第10話 ストレイキャット
「くそ、なんで俺がこんな目に・・・」
何度言ったかわからないセリフが自己記録をまた更新した、バイト上がりの夜九時。わずかに湿り気が帯び始めた空気が薄い膜のように体にまとわりつく。ああ、また梅雨が近づいてきたんだな。
梅雨は嫌いだ。本が湿気吸わないように気をつけなきゃいけないし、来店するお客様が滴らせる水滴対策を考えなければならない。客に来るなとは言えないし、来たら来たで厄介なんだよな。傘用のナイロンの経費だって馬鹿にならない。床も滑るから清掃にも気を使わなければならない。
「湿気取りいるなあ・・・」
仕事が終わったのに、仕事のことを考えている俺も大概仕事中毒者だ。それ以外考えることもないっちゃないんだが。
一人、帰り道を歩く。昼間の騒がしさが嘘のように静かな夜だ。少しさみしいが、落ち着く。この静けさと自分以外皆無のぼっち空間が、なんだかんだ言ってマイワールドだ。
「俺には孤独がお似合いだ」
誰に聞かれる心配もないので、こんなバカみたいなセリフもこっそり吐ける。ふふ、と照れ隠しに笑い
「のぉっ?!」
盛大に躓いた。何だ? 段差にしては妙に柔らかかった。生き物っぽい。野良犬か? でも重量感があってデカかったぞ? 小型から中型犬なら体重差でさすがに負けることはない。あれで犬ならかなりの大型だ。
ビーチフラッグのスタート前みたいな体勢で首だけ振り返る。
人だった。
真っ黒な服を着た白髪の女性が、路上に俯けで倒れていた。何で?
絶賛パニック中の割には、体が普通の対応をした。ここ近年、パニックになりすぎてパニック耐性が付いたらしく脳がパニック中でも表面上は何とかなるようだ。データのバックアップが作動したみたいなもんだ。メインである頭がパニックでも、サブの体の方に残った記憶がメイン復旧までこらえるみたいだ。
「だ、大丈夫か!?」
近づいて抱き起す。ひっくり返すと、眠り姫がそこにいた。
相手は眠っているけど、こっちの目の覚めるような美女だ。
すっと通った鼻筋、長い睫、少し薄めの唇、ふっくらした頬。どちらかというと綺麗というより可愛いと評した方が良いだろう。多分、年齢も十五、六ほどだから、失礼にはなるまい。
何より特徴的なのは、その髪だ。白髪かと思っていたが、よくよく街灯に照らしてみると光を反射する。銀色だ。銀色の波が支えた手から零れた。今日の心の声はなんとなく波押しだ。波引用率高し、だ。
いやいやいやいや、見惚れている場合じゃない。
「大丈夫ですか!」
声をかけながら呼吸と脈拍を確認しようと喉に手を当てて、その手首をグッと掴まれた。意識を失っているものと完全に思い込んでいたからぎょっとして、思考が止まる。体の方もこんな事態は過去事例無しの予測不可能で、動きも止まる。
俺の手を掴んだ彼女は、目を瞑ったまま、ぐいと引き寄せ
「あむ」
噛んだ。甘噛みとか、そういう生易しいもんじゃない。獲物を食いちぎらんとする猛獣のバイトだ。
俺の悲鳴が夜の九時に響き渡った。ああ、もう本当に、今日は最悪だ。昨日は昨日で最悪だと思ったけどね。最悪に終わりはない。リア王も似たようなこと言っていた。
ようやく彼女の強靭な顎から手を引き抜き、無事指と手が繋がっていることを確認してから、涙目で彼女を見た。
「まだ、寝てやがる」
あんだけ大声を上げたにも拘らず、銀の彼女は眠っていた。チュロス、と寝言をほざく。まさか、チュロスと間違えたのか? あんなハッピーな人々が喰らうような、ハッピーなアミューズメントパークにしかないようなハッピーな食い物と、そんなところに縁のないアンハッピー街道まっしぐらの俺の指とをか?
「ふえ?」
唐突に、彼女が上半身を起こした。ようやく起きたのか? いや、まだわからない。開いてるのか閉じてるのかよくわからないくらいの薄目でぐるりと彼女は周囲を見渡し、俺と目が合った。
「ごきげんよう」
ごきげんよう?
