ごはんのためなら女の子にも


 翌日、夜が明けるか明けないかの薄明るい時刻に、アルディは起こされた。

、早く着替えて。もう馬車も用意してあるわ」

 叩き起こしたマルフィールはすでにすっかり旅装で、小柄なアルディなら身を屈めれば入れそうなくらいのトランクを従えていた。

 床にはアルディ用だろう女物の下着と鎧下の肌着と軽鎧、それに細身の剣が広げられている。

 例のポーチは、枕元にあった。

 アルディはまだ夢心地なのかぼんやりと彼女を見上げ、

「あれ、――」

 わずかに『琥珀の魔女』が笑う。

 アルディは身を起こして、足下に用意されたものを見回す。

「変な夢を見たの」

 ベッドから下りて、昨夜マルフィールに着せられた寝着を脱ぎながら、どこかぼんやりとした目つきでアルディが言う。

「あたしが貧民区の男の子で、置き引きとかで日銭を稼ぐ暮らしをしてるの。あたしより小さい子を守って戦ったり、食堂のオジサンに怒られたり――変でしょ」

「全く、そうね」

 優しげな笑顔でマルフィールが促す。

 示されるまま、アルディは恥じらう素振りもなく裸になった。

「ほら、やっぱり女の子よね、あた……」

 アルディの手がつるんとした股間を撫で、胸に触れ、正面のマルフィールを見上げて――

「なっ、な――えええええっ!?」

 驚きの声を大きく上げて、しゃがみこんだ。

「お、おれに何したんだよっ!」

 自分の股間を覗き込んでから『魔女』を睨む。

 瞳から、靄のかかったような色が消えていた。

「さすがに、精神系は慣れてない分難しいわね。これが上手くいったらあの伝令兵の回復も図れようものを……」

 マルフィールは肩をすくめて呟き、眼鏡に少し触れてからアルディの肘を取って引き上げる。

「早く着替えなさい」

「いや、だっておれの、その――」

 手渡された下着を握ったまま、おずおずと訊く。

「と、取った――の?」

 マルフィールが笑顔を見せ、否定も肯定もせずに言う。

「あなたが昨晩、窓から逃げようとしたから」

 アルディが「げっ」と口を押さえる。

「私が出ていったら、もうばれないとでも思った?」

「そっ、なっ、あ――」

 意味を成さない言葉を、震える唇でこぼす。

「あなたがちゃんと役目を果たしたら、戻してあげるから。ほら早く」

 裸でいること自体が恥ずかしくなってきた上に、周囲を見回して他に身に着けるものの選択肢がないことを悟ったか、のろのろと女物の下着に脚を通す。

 昨日着せられた、巻いて締める下帯と違い、すっぽりと穿く形状のもので臍の下まで覆うものだった。中に通してある紐を結ぶことでずり落ちないようになっている。

 脚にはその下着まで覆うタイツを穿かされる。

 胸にはまた、袋帯と詰め物でふくらみが作られる。

 首の中ほどまである厚手の肌着はワンピース状に裾がやや広がり、股下まで丈があったが、それはアルディが小柄なせいではない。

 マルフィールが、鎧を装けるのを手伝う。

 肩に架けて胸と背の堅革甲プレートで挟むもので、脇腹にある三本のベルトで調整する。鞣し革の上に金属線を格子状に焼き付け、強度が高められていた。

 腰から巻くスカートも同じ作りのものだった。肌着よりも膝に近いところまでの長さがあるが、脚には当たりにくい構造になっている。

 膝下までのブーツも厚めで、脛とふくらはぎの部分にやはり堅革が配されている。

 マルフィールが姿見を持ってきて着替え終えたアルディを映すと、アルディは昨日と似た反応で頬を少し赤らめた。

 鏡の中にはいかにも少女剣士、といった雰囲気のアルディがいた。

「これ、おれ……だよな?」

 鏡像の少女と指先が向かい合う。

「似合ってるわ。どう見ても女の子。なかなか可愛らしく勇ましいじゃない」

