第8話

 外で雨音がする。こんな日は、傘が必要になるため、億劫になる。履き潰した靴に、水が入ってくるのも嫌だ。だが、会社には行かないといけない。早く目覚めすぎた朝は、めざましテレビを観る段取りになっている。

 思えば、無謀にもCXの面接試験を受けたことを思い出す。エントリーシートが通っただけで、ぬか喜びする私を、電話越しに、友は、

「こいつ落ちたな。」

と思っていたらしい。その後、修士課程に進む予定だったが、論文のプレッシャーに負けて、大学は中退してしまった。大学で私がしてきたこと。

 それが、パソコンで友に漫才台本をインターネットで送ることと、桂枝雀師匠の落語を聴くことだった。昨日、久しぶりに桂枝雀師匠の夢を見た。弔電というものが伝えることの極致であることを教えてくださったり、桂枝雀師匠が、自転車を乗りこなす姿を見て、目が覚めた。

 何故か、友からラインではなく、ショートメールが届いていた。

「おー」

「おはよ」

私は、寝覚めの一服をして、返信した。

「ラインは?」

友は、

「あるよー」

「テストで送った」

と。

 時を戻そう。 

 私は、大学時代から、芸人を目指していた。大学を辞めて、地元に帰った時、私は、友に切り出した。

 公園に友を呼び出し、勇気を持って声を出した。

「漫才師になる気ない?」

答えは、意外だった。

「そんなこと考えてたん?」

北海道で、最高の笑いを見てきた私は、あの世界に憧れた。

 芸人。

 それが、私の選んだ道だった。あらゆる諸先輩方に、それを伝える度に、笑われた。彼女に伝えたときも笑われた。

「さんまさんみたいになるの?」

 芸人というのは、人を笑わせるだけが商売だと思っていた。しかし、啓蒙的な笑いというのもあり、ネタの中に何らかの教えがないと意味がないと、後で知った。

 取り敢えず、私は、近くの老人介護福祉施設に電話した。吉本NSCではなく。

「あの、神戸に住んでいる者でして、お笑い芸人を目指しているんですが、そちらの方で漫才をさせて頂けないか、と思いまして。」

担当者の方は、一度、お会いして面接しましょう、という返答だった。

 アンケートを用意して、面接に望んだ。

「ここは、お年寄りが多いのでね。ゆっくりと喋ってくれたら助かるのよ。」

担当者の方は、福祉施設に勤務しているだけあって、物腰は丁寧だった。

 この老人介護施設は、昔、白川幼稚園という建物で、私は小さな時分にそこに通っていた。

 二人で考えた、振り込め詐欺のネタとラブレターのネタを持って、面接に望んだ。

 担当者の方は、

「どんな漫才をされるつもりですか?」

と聞かれた。ここでネタ見せをしてくれ、と言わんばかりだったが、相方が、

「振り込め詐欺とラブレターのネタです。」

と言うと、何故か、許してもらえた。相方は、いちびって、

「シンクタンクさんに憧れを抱いてまして。」

と、ボケていたが、シンクタンクさんという漫才師を、担当の方が知らなかったらしく、すんなり、それを受け入れられた。

 パソコンで、ネタを書いて印刷し、父に見せると、

「こんなもん漫才なことあるかい。お父さんが書き直し足るわ。」

という答えだった。

「どうもフューチャーズです。」

という挨拶から、ダメ出しされた。

「俺やったら、『こんにちは。僕らフューチャーズ言いまんねん。』から入るな。」

と、言っていた。何せネタ合わせは、きっちり遣った。

 介護福祉施設で、漫才をする直前まで、私たちは、ネタ合わせをしていた。緊張で吐きそうになりながら、本番に臨んだ。アンケートを事前に手渡していた分、ある程度の信用を得ていた。

「THE漫才」

と書かれた垂れ幕やスタンドマイクを用意してくださったのは、本当に有難かった。

 面接してくださった担当者は、毎日のようにお爺ちゃんお婆ちゃんを笑わせているため、

「今日は、皆さんにプレゼントがあります。」

お婆ちゃんから、

「知ってるよ。漫才やろ?」

と、野次が飛んだ。

「今日は、“タダで”漫才をしてくれるお二方がお越しです。」

というと、大きな笑いが起きた。私は、担当者の前説の方が、面白いやないか、と思った。

 ネタ合わせのときの緊張は、舞台袖では、前説のお陰もあり、薄れていた。

「どうも、フューチャーズです!よろしくお願いします!」

「いや~、ここが昔、幼稚園になってまして。」

と、切り出すと、真ん中辺りに座っていたお婆ちゃんが、

「うんうん。」

と頷いていた。

 そこを指差し、

「あの辺やったかなぁ。」

「なにがいな。」

「僕がお漏らししてたとこ。」

いい笑いが起きた。死ぬほど、緊張していたのに、一発目の笑いが起きた事で、演者として、肩の力が抜けた。二本のネタを遣った後、アンケートに、「好きです。」とか「かわいい。」という声を戴いた。有難かった。

