第3話 二回選

なぜか一回戦を勝ち上がってしまった鬼灯君。

新幹線とタクシー乗車でご機嫌を簡単に回復させたのもつかの間、またも彼には災難が待ち受ける。

いやいや劇って何? 子どもと逃走劇って何? 大統領って何?

ただ、メイドさんを雇うには、どれほど稼げばいいんだろうかとマジ検討。

そんな感じで楽しく就労! 筋肉痛も胃痛&リバースもなんのその!

出るか必殺! ドラゴンスクリュー!起死回生のジャーマンスープレックス!

よい子は使っちゃいけません。 特に偉い人には使っちゃダメ。絶対!!



 気乗りしなかったくせにと言われてもしょうがないくらい、高校の修学旅行以来だった新幹線は非常に興奮した。やっぱ男は旅と乗り物で気分が向上してしまうのだ。しかしながらやはりと言うか、あの一回戦で負った心と体の傷は疲労感に変換されたらしく、発車して十数分で眠りについてしまった。

派架田に降り立って感慨に浸る間もなくタクシーに放り込まれ、走ること数時間。はたと目覚めた時には空が白み始めていた。人の意識に合わせたわけでもないだろうに、タクシーはゆるゆると速度を落として停車した。ガチャリと後部座席のドアが開く。降りろ、ということらしい。ずっと同じ姿勢で寝ていたから体が固まっている。大きく伸びをして、深呼吸する。朝のひんやりとした空気が流れ込み、体にたまった澱を洗い流していく。体をほぐし終えたころ、空にかかっていた厚い雲が切れ、東の空から朝日が差し込んだ。天然のライトにアップされ、俺の前に人気観光スポットである派架田ランドが全貌を現す。おそらくシンボルであろう高い塔が、魔王城のように俺の眼に映るのは気のせいだろうか。嫌な予感しかしない。だって逆光で塔が黒一色に染まっているんだもの。

 キキィッと後ろで何台もの車のブレーキ音。振り返ると俺と同じ選手権参加者たちがタクシーから降りている。中には職業は格闘家か傭兵ですと体現したようなガタイのいい方々もいた。今からあんなのと戦うのかと思うと気が滅入る。

実行委員の車もあったらしく、拡声器で集合の合図がかかった。周りを見渡す。参加者は全員で十名。数百人単位の一回戦を勝ち抜いた自信が彼らから溢れている。その後ろからアンテナを取り付けたバンが現れた。中からカメラや音声マイクをもった人々がわらわら溢れ、機材をセッティングしていく。テレビ中継が始まるようだ。実行委員、テレビ局、そして俺たち参加者が派架田ランドのデカイ門の前に集合した。

「皆さんおはようございます。そして、一回戦勝ち抜け、おめでとうございます」

 アシスタントらしき男性のスタートの合図に合わせて、深々と頭を下げたのは実行委員集団中央にいた中年の男性。やはり黒いスーツを纏って二の腕に腕章をつけている。彼がここを取り仕切るリーダーなのだろう。

「現時点より、選手権の二回戦を開始いたします」

 リーダーが後ろにいるほかの実行委員に目配せした。実行委員たちは俺たち一人ひとりに紙袋を渡していく。中身は園内の地図、書類の束、ピンマイク、イヤホンだった。

「行き渡りましたでしょうか。では、これから行われる競技説明を行います。これから皆さんに行っていただくのは、アドリブの劇です」

「は?」

 なんじゃそら。劇ってことは、俳優をやれってことだろう。そんなの選手権と関係あるのか? だが、俺の疑問はよそに、他の参加者は当然とばかりに泡を喰うことなく説明を聞いている。え、何これ。俺がおかしいの?

「舞台はここ、派架田ランド。主役は皆さんで、全員、同じ役柄、主人公を演じていただきます。開園九時と同時に、最初の参加者が指定位置からスタートし、劇が開幕します。三十分後、二人目、また三十分後、三人目とスタートします。順番はくじで決めます。アドリブと言っても、劇の道筋は決まっており、決まっていないのは皆さんの場面だけです。皆様方以外の役者さんはすでにスタンバイ中で、彼、彼女らのセリフはすでにある程度決まっております。皆様はそのセリフに応じて上手く切り返しながら演技を行ってください。次に配点方法ですが」

リーダーが言ったことをまとめると

・採点は予選と同じ加点方式

・審査員は二十名の映画や舞台の監督、脚本家、番組プロデューサーと、視聴者全員

・二十名の審査員には三百ポイントの持ち点があり、それぞれ気に入った演技をするものに配点する。一人に三百ポイント全てを与えても良いし、数人に分けて配点しても良い

・視聴者審査員はインターネット、携帯電話などから投票する。投票権は一回。

・視聴者からの投票数を合計し、一万分の一にした数がポイントとなる

・合計ポイントが一番多い人間一人が勝者

・ポイントは後に百倍され基本給に上乗せされる

 以上だ。一回戦の時といい、ふざけた配点方法だ。だがその点数こそが自分の価値、ひいては給料を決定するのだ。金銭の支払いが発生するのだから、手は抜けない。

金がどうして価値があるのか、それはそこに価値の信頼があるからだ。金という概念を考えた人間は天才だと思う。それまでの物々交換の常識を破壊し、数字の書かれた紙が同等の価値を持つようにしたのだ。意識を変えたと言ってもいい。紙の金はそれだけの価値を持つという絶対の認識を人々に植え付けた。

だからこそ信頼の塊である金を貰うための行動、働くという行為は、最低でもその金額とそれに寄せられる信頼分のものでなければならない。どれほどくだらない仕事、気に入らない嫌な仕事であろうと、やるからには徹底的にやる。

「続いて、競技者の皆様には出演する順番を決めていただきます」

 順番の決め方はくじ引きだった。そしてくじ引きを、あれほど鬼気迫るように引く人間たちを俺は高校球児以外に知らない。ちなみに、俺が引いた番号は六番だ。集まった人間がちょう十一人なので、丁度真ん中に当たる。順番が決まったところで、俺たちは園内へと案内された。

 九時の開園と同時に、最初の参加者がスタートした。それ以外は順番待ちの間、場内の管理施設内に造られた控室で待機。控え室には小型のテレビが置いてあり、番組としてその模様が放映されているのを見ることができた。相手の演技を観察し、自分の演技とかぶらないか、参考に出来ないかと策を練ることができる。俺以外の参加者は皆そうしていた。俺はというと、支給された朝飯をもそもそ喰いながら、完全に視聴者の目線でテレビを普通に楽しんでいた。

 最初に手渡された紙袋の中に、舞台のあらすじが書かれた書類が入っていた。一応内容はざっとだが読んでいる。

 題名は「一日ベビーシッター」

 あらすじは、主人公が車の事故を目撃するところから始まる。車に乗っているのはある資産家の子どもとその付き人だった。主人公は爆発寸前の車から彼らを救い出す。怪我を負った付き人が言うには、子どもが莫大な遺産とそれに付随する権力全てを全て相続するらしく、それを良く思わない親族が命を狙っているのだという。遺言状の開示予定は明日。しかし、それまでに子供が死亡してしまうと親族に相続権が移ってしまう。

