第16話 手にした戦果

 さて、いっちょやったるかと意気込んできたものの、やはりというかなんというか、居心地はよろしくない。全員がキラキラしていて、その光で自分の劣等感の影が色濃く出てきている気がする。

 一応頑張ってみた。人生はトライ&エラー。この言葉の先に、サクセスがあることを信じて。

 例一 同年齢くらいの、若い男性四人組―

「あの」

 恐る恐る、声をかけてみた。メガネレンズの裏側に、起業家何某、投資家誰それ、と個人情報がいくつか流れる。同じ年くらいなのに、何だろう、この差。同年齢層、同性ということで話しかけやすいかなと思ったら、一番話しかけにくいじゃないか。

 和やかに談笑されていた彼らが、俺の方に気付いた。

「どうしたんだい?」

「ああ、もしかして、君も今回の参加者の一人?」

 何か飲む? と笑顔で迎え入れられた。

 おいおい、どこの誰だよ。金持ちの大半は性格悪いなんて言ったの。無茶苦茶良い人たちじゃないか。

 そうか、逆だ。金持ちは既に金銭的余裕があるから、一般人よりも余裕の幅がでかいのだ。だから受け入れる容量もでかいということなのだ。

 固定観念を覆された俺の前で「これでもCEO? なんだわ」「俺も小さいけど、事務所立ち上げててさ」「僕は、一応投資家、ってことになるのかな?」という俺とは次元の違う自己紹介がなされている。すでに独立してるとか、月収が一千万単位とか聞いてねえ。言い難い、ただのアルバイトだと非常に言い出し難いぞ。この場にいることがみじめに思えてきて、なんだか泣きそうだ。

「そう言えばさ。君、さっきの子と知り合い?」

 不意に、右側にいた男性が俺に声をかけてきた。はて、あの子、とは?

「ああ、俺も見た。無茶苦茶綺麗な子だったよな」

「うんうん、さっき飲み物を貰いに行ったときにすれ違ったけど、間近で見てもとんでもない美少女じゃん」

「もう少し年齢を重ねたら弩ストライクだわ。今からでもツバつけときたいけど、捕まっちゃうし」

「明るくて、癒される・・・天使みたいだった・・・」

「な~。あの」

「黒いドレスの」「青いドレスの」「メイド服の」「ワインレッドのドレスの」

 答えが食い違った。皆、あれ? という顔でお互いの顔を見回す。

「え、俺が見たのは黒のドレスで、凛として少し気の強そうな・・・」「いや、俺が知ってるのは小学生くらいの濃い青のドレスで天真爛漫な感じの・・・」「あ、僕もその子だわ。その子と一緒にいたメイドさんが・・・」「いや、俺が見たのはグラビアアイドル級の良い体した・・・」

 ひとしきり首を捻って悩んだ後、その首がぐるりと俺の方を一斉に向いた。

「「「「え、全員知り合い?」」」」

 別々の人間だということが判明したらしい。ああ、通りで彼らの話からは、どの人物像とも結びつかないわけだ。

「は、はあ。まあ。一応」

 同じチームですから、と続けようとしたところで、雲行きが怪しくなっていることに気付いた。先ほどまでの朗らかな笑顔、爽やかな笑顔はどこへやら。全員がそんなにしかめなくてもいいのにというくらいの渋面を作った。そして、まるで最初から俺などいなかったかのように、また四人で談笑し始めた。え、いや、なんで? やめろよ。無視すんなよ。過去の黒い扉がオープンセサミしちゃうだろ。

「あ、あの」

「何だよっせえな」

 えらい不機嫌に返された。

 と、突然態度が豹変されて非常に戸惑っておるのですが、私、皆さまに何かなさいましたでしょうか?

