不具合 #010

十二月二十四日。


 今宵は聖夜でございます。この世に生を受け、物心付き、描いた理想の反動が背負い続ける事を命じた単身という荷物が、これ程までに重く感じる日は無いというもので。その重量たるや部屋からこの身を一歩も出させぬが如くのしかかり、体全体が軋むような痛みの中、臥薪嘗胆の時をひねもす耐え続けるのであります。だからワタクシは毎年吐き捨てるように言い続けてきました、皮肉にも、ジーザス、と――。

 「はい、あーんっ」

 「あ、あぁー、む」

 「おいしい?」

 「は、はい、美味しい、です……」

 今宵は聖夜でございます。この世に生を受け、物心付き、描いた理想の反動が背負い続ける事を命じた単身という荷物が、これ程までに軽く感じる日は無いというもので。その重量たるや部屋からこの身を舞わす翼となるが如き反重力装置、体全体が浮くような心地の中、永遠普遍の時をひねもす願い続けるのでひゅひゅふうふひゅ。

 何がどうなっているのか、なんてどうでもいい。ただ此処にある現実を全力で受け止めよう。緑のサテン生地が織り成すサンタガールのコスチュームを何故着ているか、聖夜だからだ。ミニではないが十分短いスカートからは細かい目の網タイツ、派手すぎないシルバーのアンクレットが右足首に添えられて素足が映える。この格好で何故素足か、聖夜だからだ。甘い甘いお酒のような匂いに包まれたAラインカールのブロンドヘアーをふわふわさせたモデルみたいなきれーおねーさんが、この口にクリスマスケーキ――といっても、彼女が持ってきてた小綺麗に飾られたショートケーキだけど――を極上の笑顔と共に食べさせてくれている、それだけだ。それだけが、こんなにも、こんなんで、こうだとは。

 「ミサ、と」

 派手派手しい衣装の割に控えめなほんのりピンク色の整った短くて綺麗な爪をこちらに向け、彼女自身の唇にちょん、と触れ、

 「あなた、の」

 その細長くも弾力のありそうな指をこっちの口へ近づけ、そっと触れながら、

 「関係に、"です"だなんて変よ? ね?」

 「は、はひ……」

 つつつ、としなやかな指ががさがさな唇の上を滑りながらがっさがさな頬を伝い、爪先でつっと突いてから離す。ミサと名乗った目の前の"彼女"が、まるで愛おしいものを見ているような潤んだ瞳でこちらの目線が合うのを待ってから、恥じらうように微笑んだ。


 「夢だな、うん」

 「夢じゃないよ、ほら」

 後ろから絡みついてきた両腕の柔らかさたるや、首こりがピークの時に首に当てる自称やわらかアイスノンの比にならない。なにか別の柔らかさも背中に感じるが考えてはいけない気がする。首筋に少しだけ冷たく感じた彼女の肌が少しずつ同じ体温になっていき、触れているのかどうかも解らなくなる。重みなのに重くない重さが背中に少しずつ感じ始めると、ふわりと巻かれた毛束の一つが肩越しに降りてきた。ガチガチに固まった体がかろうじて動かせた眼球を精一杯右へ右へと移すと、整った唇とすらっとした鼻先が目と鼻の先にあった。そもそも長く、化粧の必要などまるで感じなかったまつ毛が耳元で、しぱ、しぱ、と音を立てる。

 「バグ、なんだよな」

 「そんな事、どうでもいいじゃない」

 「いや、良くないって……だとしたら締め切りが、今日納品だから……」

 「全部終わってからでも、大丈夫だってば」

 ぜんぶって、なんですか。

 「ね?」

 「でも……」

 「大丈夫、まかせて?」

 まかせるって、なにをですか。

 十二月ともなると、布団から出ない時間が一分一秒でも長くなるための試行錯誤と実践を怠らなくなる。その結論の一つである、この蛍光灯からぶら下がった、丁度布団に寝た状態で手を伸ばせばギリギリ届くくらいの長さにしてある延長紐に指を絡めながら、ミサが同意を求めてくる。かちん、と豆球が目を覚まし、それ以外の明るさが眠りについた。かかっていた体重がふっと消え、頭を支えられながらゆっくりと体を倒させられる。かさっとしたサテン生地と、もこっとした裾飾りの綿毛をかすめ、ほんのり暖かい網目の感触がふにゅ。カーテンの隙間から差し込む仄かな外灯りが、彼女の瞳と唇を際立たせた。されるがままにミサの腿の上に寝かされた様子を子供を見ているような笑顔が覗き込み、ゆっくりと体を屈めて顔を近づけてくる。はら、と落ちた髪が鼻を撫で、それに気付いてすっと左耳にかけながらもまだ近づいて、目の逸らし場を失って閉じるしかなくなり――

