その間、何もしないで此処に居る事、それだけを許して欲しいんです」

 ぼふっ、とクッションに顔を突っ込み、数回頭を左右に振ってから、掛けていたことを忘れていたかのようにメガネを取って鼻頭を抑えながら、更に強く睨み返して彼女は言った。

 「自分で言ってる事がどういう事かわかってるの……?」

 「はい、わかってます。これ以上無く、わかってます。ベランダの外でもいいです、カーテンを開けて、窓の鍵を開けて、外に出る許可さえもらえればいつでもそうします。少しだけカーテンを開けておいて大丈夫であればそうさせてもらって、そこに見える位置に背を向けて立ちます。あとは、あとは……」

 「じゃあ、そうして」

 そうして、というのは。

 「今すぐ外に出て!!!!!」

 「はい、ただいま!」

 そそくさとカーテンを割り、鍵を開ける。出来る限り冷気を入れ込まないように忍者の壁返しの術よろしき身のこなしでドタバタとベランダに出て窓を閉める。少しだけ開いた明かりの漏れるカーテンの継ぎ目付近に背を向けて立ち、両手を顔の横に上げ直した。

 さっっっっぶ!!!?!

 心のなかで絶叫した。目の前は明らかに自宅前の天候では起こり得たことのない猛吹雪で、当然眼前の景色は愚か、横にあげているはずの両手すら霞んで見えるくらい。こちとら衣類こそ普通なれど、就寝前には靴下を脱ぎ、一張羅の上着もちゃぶ台にぶん投げて布団に就いたままの格好だ。ベランダにたまった新雪が足の裏に突き刺さり、とても夢で描いていた足音とは程遠い、足の裏を的確に滅ぼす殺戮の氷解音が伝わってくる。全身が震えるというより完全に振動している。特に歯が、歯が凄い。舌を引っ込めていないとセルフギロチントゥースに持っていかれる。さっきから吹雪かれている左半身の感覚が、いや、左半身がちゃんとあるのかどうかすらわからない。え、どのくらい経ったのこれ、一時間くらい? この吹雪いつ止むの? あとどのくらいこのまま? 今何時? 帰ったら風呂入ろ。そんでもって沸騰したてのお湯でカップラーメンを……ああ、これは、なんというか、おそらく、程無く――おやおや、体が固まり過ぎて割れてきたのかな、背中の方からガチャガチャ音がするし、さっきから左腕が引っ張られるように痛い。あ、左半身あるじゃん! やったー!

 「はいって! はいって!! はいってってば!!!」

 「……ふぇ」

 「早く入って! 死ぬから! 死んじゃうから!!」

 「お、おぅわ!?」

 窓の段差に思い切り足をもつれさせ、室内に飛び込むようにつんのめってダイビング再入室。頭上でガチャガチャドタドタガサガサバタバタバサーッ。

 「早く、早く払って、雪!」

 いや、そんな事よりもさぁ、もっと大事な事があるでしょうよ。

 「ご、ごごおごごめん! ゆかとかかーぴぇっととか、ぜぜんぶぬれて! しま! しまいまいら!」

 もおぉおお、という声に地団駄まで加わり、何をやっても自分は失敗ばかりだなぁと思っていたら、突然タオル越しに頭と左半身をがしがしと叩かれ始めた。

 「今はそんな事言ってる場合じゃないでしょう!?」

 「で、でも、ゆ、ゆぎが、こんなにおぢで」

 バラバラと体に突き刺さった雪塊が床やカーペットに転がり落ち、電気ストープの温風で小さいものから水滴へと変わっていく。

 「いいから! 早く体温めて、凍傷になっちゃう」

 「う、うぅ」

 「え、なに? うそ、どこか苦しいの? きゅ、救急車救急車!」

 すみません、すみませんすみません、すみませんでした……。

 「ぎうざあぁぁあん」

 「……え!? 泣いてるだけ!? ちょ、ちょっと! 鼻水! 垂らさないでよ、って、いや、こっち来ないで! きゃああぁあ!!」

 寒さも三歩下がってしまいそうな火花が両目に散った。遠いお空へと飛び立ちかけていた意識がものすごい速さで戻ってきて、美しいVターンを決めて再びあさっての方向へ。




 「暫くストーブあたってて。話があるならそれから」

 ほわほわの湯気が立ち上るティーカップを一つちゃぶ台に置き、もう一つを抱えるようにしながらデスクの椅子に腰を下ろした。彼女の気はというと、自分のせいで動転が動転したようで、すっかり落ち着いた様子になっていた。しかも、ストーブにあたっても良いと言う。天使か。

 「すみばぜん……あびがどうございます」

 「わかったから、もう、いいから。バカで間抜けなだけで、事情があるのは、わかったから……」

 天使だ。


 これは自分がしっかり意識を取り戻してから聞いた話だが、あの時ベランダに出ていた時間は一時間でも数十分でも無く、わずか三分にも満たない時間だったという。気温を聞けば本日の最低気温は氷点下を超越するような寒さで、自分の住む世界とはまるで異次元の破天荒な天候だった。おかしいと思ったんだ、何故こんな分厚いカーテンが三重にもなって垂れていたり、ベランダに続くガラス戸を開けたら更にガラス戸があったり。今もキッチンの蛇口からは、てん、てん、と水漏れのような音をシンクが鳴らしながら水滴が垂れ続けている。このままでいいらしい。このままじゃないとダメらしい。破裂とか爆破とか、おおよそ蛇口からは連想出来ないような物騒な言葉を並べて説明をしてもらった。