 これは、私のジンクスなのだが、二人で出かけていて、財布を拾った相方とは、コンビとして成立する。後に幽玄というコンビ名で、YouTubeにネタを載せていた相方のおじさんと出かけたときも、バスの中で、財布を拾った。

 この相方とも高校生のとき、財布を拾って、二人で山分けした。

 ともかく、介護施設でネタがうまくいったことで、私は天狗になった。どこに行っても、妙な万能感があり、向かうところ敵なしだった。そこかしこで、いちびって、その都度、他人にも好かれるようになっていた。

 しかし、所詮は統合失調症。躁状態になって、精神病院に入院する羽目になった。

 相方には、そのことを伝えず、胃潰瘍で入院することになっていた。二週間で退院したのだが、そこで大人の賢さと大人が正直になった時、どれだけ恐いか、ということを知らしめられた。


 入院の届出については、母が済ませてくれた。看護師に挨拶をして、母は、足早に帰ってしまった。

「あんまり老けてるから、夫婦かと思った。」

という囁きが、後ろから聞こえてきた。私は、母が帰ったと同じくして、院内の灰皿に、煙草の火を点けた。あまりにも無謀で向こう見ずだった。最初に声をかけてくださった方が、いきなり英語だった。私は、たじろいで、

「I cannot speak English.」

と言うのが、精一杯だった。こんなことになるのなら、学生時代にもっと勉強しておくべきだった、と後悔した。病室には、4人相部屋のベッドがあった。一人の患者さんが、調べ物をしながら、息を撒いておられる。私の精神は、休むどころか、フル回転だった。

 知り合いの先輩が、同じ病棟に入院していたのは、不幸中の幸いだった。私が、院内でへまをする度、フォローしてくださった。

 好きだったお笑い番組が、殆ど見られない状況で、退屈な日々の生活を過ごした。

「酒鬼薔薇聖斗って知ってる?」

ある夜のこと、先輩が、教えてくれた。神戸市立友が丘中学校で、幼児の首切り事件があった時、犯人の少年が、名乗っていた名前だった。

「あの子もこの病院に入院してたんやで。」

一瞬、私が酒鬼薔薇聖斗ではないか、という錯覚に陥った。しかし、そうではなかった。とんでもないところに来てしまった。そう思った。

 二週間の簡易入院中、この先輩は、随分、よくして下さった。近くのマクドナルドでフィレオフィッシュを買ってきてくれたり、眠れない夜に、ノラ・ジョーンズのCDを貸してくださったり。

 最初の夜は、バレンタインデーだった。コロッケがハート型に作られていた。

確か、添えられていたカードには、

「バレンタインデーは、ローマ帝国の迫害下で殉教した聖ウァレンティウスに由来する記念日です。」

と書かれていた。私は、それに目を通し、コロッケを頬張った。空腹と退屈が、一番の厄介だった。一応、プログラムは組まれているが、それが終わった後、なにをしていいのかわからなかった。取り敢えず、テレビの前に座って、神木竜之介さんが、子役を努めることになったインタビューに受け答えしている姿を、めざましテレビで見たのは、覚えている。

 一人、声をかけてくる男がいた。格闘技好きの男だが、名前は覚えていない。

 神戸新聞に掲載されている神戸大学入試問題を開き、

「これ解ける?」

と尋ねてきた。

「全然わからへん。」

昔、獲った杵柄が、何の役にも立たなかった。ある患者さんが、時代劇を見ている最中、生意気にも、

「あの、ちちんぷいぷい見てもいいですか?」

と尋ねた。その人は、訝しげな顔をして、またテレビを観続けた。

「世の中には、知らなかったでは済まされないこともある。」

と、脇から現れたスーツ姿のおじさんが、言った。このおじさんが、ずっとスーツ姿であることが謎だった。

 先輩は、

「格闘技好きの男おるやろ。あの男の相手はするな。」

とか、

「スーツ着てるおっさん、おるやろ。」

と言って、手を上に向けて、クルクルパーの合図をした。

 私は、二週間お世話になった後、スーツ姿のおじさんが、

「昔、高畠という苗字が流行ったことがある。」

と言っていたが、鹿として、

「お世話になりました!」

と、深い礼をして、そそくさとその病院を後にした。

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