第6話
相方のいない生活は、正直つらかった。
それまでに、何度もネタを繰っては、公園で稽古をしていた日々が、懐かしかった。
私は、実家を離れ、アパートに住みながら、新しい職場に就くことになる。新しい環境に身を置くということは、新しい人間関係を作っていかなければいけない。何もかもがスタートだった。一人になった私は、職場とアパートの往復で、疲れきっていた。その頃、私は、新しいパソコンと、デリヘルにはまっていた。
「俺、映画撮りたいねん。」
元相方に、相談したところ、
「東京に来れば、撮らせたるわ。」
の返事が返ってきた。夜行バスに乗り、一路、私は東京に向かった。スマートフォンのない時代、携帯電話で、動画を撮らせていただいた。それが、映 画になった訳ではない。ただ自己満足のために、描いた画である。それをどう編集したらいいのかもわからず、神戸に戻った私は、悶々としていた。
そんな日々が続く中、ある女性から、一本の電話があった。以前に関係のあった彼女だった。
「電話でして欲しい。」
という、誘い文句に、馬鹿馬鹿しくも乗ってしまった。それからは、意識は朦朧としていた。その後、職場に行ったのかも、あまり覚えていない。地上デジタルテレビのない時代。アナログテレビで、ドラマが放映されていた。一人で見て、私は、そのドラマで橋げたから、少年が飛び降りるシーンに、感化され、2階のベランダから飛び降りた。
両足踵複雑骨折。
カルテには、そう書かれていた。ベランダから飛び降りた痛み で、喚いていると、看護士さんも医師も飽きれていた。新生病院という病院に、入院したが、そこでは面倒を見切れない、ということで、名谷病院という病院に運び込まれ、三ヶ月、入院した。
入院生活の中で、色々、勉強させていただいた。それまで、世間知らずだった私に、ほかの患者さんから、色々、教わった。
南無妙法蓮華経の経文に、何が書かれているかというと、釈迦が、試行錯誤を繰り返しながら、修行に励んで、悟りを開きました、ということだ、と教わったのもその頃である。
リハビリをしつつ、本を読み、携帯電話を貪った。数々の方が、見舞いに来てくださり、大変、有り難かった。
薬を食みながら、カウンセリングを受け、三ヶ月経ったのち、グループホームにお世話に なることが、決まった。
当時、職場のリーダー格を勤めておられた、職員の方に、車で見学に連れて行っていただいた。小さな一戸建てを貸し切って、作られたグループホームの名前を、ビレッジたまつという。食事はおいしかった。同居人の方も優しかった。施設長を務めておられた方も、最初のうちは、優しかった。世の常だが、新人には優しく、徐々に厳しくなっていく、というのが、その施設長にも当てはまった。
うまい飯を食い、女性を抱き、時に、施設長に叱られた。正直、好き勝手させていただいた。
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