 「う……」

 これは、このまま、まかせれば、いいのでは。

 「うう……」

 仕事なんか、納期なんか、今日くらい、今くらい。

 ぎゅっと瞑っていた目を思い切って開けた。目の前の彼女の顔を見ないように上を、上を、上を。携帯が、光っている。鳴っている。クライアント様一律設定の赤と緑のビビッドイルミネーションが我を呼ぶ!

 「っうるああぁああ!!」

 勢い良く横に回転し、腿枕から脱出した体に巻き込まれぶっ飛んだちゃぶ台が、お前馬鹿だとろ言わんばかりに錐揉み回転し、盤面が床に綺麗に叩きつけられ六畳ワンルームを発破音のような円形衝撃波が駆け抜けた。それが、ビーチフラッグのスタートよろしくこの体を引き立たせ、机が寄り添う壁に激突しながら携帯を掴み、反動で一歩よろけた所で足の小指をヘッドレスト付きエキストラハイバックチェアのキャスターにぶつけた拍子で落とした鳴り続ける携帯を、緑のサンタガールがひょいとつまみ上げた。小指の激痛に再度床に転がった姿を今にもとろけてしまいそうな艶かしい視線で見下ろしながら、ちらちらと携帯を振ってみせた。

 「それを……ください……」

 ほとんど頭を跨いでいるような状態なのに、豆球だけの光とそれを背にする彼女がほとんどシルエットになってしまって見たい部分が全く見えない。いや違う。

 「ミサより、これなんだ」

 目の前にしゃがみ込んで意地悪そうに聞いてくる。どうして見えないんだろうな、こういうのって。いや違う。

 「どっちとか、じゃないって……」

 「そう言って、結局最後は仕事を取るんでしょ」

 「このままじゃ、間に合わないんだって……」

 「いいじゃない、今日くらい。イヴだよ?」

 「クリスマスとか、関係ない生活、送ってきてたから……だから」

 「今年はミサがいるじゃない」

 「でも、やらなきゃ……」

 「ミサと仕事、どっちが大事なの?」

 「ってかなんだこの会話は!!!!」

 再び勢い良く立ち上がると、ひゃん、とか声が聞こえてきたと思ったら目を丸くしてぺたりと床に座り込んでしまった彼女を今度は見下ろす形になってしまった。小指の痛みで頭のぼーっとしたのがとれたのか、色々取り戻してきたぞ。申し訳ないと思いつつも、今は後だ、後!

 「ミサとか言ったな! 先程は色々とありがとうございました!!」

 あれ。

 「じゃなくて! お前のせいで生涯得られないと確信していた至福の時を過ごせました!」

 いや。

 「じゃなくて!! お前誰だよ! って不具合バグだろ!? なんでこんな事になってんだよ! しょっぱなから夢見心地で何も覚えてないんだよ! マジでありがとう!!!」

 もういいわ! せーのっ、ありがとう!!

 ほうっとした表情で悦びの怒号を聞いていた彼女は、少しして片手を挙げたかと思うと、蛍光灯の延長紐に手を伸ばし、かち、かち、と二回紐をひっぱった。白色の光が数度明滅し、一気に解放される。冷静になって見てみるとよく分かる。逆上せたような表情は、実際に逆上せており、彼女からは決して安酒では成し得ないような芳醇な香りがする。そのままでも十分綺麗だろうのに、どういう理由かそれを全て駄目にするような真っ赤な唇。頬が赤らんでいるように見えたが、これまた全く似合わないチークの影響が濃い。所々自然なのに、所々が似合わない不釣合いなメイクだが、余程素体がいいのだろうか、素晴らしく妖艶でいるのに、あどけない幼稚さも兼ね備えている。なんだこれは、こんな人にさっきまで――

