不具合 #001
三月三日。
「ねーぇー、いつまでそうしてるのー?」
――うるさい。
「画面とにらめっこしてるだけで、お仕事おわるのー?」
――うるさい、散れ。
「ねー、おーなーかーすーいーたーーぁー!」
「だぁやーーっかまわしぃわおるぁあああ!」
――振り返ってはいけない。声が消えるまで絶対に振り返ってはいけない。愚羅紗羅菩楽守、愚羅紗羅菩楽守……。心に何度も刻んだその誓いは百八十秒足らずで崩壊した。
黒髪のショートヘア。顔のシルエットは真ん丸のお子ちゃまだが小顔で素材が良いのでなんだって長所に見える。白と黒とピンクを基調としておませにコーディネートなさられているあなたは高校生ですか? いや、中学生です……か? 見た目はそうですが、生物学上女性で間違いありませんか? 死語など気にせず言ってしまえばつるぺったん。ザ・フラット。つい先日、紅白帽を卒業しました! と言わんばかりの小柄な女の子が、ありえないこの部屋の、ありえないこの椅子の、ありえない横にいるありえないありえない。
解っているさ、この現実は現実ではないのだろう? 疲れているんだ。目を覚ませば全て解決。そう思ってブラッドカウを飲んだ。ビュンケルも飲んだ。眠気ボコスカも飲んだ。それでもこの幻覚は消えずに今なおここでネオ・ナカスイターアとかなんとか忌々しい呪詛を甲高い声で唱えている。
「ちょ、ちょっと!? それ!」
指先よりも小さな緑色のフタを開け、辛味が凝縮された赤い液体の入ったビンを口の中で逆さにして大きく縦に振った。
「あ、あーぁ……」
「かっれ゛ぇええ゛えー!!!」
「あははは! 当たり前じゃんー! あはははははは!」
シンクに飛びつき蛇口を捻って水流に舌を預けた。床に転がりのた打ち笑い回る女の子がガシガシとちゃぶ台を蹴る。
「おばえ、だでだよ……」
「おで、やよい、ばぐだど……プッ」
後に続くあははははが眠気と耳をつんざいた。
閉め切っていたカーテンを勝手に開けられ、引っ越してきてから一度も開けたことの無いベランダに続く窓を全開にされ、いつもはモニタの明かりだけで日がな暮らすのが当たり前になっていた六畳ワンルームが無限の空間と光を得たように明るく広く見える。なんということでしょう。小鳥のさえずりなんて自分の部屋から聞こえたんだなぁ、陽気がますます心地いいや。小春日和というのはこういう日の事を言うのだろうか。出かけるとしても夜中のコンビニかコインランドリー。陽の光なんていつぶりだろうか。嗚呼、世界は素晴らしい。自分の生活を少し改めなくてはならないね。けれど気が付くのが遅かったみたいだ。でも……いい、いいんだ、自分はもう思い残すことなど何もない。いくら出来心とはいえ、最後に女性と喋る事ができたんだもの。口の中の激痛が幾分収まり、やっと飲めるようになった麦茶を一口飲んで吐く息と一緒に言葉を絞り出した。
「自首します」
「なんで!?」
彼女の手中にあった、勝手に探されて勝手に封を切られ勝手につままれていた季節限定非常食、通称:雛あられが宙を舞う。その内めっぽう高く上がった一つをおかっぱちゃんが見事に口で受けた。
「ぼくは、ゆうかいはんです」
ばらばらばら。
「んぐ……だーかーらー、何度も言ってるでしょ! あたしはやよいー! バーグーのーやーよーいー!」
「あぁ、"ばぐの やよい"さんと仰るんですか。変わった苗字ですね」
余所行きの笑顔を振りまきながら麦茶のコップを口元で傾けた途端、思い切り振り下ろされたチョップが脳天を直撃した。ガラスのコップと前歯が不慣れな二人が醸すファーストキスみたいになった。はい、想像ですー。経験なんてあるかちくしょう。もげろ。ちくしょう痛ぇなぁ、そう、痛いんだよ。痛いじゃだめなんだよなんで痛いんだよますます本物じゃねぇか!