「うるせえ。あっち行け勝ち組が!」

 

 とまあ、こんな感じで、勝ち組から失せろ勝ち組と言われて追い払われました。色んな意味で衝撃だ。皆さま独身貴族でいらっしゃったのね。

で、こういうやりとりで心はぺきっと半分に折れたんだが、残った半分に「まだだ、まだやれる」という思いを詰め込んで第二戦。

 例二 ソファで優雅にお茶会を繰り広げる御婦人方

 よくよく考えた結果、先ほどの彼らは俺が大山書店アイドルユニット(仮)どもと知り合いだということで、いらぬ嫉妬を買ったためと推測できた。ならば、他でも目撃されている可能性がある。だいたいが、あいつら非常に見立つのだ。華がありすぎる。一人だけでも満開なのに、四人集まると桃源郷だ。だから話しかけるターゲットを変更する。それは、女性。苦手といっても過言ではないが仕事なのだから、頼まれたのだから仕方ない。

「す、すみません」

 会話が一瞬途切れたところを見計らって、声をかける。社長令嬢、エステサロンオーナー、果ては海外の貴族筋に嫁がれた伯爵夫人と多種多様だ。

「なにか御用でしょうか?」

 穏やかな笑みを向けられる。

「ご、御用と言うほどのものでもないのですが。せっかくのパーティなのでご挨拶を、と思いまして」

「まあまあ、それはご丁寧に・・・」

 お、もしかして、結構いい感じではないのか?

「もしかして、参加者の方ですのね?」

「え、ええ。そうなんです」

「だからそんなに緊張されてらっしゃるのですね?」

 くすくす、うふふ、小さな笑いが溢れる。決して嫌みのない、品のある笑い声が周囲を包む。

「大丈夫ですよ。私たち、ちゃんとあなたの話を聞きますから」

「焦らなくて大丈夫」

「むしろ私たちでいいのかしら?」

「そうね、他の参加者と思しき方々は、高名なゲストへ熱心に声掛けをされていますが」

「とんでもない」

 俺は、勝負に出た。どうせここで失うものなど何もない。というか武器すらない。ならば、少しでも会話に花を咲かせ、相手の印象に残り、かつ話を引き出すしかない。伊那鷺も言っていた。我々が狙うのはゲスト本人が所持する資産ではなく、彼らによって動かされるここにはない資産だ。ならば、イメージ的に男性より女性の方が、何かと情報を引き出せるんじゃないだろうか。世の奥様ネットワークは馬鹿にならないし。

だから、ここで、歯の浮くようなことを言う。

「皆さまのような美しいレディたちとこうして話せることは、参加者云々を差し引いても身に余る光栄です」

 し・・・・ん・・・と場が静まり返った。御婦人方は揃ってぽかんと口を開けている。

 やったか。やっちまったか。何とか表情を崩さないようにしていたが、内側からマグマのようにこみ上げる羞恥心には勝てそうもない。徐々に、血流が頭に集まってきて、顔が赤くなり始める。エマージェンシー、エマージェンシーとレッドコールが鳴り響く。さあて、退路を確保して逃げますかと算段していると

「お上手ですのね」

 満面の笑みを浮かべたレディたちが、くすくす、うふふと上品に声を上げる。

「お褒め頂きありがとうございますジェントル。私たちも、あなたと話せて光栄ですよ」

「ただ、照れちゃうのがマイナスね。そこは格好を貫き通してもらいたいわ」

「でも、そこが可愛らしいじゃない。ねえ?」

「ええ、そうですとも。なんだかこう、母性本能がくすぐられちゃう」

 まさかの大ウケだ。どうしよう、来たのか。店長だけじゃなく、俺にも、それこそ都市伝説と同義のモテキという奴が!