 「似てたんだもん……」

 「え」

 「ごめんなさい、そっくりだったから、つい……」

 突然彼女の両眉が寂しさの角度に変わり、メイク要らずの大きな瞳からはぽろぽろと涙が溢れだした。それを隠す素振りも無く、そのままじっとこちらを見つめ続けてくる。

 「ずっと……ずっと一緒に暮らしてた……」

 よくあるベタなドラマとかだと、それ以上は何も言うなと言わんばかりに彼女を抱きしめ、主題歌どーん、である。が、そんな機転が効くわけないじゃないですか。それでも何かアクションの一つ、次の言葉を遮ってしまうような一言でも差し込めばよかったと思わされるのであった――

 「ブルドックの……」

 ――そこから先は何か言っていたのだろうけれど何も聞こえてはきませんでした、まる


 「ねぇー、ぐーぐぅー」

 「誰がグーグーじゃ! 水飲んで酔い覚ませちくしょう!!」

 怒りの形相で水の入ったペットボトルとコップをちゃぶ台に置き、携帯をぶんどって踵を返し、椅子に手をかける。近所のスーパーでからのボトルだけを買い、麦飯石水とか言ったか、専用機械で注水する類の奴だ。

 「やっぱり似てる……ぐーぐっ!」

 着信履歴ボタンを押して画面を見ていた携帯をひょいと取られ机にぽい。ささやかに抵抗する頭をぐいと引き寄せて顔を胸元に手繰り寄せる。ぎゅ。

 「うびゃばべびょろぼぶぼ!」

 衛生兵ー! 衛生兵ー!!

 「よしよし」

 センキューホーリーナイト。だーもう、どうにかならんのかこの反射感謝!

 「イヴはひとりぼっちだったミサの傍にいつもいてくれたよね」

 こんな綺麗なおねーさんでも単身だったりするのか、考えにくいな。

 「よく見ろぷ、目の前の物体は人だぱふ」

 「ミサの膝枕で、気持ちよさそうに眠るのを、ずっと見てた……」

 膝枕ってさ、どうして膝の枕なんだろうね。あんなとこに頭置いたら痛いし、された側も関節逆に折れ曲がりそうになるじゃん。それを言うなら腿枕じゃないのかと。もひとつ、膝っつったらよ、膝小僧ってのも変なネーミングだよな。あれは確か、過去に膝を擬人化してしまったマニアックな誰かの放った膝小僧という一言が今この現代にも言葉として残っているんだという赤裸々――かどうかしらんが――話だった気がする。そのマニアック加減を笑う所なのかもしれないが、それよりも、擬人化という発想がその頃、いや、それ以前のとてつもなく古くからあったという方が非常に興味深い。メリクリマスとヒョロロンパの結婚、だかなんか、そういうもんのすごい古い書物?作品?に既にあったんだってさ。やったな地球!

 ぶはふ。サテン生地の奥に潜む暖かな弾力を振り払う。たまらん! もう一回! 違う!

 「な、なぁ、俺も男だ。あんたとは鉢合わせたばかりの野郎だし、犬のグーグーでもない。そういうのは好きな相手だけにしなよ」

 す、すんごい我慢して言ってるんだからねこれ、体中に後悔の力みが入りすぎて毛細血管の切れる音が聞こえそう。歯食いしばりすぎて口の中血だらけ。頭の中はもう一回だけコールが鳴り止まない。

 「ミサはアナタの事も好きだよ? うん、大好き」

 「は?」

 「多分だけど」

 左耳からぱさりと落ちてきた髪を指でくるりと巻きながら、こちらを見て恥ずかしそうに言った。

 「ひとめぼれ……かな?」

 ――母さん、終わったよ、冬が。


 な、わけねーだろ。

 「バグが作者に惚れてんじゃねー!」

 どうせそうあってもな、どうせそうなってもな、この仕事が終わったら居なくなっちまうんだろうが。それはやっちゃいけない事だ。事だった。逆の立場になるなんて思っても見なかったが、駄目だ、ダメだだめだ。同じ事をさせちゃいけない。

 「アナタだって惚れたくせに」

 「え、な!? え!?」

 その個々の評価を集めれば不完全に見える化粧は、なんて悪戯な笑みが似合うんだろうか。全てはこの効果を引き出すために仕組まれた巧妙な戦術のようにさえ見えてきてしまうほどだ。個にして全、全にして個、という事か? 違うな、違うわ。何故ミサがそのことを。もしかして、どこかで繋がっていて、彼女の事を知っているのか……!?