重傷を負った付き人は後一日、子どもを守ってほしいと言って息を引き取る。途方に暮れる主人公。子どもの怯えきった目と銃声、そして迫る追手の怒声で我に返った主人公は、彼らの手を掻い潜り、主人公は子どもを守りきるための逃走を開始。逃げた先は派架田ランド。アトラクションを利用し、追っ手を巻きながら、一日だけのベビーシッターを開始する。というものだ。非日常と日常が上手くない具合に混ぜ合わされているが、これは参加者がどういう風に行動しても良いようにある程度の幅を利かせたためだろうか。アクション方面にいくもよし、人情系にいくもよし、参加者の独創性が問われるのだろう。奇をてらいすぎれば滑り、王道過ぎれば飽きられる。この匙加減も問題だ。

アピールとは真逆の、目立たないようにひっそりと生きてきた俺にとって、この競技ほど向かないものはない。何がポイントだ、冷静に分析してる場合か、と内心でツッコミを入れながらペットボトルの緑茶を飲む。


 五番目の参加者が出て五分程経った。

「六番、鬼灯律様、準備お願いします」

 時計を見た。後三十分。その間に少し着替えを行うらしい。控え室の外で待機していた実行委員に案内されるまま更衣室へ。

「着替えがこちらです。着替えたら声をかけてください。裾直しを行います」

 手渡されたのはスーツ一式。CMで話題の紳士服専門店提供、動きやすく蒸れないスタイリッシュスーツだ。これから就職活動を始める大学生をターゲットに絞ったのだろう。そういえば先にスタートした参加者たちのものとは異なる。色違いなだけでなく、おそらく会社も違う。こんなところでも激しい競争が生まれているのだ。勝者のスーツはやはり縁起が良い。売り上げアップは確実だ。いつの間にやら紳士服の売り上げ責任を背負ってしまった。F1ドライバーみたいだ。まあ気にしても仕方ない。手早く着替える。サイズはあつらえたようにサイズぴったりで着心地が良い。

「問題なさそうですね」

 実行委員のお墨付きも貰った。実行委員はそのままピンマイクとイヤホンをセットした。

「ピンマイクで、鬼灯様の声を拾います。また、もし展開がわからなくなったり、どこに行けばいいかわからなくなった、トイレに行きたいなどの要望がある場合も小声で話していただければ本部からの指示が受けられます。ただ、出来れば、生放送のようなものなので、演技終了までは可能な限り我慢してください」

「了解です」

「あと、これをお渡しします」

 そういって実行委員が渡してきたのは手のひらサイズの黒い板。ここでもスマートフォンを使うのかと手に取ってみたら、タッチパネルがない。代わりに、スマートフォンならカメラがある場所に、代わりに小さなランプが付いている。

「今回試験導入される新型自動追跡カメラの発信機です。ちょっとよろしいですか?」

 そういって大きなケースを取り出す。中にはデジカメに四つヘリコプターの羽が付いたようなものが五個入っていた。それらを取り出して裏面にあるスイッチを押す。すると、五個のデジカメは小さな駆動音と共にふわりと浮いた。

「このカメラが発信機の半径十メートルの距離を飛び、鬼灯様を撮影します。ですので絶対に発信機を手放さないでください」

 なるほど、巨大な場内でどうやって撮影するのかと思ったが、これなら人も少なくて済むし、休憩なしでシャッターチャンスを逃すこともない。しかしこの国の技術もここまで来たのか。すげえな。

「でも、これって壊れたりしないんですか? 何かの拍子にぶつかって壊したら、弁償、とか・・・」

 発信機を矯めつ眇めつ尋ねる。これほどの精密機械だ。さぞ衝撃に弱いんじゃないかと心配になる。そして弁償とかになったら、素人目から見ても最先端の技術だ、百万二百万は軽くするんじゃないのか。今の俺にはそんな金は無い。

「大丈夫です」

 実行委員が自信たっぷりに答えた。

「テストの結果、象に踏まれても、三十メートルの高さから落としても問題なく作動したそうです。元々災害時などにおける救助用として開発されていましたので、カメラも発信機もそのくらいの耐久度はあります。また、防水加工を施し、耐火素材も使用されているので、火の中水の中問題なく稼働します。内臓センサーによって、カメラは障害物を避けますから大丈夫でしょう。レンズもぶれ防止機能、三十倍ズーム機能等が搭載されていますので、この場内であればどこであろうと追跡撮影が可能です」

 すげえ、そしてそのすげえ最新機材をこのエンターテイメントに放り込んでくる太っ腹具合がすげえ。

「では、スタート地点で待機していてください。こちらからスタートの声はありませんが、カメラは回っています。車の事故と同時にスタート。演技を開始してください。後は、あなた次第です」

 お願いします、と促される。ネクタイを締め直し、俺はスタート地点に向かった。開始まで後十五分。トイレに行っとこう。

 スタート地点は、派架田ランドへ向かう途中の国道だった。場内まで約五百メートル。資料の設定としては、職場のトラブルで仕事に嫌気がさし、サボって遊びに来ているということになっている。いや、サボんなよサラリーマン。こっちなんか首になったんだぞ。設定に文句をつけつつ、スタート位置で待機。ちょっと苛ついたような表情の方が良いのだろうかと考えていると、突然自分の横を猛スピードで車が横切り、ふらふらっとしたかと思うと歩道の縁に乗り上げた。ガードレールに車体を擦らせながら少しずつスピードを緩め、電信柱にぶつかってようやく停止した。スタート合図だ。さっきテレビで見ていた他の参加者たちの始まりと少し違うが、まあ六回も同じことすると飽きられると思ったテレビサイドが少し変えてきたのかもしれない。なんら疑問を浮かべることなく、俺は車へ向かう。フロントから煙を出しているのは黒塗りの高級タクシーだった。あれ? さっきまではいろんな車メーカーの新商品だったのに。ともかく事故は事故だ。驚く演技をしつつ、俺は車に駆け寄った。車内にはハンドルに突っ伏す一人。

「一人?」

 話と違う。とりあえず運転席を開けよう力いっぱい引っ張る。他の参加者はそれほど苦労無さそうに開けていた。それに倣おうと思ったのだが、

「ぐ、のおぉ」

 ガチで硬い。ドアが完全に変形してしまってびくともしない。え、何なのコレ。まさに話と違うってやつだ。仕方なく、損壊を免れた反対側の助手席に回り込む。幸いロックはかかっておらず、運転席側と違って難なく開いた。

「大丈夫ですかぁ!」

 演じてるという気恥かしさで中途半端な声量に。声も裏返ってしまった。ヒナが見てたら爆笑中だろうな。会ったら絶対からかわれる心配は後回しにして素早く車内を見渡す。やはり運転席の一人しかいない。あらすじに会った子どもが何歳という設定かはわからないが、ダッシュボードに入るくらい小さいか、トランクに荷物みたいに積まれてない限りは車内にいないことになる。とにかくエアバックに顔を突っ込んでいる付き人をひっぱりだす。

 エアバックをどけ、付き人の顔を拝見。まだ若い、いや、若すぎる金髪の女性だった。少女と呼んで差し支えない。どう見たって小学生くらいだ。免許をとれる年齢には見えない。いや、鷹ヶ峰十六夜という前例がある以上、油断はできない。彼女も年齢不詳だが、すでに経営者として働いているということは十八歳以上のはずだ。シートベルトをはずし、両脇に手を入れて慎重に抱きあげる。変なところを触ったと後でセクハラで訴えられても困るからな。