 「てゆーか、あなたねぇ……変態でストーカーな挙句、人殺しの罪までかぶせるつもりだったの?」

 「そ、それは、考えてもいなかった、です」

 「そりゃ、出ていけって言った私も私なんだけど……普通ほんとに出る? わかるでしょ、出れない事ぐらい」

 「いっぱいいっぱいだったもんで……自分の住んでいた所とまるで気温が違ったし……それに」

 「なによ」

 「どうやったら、どう説明しても信じられないような事を話だけでも聞いてもらえるか、それしか考えてなかったから……」

 彼女は小さく天を仰いで、温かいお茶を啜ったわけでもないのに特大の息を吐いた。呆れる、というのは、本当に木の上のような高い所でぽかーんと口を開けてしまう様になるんだなぁ。それにしても、あの穏やかで優しさの溢れた口調だったあの喜雨さんとはまるで違うが、それを除けばまるっきり喜雨さんだ。本人か双子かドッペルゲンガーか最先端技術の特殊メイクのいずれかしか納得できそうにない。

 「ちょっと、聞いてるの?」

 「あ、はい! すみません! ぼーっとしてました!」

 「……で、話って、なに。時間が無いの、出来るだけ早くして欲しいんだけど」

 長くなりますがいいですか、という問いかけを用意している最中に返答が来て焦った。そうだ、おそらく彼女は、今、仕事の大きな不具合バグに直面している、のだと思わざるをえない。

 「どうしても話すと長くなるので……その、要件をしながらの片手間の、もっと言うと筒抜けであっても構わないので、"間に合わない"と言っていた事をしてもらいながら……でも、いいですか?」

 「あなたから目を離せると思ってるの? 背を向ける位置にあるのよ、パソコン」

 「じゃあ、えっと、ここ、此処に居ます。この机の真横の部屋の角」

 「気味悪すぎて仕事になんかなるわけないでしょ!」

 「じゃ、じゃあ、こういうのはどうですか。こっちが見えるように鏡か何かを机においてもらって、自分は机に背を向けます。そのまま話したかった事を話させてもらうというのは」

 椅子の上で足を抱え、うーうーと二回唸りながらふわふわの髪の毛をわしわしとしと思ったら、ばっと顔をあげて平たい板みたいな携帯に触れて覗き込み、続けてこちらを見――めっちゃくちゃ可愛い――ながら、投げやりに言った。

 「もういいよ……もう、なんでもいい、適当にしてればいいから、邪魔しないで」

 「え、あ、はい」

 「時間が無いの。仕事の、納期まで、もう、時間が」

 「はい、自分も物凄く似た環境で同じような仕事をしていて、これは自分のスキル不足なんだけど、いつも不具合バグに見舞われて納期リミットと格闘しているので」

 「プログラマ、なの?」

 「いわゆるフリーランスってやつです。呼び名はあまり好きじゃないけど」

 「……そう」

 彼女はそう言うと、屈めていた足と横向きだった椅子を正し、グーにしたままの両手にほぅっと息を吐いて開き、キャスター付きのラックに置いてあったひざ掛けを慣れた手つきで広げてかけ、小さく よし と言ってマウスとキーボードに手を添えた。

 「話して。まだ人の話を聞きながら作業出来るような事をする段階だから。ただ、聞いていないかもしれないけど」

 「十分です、ありがとうございます……え、っと、まず、貴女の部屋にはですね」

 「あとそのアナタって、やめて。呼ばれ慣れてなくて気持ち悪いの」

 「えっと、じゃあ」

 「喜雨で、いいから」

 「い、いやよくないです! あの時はついの偶然がたまたまで!」

 「絶対に赤の他人だけど、似てるんでしょう。偶然名前も一緒で。それに最初に散々呼ばれた後だし、今はもうそんな事どうでもいいから」

 そう、どうでもよくなるんだ。テンポ良く叩かれるキーボードの音。キーボードを断続的に使い続ける時のタップ音は、物凄く好き嫌いがはっきりする。あの人の叩く音は別段何とも思わないけど、あの人のは物凄く耳障りだ、なんて事が、どういうわけか、ある。その人そのものに対する親密度に関係なく、だ。

 「音無おとなし。音無 喜雨。これでわかった? 全くの別人だったでしょう?」

 おとなし、きう。文字にするとすごく硬い印象なのに、言葉にしてみるとそうでもない。そんな事を思えるくらいには自分にも余裕が出てきたようで。

 「いや、それが、苗字は知らないままいなくなってしまったもので」

 「いなくなったって……はぁ、いい、いいわ。いなくなったのね、はいはい」

 どうしてもそうなっちゃうよなー。

 「じゃあ、あの……喜雨さんの部屋にどうやって来たのか、という所からもう一度――」

 超常現象の類だけは、"壮大な妄想"という形にして、ありのままを伝えた。喜雨さんは時折、こいつは本当に頭がどうかしているのかもしれない、といったため息と

 「はいはい、そうなのね、はいはい」

 をくれるだけで、話そのものを把握しているのかどうなのかまでを察する事は出来なかった。納期差し迫る中での作業だ、自分がその立場で、突然現れた素性も得体も知れない奴が横で話しかけられ続ける境遇に居すぎたせいで麻痺しているだけで、全てが仕方ない。寧ろ、こんな状況の中で相槌を打ちながらも淀みなく作業をすすめているようにしか見えない喜雨さんのメンタリティや集中力にただただ感服しているわけで。同じ――と言えるようなステージに自分はいるのだろうか――業種として、その雰囲気から現状がどんな塩梅なのかはなんとなく判っていた。これは相当に、猶予がない。半日後? いや、数時間後か? 自分はどのくらいの時間を喜雨さんから奪ってしまった結果になったんだろう。おこがましいだろうが、自分のスキルが使えそうな事は無いのだろうか。いやダメだ、そんな事は例え出来る余地があったとしても、絶対にしてはダメだ。喜雨さんのためになるならないとか、そういう話でもない。節介が過ぎるとかそういう次元でもない。じゃあ何だと問われると難しいけれど、手を出しては行けない、という抑止力に逆らう意志が全く湧き出でる事は無かった。……はぁ、それにしても、つくづく申し訳ない事をしてしまったな、したくてやったわけでもないにせよ。それよか、こちとら何がどうなってんのかさっぱりだ! これじゃあ、これじゃあまるで――