 「な、なななんで、お前、なんで!?」

 「見てたらわかるよ、それくらい」

 「じゃあ、今は」

 ずっと沈殿していた生ぬるくて重いヘドロを胸の奥底で蓋をして見ないようにしてきた。考えてはいけない事だと思っていた。情など不要だと言い聞かせてきた。思い出すことも、名前を思い返すことも極力憚ってきたのに。

 「一人じゃ、ないのか?」

 ミサはにっこりと笑って答えた。そうか、そうなのか。こんな本末転倒で匕首に鍔な、誤魔化すように言い換えるなら、上京する娘を見送る父親のような自分が一番どうしたらいいかよくわからないこのモヤモヤを、少しだけ取り除かせてもらっても、いいのかな。もう悩まなくても、いいのかな。ごめん、としか言えなかった。それはこれからも同じだろう、ごめんとしか言えないや。でも、喜雨さん、もしミサの笑顔が質問への答えなら、よかった。新しい不具合バグが増えたのだろうというプログラマとして心痛む事実であっても、よかったとしか言えないよな、こればっかりは――

 「ミサはフリーだよ? ほら両想い。おいで、ハグハグ」

 差し出してきた両手を熟練の漫才コンビばりにスパーンと退けて大きく息を吸い込んだ。一度座っただけでぺらっぺらの薄硬くなってしまった座布団――安物だけど一枚買ってきた――に座っていたミサがその勢いで一回転して戻ってきた。おかえり、そして、

 「おっまっえっじゃねーえええよ!!」

 「じゃあ誰? ミサ以外に女がいるの?」

 「以外って、勝手に自分を勘定にいれてんじゃねーよ! いねーよ!」

 「ミサじゃダメなの?」

 「いいとか駄目とか、そういう話じゃねーの!」

 「それなら」

 元々室温は高くない六畳ワンルームの空気が静まり返り、気温が数℃下がった気がした。それまでおちゃらけた酔っぱらい女だったミサの表情から遊びが消え、透き通るような尖った声で言い直した言葉は、これまでの雰囲気を一蹴するような、触れてほしくはなかったさらけ出したい核心だった。

 「それなら、何を抱えて苦しそうにしているの?」

 不具合バグを出さないようにする決意なんて、どれだけそうしようと思ってても、その後も結局は守れるもなにも出来るはずもなかった。身から出た錆の分だけ、ぼろぼろと、毎回同じ反省をしては同じ事を繰り返して頭を掻きむしってきた。不可能な事に挑んでいるのは解っている、そもそも人間である以上できっこない事なんだから。それでも、得られた教訓から何が一つくらいの成長を、と思っていたが、完全に他力本願な待ち一辺倒のままな自分が心底腹立たしく改めて思った。一つのコップでより多くの飲み物を飲みたい時はどうしたらいいかを考えた時、例え溢れてしまおうと飲みたい分だけコップに注げばきっと飲める、なんて答えが可笑しいと笑えるはずなのに、どうして技術や修練の話になるとギリギリいけそうなどとさも罷り通りそうに思えてしまうのだろう。そうじゃないだろう、コップを大きくしないと話にならないじゃないか。最近では、目の前に現れた者達が自身の業である事も忘れ、仕事のミスを検知する便利な能力のように扱っている始末だ。誰の手にも溢れてしまいそうなこんな非日常がいつかぱたりと正常に上書きされてしまったら、それからの自分はどうなる? 借り物のコップで満たされていた中身は溢れ、流れ出た液体は洪水となり、己自身の裁量では捌き切る事なんて出来ずに人生ごと流し去ってしまうかもしれない。