 少女は見た目以上に軽かった。飯食ってんのかと問いたくなるくらいだ。そして綺麗な子どもだった。美しいとか、可愛いとか、そう言うのとはまた違う、なんて表現したらいいのだろう。透き通っている、というのが一番しっくりくる。ハイカロ湖並みの透明度だ。純度百パーセントだ。抱きあげ、すぐさま車から離れる。映画でもなんでもぶつかった後は爆発するのが車事故のお約束だ。安全を配慮してそういうのは無いと思っても、やはり万が一ということが

 突如、轟音と共に熱風が吹き荒れ、二十メートルは離れていた俺の背を盛大に押し出した。よろめくが、踏ん張って何とか姿勢を保つ。振り返れば車の破壊された窓から炎が噴き出し踊っている。

「え、演出だよな」

 そうであってもらわなければ困る。事故だとしたら、そう考えただけでも背筋が凍る。俺は、これも演出、劇の一部だとかたくなに信じ込み、精神の安定を図った。

「う、んん」

 腕の中で抱えていた少女が身じろぎした。

「大丈夫か?」

 もう一度声をかけた。少女がゆっくりと目を開く。ぱっちりとした目が僕の目と合う。何か口走ったが、母国語でない言語体系は守備範囲外だ。「はあ?」と思い切り月本語で問い返すと、一瞬思案顔をした後、

「あんた誰?」

 と月本語で答えた。イントネーションにも違和感がない、流暢な月本語だった。

「俺は」と言いかけて、主人公の名前って決まって無かったなと今更ながらに気付く。

「俺は、何」

「鬼灯律。たまたま通りかかったんだ」

 仕方なく、本名を名乗った。

「そっちこそ何なんだ。タクシーに乗ってきてあまつさえ事故るし。免許持ってんのか?」

「事故?」

 心底不思議そうに少女は首をひねった。まさか事故の瞬間を覚えてないのか? 俺は「ん」と後ろで燃え上がる無残なタクシーの残骸に少女を向ける。

「あー」

 気まずそうな、やっちまった感溢れる嘆き。

「ま、形あるものいずれ壊れる、よね。この国の言葉にもあったじゃない?」

「いずれを決めたのはあんただけどな」

「まあ、細かいことは良いじゃない。それより降ろしてよ。いつまで抱っこしてんの?」

 と軽く睨まれたので、ゆっくりと降ろしてやる。降りる際「御苦労」なんて偉そうに言いやがった。何様だこいつは。

「で、結局あんたは何なんだ」

「私? 私は、えーと」

 なぜ詰まる。セリフを忘れたのか、それともそういう設定なのか。設定としては資産家の子どもと言うことだから、警戒して言いにくいという場面なのかもしれない。困ったようにキョロキョロしていた彼女の視線が固定された。目線はそのまま

「スワロウよ」

 と言った。

「スワロウ、ねえ?」

 彼女が見ている先を追う。国道向かい側に巨大な映画の看板が建てられている。この夏公開予定、全世界が注目する海賊映画だ。視線を彼女に戻す。彼女も目線を俺に戻した。俺の片眉を吊り上げた疑惑のまなざしにさらされ、愛想笑いもいかんせん引きつっている。それで誤魔化そうとしているのだろうか。

「とにかく、私のことはスワロウと呼びなさい」

 少女スワロウはそう言って強引に納得させようとした。これも劇の一部なのだろうと納得し、付き合うことにした。

「了解スワロウ。で、タクシー破壊してまでここに来た目的は何だ」

「それは・・・」

 スワロウが口を開きかけたところで、ブレーキ音を奏でながら黒塗りのごつい四駆がドリフト気味に停車した。その後も続けて二台、三台と割り振られたような絶妙な縦列駐車を決める。仮免試験なら一発合格だろう。停車した四駆の扉が開く。中から出てきたのは分かりやすいくらいの悪役、黒スーツ強面の屈強なお兄さんたちだ。

「あ、こういう展開なの?」

 俺たちはまたたく間に取り囲まれた。傍らのスワロウが小さく舌打ちする。

「―――」

 女性の声が屈強なお兄さんズの後ろから届いた。声量は大きくないのに、妙に良く通り耳に残る印象的な声だ。何語かわからないのが残念だ。

 お兄さんズの中央がすっと割れ、現れたのはメイドさん。わが国が誇る商業、メイド喫茶のお嬢さんたちが着ているようなミニスカートではなく、本場の、さまざまな雑用をこなすための機能性を重視したメイド服を着たうら若き女性がそこにいた。シルバーメタリックのメガネをきらりと輝かせる怜悧な美貌は、初対面でも彼女が才媛だということを理解させた。そして、この方々のリーダーだということも。彼女が口を開く。やはり俺には理解できない言語だが、隣のスワロウが噛みつくように彼女に何事かを言い返した。これもまた、俺には理解できない。それでも、スワロウは怒り心頭で、メイドさんは冷静に返し、説得しているという図式は理解できた。黒服のお兄さんズはその事態を見守っている。

 二人の応酬は傍から見ても、言葉の通じない俺から見ても平行線のようだった。とても劇、フィクションとは思えないリアリティだ。二人ともさぞ名のある女優なのだろう。ぜひともこのやり取りに字幕を付けてほしい。しかし、このままでは劇が進まない。一体ここからどうやって進行するのだろうか。

それは唐突だった。業を煮やしたらしきスワロウは突然俺の首根っこにしがみつき、ぐいと顔を引っ張った。

「「「!!」」」

 その場の誰もが目を疑っただろうが、一番疑ったのは何を隠そうこの俺だ。いきなりキスされたのだから。まさかのシナリオ、まさかの展開だ。長いような刹那のような時間のキスを終え、スワロウはメイドさんたちに向き直り、してやったりという顔で不敵に何事かを叫んだ。唖然としていたメイドさんたちの顔が、ゆっくりと俺の方を向いた。口をパクパクさせながら何事かを言っている。いや、だからさっぱりわからないんだって。

「とりあえず、頷いてイエスと言いなさい」

 スワロウが小声で俺に伝えてきた。あ、もしかしてここ俺のセリフだったのか。確かに、全員の視線が俺に向いたのだ、出番と言われれば出番だった。それでもなかなか演技をしない俺を見かねたスワロウが妥当な答えを提示した、ということらしい。いきなりキスシーンでも平常通り演技を続行する彼女たちの演技魂に感心する。

「いいのか?」

 そんなに参加者に肩入れしても良いのだろうか? だがスワロウは「良いのよ」とこともなげに答えた。確かに、彼女たち演技者にとっては、参加者の行動よりも、劇が途中で寸断される方が嫌なのかもしれない。そのあたりは選手権側も彼女らに一任しているのだろう。言われるがまま「イエス」と首を縦に振った。とたん、メイドさんの目つきが鋭くなった。他のお兄さんズからも怒気が発せられる。な、何かまずいこと言ったでしょうか。

「目を閉じて耳を塞いで!」

 スワロウが叫んだ。メイドさんたちからのプレッシャーに気圧され自己判断が困難になっていた俺の体は、その言葉を素直に実行する。目を瞑る瞬間、スワロウが何かを地面に投げたような気がした。