 剣は、腰鎧にある革環に結わえ付けるようになっていた。革環はあと二つあり、その一つに『勇者の徽紋しるし』を入れたポーチを繋ぎ留める。

 マルフィールが後ろから腕を回し、耳元で言う。

「じゃあ、出立しましょうか、勇者さま」

「だ、でもおれ、剣なんて使えないし、それに――」

「道中に教本読んで、少し練習して。そっちは私、まったく分野外だから」

 それよりも、とマルフィールはアルディの背を押して部屋の出口へ向かう。

「言ってるでしょ。ここをった、という『事実』が重要なの。

 馬車の中で摂れる朝食も用意してあるから、行くわよ」

「う、うん――」

 軽いとはいえ初めて装ける鎧と、腰にかかる剣の重みに戸惑うようにぎこちない歩き方になってしまうが、アルディは押され続けるのを拒む。

「行く、行くからさ――その」

 と、不安げに自分の腰――その下を見る。

「戻してくれるんだろうな。お、に」

 女みたいになってるけど、と消え入りそうに言うかれの頭を、マルフィールがそっと撫でた。

「私がいい、って言うところまであなたが女の子らしく振る舞って、周囲にこの茶番が見抜かれなかったらね」

「昨日みたいなメシも?」

 マルフィールは眼鏡の奥の目をやや大きくして、ふっと笑った。

「あれほどじゃなくても、あなたの今までよりよっぽどちゃんとした食事にはできるでしょうね」

「――わかったよ」

 アルディは、きゅっと唇を結んだ。

「どこかの村だっけ? そこには行くし、女のフリもするからさ――もうこれ以上、変なことしないでくれよ」

 でも、と隣になっていたマルフィールを見上げる。

「竜なんておれ、戦えないよ」

「――それは、追々考えましょう。

 希望的観測は主義じゃないけど、噂が話半分程度ならいいな、とも思うわ」

 彼女は、どこか満足げに笑っていた。

「ではアルテ、自分のことは『あたし』と言って。

 さっきの合ってたし、可愛かったわよ」

 ほんのりとまた頬を染めたアルディが俯く。

 マルフィールがひと言唱えて扉を開けると、風がふわりと廊下へ抜けていった。

 アルディが振り返るが、窓は開いていなかった。

「――何かしてた?」

「大したことじゃないわ」

 それ以上は答えずに、マルフィールはアルディの手を引きはじめた。

「こちらですわ、勇者さま」

 室内よりも口調がやや、かしこまっていた。


 二頭立ての小振りな馬車はアルディとマルフィールを乗せてすぐに城の北門から出発した。

 無口で実直そうな御者はトルートと名乗り、マルフィールはもとより、アルディにも恭しく跪いた。

 中は向かい合った長椅子が設けられ、厚く綿の入ったクッションが張られていた。

 先に乗ってマルフィールは小さく『言葉』を唱えてから、アルディを引き上げてその片方に座るよう促し、己の座った傍らにあった――先に用意していたらしい二つのバスケットのひとつと、一冊の書をアルディに渡した。

 その書の表紙には『剣術初歩教本』とあった。

 バスケットには、揺れる移動中の車内でも食べられるよう具材がしっかりと包まれたパンと、小さな水筒が入っていた。

「昨日の余りで仕立ててもらった簡単なものだけど、どう?」

「んっ――や、うまいよ、これ」

「それはよかった。でも、そんなにがっつかないで。誰も奪ったりしないわ」

 言われて少しペースを落とすが、朝食のまだだったアルディはそれでも無心で食べ続ける。

 ローシ麦の香ばしさともっちりした柔らかさのパンに抱かれ、しゃきっとした歯応えの菜の葉が食感を引き締めている。その中にあるのはじっくりと煮込まれた鳥肉クーリで、口の中でほろりと解ける絶妙な柔らかさと、崩れるそばからその奥に潜んでいた幾種ものスパイスやハーブが舌の上で絡み合って踊り、喉の奥へ退場してゆく。