 「そりゃ、力量不足で、バグ出しまくって、来たくもなかっただろうのに呼んだわけじゃないけど現れて、迷惑をかけた、だろうから」

 「それで?」

 「ミサも、ごめん、本当は早く帰りたいだろ、だから、ごめん」

 「謝って、不具合バグ直して、それで終わり?」

 終わり。何かを始めるという事は、終わりがある事もセットで心得なければいつか必ず来る終わりを受け入れられずにたじろいでしまう。どれだけ覚悟を決めていても、どうしようもなく辛くなったり悲しくなったりいたたまれなくなるものだろう。充実感だけが残る終わりなんて、人生の間に一度あるのだろうか、というくらいじゃないかと思っている。こちとらフリーランスという尖そうで儚い肩書で飯を食っていく事を決めた時、その終わりについても勿論考えた。どんな終わり方であっても後悔しない、わけがない。体力や年齢の限界、時代が告げる用済、納得は行かないが諦めるための終わり方で想定している事はいくつかある。それが志半ばだったり犯した過ちの反動によるものだったら絶対に悔やむだろう。今となっては、その志すら言霊の抜けたただの文字の羅列になってしまっていそうなくらいに、全てが、半端だ。情けない、と思う事はあれど、情けなさを何とかしようと奮い立つ事も無く、今の流れに揺蕩っておけば、現状維持をしておけば、そのうち新しい何かが向こうからやってきて何とかなるんじゃないの、といったたるみの重なりは歯止めが効かなくなっていた。

 こんな客観視ならこれまで何度もしてきた。都度、自分は腹の立つ野郎だと思い、それだけだった。忙しさを理由にし、仕事の内容を理由にし、果ては自身が引き起こした不具合バグまで理由にして、綻び開いた穴を埋めるだけの停滞の一途。誰からも攻撃されていないのに防戦一方なんだ。抜け出せないんだ。どうにかしたいんだ。

 「話して、楽になるかもしれないから」

 自信を、持ちたい……これまで出会ってきた不具合バグ達に、感謝出来るくらいに――

 「………………こんな騒動が始まってから、思う事があって」

 「うん」

 「異常なのに、なんというか、受け入れてしまえて」

 「うん」

 「初めて会った気がしなくて、それで、例えばそれが、プログラムを作ったのが自分だからだとしたら」

 「うん」

 懺悔。これは祈りを込めた懺悔であり、いつもなら親と一緒に外食はするけどイヤホン差しっぱなしで会話はしないしない思春期みたいな反発心でやりもしない、砕け散らばった自信をかき集める行為そのものだった。

 「今まで多くのバグを出して、誰かが現れて、直して消えてをしてきたけど、自分からこんな……複雑で個性的な、例えばミサみたいな人が現れる」

 「うん」

 「そういうものを、つくれていたのか、って」

 「うん」

 「誰でもそうなのかもしれないけど、誰でもそうなっている事を自分も出来ているのなら、それは、嬉しいな、って」

 「そうだよ、だから」

 俯いた頭にそっとあたたかい手が添えられる。

 「自信持とう? ミサもこんな事になるなんて思っていなかったから戸惑ったけど」

 く、と少しだけ手に力が入り、わしわしと頭を撫でる。言って欲しい事をそのまま同じ言葉で言われても、普段なら取ってつけたように言いやがってと突っぱねてしまうものだが、痛いくらいに染みこんでくる。

 「アナタを見た時、思ったよ。こいつが発端で、元凶な、優しいおバカさんか、って」

 何言ってんだ、ミサは。まるでこっちの事を知ってるような口ぶりで。

 「んー、もういい、もういいよね。本当に気に入っちゃった! 好き!」

 ミサは急に明るい声になって飛びついてきた。

 「プログラムをつくる人がみんな違う性格なのは、書かれたプログラムにだって同じこと。それがバグでも一緒。ミサをこんな風にした奴は誰だーなんて、思ったりしないよ。それどころか、よかったなーって」

 寒くて縮こまっていた体が、少しずつ動けるようになっていく感じがする。

 「ミサの主、つまりアナタの事は、ここに来ちゃう前からなんとなく知っているような気になってた。ふしぎだね」

 それはきっと、

 「よっぽどミサ達と会話しながら仕事してたのかな?」

 してた。してました。仕事中に話せる相手なんて、仕事しかいなかったから。お前はどっちの処理の方が気分よくこなしてくれるんだ、とか、あんまり負担かけちゃいけないな悪かった、とか、それぐらい気効かせろよ!いやごめん直させていただきます、とか、他にも、他にも。