「お久しぶりね、チャールズ」
そんな海外の王族っぽい名前を授かった覚えはねえ。
「お、おい。大丈夫か?」
まだ先ほどのハンニバル現象のトラウマが残っているから怖いんだけど、意を決して近づく。
「大丈夫? ふふ、エマソンはいつもおかしなことを言うのね。私は大丈夫ですか?」
「いや、質問を綺麗に打ち返されても困っちゃうし、つかチャールズどこ行った?」
前提として、チャールズでもエマソンでもないけれど。
「どうして私の寝室にいるの? 入っていいと許可した覚えはないけれど」
「ずいぶんと広い寝室をお持ちで」
室内以外の全てが彼女の寝室になっちゃうよ。
「まあ、良いわ。私の伴侶となられる方ですもの。許します」
有難き幸せだコンチクショウ。まあこの通り、完全に寝ぼけているわけだ。自分の伴侶、ってことは夫か婚約者か許嫁か。それと俺を間違える程度には。それにしたって、ここに置いておくわけにはいかず、俺は彼女の前に後ろ向きでしゃがみ込んだ。細い腕を取って、体を俺の背に預けさせる。よっと声を出して、勢いをつけて彼女を背負い上げる。軽い。身長は結構あるのに、見た目よりも軽かった。
「さて、とりあえずは警察か」
そうやって、金にもならないサービス残業が始まった。俺も大概お人よしだ。
結末から言うと、怒られた。
二十分前。交番に彼女を届け、路上で寝てましたと説明し、去ろうとした。そしたら思いきりつんのめった。彼女が俺の服の裾をつまんで離さなかったのだ。ほどこうとしたがなかなかの握力で、無理矢理はがして怪我させたらまずいからどうしようかと思っていた時だ。また唐突に彼女は目を覚まし、こう言った。
「妻を置いて、どこへ行く気なの?」
で、また寝た。警察官たちの目が、苦労人を褒め称える物から一気に冷たい物へと変貌した。
「あのさあ、夫婦仲が悪いのは同情するけどさ。酔った奥さんここに置き去りにするってどういう神経してんの?」
「ここは託児所じゃねえんだよ」
「つうか、こんな美人の何が不満なんだよてめえ。独身貴族侮辱罪で逮捕すんぞ貴様」
「こんな愛らしい幼な妻なら我が侭の一つや二つ我慢しろや。むしろご褒美だろうが」
以降、どれだけ他人だと訴えても聞き入れてはもらえなかった。あまりに俺が喰い下がったせいだろうか、それとも独身貴族たちの逆鱗に触れたからだろうか、最後は拳銃がつきつけられた。ただの威嚇、もしくはタチの悪いジョークだったと思いたい。
そそくさと逃げるしかなかった。彼女を背負って。となれば、頼れるのは病院か? しかし、あっちも同じ理由で引き取ってくれなさそうだし、だいたい見た感じこの人病気っぽくねえ。病人でもないのに担いでいくのは他の病人の迷惑になるか。仕方ない。
「で、ここっすか?」
まあ、取れる選択肢は少ないからね?
出迎えてくれたヒナは頬をひきつらせながら言った。
「どうしてうちがその人を引き取らないといけないんすか」
「いや、だって。警察には押し返されたしさ。病人でもいないのに病院に連れてくのもなんだしさ。かといってほっとく訳にも行かないし。助けてくれるところ、っつたらここしか思いつかなかった」
俺のつっかえながらの説明に、ヒナは盛大にため息を吐き出した。最近、俺のせいで幸せが空気中に拡散している。深呼吸したら現状の境遇が改善されないだろうか。
「先輩・・・世話になっている私が言うのもなんなんっすが、オカン気質にもほどがあるっす。子猫拾ってくるのと訳が違うんすよ? わかってるっすか?」
まさかヒナに諭される日が来るとは思わなんだよ。
「つうか、何で先輩が拾ってくる子猫ちゃんたちは美女美少女ばっかなんすかてめえどこのギャルゲ主人公っすか!」
俺の人生がギャルゲーなら、とんだクソゲーだ。ヒロインはデレねえ、選択肢はどう転んでも破滅一択しかねえ、そもそも頼りになる親友がいねえ。まずは寄越せよ。ヒロインたちの情報を逐一教えてくれる男の親友を、お前とダチで良かったぜ! っていう顔も心もイケメンフレンズをよ!
「まあ、そのままお持ち帰りしないでここに連れてきたこと、『私』を頼ったことは評価するっす」
妙に私を強調しやがったな。まだアイシャと何ぞ争ってんのか?
「ここ断られたら最悪家に運ぼうかと思ってたんだけど」
「へえ、先輩は自分よりも年下の、そんな可愛らしい子を自分の家に連れ込む度胸持ってたんすね」
いえ、全然持ってないです。最後の最後は切り札である鷹ヶ峰さんを頼るつもりでした。
「ま、いいっす。どうぞっす」
ヒナがドアを大きく開ける。
「いいのか?」
「良いのかも何も、ここまで連れてきておいて。上がってくださいっす。先輩はともかく、後ろの子が風邪ひくっすから」
ほら、とせっつかれたので、靴を脱ぎ捨てて部屋に上がる。
「リビングにソファがあるっすから、そこへ寝かせてくださいっす。私は布団を取ってくるっすよ」
そう言い残してヒナは奥へ消えた。ふむ、とりあえず、あいつのセンサーが反応しなかったので悪い人間ではない、ということか。それを確かめる意味でもここに連れてきた意味はある。
入れ替わるようにしてサヴァーが現れた。
「話は聞いております。どうぞこちらへ」
リビングに通される。そのまま指示に従って、背負っていた彼女をソファに横たえる。
「少々失礼いたしますね」
サヴァーが彼女の体を検める。身分証や財布など何か持ってないか調べるためだ。電話があればよし、家族の連絡先が入ってればなおよし。
「ふむ、特に何も所持してはいらっしゃらないようですね」
「何もって、財布や携帯も?」
「はい。財布、携帯、定期、名刺などなど、身分を証明するものを何一つお持ちではありません。着の身着のまま、裸一貫ですね」
そこへヒナが掛布団を持ってやってきた。ソファで眠る彼女にかけてやると、ごろりと気持ちよさそうに寝返りを打った。のんきなもんだ。
「悪いんだけど、今日一日は置いてやってくれ。もしこれ以上費用が掛かったら後で払う」
財布に入っていた一万円札をヒナに渡す。まだ大会の賞金が九割ほど残っている。どうせビビッて使えないんだ、こういう非常事態で使おう。
「・・・さらりと男前なことをするっすね」
それを言うなら、無茶な頼みを聞いてくれたヒナのほうが男前だ。
「水増し請求はするなよ」
その手があったっす、とニヤニヤしているヒナたちに子猫を一匹預け、俺の今日の残業は終わった。
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