 さらに何か気の利いたことを言おうとして、彼女たちの顔を見回した。彼女たちは皆一様に何かに気付いたらしく、俺からそちらへ目を移して

 春の日差しのような暖かなその場は、一転して氷河期が来たかのように静まり返った。誰も彼もが笑い方を忘れたように黙りこくって俯く。まるで嵐が過ぎ去るのを怯えて待っているみたいに。一体どうしたというのだろう? 彼女らの見ている方向を振り向く。

「ありゃ、先輩じゃないっすか」

「リツ、何してるの?」

 そこには、たまたま通りかかったと思しきヒナとアイシャ、少し離れてサヴァーしかいなかった。他には何もない。別段気になるものなんかないのに。

 あっちもこちらに気付いて、近づいてくる。気のせいだろうか、御婦人方はさっきまでの俺のように緊張しているようだ。震えている方もいらっしゃるし。寒いのか?

「ああ、そうでした!」

 唐突に、御婦人の一人がポンと手を叩いて立ち上がった。

「どうしましょう。忘れていましたわ。ほら、皆さん、あれです。あれの時間ですよ」

 まくしたてるように、その人が言うと、他の御婦人方も同調するように「そう言えばそうね!」「もうそんな時間だったの?」と次々と立ち上がった。

「申し訳ございません。わたくしたち、少し予定が入っておりますの。ここで失礼させていただきますねオホホホホ」

 そういうと、俺の返事も聞かずにそそくさと離れていった。あれって何だろう?

「行っちゃったっすねぇ。なぜか」

「そうね、行っちゃったわね。どうしてか」

 一仕事終えた、やり切った感満載の爽やかな表情を浮かべて、二人は言った。

「で、どうっすか戦果の方は」

 座ったままの俺の肩に肘を置いて、ヒナが尋ねてきた。

「・・・聞くなよ。さっきの様子を見てからに」

「ふふん、芳しくないようね」

 ボスン、と勢いよく俺の対面にアイシャが座る。

「そういうお前らはどうなんだよ」

「私っすか? まあ、そこそこっす。適当にふらふら歩いてたら、あっちから話しかけて来たんで適当に」

「右に同じ、って感じかな」

 適当という言葉がこんなところで出るなんて俺には考えられない。これがコミュ力の格差社会か。

「ただ、そんなに戦果を挙げてるわけではないっす。さっき伊那鷺さんが言ってたっすけど、株価やら為替が変動するような兆候はなく、また、今まで送ってもらっている会話からはそれらしき内容は見えない、とのことっす。どうやらみなさん、まだまだ様子見って感じっすねえ」

「後二日あるものね。それに、ゲストはここで焦って取引する必要ないんだもの。なにせ自分の資産を運用するのだから、たとえ富豪であったとしても、慎重にならざるを得ないわよね」

「名刺交換だけで充分、ってことっすか」

 それは、その通りなのだろう。だが、その固い財布のひもをほぐして解かせるのが商売人だ。そして、ここにはそういう商売、投資であれ経営であれ、そういった荒波を越えてきた猛者たちばかりなのだ。勝負時になったら動くに違いない。油断はできないし気も抜けない。

【難しく考える必要はない】

 俺、ヒナ、アイシャ、サヴァーが同時に耳を押さえる。伊那鷺からの同時通信だ。

【私もすぐに成果が出てくるとは考えていない。今やりたいのはどこの誰が参加しているのか、ということ。人物が特定できれば、その人物の傾向が分かり、対策が講じられる。そのまま継続してもらいたい】

 司令塔の言うとおりだ。こういうのは数と量が重要だ。分析はあっちでやるというのだから、こっちは出来るだけ多くの情報を分析に回せるようにすればいい。

「気を取り直して、行くか」

 ソファから立ち上がる。

「あ、そうだ伊那鷺さん」

 蝶ネクタイを手で口元まで近づけて話す。本当に名探偵になった気分だ。

【何?】

「吉祥院さんはどう?」

 ここにはいない彼女の戦果を興味本位で聞いてみる。

【大きな動きは無い。けど】

「だが?」

【さすがというべきか。彼女は既にこの船内において指折りの有名人たちと接触し、また、その彼らをつなぎ合わせている。ゆくゆくは取引を行うのではないだろうか。周囲も、彼らの動向に注目している】