 「その、不具合バグ納期リミットに追われる度に妄想していた不具合バグの擬人化に、自分がなってしまった、かのような、状況が……今です。喜雨さんも、なんというか、そんな状況に見えたから……すみません、時間が無いのに、余計に大変に事態にしてしまって……」

 喜雨さんは、全く返事をしないまま、マウスとキーボードを操作し続けている。

 「絶対に信じてもらえないのは判っているけど……これで、説明したかった事は全部です。仕事が終わりましたらば警察なり何なり……言われたとおりに、します。すみませんでした」

 喜雨さんは、説明の殆どに対しては完全に聞き流している事を逆に主張してくるような返事しかしてこなかったが、所々の"喜雨さんにとってはこうなのかも"には返事までしてくれるようになっていた。やはり現状は、仕事で発生した問題点の解決中である事、具体的には教えてくれなかったが兎に角時間が無い事、しつこすぎて逆にうざったいからしゃべる度に謝るのをやめて欲しい事、喜雨さん自身もまたフリーランスのプログラマである事、仕事で使っているプログラミング言語は、未だ嘗て名前すら聞いた事もない名称である事。そして、自分との面識は記憶のどこを探しても絶対に見つかる事は無いだろう、という事。

 話し声が途切れてしまうと何か他の動きをしているんじゃないかと不安がらせてしまうと思い休み無く喋り続けたので、流石に息が切れてしまった。でもここでゼーゼーはーはー言おうものなら今までの努力が全て水の泡、部屋の中に緊急事態のため仕方なく居る事を許可された他人から一転、変態ストーカーに逆戻りだ。すっかり冷えきったお茶が熱を蓄えまくった体にはうってつけの清涼剤だったが、手を伸ばすのは止めておいた。出されたお茶を飲まないというのもまた失礼な話ではあるんだけど。過剰な音を出さないようにする深呼吸は、かえって心拍数を上げる結果になってしまったようで、なんだか頭がくらくらしてきた。これじゃあ独り言のように話し続けている方がよっぽど楽だ……。

 「信じないけど、いいよ、そういう事で」

 「そ、そんな軽い決定でいいんですか」

 「その代わり約束して。私の仕事が終わったら必ず出て行って」

 「は、はい! 必ず、必ずそうします」

 「本当に何もしないまま居なくなるようなら、警察に連絡するのはやめるから」

 皆の者、知っているか。完全に切れたはずの首の皮も稀に繋がる時があるって事を。喜雨さんは、淀みなく動かし続けていた両手をはたと止め、袖の中に引っ込めた両手を口元に持っていき、軽く息を吸って、

 「はぁ……甘いのかな、私。絶対どうかしてる」

 「すみません」

 「もう謝らないでって言ってるでしょう」

 「わかりました、すみ……すぉうします」

 苦し紛れ無さ過ぎた一言に、喜雨さんの体が小刻みに震えだした。や、やべ! ふざけてると思われたか!? 怒らせたか!? うわ、どうしよう、謝っても怒られそうだし、うわーうわー

 「……っ、ははははは!」

 「す、すみ……う、うぅうえ!?」

 「あははは! もう、もうやめて! ただでさえ変なテンションなんだから、そういうのダメだから! うううえ!? だって、あははははは!」

 思っていたよりも袖の長いチュニックから人差し指と中指だけを出し、袖の端をぎゅっと摘むようにしたまま口を抑えて大笑いの喜雨さん。余程ツボに入ってしまったのか、次第に足が地団駄を始め、目には大粒の涙が溜まり始めてきた。ついには椅子を降りてその場に丸くなり、床をバンバンと叩き始めてしまった。心の中の自分はさすがに抑えきれなくなってきた。おい! そこまで、ってか何一つ面白いことしたつもりねーよ! 必死だよちくしょう!!

 「はー、はぁー、はーー」

 最後だけファルセットでした。

 「あー、もう、ほんっといい加減にしてよね、時間無いんだから。はー、疲れた。疲れたけど、変にすっきりした。もう、なんか、そう、迷い犬。迷い犬みたいな感じで折り合いつけとくから、あなたの事」

 今まで放たれていた緊張感のような刺々しい何かが剥がれ落ちてしまったような顔つきで、喜雨さんはそう言ってくれた。これは絶対に根拠と間違いのない私論だけど、恐らく"喜雨"という名前の女性全てが天使のような天使なのだろう。さっきから天使天使言ってる自分の気持ち悪さったら自覚し過ぎてもう一度ベランダに出るべきなのも解りつつ、それでも背中と頭上に何かが生えていたり浮かんでいたりするんじゃないかと見てしまうのだった。

 ――それにしてもまた犬か。

 「あと、その不具合バグがうんぬんっていう妄想の」

 「あ、えぇ、すみません、勝手な妄想なのに、それを全ての原因の根っこにしなくちゃ説明を始める事すら出来なくて……でも本当なんです、それしか、それしか此処に」

 「わかったから。それが作り話で本当はただの変態ストーカーだったとしても、この小一時間話し続けるだけ、まるで襲ってこようともしない。なんか私の方がバカみたい」

 「ど、どうしてですか」

 指を指している様子は長い袖に隠れてしまって見えないが、あっち見てみなさいよ、と机の上を指し示すジェスチャーである事は解る。立ち上がってもいいか許可をもらってから、不慣れな正座を解いて立ち上がった。淀みない所作のように書いてみてはいるが、痺れに痺れきった両足を叩いてでも戻そうとした時のあの痛いのか痒いのか解らないがただただ体が捻れてくるジーンと戦い、喜雨さんのツボを再び押してしまって怒られた後の事です。