 衝撃が体を突き抜けた。比喩的な意味合いではなく、全身が揺さぶられた。音による衝撃波だと気付いたのは後々のことだ。

 理解の範疇を超えた出来事にオーバーヒートして動けなくなっている俺の手を誰かが握った。小さな手だった。

「こっちよ!」

 声から、スワロウだと気付く。

「おい、目ぇ瞑ってんのに引っ張んなよ」

 おかげでよたつき、足がもつれて転びそうになる。

「なんでまだ閉じてんのよ。さっさと開いて、走って!」

 いらだたしげにスワロウが早口でまくしたてた。目を開くと、後ろを振り返りながら疾走するスワロウ。つられて振り向けば、目を押さえている黒服お兄さんさんズ。まるで強烈な光を浴びたよう。

「何をしたんだスワロウ」

「ちょっと目くらましを喰らわせただけよ。すぐに回復するわ。ほら!」

 促され後ろをもう一度振り向く。一人だけ目くらましを避けたらしいメイドさんが、はるか先を行く俺たちに気付いていた。すぐさま周りのお兄さんズに何か指示を出し、自身もこっちに向かって走ってくる。メイド服なのに無茶苦茶速い。結構離していたと思ったのに差をどんどん縮められている。スワロウが苦々しい顔をしてポケットをまさぐった。目当ての物を取り出し、ぽいと前方に放った。落下していく横を俺たちは走り抜ける。何を投げたんだと振り返ると、それは地面に落ちた瞬間、すさまじい勢いで煙を噴き出し始めた。

「煙幕かよ!」

 忍者かこいつは。煙はまたたく間にメイドさんたちとの間に境目を作った。だがそれに満足するようなスワロウではなく、その煙に向かって後ろ手に別のものを放り投げる。煙の向こう側で破裂音が響いた。

もう正直何が何やらわからない急展開だ。アドリブにしたって無茶ぶり過ぎる。ついていくのがやっとだった。そんな俺に驚く間すら与えず、スワロウは直角に曲がった。丁度派架田ランド入場口だった。

「ここに逃げ込むわよ」

 入場ゲートには回転ドアの簡易版みたいなレバーの柵があり、その横で係の従業員がチケットを確認していた。普段は入場待ちの人で混雑しているであろう場所は、選手権の舞台と言うことで貸し切られているのかガラガラだった。スワロウはスピードを落とすことなくゲートの一つへと突っ走り、驚く従業員をしり目にレバーを飛び越えた。結構な身体能力だ。運動不足とはいえ大人の俺と同等以上の身体能力を誇っている。このままいけば将来有望なアスリートになるだろう。その後を俺も同じようにして続く。

「―なの台本にあっ―」「聞いて―」

 従業員たちのちょっと気になる会話を背に俺たちは疾走する。


「ここまでくれば、すこしの間大丈夫でしょ」

 肩で息をしながらスワロウが言った。場所は派架田ランドの中央辺り、朝に遠くからみた派架田ランドのシンボル『トワイライトキャッスル』前だ。

「さて、逃げ込んだはいいものの、これからどうしよっか?」

 と尋ねてくるが、俺は今それどころじゃない。

「う、うぷ」

 誰が見ても分かるとおり、吐きそうだ。久しぶりに全力疾走なんてしたから全身の筋肉が悲鳴を上げてるし、心臓と肺なんてそりゃあもうパンク寸前だ。胃液が逆流しそうなのを必死でこらえる。

「だらしないわね」

 そんな俺にスワロウは無情だった。

「少し走っただけじゃない。どうして子どもの私が平気で大人のあんたがフラフラなのよ」

「うる、さい」

 そう言い返すのがやっとだ。スワロウは大げさにため息をつき、すっと離れた。どこ行くんだと追いかけることすらできずその場で蹲っていると「はい」と紙コップを渡された。

「オレンジジュース。ゆっくり飲みなさい」

「あ、ありがとう」

 わざわざ売店で買ってきてくれたようだ。口は悪いが良い子だと認識を改めた。言いつけを守ってゆっくりと飲む。オレンジの抗酸化作用がしみわたっていく。

「落ち着いた?」

「何とか。助かったよ」

「せいぜい感謝しなさい。いずれ利子付けて返してもらうから」

「恩着せがましいな。だいたいこんな走るはめになったのはお前のせいだろ。何で追われてんだよ」

 あらすじとは少し離れた展開になっているのは間違いない。視聴者からか、それともテレビ局からか、選手権側からかはわからないが何らかの横やりが入ってシナリオを変更せざるを得なくなったのだろう。それでさっきのゲート前の従業員役が言っていたことにも説明がつく。

このまま何も知らない素人の俺が演じ切るのは不可能だ。ここで聞いておくしかない。それに、この場面なら不自然でもないだろう。

「あいつらは、簡単に言っちゃえば悪いやつらよ」

 簡単にも程がある説明だった。

「どう悪いんだよ」

「とにかく悪いのよ。特にあのメイドは極悪の一言ね」

「極悪って・・・・」

「あんた、あの見た目に騙されちゃだめよ。冷徹で冷酷で、一切の慈悲もなく相手を追いつめるんだから。むしろ楽しみながらやるんだから手に負えないわ」

「いや、俺が言いたいのはそういうことではなく」

 内心、クールで知的でSな美女って実在したんだと喝采を上げた。しかもメイド。希少価値が高すぎる。一体どれほど稼げばメイドが雇えるのか一度真剣に検討しようと思う。

「ともかく俺が言いたいのは、お前とあのメイドさんたちは知り合いなのかってことだ」

 言い合いするってことはある程度の知り合いじゃないとできない。そう尋ねるとスワロウは「え?」と驚いた顔をした。

「同じ母国語かなんかで喋ってたろ? だから知り合いじゃないかなって」

「そ、そぉんなことないんじゃない?」

 こんな下手なごまかし方ってあるだろうか。

「言いたくないなら別に良いけどな。それでスワロウ。これからどうする気だ?」

「どうするって?」

「目的があってここまで来たんだろ? タクシーまで破壊してさ」

「私の目的、は」

 スワロウはなぜか虚を突かれたような顔をして止まってしまった。

「スワロウ?」

「なんでもない。目的でしょ? 遊びにきたに決まってるじゃない」

 さっきまで逃げてたやつがか? このシナリオちょっと無理ないか?

「そうよ。私だって遊ぶわよ」

 俺のシナリオに対する不満をよそに、スワロウはぶつぶつと何事かを呟いている。自分に言い聞かせているような、そんな呟きだ。

「ほら、案内しなさい」

 俺に向かってスワロウは言い放った。

「俺が?」

「あんた以外誰がいるのよ。良いじゃない、あんた暇そうだし。それに、案内するだけでオレンジジュースの借りが返せるわよ?」

「まあ、そんなことで良いなら」

 そう言う流れなら、ここで渋っても仕方ない。

「どこから回る? 希望はあるか」

 スワロウは華やいだ笑顔を見せた。その表情だけは年相応だと思いながら、立て看板に走り寄った彼女を追った。


 彼女の案内を気軽に引き受けたのを、少し後悔し始めている。

「ほら、リツ! 何へばってるのよ。次あれ乗るわよ」

 元気いっぱいの彼女に手をひかれて向かったのは絶叫マシンの定番ジェットコースターだ。別段俺は絶叫系が苦手、というわけではない。得意、というわけでもないが、普通に乗れる。

 ただ、この三時間以内に数十の絶叫系、ほのぼの系問わずつきあわされればさすがに疲れる。あまり眠れていないのも堪える。体はガタガタだ。体の内側から何かがせり上がってくるのをどうにか呑みこんで耐える。