 あ、変動した、と伊那鷺が呟く。やっぱとんでもねえな。自分が橋渡しすることで取引を、経済効果を生み出そうとしているってことだ。

「負けてらんないわ」

 アイシャが呟いた。それは、乗船前にみた、怒りとか、そういう感情ではなく、むしろその逆で。

「嬉しそうでしょう?」

 横からアイシャに聞こえないようにサヴァーが言う。

「目指すべき目標、超えるべき壁が見つかったようです。アイシャ様もまた、自分よりも優れた人が、好敵手がいるのが楽しくて仕方ない御方なのですよ」

 私より強い奴に会いに行く精神か。戦闘民族みたいな連中だな。俺には理解できん。

 ま、ここでこのままサボっているのも居心地が悪いし。

「俺たちも戻りますか」


 さあ、意気込んでみた第三弾。三度目の正直、ということで挑んでみたわけですが。

「あの・・・」

 呼びかけたにも拘らず俺の前を、目も合わせずに少し早足で通り過ぎる女性。

「すみません・・・」

 と声をかけただけなのに俺を視認するなり笑顔から憤怒の形相に変わってメンチ切ってくる男性。

 とまあ、勝負すらできませんでした。さっきの例一、二のせいで、何らかの風評被害が拡散しちゃったのだろう。社交場だけあって、噂広がるの非常に早い。

 しかもダメ押しのイベントまで発生した。駄目だと言っているのに押してしまうのは駄目もボタンも熱湯風呂も同じだ。そうなってしまうデスティニーなのだ。


「あ、吉祥院さん」

 壁の華どころかただの壁となってしまった俺は、完全に気配を消してそこらに置いてある軽食類をつまんでいた。

 そうしながらぼうっと会場をすさんだ目で見まわしていると、おやおや、あの遥か彼方に見えます人の輪の中心にいらっしゃるは、吉祥院様じゃありませんか。

「すげえ、うわ、嗤って、いや、笑ってる」

 たとえ社交辞令と書いてそうな貼り付けたような笑みであっても輝いちゃってまあ。

 そんな感じで、地底のモグラは太陽を眺めていたわけだが。

「ん?」

 参加者の中の、中年太りに両手両指貴金属にちょび髭の、テンプレ的な金持ちのおっさんが、彼女にいやらしい感じで絡みだした。酒に酔っているのかほんのり顔を赤らめて、下卑たジョークを周囲に振り撒いている。周囲は迷惑そうにわずかに眉をしかめるも、同調するように笑い声をあげている。どうやらあの中でも上の方の立場らしい。権力のある人間の厄介なところだ。

 しかし命知らずな。あのおっさんがどれだけ偉かろうと、この場で鷹ヶ峰家の人間より上ということはあるまい。数秒後には空を舞うか、地に臥すおっさんが想像できた。

 だが。数秒が十秒を超え、数十秒、一分経とうと、おっさんはねちねちと吉祥院の手を撫でまわし続けている。彼女は困った表情を浮かべながら、ただしその目の奥に明らかな殺意を見せながら、力づくではなく穏便に手を引こうとしているが、蛸のようにおっさんの手は彼女の腕を離さない。

 不思議に思い、こっそり近づく。少しずつ、二人の会話が聞こえてきた。

「どうです? この後二人きりで食事でも」

「お誘いはありがたいのですが、私は参加者としてここにいる身ですので」

「そう言わずに。参加者と仰るなら、私が誰か知らずに声をかけたわけでもないでしょう?」

「もちろんご高名はかねがね伺っております」

「ならば、私と共にいることが、参加者の立場からも、そしてあなた本来の立場からみても、非常に有益であるとは思いませんか?」

 ねえ、と周囲に同意を求めるおっさん。周りもぎこちなく同意する。吉祥院が嫌がっていることは明らかだが、真正面から否定するだけの力はない、そういう関係か。

 しかし不思議なのは、おっさんが、おっさんが言うところの彼女の本来の立場というものを理解していないということだ。本当に彼女の本来の立場を理解しているのなら、おそらくあんな真似はできない。ということは、考えられるのは彼女が鷹ヶ峰家という本来の立場を明かさず、また誰もそれに気づいていないということだ。