 「こ、これは……!」

 「ちょっとでも近づいてきたら、って思っていたんだけどね」

 おおよそパソコン作業には使わないだろう千枚通しが一本、キーボードのすぐ真上に転がっていた。何故こんな木目むき出しの取っ手の無骨な千枚通しがその可愛らしいパステル調のペン立てに入っているのか、という疑問は、少し意地悪そうにこちらを見やる喜雨さんのメガネ越しの瞳にチラついていた見逃しようもない本気の意志に、話を広げたく無くなって自ずと不問になった。それぐらい怖かったんだものな、当たり前だ。

 「流石に、やりすぎ?」

 でもまだ手元に置いてはおくそうです。




 「話、戻していい?」

 「えと、でも、仕事は」

 「言ったでしょ、喋りながらでも出来る作業の間は、って」

 「承知です。えと、どこまで」

 「不具合バグが人になる妄想」

 「あ、はい。気持ち悪いすよね、ははは」

 「うーん、わからなくもない、かなぁ」

 「ま、まじすか」

 「人になって部屋に居座るなんて、そこまで気持ち悪いくらい事細かには考えたことないけどねぇ」

 「ぐ」

 「あはは、うそうそ。でも、たまーに、あるよ」

 「不具合バグに人格を、みたいな所ですか」

 「うん、この子はこんな悪さしてたのかー、とか。仕事が落ち着いてからだけど。切羽詰まってる時にそんな事考えてる暇ないし」

 「考えてました……」

 「私よりよっぽどマルチタスクな事してるじゃない……あ、お茶飲んでいいからね。折角淹れ直したんだから」

 「い、いただきます!」

 「ふー……ん。いい感じ」

 「ふー、っち、あち、ふーー」

 さっきまでが嘘のようなのか、今この流れる時間が嘘なのか、はたまた全てが嘘みたいな妄想なのか。お茶に挟んだ休憩を除けば、手と視線の動きは一切の妥協を許さない速度で動き続けているものの、警戒心や猜疑心を解いてくれた喜雨さんは、あの時現れた喜雨さんと似た優しさを持っていた。いや、もうやめよう。同じ人ではないかと比べたりするのは。この人は今日何が起きたか解らない何かで初めて出会った喜雨さんだ。突然大声で怒鳴りながら現れた気持ち悪い妄想野郎の言い訳を、まさに一生に一度の特例のような恩赦でもって聞き入れてくれた優しい人だ。自分が不具合バグ達の存在を認めようと努力し、都度張り合ってきたのは、やはり自分が男で、相手が女性…の容姿だったから、というのが大きかったんだなぁ。いつも独り籠もっていた事もあって、あの騒がしさを嬉しいとさえ思っていたのかもしれない。また出やがって……と言いながら、内心、なにかこう、こいつとはどんな話が出来るんだろうか、という期待があったんだろう。更には、彼女たちの素性を知ることがバグ解明の糸口になる事になんとなく気がついてからはこちらから話しかけるくらいにまでなっていた。依存、だろうな、もう。すがる思い半分面白半分、ってところか。その鈍らさに嫌気が差して、ここ数ヶ月は凹みまくって懺悔モードだっただけに、落ち着いた今だからこそ思える事ではあるものの、ついに自分の身に降りかかっていた超常現象そのものに自分がなってしまった非現実的な現在が巻き起こしたワーギャーや、自分が常日頃対峙している状態を第三者の視点として見ている今の状況を有難いと思ってしまった。喜雨さんには物凄く失礼だし、禁句なのは承知の上だけど、なんかこう、ね。伝わらないだろうけど、うん、すごくいい香りがするんだ部屋そのものが。はははーだ。

 「でさ」

 「う、あっ、はい!?」

 「……変な事考えてたんじゃないでしょうね。少しでも何かあったら」

 千枚通しをチラつかせながら少しだけこちらを見た。

 「無いです! ないない! なにもないです!」

 「疑わなくなったわけじゃないんだからね。できるわけないしこんな事」

 「うす。事情故に、やむを得ず、ですよね、わかってます」

 「でさ、あなたの喜雨さんは」

 「喜雨さんは、だ、だだ誰のものでもないです! 知り合って、数時間で居なくなってしまったし。なにも、ええ、なにもなくて、それで、そのままなので、誰かがどうとか、そういうのでは断じてけっして」

 「あのさぁ」

 「へ? は、はい」

 「あなた、モテないでしょ」

 猛吹雪はカーテンを開けずとも、その奥で必死に防護している窓が体全体を震わせて出るガタガタ音で十分察することができるが、今落ちた落雷は、多分自然界のそれではないみたい。喜雨さんは喜雨さんで、落雷が直撃した自分の呆け顔を見て、口を抑えながらまたしても意地悪そうに笑っている。

 「付き合ってる彼女かどうかなんて聞いてるはずがないでしょう?」

 「で、ですよね!」

 「という事はつまり、好意は持ってるって置き換えてもいいのね」

 うわー、自分もこういう言い方するわー。特にプログラム打ってると条件式がいくらでも必要になるから、普段も"こうだからこう"っていう話し方についなってしまうんだよなぁ。自身に限らぬ職業病なんだろか、これ。

 「いや、えーとですね、えー」

 「わっかりやす」

 「すいません、はい、そうです、素敵な方だと今も思っています」

 「そりゃそうでしょ、自分の妄想なんだから。理想がそのまま動き出したって」

 あ、そうか、そういう事になってたんだった。

 「え、ええ、その通りです。ハイ」

 「で、その喜雨さんと、私が似ているって事だったよね?」

 「え、えぇ」

 「どこが似てて、どこが違うの?」

 「口調以外は、全て似てます。外見だけで言えば、どこから見てもそっくりで……」

 「口調……もっと優しい話し方だった?」

 「で、でも、それは仕方ないですよ、赤の他人ですし。こんな表れ方されたら変態でストーカーだと思われても仕方ないし、今こうやって普通に話してもらえてるだけでも奇跡なくらいで、そりゃきつくもなります」

 「ふーん……ところで」

 喜雨さんは仕事の手を止め、こちらに椅子を向けて、何故かにっこりと笑った。

 「その、赤の他人というの、やっぱり無しにしてもらう事って、できますか?」

 「へ? へ?」

 「あの、わたし、本当は……」

 ほ、ほんとうは、って?