 「だから、ミサは不具合バグで、ここに居られることが短い時間なのも知ってるし、魔女狩りみたいに見つけ出されて火炙りにされたって」

 意地悪そうに"魔女狩り"を強調して言ってみせる。

 「ミサは、ううん、私達はみんなきっと、それを恨んだりなんかしない、するはずないよ」

 あたたかかったミサの手が、体が、はじめからそこに何もなかったかのように離れた。

 「ありがと」

 何も、していない。寧ろ、こっちが。

 「お仕事、がんばって。グーグー」

 最大音量にセットしてある携帯が赤に緑に光りながらけたたましく鳴りながら、机の角で小刻みに震えて落ちそうになる。慌てて掴んで反射的に受話ボタンを押した。何度も電話したんですけど、お取り込み中でした?から始まったクライアント様とのやりとりは、今までかけ続けたのに出てくれなかった緊急対応が必要なバグの発生の報告のためだった旨、そして、御社の技術者が他の原因の可能性を探っている最中にこちらの不具合バグを見つけて修正した、という連絡だった。多方面から処理して欲しい内容が随時登録される集局地のようなプログラムに、一つずつ順序良く処理をしているだけではとてもこなしきれない膨大な量になったため、処理の簡単な内容を判別して優先したり、かかる負荷を予測して二つ三つを同時にこなすように改良した部分が該当箇所なのだが、そこがある不測の条件を満たすとタガが外れてしまい、全ての処理を一度に来ただけ全部やってしまうおてんば姫に変貌を遂げてしまう事があった、という物だった。

 どちらかと言うと、自身の持つ技術では若干オーバーワークな領域にまで食い込んでいた部分であり、改修してくれたプログラマの方にしょっちゅう電話しては、その場で覚えて実践する、と繰り返してたため、あちらにとってはそこまで難ある内容ではなかったらしい。言い換えれば、こちらの完全なる色々な"不足"が露呈した結果だけが残った。"18分52秒"。


 「ここんとこ、自力で解決した記憶が全くねーわ……」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、一口分残っていたクリスマスケーキを指で摘んで口に放り込んだ。手についたクリームを見窄らしく舐め取り、

 「うわ、スポンジかっさかさ。もったいね。こんな美味いのに」

 生クリームの油感っていうの、このべったりした感じ、すごく苦手だ。なら摘んで食うなって話だが、生クリームなんて殆ど口に出来ないし、その稀な機会の中で偶然手につく度にいつも思うんだ。きっかけが無ければ思い出すこともない。あれも、この指に膜をはる生クリームも。

 「あー、イヴ終わってるわー。どう、でも、いい、けっどっ!」

 どうでも良い時より、どうでも良くない時のほうが出てくるよね、"どうでもいいけど"って。

 独り言が止みそうにないので、狂いに狂った調子を戻すために閑話に逃げよう。こちらの不具合バグを見つけ出し、修正作業を代行してくれたプログラマさんは珍しい――事も実際は無いんだが、世間ではそういう空気になっているようで――女性だったのだ。当然ワタクシ達は電話番号を交換し、"仕事の話だけ"をし続けていたのだが、苗字しか知らなかった相手の名前が"美沙"さんだったという偶然。いやそこが一致してたからって美沙さんがミサと関係あるはずなど無いのだけど、クライアント様に一言お礼が言いたいと代わってもらった彼女と初めて交わす仕事以外のトークに高揚してしまい、ズレまくった歯車のままで放った

 「ところで、色は赤じゃなくて緑なんですけど、サンタガールコスプレとかした事あります?」

 にドン引きされ、二度と仕事したくないとまで言われてしまった、というオチ。いやー、物分かりもオタクな話題も嫌いではない方だったので冗談だという事にしてもらえたんだけどね、あの時の"はぁ?"は殺意が電波を通してしっかりと受信できた。そらそうだわな、イヴに残業ってだけで怒ボルテージが上がり切るだろうのに、おおよそ片付いた安堵中にあんな一言もらったら誰だって。今度お詫びの菓子折りでも部署宛に贈っとこう…… "9分41秒"