 つまり彼女は、これまで自分の力だけでこの会場を渡り歩いて成果を上げてきたということになる。ある意味無骨というか。不器用というか。

「いかがです? 貴女だからこそ、私もここまで言葉を尽くさせてもらうのです。どうしても貴女と過ごしたい。可能であればいつまでも。だからあえて失礼な言葉も使わせていただく。本屋のアルバイトである貴女にとって、これは大きなチャンスであると。私には貴女を一生何不自由なく養える財力、幸せにできるだけの力がある。あくせく働く必要はない。好きなことを、好きなだけさせてやれるのだ」

 多分、今彼女の好きなことを好きなだけさせたら、おっさんの首から上がなくなる。

「申し出は、本当にありがたいことと存じます。ですが」

「何が不満だというのだ!」

 彼女の言葉を遮って、とうとうおっさんが怒鳴った。彼女の肩をドンと押し離し、人差し指を突きつけて、口角から泡を飛ばす。

 酔っ払いは夢の中にいるようなもの、とは誰が言ったんだか。すべて思い通りになるはずの夢の中で、思い通りにならないことがあれば、そりゃ癇癪も起こす。理性があるなら諦めも別方法も模索するだろうが、酔っ払いだから判断できない。

「私がここまですると言っているのだ。貴様のような若さしかとりえのない娘はハイだけ言って従っていればいいのだ。少々自分の見目が良いからといって調子に乗りおって。私の力があれば、貴様程度すぐに抹殺できるのだぞ?」

 いや、多分抹殺されるのはおっさんの方だろうと思う。社会的にも、物理的にも。

「そうなってからでは遅いのだ。まだ私が理性的な間に言う事を着ておいた方が身のためだ。貴様が勤める、なんだったか? どこぞの書店など指示一つですぐに潰せるし、貴様ら家族を路頭に迷わせることだって手出来る。なんでもできるのだ」

 なんというか、実情を知るだけに痛々しくて見ていられなくなってきた。何とかおっさんの方を助けないと。え? 彼女じゃなく、だって? 馬鹿言ってんじゃないよ。あの顔見てみろよ。すでに貼り付けた笑みは消えて、ただの無表情だけが残ってるじゃないの。この豚どうやって解体してやろうかという蔑みと殺意の目で見下してるじゃないのよ。今この場は何事もなく終わったとしても、翌日にはおっさんが行方不明になってる可能性がある。

 さて、どうするか。結局のところ、酔っぱらった人間は視野も思考も狭くなる。目の前のものしか目に入らないのだ。今は彼女しか見えてない。そこを、別の何かが割り込んだらどうだろうか。きっとそれしか見えないに違いない。そしてその別の何かは、スケープゴートという別名で、酔っ払いに対する生贄である。

 つまり、まあ、うん。俺だ。

 足は重い。気乗りもしない。けれど、このままでは一応世のため人の為働いているおっさんが、海の底でおさかなさんの餌になりかねない。さすがにそれは寝覚めが悪いというか。

 するすると人ごみを掻き分けて、二人の背後にまで近付く。さて、どうしたらいいかな。今もなお、おっさんの脅しとも自慢とも取れるような訳の分からない説教が続き、周囲も徐々に引き始めている。誰かが止めないと戸思ってはいるようだが、自分の身に火の粉が降りかかるのは嫌らしい。誰も彼も、それなりに身分、立場があるだろうからな。ならば、何も持たない俺しかないようだ。