「何か思ってたのとは違うわね」

 俺とは正反対の疲れ知らず、上機嫌な様子でスワロウは弾んだような声を出す。

「何がだよ」

「ジェットコースターもフリーフォールも、並ばずに入れたじゃない。普通こういう人気のアトラクションって一時間二時間並ぶもんでしょ? でも実際は待ち時間なくすいすい乗れるもんなのね。平日だから?」

「そうじゃねえの?」

 投げやりに答える。本当は選手権で貸し切りだからだと思うが、このシナリオではそういうことになってるのだ。

かといってガラガラと言うわけではなく、俺たち参加者以外にもアトラクションには七割くらいの客は同乗している。おそらく参加者たちが来たら乗るように指示されたエキストラの皆さんだと思われる。何度もジェットコースターに乗って大丈夫なんだろうか。

それにしてもスワロウの自然な演技には驚くばかりだ。本当に遊びに来て楽しんでいるようだ。それでいてふとした瞬間に憂いの表情を織り交ぜ、何らかの悩み、問題を抱えているようにふるまう。末恐ろしい名女優だ。

 さて、シナリオとしてはここらで彼女が抱える問題ってのに触れるべきなんだろうなと勝手な解釈をする。でなければこのまま遊んで終わり、みたいな話になりかねない。それだと見てる方はつまらないだろう。幸い、彼女が次に乗ろうとしているのはコーヒーカップ。カップ状の乗り物に乗ってぐるぐる回転するあれだ。

「なあ、そろそろ話してくれてもいんじゃないか」

 ゆっくりと回転するカップの中で切り出した。

「話せって、何をよ」

 カップ中央のハンドルを回して自転速度を上げていたスワロウはその手を止めて俺を見た。少し警戒したような顔なのは気のせいか。

「追われてた理由だよ。お前が極悪と言い放ったメイドさんや黒服のお兄さんズのこと」

「知らないわよあいつらのことなんて」

「本当か? 俺の見たてじゃ、お前はあの人たちと知り合いだ。それも結構身近な」

「な、何を証拠にそんなでたらめを」

「理由は二つ。まず一つは、知り合いでなきゃあんな言い合いはしない。言葉がわからないと思って馬鹿にすんなよ。メイドさんのあの態度は、母親か姉が、娘、妹をたしなめるような感じだった。

 二つ、追ってきた彼女たちが、ここまでお前を放置しているって件だ。お前を本気で捕まえたいなら、最初のあの取り囲んだ時点で実力行使が出来たはずだ。それをせず、わざわざ説得しようとした、その辺で頭のそんな良くない俺でも推測出来てくる。

 お前の正体は多分、自分の家族かそのあたりに追われている家出娘ってとこだ。メイドさんと黒服のお兄さんズに追われるってことは、結構なお嬢さんなんじゃねえの? 捕捉として付け加えるなら、メイドさんたちはお前には敵意を見せなかったのに、俺に対しては警戒心をむき出しにしてた。しかも、今もこっちを観察してる」

 これでも後ろ指を指されながら生きてきた。人の視線には人一倍敏感だ。少し前、幽霊屋敷の辺りから完全に囲まれている。それでも強硬な手段を取らないのは、様子見以外の何でもない。

 話し終えると、さっきまでのはしゃぎっぷりが嘘のように、スワロウは無言でうつむいてしまった。楽しげな音楽と共に回るコーヒーカップに乗っているのがえらく場違いに思えてきた。ここでする話でも無かったかな、と少し後悔しだした。

「家出、かぁ」

 黙っていたスワロウが吸った息と一緒に吐きだした。

「白状するわ。あんたの言うとおり、私はただの家出娘。追ってきたのはうちで働いているメイドのサヴァーと護衛連中。これで満足?」

「半分な。どうして飛び出したんだ」

「乙女のプライベートをそこまで根掘り葉掘り聞く? ちょっと無神経なんじゃない?」

「普通ならな。でも、その理由でお前は俺を巻き込んで、そして俺はメイドさん、サヴァーさんだっけ? に誘拐犯と思われ狙われている。聞くには充分な理由だと思わないか?」

 そうね、とスワロウは呟いて、再びうつむいた。コーヒーカップが完全に止まっても、彼女はその場を動こうとしない。さっきみたいなだんまり、というわけではなく、何か言葉を探して思案している、という雰囲気だったのでせかすことはしなかった。そして再びコーヒーカップは回りだす。

「私は、あんたの言った通り名家の生まれという奴よ。ヒルンドー国、ってわかる?」

「新聞のニュース欄で見たことある。確か大陸の中間くらいに位置してんだったか? 最近発見されたレアメタル鉱床のことで揉めてるって話を聞いた」

「そ。あらゆる国から鉱床を渡せって圧力をかけられてるけど、あの人なら大丈夫でしょ」

 彼女がそう言えるのは、ヒルンドーに新しく就任した若い大統領がかなりの剛腕で、対外政策をはじめ国家の土台を新しく、強く築いたからだ。この国にも何度か訪れ、積極的に技術を取り込んでいる。国も、大陸各地へのハブ、中継地点となれる地理を活かして貿易、観光を中心に活性化させていた。

「しかし、一国の大統領をあの人呼ばわりとはね」

 いくら国民に親しまれてるとはいえ、いいのだろうか。確かに俺たちも政治家に対して「目の前にいたらガツンと言ってやる」なんて強気の発言をするけど。

「いいのよ。父親だもん」

 ・・・・・・・・・・何だと? 良く聞こえなかった。もう一度。ワンモア、プリーズ。

「ヒルンドー国大統領、ジェルド・ラスタチカは私の父で、私は娘のアイシャ・ラスタチカ」

 思考が停止した。情報が一杯いっぱいで脳がパンクするって本当にあるんだと嫌な実体験をしてしまった。

 完全に固まってしまった情報の塊を、飴を舐めて溶かすように少しずつ脳に送り込む。するとどうだろう。脳が一番納得しやすい形に彼女の情報を変換していくではないか。

「なるほど、そうきますか」

 一番の納得の理由、それはこれが劇だということだ。今話題の社会問題を結び付けて、ただのエンターテイメントではなく現実も考えさせるという魂胆だろう。ようやく落ち着いてきた。

「父ジェルドには危惧があった。今は上手くいっている。しかし、自分が任期を終えた後や、死んだあとどうなるだろうか。ヒルンドーの水準、特に教育関連は、力を入れてはいてもやはりこの国を含む先進国に及ばない。次世代のヒルンドーを担う子どもが育ってないのよ。今は自分たちが踏ん張っているが、自分が退いた後に再び蹂躙され、食い散らかされるのではないかと。そこで自分の娘に英才教育を施し、後任に据えることを決めた」

 それがこの私。とスワロウ、アイシャ・ラスタチカは言った。

「今ここであんたと月本語で喋れているのもその教育のおかげ。他にも五カ国語程度なら日常会話は問題ないし。感謝してはいるわ」

「してはいる、ってことは、それ以外の感情があると」

 ご明察と彼女は言った。難しい言葉を知っているものだ。

「正直、限界だったのよね。あれもこれもって無理やり知識詰め込んで、遊ぶ間どころか休む暇さえ与えられずにずっと分刻みのスケジュールで。一言目には「国のため、国民のため」ってさ。いや私も一応国民のひとりですけどって言ってやりたくもなるわけよ」

「つまり、親にやりたくもないのに押し付けられる勉強とか嫌になって飛び出してきたと」

「ありていに言っちゃえばそういうこと。社会勉強ってことで一緒に連れてこられたのは、チャンスだと思ったわ。で、徒卯卿から隙を見て飛び出したってわけ」

 飛び出し過ぎだろ。千五百キロくらいあんぞ。撒いたと思ったんだけどねとカラカラ笑う彼女に内心でツッコミ。逃げる方も追う方も根性あるな。

「せっかく自由になれたのにな」

 笑っていたのが、再び暗く沈んだ表情に変わった。

「ねえ、囲まれてるって本当?」

「ああ。これでも人の視線には敏感なんだ。視線恐怖症の一歩手前くらいだからな」

「残念な特技だけど、こういう時に使えるって皮肉ね。でも、そう。そうでしょうね。サヴァーは優秀な元傭兵だから」

 何その追加設定。美人でメイドで知的で元傭兵ってアビリティ持ち過ぎだろ。反則キャラにもほどがある。いや、これは設定だ。そうだよな?