「じゃあ何だ!? お前はこの案件のバグで人の姿して現れて行くとこないから居座ってますお腹空きましたあはははは! とかぬかしてんのを認めろってのかよ!」
指さした先には、直しかけのプログラムが映ったモニタと、さっきからマナーモード着信で震えっぱなしの携帯電話が今にも床に落ちそうなところまで移動してきていた。
「だってさ〜、そうなんだから仕方ないじゃん」
「仕方なくねぇよ……もう時間ねぇんだって、マジで。よし、帰ろう。な? おうちわかりまちゅかー? パパとママの名前いえまちゅかー?」
「ぶつよ」
手刀の切っ先が脳天に定まるのを見て思わず仰け反る。
――"ぶつ"に対してパーで構えるとはこれ如何に。
じゃなくて。
やはりどう考えたって会話をしている。女の子っぽい犯罪レベルの中学生っぽい女性っぽい小さい何かっぽい奴と。いくら独り身で寂しいからって、妄想にしか女友達がいないからってこれはないわ、ないない。よく考えても見ろ、女性というだけでどんな相手でも口ごもってしまう自分だぞ。こいつが女じゃなくて本当にバグの化身みたいな超常現象の一端とかなんだったらまだ話もわかるもんだけれ――
「ど?」
「れ?」
「み? ……やるなちくしょう」
「でしょー! あはははは!」
間違いなく会話だ。しかも小粋なレベルで成立している。
「わかった、わかったよ」
認めよう。こいつは女性の形をした、
「ねー、どれがバグー?」
「今探してんだよ! 時間ねぇんだ今日中なんだって邪魔すんなくださいお願いします!」
「はーい」
"8分40秒"。電話の応対で更に体力を消耗し、魂を削っての秘技・しらみ潰し発動から優に三時間は経った。集中力もそろそろ限界のようで、後でする足音布ズレお菓子の袋……様々な音に敏感に反応するようになってしまった。とはいえ、ヘッドホンをして音楽を聞きながら仕事をする事は出来ない。こればかりは性分なのだから仕方がないし、今までそれを不便にも不都合にも思ったことは無かった。だが――
「ラッピーダーンはっけーん! おおっ!? 謎の粉二十倍!」
「部屋中ほこりまみれじゃん、ばっち!」
だー、思考とあいつの声が交互に飛んできて頭の中で競合起こしてこっちがバグりそうだよ……
「あ」
「よーし、やよいが掃除する!」
「は? え? いやいいから、いいから静かにしてくれ。今何か掴めそうなんだよ」
「つかめる?」
「バグの原因がわかりそうなの。頼むから黙っててくれ」
はぁ。誰でもいい。この案件にベビーシッター代を別途くれ。
――気を取り直そう。この一体の構文は何度見なおしてもおかしな所はなかった。だがこいつを動かすためのライブラリ? プラグイン? どっちだろ、仕事しててもIT用語よくわかんねぇけど、兎に角それごとごっそり取り除くとすんなり動く。つまり、時短のために用いたライブラリが自分の作ったプログラムと競合を起こしている可能性があるんじゃないのか。用いているものは三つ。特定している時間は無い。いずれも必須、だとしたらライブラリがどうこうと探るより、この一体を再構築した方が早いだろう、多分。
「よし」
プログラムのバックアップをとり、狙いを定めた箇所をごっそりコメントアウトしておく。プログラム再構築時に同じ方法で処理をしてしまっていないかをチェックするためのものだ。本来ならばこういう事は望ましい対処法ではない……と思う。できる事なら原因を特定し何が問題となっているのかを把握した上で修正、今後の仕事に活かしていく手順を取りたいが、例に漏れず時間がない。性格上、後だ、後、は、即ちやらないという事になる自分の体たらくぶりとお気楽加減には毎度嫌になる。それでも、後だ、後。今回だけ、今回だけ。
原因の特定が出来てしまえば、無論それが正しかった結果あっての事になるけれど、気分的な圧迫感は相当薄れる。あれだけ頭を抱えていた
「えーと、やよい、だっけ。静かにしててくれたお陰でなんとかなりそうだわ」
返事は無い。ただのしか……やめとこ。
ヘッドレスト付きエキストラハイバックチェアを回転させて後を見やる。自分のベッドに横になり完全に熟睡モードのやよいの姿があった。白と黒のボーダーハイソックスに団塊の世代が黙っちゃおれない短さの黒いスカートから覗くその白いものはおそらく……ありがとうございます! ありがとうございます!!