 「ずっと、黙っているつもりだったんだけど……黙っていなくちゃいけなかったんだけど……あなたを前にしたら、もう、抑えられなくて」

 「ま、ままさ」

 喜雨さんは立ち上がり、目の前にまで歩いてきて、しゃがみこんだ。目の前に一層のいい香りが漂い、すっかり暖気づいた体温と相まってくらくらしてくる。瓜二つとかじゃなかったんだ、ドッペルゲンガーでもなかったんだ、喜雨さんは、喜雨さんは……!

 「その、まさか、です」

 ゆるふわの髪を一束指でつまみ、胸元でもじもじとさせながら、喜雨さんは頬を赤らめている。

 「妄想なんかじゃ、なかったんですよ……?」

 あの時初めて喜雨さんと出会い、世の中にはこんなに綺麗な人がいるのかと思うと同時に、寂しい想いを寂しいとすら思う事ができないような不具合バグをつくってしまった自分が心底嫌になったりもした。にも関わらず、どうしてももう一度会いたくて、修正の完了した不具合バグを再現してみる、という愚行までしてきた。あれから喜雨さんはどうしているのか、不具合バグを修正した事で消えてしまうような事がなければいいな、立場上不謹慎ではあるものの、他の不具合バグ達と出会い、笑って話せるような毎日を過ごしていてくれたらいいな、と思っていた。しばらくして、願い続ける事は、叶っていない事を前提としている気がして、望むのをやめた。思うのをやめた。どうせもう二度と出会えないんだ、文字通り、住む世界がもともと違うのだから――本当にただのイメージだった、という事にして、誰かの足枷を進んでつくるような真似だけはしないでおこうと決めた。のに!

 「う、うおおおおおおお!?」

 あまりの事に、ゴキブリがブリッジしたまま後退出来るならきっとこんな感じの動きで、至近距離まで近づいてきた喜雨さんから離れた。アカン、アカンでこれ。ワイはもうなにがなんだかわからんばってん。

 「本当に、本当にあの時の喜雨さんですか!? あれから、どうしていたのかと思っていたんす! でも、途中からそういうの考えるの迷惑だろうからよそうと思って、正直忘れてしまおうと思ってました、すんません!!」

 「本当に、本当にあの時の喜雨さんが現実になったと思ったの!?」

 思った、のよ!?

 「え、ちょい……」

 「勝ち目のない理想と比べられたのが嫌だったから、仕返しにからかってみただけ」

 べー。舌を出して茶化して見せてはいるが、表情は完全に開いてを馬鹿にしたような様子というよりは、なにか複雑な面持ちだった。

 「そ、そんな、それは、ちょっと、あまりにも」

 「そう、そうなの。ごめんね。単なる妄想で、それに好意を抱いてるなんて気持ち悪すぎだから、金輪際そういう話はしないでって意味でからかったんだけど……顔も言うこともあまりに真剣過ぎて、笑えなくなっちゃった」

 その場で両手をあわせてこちらに軽く突き出しながら彼女は続けた。

 「……なんか、ごめんね。触れちゃいけなかった所だったみたいで」

 「いや、いっす。大丈夫です。自分も相当なパニックを引き起こして散々困らせた後だから、いっすいっす、大丈夫っす」

 まっっっっっっっったく大丈夫じゃなかったけどな!!!!! もうこれは言ってもいいだろ! 心の中でなら言い放ってもいいだろ!! しばくぞ!!!

 「ま、まぁ、その、夢にまで見た喜雨さんが目の前にいるんだから、許して、ね?」

 「な、なんだそりゃ」

 や、やべ! さっきの鬱憤が漏れでてとうとうつっこんでしまった。

 「わかるでしょ、ごまかしてんのよ!」

 「はい! お気遣いありがとうございました! とっても傷つきました! お仕事戻って下さい!!」

 「えっと……これは有耶無耶にしたくないのでちゃんと謝り直します。ごめんなさい」

 今度は深々と頭を下げて喜雨さんは謝ってきた。それを言うなら思わずツッコミをいれてしまった自分がまず謝らなくちゃいけないんだけど、聞こえていなかったのかそのくらいの踏み込みならば意識の外になってくれたのか、ともあれ警戒心が緩まってきているのは手に取るようにわかっていた。でも、そこにつけ込んだら喜雨さんの思う変態やストーカーと一緒だ。変な所で異常な冷静さを保つ自分は、同時に相当な独り身慣れしているのだなぁ、と悲しくなってきた。

 「それから、ありがと」

 「え、なんかしましたっけ」

 「まぁ、色々とね、詰まってた息が抜けた感じ、したから」

 「え、えと、お役に立ったなら光栄っす」

 「それに」

 「それに」

 「あ、いやいや、こっちの話。あれよ、あれ。不幸中の幸いーっていうので、一人で納期に追われるより、まだましかなーって。時間はないけど……」

 時間ないんだった。物凄く小さい声で呟いた喜雨さん自身の声が耳に入るやいなや、みるみる顔色が悪くなっていった。

 「色々気遣って話してくれてありがとうございました。でももう一旦やめて、仕事に集中してもらわないとダメな気がするんですが……すんません、自分が言う事じゃないのわかってて、でも言ってます」