「ねえ、一生のお願いがあるんだけど」

 真剣な、泣きだしそうな表情でアイシャが俺の顔を覗き込んだ。

「私を逃がして。せっかく自由になれたのに、このままじゃまたあの監獄みたいなところに戻されちゃう。ううん、きっと二度と逃げられないようにされちゃうわ」

「いや、さすがに無理だろ」

「ちょっと諦めるの早いわよ! レディがこんなに頼んでるのに! それに、助けてくれたらお礼するから。ほらこれ」

 そう言ってアイシャが取り出したのはキャッシュカードだった。

「換金が面倒だと思うけど、それでも円にすれば一千万はあると思う。これあげるから、だからお願い、お願いします!」

 カードを俺の胸に押し付けてアイシャが懇願する。俺は、その手を握る。受け入れられたと思ったアイシャが顔を上げ、手を押し返してその顔に向かって告げた。

「だから、嫌だっての」

「何でよ! この私がこんなに頼んでるのに!」

「お前さあ、状況わかって言ってる? 俺、凄腕の元傭兵のメイドさんに狙われてんだぜ? 結構な命の危機だぜ? その状況でお前の面倒なんぞ見きれるか」

「そんな」

 アイシャの顔が絶望に歪む。

「それにきっと、協力しても逃げ切れないし」

「ぐす、何よ。そんなのやってみなきゃ分からないじゃない。サヴァーだって人間よ。隙をつけばさっきみたいに」

「俺が言ってるのはそういうことじゃない」

 鼻をすするアイシャに向かってそう言った。

「スワロウ、いや、アイシャ。お前は勘違いしている。本当に自由な人間は、そんな後悔を引きずったようなドス暗い表情をしない」

「ドス暗いって、あんた他に言葉選びなさいよ」

「そこは置いとけ。つまりさ、後悔とか未練とかがあるから、お前はそんな顔するんだ。便秘三日目みたいな面になるんだよ」

 絶句するアイシャを無視して、俺は立ちあがる。そして、ある方向へ向けて手招きする。そして数分後、その方向から現れたのは強く美しいメイドというマンガみたいなキャラ、サヴァーさんだ。彼女が現れた途端、アイシャが俺の後ろに隠れた。

「あんた、何する気?」

「いいからいいから。あっと、アイシャ、すまんが通訳してくれねえか?」

 言葉が通じなければ話どころではない。

「その心配には及びません」

 アイシャほど流ちょうではないが、それでも滑らかな月本語がサヴァーから飛び出した。

「私の位置を把握してらっしゃったのですね。これでも隠れるのは得意な方なのですが」

「だろうね。出自は少し教えてもらった。ただ、俺も見られていることを察知するのは少し得意なんだ」

「そんなお互いの得意分野をお話するために呼び寄せたわけではないでしょう? 合コンじゃないんですから」

 メイドさんの口から合コンが飛び出るとは思わなかった。苦笑しながら要件を述べる。

「すまないんだけど、あんたらのボスにつないでもらうことって出来る?」

「ボス、旦那様にですか?」

「そう、ラスタチカ大統領閣下に。閣下の娘のことで話があると」

「身代金ですか? 大胆ですね」

「違うよ。つうか、ここまできたら誘拐じゃないってわかりそうなもんだけど」

「冗談です。すでにそちらの事情も、先ほどの話もお嬢様の出まかせと判明しておりますのでご安心を。護衛たちももう手出しすることは無いでしょう」

 先ほどの話、ってあれか。アイシャがキスしてきた時の話か。一体どんな話だったんだろう。気になるが、後回しだ。

「旦那様に連絡することは可能です。お嬢様の件に関しては優先して取り次いで良い、というふうに承っておりますので」

 しばしお待ちを、とサヴァーは電話をかけた。ほどなくして相手が出たようで、彼女が話しだす。

「ええ、はい。お嬢様を保護してくださった方が、話をしたいと。構いませんか? はい。かしこまりました」

 サヴァーが差し出した携帯を手にする。

「旦那様です。月本語で問題ありません」

「ありがと」

 まさかこの俺が、大統領と話す時が来るとはね。劇だけど。きっとこれも、後でヒナの笑いの種になるんだろうな。「大統領と話した感想は?」とか言って。

「もしもし」

《ジェルド・ラスタチカだ。娘を保護してくれたこと、礼を言う》

 大統領役の人らしく、威厳を感じさせる魅惑の低音ボイスだ。

「いえいえ。お気になさらずに」

《それで、私に話とはなんだ。こう見えても忙しい身でな。ああ、もし娘が迷惑をかけたのなら、俗な方法で申し訳ないが、謝礼金と一緒に支払おう。その方法しか誠意の表し方を知らなくてな。月本風に言うと、無粋、というのか?》

「ああ、いえ、そう言うことではなく。別段金が欲しいわけではなくて。俺、ああいや、私がお願いしたいのは、娘さんをこちらまで引き取りに来てくれませんか、ってことです」

 アイシャが目をむいて驚いた。なにか怒鳴ろうとするのを口を押さえて黙らせる。

《私が?》

「ええ。というか、娘さんのお願いだそうです。どうしても会って話したいことがあると。閣下が来なければまた逃げだす、とのことです」

 電話越しに、ジェラルド大統領のいまいましそうな声が聞こえた。バカ娘が、とか罵ってるに違いない。

《君、すまないがうちの娘に伝えてくれ。我が侭も大概にしろ。どれだけサヴァーたちに迷惑をかけたら気が済むのだ。さっさと帰ってきて、使命を果たせ。とな》

「使命、ですか?」

《そうだ。我々は国家を守らなければならない。能力を持つ人間には義務がある。その力が大きければ大きいほど、それを社会に還元し、より良き国を作るために戦わなければならない。親の私が言うのもなんだが、アイシャにはその能力がある。その力はヒルンドーを強く豊かにするためにはどうしても必要だ。たとえ実の娘に恨まれようと、私は国のこれからの十年、百年を考え、実行する義務がある》

 確固たる信念が言葉の端々から溢れていた。本当に国のことを思い、変える気でいる。

 それはとても素晴らしいことだが、だからこそ見落としてほしくないなと思い、俺は作戦を遂行する。

「わかりました、伝えますんでちょっと待ってもらえます」

 少し受話器を離して、話すふりをする。怪訝な表情でアイシャとサヴァーが俺のことを見ている。

「あ、ええと閣下。一応伝えたんですが、お父さんが来ないならテコでも動かない、とのことです。サヴァーさんからちょろまかした拳銃を手に、俺を人質に取ってるんで、その、俺の命を助けると思って来てもらえません?」