 小さく肩をすくめてから太腿に本を置いたマルフィールも、時折眼鏡の位置を直しながらページを繰り、パンをかじるというゆっくりと朝食をはじめる。

 アルディが次にかぶりついたのは、たっぷりとした卵と甘みの強いクゥクゥ芋のバター大蒜チスノ焼きが詰まっていた。

「こんなうまいものを毎日食べてるのかよ。おれたちとは全然違う」

「あたし」

 本に目を落としてアルディの方も見ずにたしなめる。

「あ――あたし、の昨日までのゴハンと全然違う――んだわね」

 ぷっ、と小さくマルフィールが吹き出した。

「なっ、なんだよ――だわよ」

「かえって変よ、それ。『女のフリ』って余計に違和感があったら本末転倒もいいところだわ」

 マルフィールが顔を上げると、アルディは憮然とした表情で、それでも朝食をすっかり平らげ、指に残ったソースを舐めていた。

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

「まずは脚を閉じて、膝を揃えて座りなさい。指を舐めるのもやめて」

 言われて、アルディは大きく開けていた両脚をぴたりと合わせた。

 まったく慣れないのだろう、つけたそばから膝が小刻みに抵抗をはじめる。

「――いいわ」

 マルフィールが読んでいた本を閉じた。

「着くまでにもう少し、見た目どおりに女の子らしくなれるよう教える。でも、それも読んで練習して」

 アルディが眉を寄せた。

「これ、何の本だよ」

 朝食と同時に渡されたそれを見て言う。

「おれ、字なんて読めねぇよ」

 マルフィールが目を見開いて、大きく溜息を吐いた。

「それはじゅうぶん、想定できることだったわ。私としたことがうっかりしてた……」

 それから仕方ない、とどこか開き直ったように、

「読み書きもできるだけ教えるわ、もう……。あなたもちゃんと、覚える気で聴いてよ」

 アルディは傍らの本を取り、パラパラと捲ってみる。

 そう難しいことが書かれているものではなく、また実践的教本なのか図解も多い内容だった。

「あのさ」

 アルディが言う。

「その村まで、どれくらいかかるんだ?」

「――そうね」

 マルフィールはもう教え始める気なのか、自分の荷物から筆記具――濃い色に炙ったあと表面を滑らかに整えられた二十センチ四方ほどの板と白墨チョークを取り出していた。

「順調に進めば明後日の夕方にはジリエ村に着けるでしょうね」

「ジリエ村?」

「目的地よ。ちょうどいいわ、から始めましょう」

「それ、って?」

 アルディの問いには答えずに、マルフィールは板にかりかりと、商業共通語ルイ・ズィークで『ジリエ村』と書いた。

「これで『ジリエ村』と読むの。こっちが『ジリエ』でこれが『村』。

 書いて」

 と、その板をアルディに渡す。

 言われたとおりにアルディは単語を書き写し、マルフィールに見せた。

「急いで書く必要はないわ。

 それとも、文字のひとつひとつから教えないとだめかしら? 数字は読める?」

 アルディの書いた文字はたどたどしいものの、乱雑ではなかった。

 小さく頷く。

「値段見るくらいなら」

「いいわ。概念が解っているならそんなに難しくないし、むしろその本を読みながら進めていくほうがいいかしらね」

 マルフィールが軽く頭を撫で、アルディが頬を染める。

「読み書きはこれで進めるとして――」

 言いながら、布で拭って書いた字を消した。

「言葉遣い、仕草、作法、それに剣。覚えることは多いけど、必要最低限のことからやっていきましょう」

 口調は軟らかく、口元は笑っていたが、眼鏡の奥は笑っていなかった。

 アルディは口の端を引きつったように震わせるが、それでもマルフィールの傍らにあるバスケットを指差す。

「お姉さん」

「マルフィールでいいわ。なに?」