 ひれ伏すように低頭した。床とこんにちはしたままの姿勢でいると、喜雨さんはキッチンの方に歩いて行き、すぐさま戻ってきたようだった。

 「こんなのしかないけど」

 ぽい。

 「あ、男の人は一個じゃ足りなかったりするのかな」

 おお、なんだ、こっちの世界にもあるのかチョロルチョコ。しかも"何故出した"でネット界隈お馴染みの限定のやつじゃないか。半分がビターチョコ、残りがホワイトチョコなんだけど、見た目の白い方がビターの味がして、黒い方がホワイトチョコの味がする、っていう不思議商品なんだよな。なんだけどさ、チョロルチョコって一口サイズが売りの商品でしょ。わざわざ割って食べないっしょ。歯で割ろうにも結構分厚いから簡単に割れなくて、大変なだけだし、口に入れたらどっちがどっちの味しようが関係なくなるっつーかどっちでもいいっつーか、うわー本当だ! 白いチョコなのにビターだー! すげー! とかやる奴は友達や恋人のいるリア充だけだろ、って、ごく一部から怨念のような批判が巻き起こったやつだ。

 「これね、白と黒の半々なんだけど、味が逆なんだって」

 「お、おぉ、聞いたことあります」

 「食べてみてよ」

 「ほ、ほい……おぉ、真っ二つに白黒。んじゃ、いただきます……ぐ、ぐぎぎぎぎ」

 「冷蔵庫入れてたから、多分すごい硬いよ、大丈夫?」

 「んぎぎぎぎがっ! あ、が、割れまひは……ん、おお! 本当だ! 白チョコなのにビターの味するっすよこれ!」

 「えー、いいなぁ」

 「でも、相当硬いっすよこれ」

 「だね、ちょっとおいとくかぁ……」

 「そ、そっすね、すげー痛いんで、そうした方がいっす」

 「黒いのは? 黒いの」

 「……うん、ホワイトチョコだ、すごいなこれ」

 「見つけた時は勢いで三つも買っちゃってたんだけど、一人で食べてわーすごーいなんて言っても寂しいだけだよね、これ」

 そうですね、とは言いづらかった。こんな綺麗で快活な人も"一人で"なんて単語使うんだ。苦笑いの喜雨さんは残り二つをちゃぶ台に置いて、指で一つを弾いて見せた。

 「安いお詫びですけど」

 「ありがとうございます! おもしろ美味かったです!」

 「私一個で十分だから、もいっこあげる」

 「あざっす!」

 そう言うと、喜雨さんはわざわざ自分から遠のいた指で弾いた方を拾い上げ、残りの一個をこちら側に置き直しつつ仕事机へ身を翻した。残されたチョロルチョコに一拝してから、掴んでポケットに入れても溶けてしまうだろうのでそのまま置いておいた。いやー、いい商品ですね。今後も是非こっち方面に力を入れていって欲しいものですはっはっは。

 「よーし、一気にやっちゃお! なんとかなりそうな気もしてきたし!」

 「本当ですか、よかった……よし、よし!」

 「私もね、ちょっと真似してみたの」

 「真似、ですか」

 「うん、その、不具合バグの擬人化ってやつ。もしあなたがこの仕事の不具合バグなんだとしたらー、ってね」

 「そ、それで、原因解ったんですか!?」

 思わぬテーマに思い切り食いついてしまった。慌てて乗り出した身を引っ込めて低頭する。

 「それが……まーったくだった」

 「まるで自分とはかけ離れた不具合バグだった、ですか」

 「そうね、それもあって色々話させてもらったけど、今付いてる目星にはどこにも引っかかる所はないわ」

 「よかったような、悪かったような……」

 「ま、気休めみたいなもんだったし、いんじゃない? 気分転換にはなったから」

 そう言ってもらえれば、多少は救われた気になります。

 「もう、やめた方がいいわよ、その妄想」

 「そうしたいのは山々なんですが……」

 「そのうち、不具合バグが擬人化する事を前提に仕事をするようになっちゃって」

 ズキ、と傷んだのは左手の中指だった。あかぎれてしまっている。凍傷とまではいかないにせよ、結構なダメージだったようだ。喜雨さんにばれないように隠しながら指をさすったが、どうにも痛いと思っていたはずの痛みがそこには無いかのように紛れない。それどころか、その痛みが体全体に急速に行き渡って行くかのように錯覚し、息苦しささえ覚えるほどだった。

 「突然それがなくなったら、あなたそれからどうやって」

 「それならご心配なく! そうならないように、年末に懺悔したばかりですんで、ははは……」

 ぽりぽりと頬をかき、ヘラヘラと笑いながら答えてみせた。ならいいけど、と小さなため息と共に吐き捨てるように放たれた彼女の言葉は、この額にこつんと当たり、暖かい気流に乗って上へ上へ。もともと何も見えていなかったが、ある一定の所まで上ったタイミングですっと霧散して辺りがより暖かくなったような気がした。己の内で何度も何度も咀嚼して、色々悩んで迷って見つけ出すような事だと思っていたのに、ある日突然現れた野郎に対して、斬りつけるようにズバッとではあるものの、そこまで深い所に意見をくれる、というのがとても新鮮だった。気兼ね、というのをしもされも無いような関係を築いていけたらなぁ、と思って続けてきた自分の仕事姿勢も所詮は理想から派生する妄想の一つに過ぎず、必ず前後上下の意識は態度に現れる。それを押しのけようとする意志があって初めて垣根を取る作業を始める。弁えという名の一線を引いている、んだよな。それを持たない事が当然であるかのように、一刀全断してくる喜雨さんの物言いは、好き嫌いの非常に別れそうなところだ。テーマが癇に障る内容だったなら右に、自分のように誰かにそう言って欲しかった事を望んでいようものなら左に振りきれるだろう。