――とかやろうとしたんですけどね。もう、なんかですね。こうまで無茶苦茶ですとね、一人の時に抑えようものなら十倍になって沸き立つようなどピンク色のアレやアレが、滝に打たれ火の上を歩き除夜の鐘代わりに百八回木筒でどつかれたらこうなるだろうよろしく、なんかもうどうでもよくなるんですわ、うん。あれだけ煩かったのに静かになると気になったりするんです。そういうもんなんです、うん。結局は寂しいのが苦手なウサギ男なんです。アニメの主人公ってすごいわ、対応……じゃないな、コミュ力? だっけ。あとトラブルメイク&収拾力っつーのかな。いずれも自分には備わっていないし未来永劫身につくこともないだろう。ってか要らん。
忍び足でベッドに近づき、足元でくたっていた布団をゆっくりとかけてやった。暫くもぞもぞしていたかと思えば頭まですっぽりと布団を巻き込んで包まり静かになった。何の蛹だお前は。
「やっつけちまうかぁ」
独り言のはずなのに、どうして小声になってしまうんだか。
一際強く窓から入ってきた風に背筋が縮む。心地良く断続的に響いていたキーボードの音を渋々止めて席を立った。ぽかぽかとした陽気の面影はまるでなく、息を潜めて日が暮れ落ちるのを待っていた冬の残党が今だそれやれと言わんばかりに最期の城攻めを開始しているようだった。不慣れな手つきで窓を閉め、手慣れた指さばきでハロゲンヒーターの電源を入れて席に戻る。
問題の
完全に組み直されたプログラムは他のどれとも干渉せず、目には見えねど快調に走っていた。これでもう提出は可能だろう。少し休憩してからもう一度確認して、メールして、電話して納品完了だ。おつかれ。
「あー、厄介なのを忘れてた」
凝り固まった腰を捻りながら丸くなった布団の前に仁王立ちし、この布団を引っぺがす騒ぎに乗じてあのアニメみたいにあわよくばあわよくばい事になったらいいのになと思いつつ、あわよくばいってなんやねんとツッコミを入れる。心に余裕があるって素晴らしいねぇ。バグが消えるって本当に素晴らしい事ですね――
物音一つしない部屋が妙によそよそしく、こちらが日常なのですといくら説得しても理解を示さない。山場を超えてスッキリしたはずのメンタルが魂の抜けきったロックを奏で始めて自然と眉間にシワが寄る。
――バグが消える、か。
「なぁ、ばぐのやよいさん? アンタが本当にさっきのバグなんだとしたら、修正しおわったらどーなん、の! っと……」
まるで布団一枚引剥がしたような軽さで布団が一枚広がった。何を言っているかは自分でもよく分かっていない。分かってたまるか。夥しい埃が飛散して夕日に照らされキラキラと、この部屋には無縁で大層似つかわしくない幻想的な情景になる。手品師が物体移動のマジック中にそこにあるべきものが意図せずなかったとしたら今の自分みたいな顔をするのだろう。布団はしがみついていたであろう予想する少女の重さを考慮した引っ張り上げに驚いて部屋の端まで吹っ飛び悲しげに丸くなった。
「……こうなんのかい」
玄関を見ても鍵は閉まったままだ。出て行くとしたら窓だけど、まさかねぇ。集中していたから多少の物音には気が付かなかったとしてもだ、三階だもの、むりを。
空蝉と表すには少々早い季節だが、一枚の布団を残して去っていった存在としてなら時期なんて関係無いか。
「源氏、イケメン、おで、かんけいない」
全開にされて束ねられたカーテンが音を吸い込まないせいか、すっかりいつもの大きさに戻っていた独り言のボリュームがやけに大きく響いた気がして少し焦った。誰に何をごまかそうとしたのか、ちゃぶ台に散らばったお菓子に一つだけ目立っていたピンク色の雛あられを摘んで口に入れた。甘い。ってか、あいつピンクばっか食いやがって今のでラスイチじゃん。自分もピンク派なんですけど。緑と白のあられを拾って袋に戻しながら呟いた。
はぁ。甘いもん食ったらなんか落ち着いたわ……たまにはカーテン開けて仕事すんのいいかもな。あと、いい加減掃除をしよう。
いや落ち着くな、落ち着いていられるわけないだろう自分。
一体何がどうなってるんだ!?
不具合 #001 修正完了
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