 言葉攻めが一息ついたおっさんが、再度彼女の腕へとその手を伸ばす。

 すうっと、それを見つめる彼女の目が鋭く細まった。

 殺る気だ。

 一刻も早くおっさんを彼女から離さないと。それだけが頭を支配した。それがまずかった。

 ここからはどこのピタゴラスウィッチだよと文句を言いたいくらいの鮮やかな仕掛けが発動。目をかっぴらいてご堪能ください。

 まず俺の前にまだ人がいたのに焦って走ったのがまずかった。そいつとぶつかって体勢を崩し、俺の体は片足でケンケンしながら回転する。フィギュアスケートばりのダブルルッツからのシングルトゥーループを決めて、二人の間に背中から割り込む。危険を回避するために伸ばした手は、彼女の肩に触れた。それもまずかった。まずいことばっかりやってるから不味い結果しか出ないのは至極当然と言えよう。

 すでに臨戦態勢だった彼女はおっさんとは別人だと理解しながらも技の発動を押さえることはなく、すっと流れるような動作で俺の腕を掴んだ。

 そして、俺は宙を舞った。なんだかよくわからないままに両足は大地を離れ、彼女に掴まれた腕を支点に錐もみしながら空を泳ぐ。顔を上げれば少し驚いた彼女の顔があった。ようやく俺だと気づいたらしい。口が、俺の名を紡ぐ。

 さて、このまま行けば確実に俺が地に臥せることになってしまう。空いた方の片腕を彷徨わせる。その手が、何かを掴んだ。何か、ふさふさしたものだった。これで何とか、と思ったが、それは俺の体勢を整えるどころか一瞬の支えにもならなかった。

「この馬鹿が・・・!」

 吉祥院が毒づいた。自分の技にかかった俺を、自分の力でねじ伏せようと腕を引き、自分の体に近付ける。恥ずかしいとか後が怖いとか考えられる余裕、誰がくれるというのだ。こっちだって必死だ。恥も外聞もなく抱き寄せられるがまま彼女に抱きつく。

 ぐるぐると、ダンスを踊るように回転する。投げ飛ばされた勢いを削ぐためだ。五回転程したところで、俺の両脚が地に触れた、ようやく立てるか、と思いきや、三半規管はかなり弱っていた。千鳥足の方が地に足ついてるってくらいふらついて、仰向けに倒れる。結局地に臥すのは避けられなかったか、と諦めながら、目を瞑って衝撃に備える。

 返ってきたのは、床にぶつかった痛みではなく、柔らかな腕の感触だった。

 ゆっくりと目を開くと、吉祥院の綺麗なしかめっ面が至近距離にあった。

 お互い動かなかった。まるでダンスのフィニッシュ、決めポーズを取っているかのようだ。吉祥院は片膝をついて俺の背に手を回し抱きかかえるようにして、俺はほぼ仰向けの状態で彼女の首に手を回していた。姫を抱きかかえる騎士の図だ。タイミングよく、会場内に流れる音楽もフィニッシュした。

おいおい、これじゃ配役が逆だろう、というツッコミも今は出てこない。後から出てきた。

「お、おお~」

 歓声が上がり、周りにいた人間たちが拍手を送ってくれる。

「何だ貴様は!」

 拍手を止めさせたのは、当然と言うべきかおっさんの怒鳴り声だった。てめえ、命の恩人に何て言い草だ。自分が命の危機だったということを理解していないのだろうけど。

「いきなり私と彼女の間に割り込んできて邪魔しおって! 貴様も、貴様も! 私に逆らうとどうなるか、身を持って知るがいい! 後悔させてやる! 泣いて許しを請うがいい!」

 怒鳴るおっさんだが、本当にさっきのおっさんと同一人物か? 吉祥院の方も、怪訝な顔で首を捻った。周囲も、また別のことでざわつき始めている。

「何だ! 言いたいことがあるならはっきりと言え!」

 そう言われて、一体何人の人間がそういう人に対してはっきりと言えるだろうか。

 ――ハゲ、と。

 丁寧にお伝えするとしても、ずいぶんと冷え込んできましたね、とか、ご来光が前倒しになりましたね、とかか?

