ノアの方舟
第7話 噂
いつからか、まことしやかに流れる噂があった。
『ノア』と呼ばれる暗殺者の噂だ。
狙われた者は一週間後、必ず命を落とす。
死に方は様々だ。
人為的な、いわゆる刃物や銃弾による殺害から、首つり、服薬による自殺、果ては病気、交通事故や災害などによる死亡も含まれる。死因は様々で、それだけ見れば痛ましいが、それでも世界中のどこにでもある「事件・事故」だ。
ただ被害者たちには、一つだけ共通点がある。
みな、同じ夢を見るのだ。
彼らは夢の中で一通の手紙を受け取る。消印も差出人の名前もない手紙だ。そこには一つの問いが記載されている。
―あなたは善人ですか? 悪人ですか?
夢だからか、誰もが悪人だと答えてしまう。そして、一週間後に命が消える。
どこかの雑誌が、この世にはびこる悪を容赦なく洗い流した、という話が載ってる世界最大のベストセラー本を引用して、名前のない暗殺者を名づけた。
箱舟に乗ることが許された、生き残るべき善人を選定する者『ノア』と。
それまで形のなかった暗殺者の犯行が、一気に表出し始める。『そういえば』『確か』その言葉と共に過去は現れ、ノアの存在は巨大化し、畏怖の対象となった。
もちろん、否定的な意見もある。誰かの悪質ないたずら、冗談、悪ふざけで、被害者が亡くなった後に話をでっち上げた、とか。事実そういう馬鹿な騒動を起こして、警察に捕まった連中もいる。ノアの犯行に見せかけた犯罪も多発した。
そういった連中のせいというべきかおかげというべきか、ノアの存在は現実味を持った恐怖から都市伝説の類にまで薄まった。ついでに忘れやすく移ろいやすい人の記憶も相まって、ノアの噂はすぐさま忘れられることになった。
たとえ、いまだに犯行が続いていたとしても。
前置きが長くなってしまったが、何が言いたいかというと、だ。
「こいつで、引き受けていただきたい」
すっと俺の前に差し出されるジェラルミンケース。左右にいた黒服の強面さん二人がケースを開く。
期待を裏切らない。みっしりと札束が入っていた。
「前金で、五億。成功後には残りの五億を支払う」
全部で十億。破格の値段だ。一生遊んで暮らしてもお釣りがくる。まして、俺のように月十万以下で切り詰めて生きるみみっちい倹約家なら死んだときには半額以上残っているだろう。
「方法は任せる。暗殺でも、事故でも病死でも何でもいい。とにかく、こいつを殺してくれ」
中央にいたリーダーらしき男が、胸ポケットから一枚の写真を取り出す。俺のよく知る少女の写真だった。
「まさか、これを見越して、彼女に取り入ってたんじゃないだろうな?」
口の端を歪めて、リーダーが喉を鳴らして低く笑う。
「だとしても。何ら不思議ではないな。なんせ伝説の暗殺者、ノアのやることだ」
リーダーが見上げてきた。応えるように俺も唇をゆがめ、笑みの形を作った。見る者を恐れさせるものであることは実証済みだ。事実、両隣の黒服が引きつった愛想笑いを浮かべた。
「では、朗報を持っているぞ。ノア」
勝手な依頼を押し付けて、男たちは帰っていった。机に残された写真に写るのは、隠し撮りされたアイシャ・ラスタチカ。今何かと話題の、レアメタル産出国の大統領、ジェルド・ラスタチカの一人娘だ。色々と縁があって、今は俺の働く書店のオーナー、大山家にホームステイしている。
ひと気がなくなって、全身から力が抜けた。腰砕けになって四つん這いになった。最近これが俺の基本スタイル、デフォルト状態だ。悲しいことに。
あのクソッタレな選手権に出場してからというもの、ロクなことがない。
人と人との縁は何物にも代えがたい宝だと言う人がいるらしいが、俺の前にそいつ一回連れて来い。小一時間くらい説教してやる。
俺があの選手権で得た縁と言えば、やたら人を苦境に立たせることに楽しみを見出す弩S経営者、衛星軌道上から見下ろしてんのかってくらい上から殺意目線の暴君、気を抜いたら人の意識を奪ってラボに連れ帰って解剖しようとするマッドサイエンティスト、そして国家のメンツで人の命を軽んじてくれる華麗なるメイドを引き連れた、とある誤解から俺を地獄送りにしようと画策する大統領を父に持つアイシャ関連だ。
な? 問題しか起きなさそうだろ?
これまで問題を引っ掻き回して人が解決しようともがき苦しむさまを見て楽しむ後輩の相手だけでも面倒だったのに、何だこのレパートリー。ファミレスか。ふざけんな。
そして今回だ。誰か教えてほしい。どうしてこうなった。
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