「そのパン、いらないならおれ――あ、あたしにちょうだい」

 眼鏡の奥の目を丸くして、マルフィールは手元に残っていたパンを見た。

「――胃袋を掴め、か」

 アルディにも聞こえないくらいの小声で呟き、ふっと笑ってそのバスケットを渡した。

「え、本当にいいの?」

「――そうね。あなたがアルテとしている限りは、食事を約束するわ」

「ほっ、本当だなっ」

 バスケットの中のパンを奪うように取って食べ始める。

「慌てなくてもいいって。ほら、水飲まないと苦しいでしょ」

 喉につまらせかけたのを見て、マルフィールが水筒を示す。

 アルディは喉を潤して息を吐き、食事を続ける。

「だって、こんな――ちゃんとしたメシ、生まれて初めてなんだよ、っ」

 咀嚼に声が途切れ途切れに混ざる。

「いつもこんなメシ食えるんだったら、女のフリくらい、してやる――わよっ」

 マルフィールが何か言いかけて止め、一旦閉じていた本をまた開いた。

「もっとゆっくり食べなさい。返せなんて言わないから」

 その銀青の瞳は既に本の文字を追い、唇には企みとも和みともとれる笑みを浮かべていた。


 馬車は二人を乗せ、他の荷馬車より速いペースで、ごとごとと揺れ続ける。


   ▲▽▲▽▲▽


 朝の陽光が鎧の金属板を煌めかせていた。

「うん、いい朝っ」

 その鎧を身に装けた女性――フォルトゥナは大きく伸びをして、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

「宿のおじさんは親切だったし、グダグダしてても始まらないよね」

 彼女の背には、いかにも使い古した感の漂う麻袋があった。

 昨夜、見かねた宿の主人が使っていなかったものを彼女に提供したのだった。

 さすがに中身はほとんど空で、例の地図の他にはもらいものの針金、それほど大きくない毛布、古い深めの鍋、それに火打ち石――銀貨一枚ではこれが精一杯だった。

「剣はあるし、体調もいいし、落ち込んでるヒマはないかも、だし――うん、大丈夫」

 フォルトゥナは自分に言い聞かせるように呟きながら、王都の外へ向って歩きはじめる。

「ジリエ、って村まで五・六日――普通の人の足でそれなら、もうちょっと早く着けるかな」

 門兵に会釈して街を出ると、整備された街道が伸びていた。

 彼女の他にも行き来する人々がいる。

「この分なら街道沿いの宿くらいはあるかな? うまやでもどこでも貸してくれたらいいなあ――」

 かなりの長距離ではなさそうな遠方には山の峰が連なっている。

「鉱脈と温泉の村、って言ってたな。

 温泉入りたいな。けど……」

 自分の寂しい懐を確かめ、小さく溜め息をこぼす。

「こういう時に限って、都合よく野盗とか出ないんだよね――いらない時には出てくるくせに」

 ぶつぶつと言いながら歩いているが、その速度は普通の旅人や商人などの倍近くもあった。

「小銭でもいいから、何かで稼がないとなあ……」

 言葉ほどには、悲観している雰囲気はない。

「ともかく行ってみて、早くこの街に戻ってきて、また『徽紋しるし』探しをして――」

 と、指折りはじめる。

「城に行っても門前払いになるかな。顔が通ってる自信ないし」

 でも、と足を止めて振り返った。

「――いつも、勇者さま勇者さまって言われてきたけど、昨日の宿のおじさんはそうじゃなかった。

 徽紋がないから当然か」

 自嘲気味の苦笑を浮かべるが、鳶色の瞳には違う空気が宿っていた。

「――『北の勇者』じゃない、自分……」

 彼女は自身の手を見て呟き、一度くっと握ってから広げて、両手で頬を軽く叩く。

「頑張れ私っ!

 よっし、行くよ――っ」


 きっ、と上げた顔はどこか晴れやかだった。

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