《は? どういうことだ。状況がつかめん。君はどうなってるんだ?》

「ですから、俺は保護した、というか捕まって人質にされてるんですよ。娘さんに罪を犯してほしくないなら、来た方が良いと思いますよ。大統領の娘が殺人者ってのも、風聞が悪かろうと思うので」


「あんた、一体何考えてんのよ!」

 電話を終えた俺に真っ先に食ってかかったのはアイシャだった。

「よりにもよって父を呼び付けるなんて、あんた正気?」

 そもそも私があんたを人質に取ってるってどういうことよと怒鳴り散らす。あまりにうるさいので片耳を塞ぎながらうるさいとジェスチャー。

「正気って、あっちは舌打ちしながら快諾してくれたぞ?」

 もしこれが来てくれないというのなら、俺の計画は破たんしていた。つうか、忘れそうになるけどこれは劇なんだよな。良く受け入れられたな、と思う。シナリオ、劇団員側の思惑は俺の思惑すら予想内なのだろうか。それとも彼らもオールアドリブなのだろうか。

「舌打ちしてたら快諾なわけ無いじゃないの!」

 いきり立つアイシャをなんとかなだめ、俺はサヴァーに顔を向けた。

「サヴァーさんにも、すこしお願いがあるんだけど、良いかな?」

「何でしょう? 人質の提案とは」

 表情を一切変えることなくこんなことを言う辺り、彼女は状況をちょっと楽しんでいるんではないだろうか。だがそれで良い。話が解る人は俺はとても好きだ。ここ最近、全く話の通じない人間ばかりを相手にしてきたから特に。

「難しいことじゃない。これから起こることに、公正、平等、中立の立場を貫いてくれればいいんだ。できれば手だし無用で」

「これから起こること、によります。もしあなたが大統領に害を成そうとするなら、私は全力であなたを排除しなければなりません」

「害をなすつもりはないよ。これから行われるのは対決だ。俺ではなく、アイシャと大統領との親子対決だ」

「何でそこで私が出るのよ。つか、私が父と対決?」

 話に出たアイシャが言う。振り向き、しゃがんで彼女と視線を合わせる。

「この世で自由を勝ち取る方法は三つ」

 指を三本立てて見せる。

「一つ、逃亡すること。戦略的撤退ってやつだ。これは無実の罪を着せられ不当な扱いを受ける人が取る。逃げながら証拠を集めて真相を究明するんだな。

 二つ、革命を起こす。これは圧政に苦しむ人々が国家、政治に対して取るな。フリーダムな女神が群衆を率いているのが有名だ。

 そして最後は、交渉だ。そして、これがお前の取るべき選択肢だ」

「交渉って、父と?」

「他に誰がいんだよ」

「無理に決まってるじゃない。今までどれだけ話し合いしたと思ってるのよ。そのことごとくが一蹴されてきたのよ。国家のためにって」

「そりゃ交渉じゃねえ。ただの苦情申し立てだ。交渉ってのは、相手と自分の妥協点を見つけることにある。例えば、勉強をこれだけして、成績をキープするんで遊ぶ時間をくれ、とか」

 それを聞いたアイシャは目を点にしていた。見るからに真っ直ぐ意見を通そうとする気の強そうなやつだもんな。こんな落としどころを探る、ってことまで考えてなかったか。まだまだ子供だな。

「意見は衝突したらどちらかが折れなければならないって決まりはない。むしろ、双方納得するようにすれば、お互いすっきりする。少なくとも後悔は少ないだろうよ」

 ウィン・ウィンの理念ってやつだ。

「そんなの、無理よ。人の話なんか全然聞いてくれないんだから」

「やってみなけりゃわからんだろうが。いいかお嬢さん。自由を得るのは形は違えど方法は一つ。勝ち取るしかねえんさ。勝ち取ってねえからすっきりしないんだ。未練が残っているからな。どうせ好き勝手したいなら、誰にも有無を言わさず大手を振ってみないか?」

「できるなら、そのほうがいい、けど」

 いまだ不安がる彼女の手を「はい決定」と取る。

「ならまずは腹ごしらえだ。飛行機でくるにしたって二時間はかかる。飯にしよう。あ、サヴァーさんたちも一緒にいかが?」

「同席してもよろしいのですが?」

「もちろん」

「では喜んで御一緒させていただきましょう」

 スカートの両端をチョンとつまんで、彼女は淑女のお辞儀をして見せた。


 時間は夕刻。派架田ランド中央、トワイライトキャッスル最上階の展望台に俺たちはいた。やっぱり決戦の舞台は離れ小島か巨大な塔の最上階だろうと思って提案し、サヴァーが伝え、大統領が了承した。

夕陽を背にして、アイシャの隣で待つ。彼女の手にはサヴァーから借りた拳銃。一応人質と言うことになっているためだ。安全のため、弾を抜き安全装置を解除しないままになってはいるが、やはり落ち着かない。

十数分後、俺たちと一緒にいる黒服のお兄さんズと良く似た集団に囲まれて、一人の男が現れた。眼光鋭いナイスミドルだ。ナイスミドルは視線を俺たち、そしてアイシャに向けた。瞬間、アイシャがびくりと震えた。

「お父様・・・」

「アイシャ、この大バカ者が!」

 ガラスを振るわせる怒号が鼓膜をつんざいた。俺にも通じるように話してくれているのはありがたい。やはり視聴者を意識したのだろう。

「人の上に立とうという人間が、何を考えなしに動いているのだ! お前はラスタチカ家の人間としての自覚と誇りは無いのか!」

「な、何よ! 自覚とか誇りとか! あんた話し合いに来たんじゃないの! 話も聞かずに怒鳴りつけるって政治家としてどうなの!」

「父親に向かってあんたとは何だ! 羽も生え揃ってないヒヨコが偉そうな口を叩くな!」

 ぎゃあぎゃあと大怪獣決戦が始まった。どちらも引くことを知らない超強気な人間だ。こりゃ、話がまとまらないのも頷ける。

「はいストップ!」

 ヒートアップしている二人に負け名くらいの大声で叫び、両手を大きく広げて大の字。それを境に親子喧嘩は一旦休戦となり、その場にいる全員の視線が集まる。今なお視線が苦手っちゃ苦手だがそうも言ってられない。

「積もる話もあるでしょうが、とにかくクールに行きません?」

「何だ君は。まさか、君かね? 電話で言っていた、人質というのは」

「ええ。まあ」

「人質ではないではないか。君が命の危機であり、娘が罪を犯そうとしていると聞いたから、さまざまな公務を放置して駆けつけたのだぞ? もし騙したのなら、どうなるかわかっているな?」