 「っし! やる!」

 「うす!」

 「あー……でも、なんかお腹空いたな……うーん」

 「よければ作りましょうか」

 「嫌よ、キッチンさわんないで。それに料理下手そう」

 「う、し、知らないだけですよ! 漢チャーハンの美味さを!」

 「チャーハン……う、く、悔しい。チャーハン、食べたい……っ!」

 「喜雨さんがGOをくれれば、お詫びとお礼を兼ねて作ります! めっちゃくちゃ美味いっすよ、断ったら後で後悔しますよ、絶対」

 「もう」

 両手を高々と掲げて椅子に持たれて思い切り背伸びをしながら、背にあるキッチンを指さして

 「どうにでもなれ! ゴー!」

 「おまかせを!!」




 荒れ狂っていた吹雪はすっかり止んだようで、震えていた窓達は静けさを取り戻していた。カーテンに隠れて見えないのが残念だが、きっと一仕事終えたいい表情をしていることだろう。そして室内にもまた、きっと同じような顔付きをしながらだろう、ノリにノッたリズムでキーボードを叩く女性の姿があった。このテンポを聞けば、たとえ同業者じゃなくても解るだろう。捗っている。なんとかなる気がしている。このテンポを聞けば、同業者ならわかるだろう。僕私ってすごいかも、ひょっとして天才!? プログラマの神様降りてきた! という風に思っている、はず。

 人は感情を音に込め、色に託す。物に宿し、人に抱く。とりわけ心地よい音色というのは幾星霜の時を経ても良いとして伝わる事が多く、事物に精通していなくともその良さを感じやすい気がする。人は"良い"を感じると、今よりも少しだけ成長する。誰かの放つ"良い"に影響され、それからのどこかで何かが少しだけ良くなる。目に見えない形に分からない本人すら自覚がまるでない僅かな変化だとしても、どこかで何かが先刻とは違っている。らしいよ。プログラムを生業とする者達にとって、心地良いリズムを奏でるタイピングというのは、聞いていて嬉しくなり、自分も何か良い事を成せそうな気さえしてくる事もある。異物を噛んで止まってしまった砂時計が微振動の蓄積で少しずつ変化した状態から一変して突如その流れを始めるかのように、誰も予想だにしていなかった事が起こるきっかけになったりする。紫陽花の花が咲きそうだったあの頃から何度も何度も練習を重ねてきた自分の炒飯スキルは、それはもう見違えるほど成長が見られなかったが、今こそ開花の瞬間を迎えそうな気がしてならない。手順は何一つ変わらない。腕まくりをしながらキッチンの前に立ち、運良く残っていた冷ご飯をレンジで温めつつ綺麗に洗われ拭かれた調理器具達を手に取る。どう頑張っても輪切りのネギは均一の厚さにならない。無我夢中でネギを切り、卵を溶いた。しっかり料理をしている事が見て取れるフライパンに油を注いで火をかけ、やはり培いきれていない勘で卵を投入する。案の定あまり膨らまない玉子。構うかい、手際の悪さを露呈しつつレンジから取り出し忘れていたご飯を投げ込む。出来上がりをイメージしつつ調味料の分量を考えながら、予め出しておいてもらった皿を近くに寄せる。漢チャーハン最大の魅せ所、毎回ブレッブレで二度と同じ味を出せない塩コショウどーん! 醤油ぐるぐるー! じゅわーー、っと音だけは中華最高料理人になった気分だ、これだからチャーハンはやめられない。ダマになったご飯なんて気にしない、それが漢チャーハン。自分の力量では限界な所まで混ぜきったら火を止めてお皿に盛る。見た目なんて気にしない、それが漢チャーハン。味が悪くても気にしない、そもそも味見をしない。それが、漢チャーハン。

 「できました!」

 「ありがと。あー、いい匂い! ずっと待ってたからなぁ、あの時食べ損ねたから」

 「あざっす! テーブルに置いとんで、熱いうちにどうぞ!」

 振り返ったつもりが視界の先は天井で部屋は真っ暗。薄くて硬い布団をしっかり握りしめて手を前に突き出したままベッドに横になっていた。カーテンの周囲からは朝を告げる漏れ日が差し、六畳ワンルーム全体を薄ぼんやりと包んでいた。

 「ん……、ん?」

 ま、まさか夢オチですか。本気ですか、こんなんで収拾が付くとでも思ってんですか、思うかよ、おい、ふざけんな、おい、おい!

 「ウソだろ……なんだよちくしょう……おいいいい!」

 怒りとやるせなさに任せて飛び起きると、むき出し木目のちゃぶ台の上で携帯電話が光っていた。今それどころじゃねぇんだよ、と画面を開いて絶句。何度も何度も着信があったようで、朝方からつい今しがたにかけて履歴が完全に埋まっていた。

 「そ、そうだ! 修正!!?」

 ちゃぶ台を飛び越えようとしたが、カーテンの隙間光で一部が明るくなった台の上を見なおした。小さな四角い物体。なにこれ、積み木?