 「……なんかさぁ」

 何も解決していないし、進展もしていないのにな。

 「すっきり、した」

 もっとすっきり出来たかもしんないのに、馬鹿だねー自分って奴は!! うん、これくらいにしとこうね、ぼくは、けんぜん、です。


 結局、今まで出会ってきた不具合バグ達とは違う、風変わりな別れ方をミサとはしたせいか、いなくなる瞬間をなんとなく感じる事が出来た気がする。ほんとにふっと消えちまうんだな、そんな事よりもっと不思議な事が起こっている事は置いといて、不思議だ。

 他のバグ達の事を知っているかもしれないという勘違いからよくわからない方向に事が進んでしまったけど、結局知らなかったって事だよな。こちらの事も、こっちが人見知りを覚えない気兼ね無さで体当たり出来てきたように、何か通じる感覚みたいなものがあったんだろう。

 ――よっぽどミサ達と会話しながら仕事してたのかな?――

 独り言が友達みたいなもんですから、そりゃしますよねって話で。前の擬人化の件じゃないけど、まるで人のように扱っていたのは自分自身で、妖精さんがそれを具現化してくれたんだー、みたいなファンダジーが実際に起こって、るんだよなぁ……夢幻じゃない証拠が沢山ある所がまたなんともはや。恐らくは、独り言の言い過ぎで脳のネジがあまりにも飛びすぎたせいなんだろう、誰にも打ち明け(られ)ること(をする相手)なんて(居ないから)出来ないけどさー。病院に行くことも考えましたよ、当初は。でもなー、なんかさ、見える事そのものは怖くないどころか、悔しいかな楽しいとか思ってしまう事の方が多くなってしまって。敵対する相手であり続ける事には変わりないんだけど、なんというか、会話に飢えてんのかな……ははは……。

 しかし、しかしだ、大別したら敵とはいえ、今宵はひっじょーに良い思いをしたでござる。免疫も抵抗力もゼロだったから即頭真っ白で実感はまるで無いが、なんか、こうね、ふふふ、ふわっと、むにっと。ねぇねぇ、これは、大人の階段の一歩に含めてよろしいんでしょうかね? お先にって片手をシュピと"じゃ"ってポーズとってもいいですかね? ……ともあれ、だ。これからは人の形をしたバグに好かれた男として生きていこう。

 「うわー、誰にも自慢できねぇー」

 自慢する相手もいねぇ。

 落ち着いてしまうと、恥ずかしい何かがぐわーっと押し寄せてきそうな気がして、やった事も内容もしらない前衛舞踏を即興してみたりする。六畳ワンルームはますます冷え込み、靴下だけでは床からの冷えを防ぎきることはとうに出来なくなっていた。いつもはシャワーでカラスの行水だが、今日はたっぷり湯をいれて風呂を沸かそう。熱めにして、温くなるまで入ろう、42℃が良い、追い焚き機能はカランを回すこの手の調整次第だけどな……これでよし。それから何をしよう。どうしてこんなに元気なんだろう。

 「そっか、バグ取り作業そのものはしてないもんな」

 不具合バグ……か。条件反射で反吐が出る程嫌いに決まっていたのに、今じゃ複雑な気分だ。無くなるに越したことはないのに、無くなってしまったら嬉しいとは思えなくなってしまった。これからも、どんな形であれ上手く付き合っていくべき相手だと、有無がどうこうの話ではないと気概が悟ってしまっている。プログラマという仕事をフリーランスで始めた以上、終わりの懸念に加えてもう一つ、対峙する相手との付き合い方というものも考えたほうが良いみたいだ。対人だけじゃなく、行動する上で必ずセットになってくる有象無象の一つ一つに、だ。だからこう結論を出そう。

 「不具合バグは、少ないに越したことはない」

 そのために、今の自分にできる事は――


 すっかり使わなくなった付箋だらけの参考書を、机の下の無造作書籍タワーから数冊引っこ抜き、天地と小口を指でなぞって埃を取りながらヘッドレスト付きエキストラハイバックチェアに座った。その一冊の最初の付箋に爪をかけて開く。

 今の自分にできる事は、これぐらいしかない。これから先も付き合う相手へのせめてもの感謝と敵意を込めて、内容の読み進めを始めた。


 ――十二月二十五日の朝日がのぼるまで、捻ったカランの事も忘れて。


不具合 #010 修正完了

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