 さっきまでふっさふさだったおっさんの頭が、落ち武者のようになっている。一瞬背中に刺さる折れた矢や剣が見えたくらいだ。

 まさか、またしても、この俺が、こんなお約束を・・・・。

 吉祥院の背に回っている俺の手には、まだもふもふしたものが握られている。おそらく、これがふっさふさだったもののなれの果てだろう。

「貴様、なんだ。そんな、諦めたような顔をして」

 諦めたのは貴方様の毛根ではありませんか? 頼む、頼むからそんな真顔で近づかないでくれ。笑いをこらえるのに必死なんだ。違う意味で泣いて許しを請いそう。

 どうしよう。どうやったら穏便に事が済むだろうか。

 しかし、重なるときって、本当にいろいろ重なるものだね。今回のことで改めて思い知った。ピタゴラスはまだ終わらない。

 バサッ、バサッと、どこから入って来たのか鳥の羽音が響いた。影が視界を覆ったかと思うと、そのまま着陸。どこにって? はは、まさかのおっさんの素肌を曝した頭頂部にだよ。すげえ、一瞬でふっさふさに戻ったぜ。シャギーが入って若々しいイメージだぜ。

「・・・?」

 さすがのおっさんも自分を襲っている異変に気付いたらしく、かといって騒ぎ立てるほどの材料を持たず、下手に動いたら余計にまずいんじゃないかという考えに縛られたか固まってしまった。おっさんが固まれば、当然俺たちも固まる。そんな中、おっさんの頭に停まっている鳥だけが、居住まいを正すようにもじもじしている。

 至近距離で見ると結構怖い。黄色いくちばし、白い頭、虚ろな眼。そんな鳥と、目が合った。そして

「ケァーッ!」

 奇声を上げて、威嚇してきた。折りたたんだ羽根を大きく広げる雄々しき姿。

 それも、おっさんの頭頂部だからなおのこと。おっさんの頭が照明を反射し、鳥を神々しく下から照らし出す。

「・・・不死鳥伝説・・・?」

 誰かがぼそりと呟いた。騒がしいはずの会場で、なぜかそれは全員の耳に行き届いた。

「ああ・・・」

 誰もが納得した。ああ、それだ。と。俺たちは、再生の見込めない頭皮に起こった、奇跡の瞬間に立ち会ったのだ。ネバー、ギブアップ。

 一斉に、一糸乱れぬ動きで、俺たちはほぼ同時に携帯、スマートフォン、デジカメ等の撮影器具を取り出した。

「ケァーッ!」

 荒ぶる鳥が両翼を広げ、もう一鳴きしたタイミングで、シャッターを押す。うん、良い画だ。待ち受け画面にしたら幸運を運んでくれそうだ。

 俺は、それを今だに固まっているおっさんに向けて見せた。

「けぁーっ!」

 怪鳥のような悲鳴を上げて、おっさんはどうにか鳥を引きはがそうともがいた。鳥は鳥で、おっさんの頭の居心地がいいのか必死にしがみついている。ああ、僅かに残った髪の毛たちが、粉雪のようにはらはらと儚く舞い散っていく。

 おっさんは完全にパニックの状態で、頭に鳥を乗せたまま走り去っていった。数秒後

 大・爆・笑。

 誰もが腹がよじきれると言わんばかりに腹を押さえたり隣同士で肩を叩きあって涙を流し、文字通り舞い降りた奇跡を祝福していた。

「余計なことをしてくれたな」

 そんな中、吉祥院が僕に言う。

「あの男は会場内でも有数の資産家だ。上手く操れればかなり有利になったはずなのに」

 あの様子じゃ多分、色々とショックで選手権終了後まで部屋から出ないだろうねえ。

「ごめん」

「ふん。私の腕を掴んだのがあの男なら、どうせ部屋から出れないような目に遭っている」

 やっぱ病院送りの方向でご検討されてらっしゃいましたか。無事でよかった。ある意味無事では済まなかったが。

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