 「……チョロルチョコだ」

 カーテンを開けて振り返り、辺りをもう一度見渡した。薄汚れた白とは言いがたい壁と、場違いなヘッドレスト付きエキストラハイバックチェア、何の統一もなく全体がただただ地味な色にしか見えない六畳ワンルーム。香ばしい醤油の焦げた匂いが鼻に残っているような気がしたが、そう感じた以降はどうがんばっても再現することが出来なかった。チョロルチョコをつまみ、包み紙を見る。真ん中で真っ二つに白と黒に分かれたチョコレートで、季節限定と書かれている。黒い方はビターチョコ、白い方はホワイトチョコ味、だそうだ。

 「まんまやないかい!!」

 キャッチコピーは、受験シーズンにあやかって"受験にシロクロつけよう!"だった。成功以外の要素も示唆したかなり辛辣な甘いごく普通の季節限定チョコ。買った覚えは――全くないし、色と味が逆な事で変な広まり方をしたんじゃなかったっけ? 別の商品と間違えたのかなぁ……うーん、まぁいいか。それよりも、シロクロ付けよう、て。クロって表現タブーちゃうのこの手の商品って。


 携帯の日時は二月十四日の朝を記していた。あの忌まわしき一日が始まってしまったのだ。今日一日は一切ネットで情報を見ないようにしよう。そうだ、緊急の修正が残っていたんだった、あまりに眠くて休憩を取ったんだったな。思い切り寝過ごしてしまったけれど。今日の昼までだったかな、この着信量から察するに早まったかな。今日という今日は本当にマズイかもしれないな。って、いーっつも言ってるんだけどね。

 「そうこうしながら、なんだかんだでやってきたじゃないのー、さー♪」

 先方にかけていた携帯の呼び出し音が途切れたので慌てて即興をやめた。受話一番コンタクトがとれなかった事を思いっきり怒られはしたものの、予想通り更に悪化した納期の状況を申し訳なさそうに伝えられた。リミット十時。あと三時間を切っている。やれる事をやれるだけやってみます。そんな曖昧な返答をいつもしてしまうが、それなりの結果を出してきた積み重ねが、本気で取り組む返事という風に置き換えて解釈してくれているようだ。 "7分59秒"

 もし、もしもだけど、自分が不具合バグの化身になって喜雨さんの元に行ったのだとしたら、一体どんな不具合バグだったのだろう。夢の中――とは思えない――の喜雨さんは、喋りながら出来る作業、恐らく全体のプログラム内容の再確認に相当な時間をかけていた。流石に誰かと話しながらなんて事は到底真似できそうもなく、方法は違えど、自身が組み上げたプログラムである前提や先入観を取っ払うために、何か全く仕事とは違う事を考えたり実際にやりながら、全体をざくーっと見直す作業、自分もよくやる方法だ。ここはこう動いているはず、という先入観が不具合バグの発見を遅らせる原因となり、結果何時間も無駄にした、という悲鳴は何度も聞いてきたし、上げてきた。とはいえ、自分から出る不具合バグなんてどこをどう高く見積もっても、しょーもない、だっさーい、見つけるや否や思わず自分の馬鹿さ加減に赤面してしまうような、そんなポカミスの一種のような気がしてならないけど。


 チョロルチョコの包みを乱雑に開け、口の中に放り込んだ。美味い、流石季節限定。半分に割らずに食べたのに、しっかりとビターな苦味とホワイトチョコの独特な風味とを感じる事ができる。と、思えば、その二つの味が混ざり合い、絶妙なマイルド加減を創りだす。一粒で三度美味しいだと、なんて奴だ、仕事が落ち着いたらもう二、三個買って来たくなったが、なんとなくやめておく事にした。だってこれが美味しかったのは、きっと、人生で初めて女性からバレンタインデーにもらったチョコレートだったから。という事にしておきたかったからだ。たとえまるで意図されていないものだとしても、構うか! 日時と物さえ合致してりゃどう解釈したってこっちの自由だ! やっはー!! くたばらないでバレンタイン、ラッヴェ!

 ……ふぅ。さぁ、落ち着いたぞ。落ち着いたら、どうする?

 「やるしか、ねーよな」


 不具合バグを確認されたプログラム全体に目を通しながら色々考えた。この際、夢だった、っていう線は無しだ。喜雨さん、チャーハン食ってくれたかな。いやいや、食べてもらえた、そういう事にしておこう。きっと怒ってるだろうな、全然美味くないー! っつって。でもまぁ、待っててくれたみたいだし、あの時から――

 「あの時? って? って! ここだ、ここ! なんっじゃこれ、どんだけ眠かったんだ当時の自分! あっほっか! そりゃ動かねーよ! この一帯をがーって直せばいけそうだな、よしよしよーし! 間に合う、間に合わせる! 今日は最高に調子いいぞ! もしかして自分って天才じゃね!?」

 いきなり入ったトップギアにキーボードもつられて楽しげな打鍵音を奏で始めた。

 開けたカーテンの先から入ってくる陽の光がとても暖かい。二月とは思えない陽気になるのかな。この仕事を終えたら、そうだな、チャーハン作って、食おう、腹減った。まるでフラグにもなれない普通の願望が暖かい気流に乗って上り、ある一定の所まで上ったタイミングですっと霧散して辺りが急に寒くなったような気がした。面白い事言えるようになりたいなー、はははー。




 これまでも十分異常だった日常は、あの日初めて起きた超常現象に絡まり転がり去るように収束を迎えた。実にあっけなく、暫くはどちらが普通だったのか感覚を取り戻せない状態が続いたが、それも落ち着いてきて、色んな記憶が新たに発生する経験に上書きされていくように毎日を必死に駆け抜けていた。

 「まぁねぇ、わかる、わかるよー?」

 なにがだよ

 「色々あるけど毎日がんばってこー! っていう感じ? 気持ち? みたいなの」

 そうか、それはよかった。わかったから、あっちいっててくれ。

 「なんだよ、つれないな」

 もう納期リミットが迫ってんだよ、今日中にやんなきゃいけない事がこんだけあんの。誰かと喋ってる暇なんてねーの。


 わかってんでしょ、あんたも不具合バグならさぁ。


不具合 #012 修正完了


不具合バグ×納期リミット 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不具合×納期 ≪バグリミット≫ @yozamurai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