 いきなり脅されたが挫けるな俺。どうせこれは劇だ。きっと、こういう時の度胸を試されているんだ。思考をフル回転させろ。この状況を切りぬけろ。俺ならできる。

「嘘をついた覚えはありません。娘さんに誘拐されたのは事実ですし、生殺与奪権を握られていたのは事実です」

 成り行きで一緒に逃げたこと、休む間もなくアトラクションを乗り継ぎ続けたことだって広く解釈をすれば当てはまる。

「ただ、話を聞いてみると同情、ではないですが、彼女の肩を持ちたくなりまして。少しだけ協力させてもらいました」

 心理学とかでは銀行強盗とかで立て籠もった犯人と人質の間に奇妙な共感が生まれるらしく、つまりそういう状態だ。

「ふん、では君がくだらない智恵を娘に与えて、わざわざ私を呼び出したわけだ。良いだろう、その度胸を買おう」

 鼻を鳴らして大統領は言う。何だろう、鷹ヶ峰といい大統領といい、えらい人間は度胸を買ってくれるものなのだろうか。幾らだこの野郎。しかし、聞く態勢になってくれたのだからこちらとしては願ったり叶ったりだ。俺は、後ろのアイシャを肘で小突く。アイシャが銃を下ろし、おっかなびっくり前に出た。

「お父様。今日はお父様と交渉したくて、ここまで来てもらったの」

「交渉? お前が私と?」

 自分の娘を見下ろす大統領。負けじと見上げるアイシャ。

「そうよ。もう限界なの。毎日毎日一人で部屋に閉じこもっての勉強漬けの日々にはもううんざり。週一、いえ、せめて月一で休みが欲しい。外に出る時間が欲しい」

 これ、冗談でもなんでもなく、マジの提案なんだから笑うしかない。休みなしでありとあらゆる知識を叩きこまれているのだ。名家パネェ。

「私は今日、生まれて初めてテーマパークに来たわ。露店で初めて食べ物を買い、立ち食いをした。何より初めて誰かと遊んだわ。凄い楽しかった。同時に、何でこうやって一緒に遊ぶ友達もなく、楽しい事を経験せずに生きてたんだろうって驚いたわ。

お父様。教育を受けさせてもらえてることには感謝してる。けど、こういう機会も作ってほしい。現実に見て、触ってみて初めて分かることだってあると思うの。その経験だって今後活かせるはず。友達だって欲しいわ。学校だって行きたい」

「くだらん」

 アイシャの話を大統領は無理やり打ちきった。人がせっかく長時間を費やして作り上げた説得を半分も聞かずに。この後の展開では情に訴えかけたり理路整然とデータを持ち出したり色々搦め手を用意しておいたのに。

「お前が普通の家庭、普通の子どもであればそれも許されただろう。だが、お前はラスタチカ家の跡取りであり、ヒルンドーの未来を担う人間だ。そんな時間は無い。足りないほどだ。これは、私の経験からきている。私だって完全じゃない。まだまだ至らぬことが多い。何度もっと学んでおかなかったのかと悔しい思いをしたかわからない。お前にはそんな思いをしてほしくないのだ」

 逆に親の思いという名のカウンターが飛んできた。この人、本当に娘のためを思ってるところが切り返し難いんだよな。娘を部品みたいに扱う親ならまだ反撃できるだろうが、真剣に娘の未来を思い、それでいて同じゴールに国の未来を当てはめている。両方のゴールを結び付けているから難しい。現に、場に漂う趨勢は大統領に傾きかけつつある。対戦相手のアイシャですら、その父親の思い、自分にかけてくれている期待を聞いて揺らぎつつある。畳みかけるように、大統領は緩急自在の論法を繰り出す。アイシャも何とか食い下がるが防戦一方で、KOされるのは時間の問題かと思われた。やはり一国の大統領相手に弁論で勝つのは無理だったか、諦めかけたその時

「友などただの慣れ合い、怠惰の温床だ。お前の人生には不要」

 その言葉が俺の逆鱗に触れた。劇とか人前とか、俺を抑え込んでいた枷が外れた。

「待てコラ」

 おそらく生まれて初めて他者に対して食ってかかった。怪訝な顔で大統領が俺を見る。

「何だ。引っ込んでいてくれないか」

「駄目だね。引っ込むわけにはいかない。今あんたは全国三千万のぼっちを敵に回した」

「「ぼっち?」」

 大統領、アイシャ、サヴァーが異口同音に首をかしげた。

「友達とか彼氏彼女が欲しくても出来ず、一人ぼっちで暗い青春を過ごした、もしくは現在進行形で過ごしている迷える子羊たちのことだ」

 かくいう俺が代表だ。

「友達なんかいらない? 何を贅沢なことぬかしてやがる。そのくだらない友達がどれだけ青春を彩ってくれるか。あんたは知ってるのか?

 一人で過ごす学生生活を。皆が騒いでる中自分の周りだけドーナツ化現象が起きている悲しさを。一人で誰もいない屋上、トイレ、体育館裏で食う弁当の味を。体育の時、遠足の時、修学旅行の時、班決めで絶対最後まで残る寂寥感を、そして、俺を割り振られた他の班のメンバーの外れをひいた感を隠すことのない冷たいまなざしをさあ!」

「ちょっと、リツ? リツさん?」

 袖をひかれるが気にしてなんかいられない。今、俺たちの人権がかかっているのだ。

「あんた、娘にそんな青春送らせる気か? それこそ娘のことを考えてないとしか思えない。つか、そもそもあんただって今そこに立つまでに、共に歩き、共に泣き、共に笑い、切磋琢磨し合った人間がいたはずだ。違うか?」

「・・・・言葉に語弊があったようだ。確かに君の言うとおり、私にも友はいる。苦難の日々を共に過ごし、私を支え、ここまで共に歩いてきてくれた人々がいる。そういう人種なら認めよう。だが、アイシャはまだ幼い。いくら知識を得ようと、良い人種悪い人種の区別がつかん。こればかりは時間と経験がものをいう。外に出して、そういった悪い人種に捕まれば問題だ。君のような、な」

 大統領が俺を睨み返した。

「俺が悪い人種というのは否定しねえ。だが、それを言うなら今のあんただって同じだ」

「何だと」

 表情を険しくした大統領が進み出る。負けじと俺も前に出た。お互い、拳を振り回せば当たる距離まで近づいて睨みあう。

「だってそうだろう。あんたは娘のためを思ってフィルターみたいに取捨選択しているつもりみたいだけど、そりゃ大きなお世話ってもんだ。だって、あんたの価値観と娘さんの価値観は全く違うもんだからだ。今あんたがやってるのは、自分二号を作ってるようなもんだ。あんたと同じ価値観、倫理、思考をもったクローン。なるほど、確かに優秀そうだ、が、きっとあんたを超えることは無え」

 人間を深く知るには良いも悪いも合わせていろんな人間と会い、経験を積むことで見る目を鍛えるもんじゃないのか。ある程度のフィルターは、まあ彼女の立場からすれば仕方無いだろうけど、だからこそ、今ある立場で間違えられない結婚などの選択肢、自分で見極めなければならないところを今のままでどうすんだって話。

「馬鹿なことを抜かすな! アイシャは自慢の娘だ。私以上の、いや、誰よりも才能に溢れている。このままきちんとした教育さえ受けていれば、かの鷹ヶ峰十六夜に匹敵する! 私の教育に問題は無い」

 きちんとってどこ基準よ。鼻で笑っちゃうねこの親馬鹿野郎が。

「そんなガッチガチの固定観念と自信はどっから来るんだよ。井の中の蛙ってのはあんたのこった。世間では緻密にして豪胆な政治方針で支持集めてるらしいけど、底が知れるね。大統領、国の未来は暗そうだぜ?」

 これが、大統領の逆鱗に触れたようだ。大統領が踏み込んできたと思ったら、左頬に拳がめり込んだ。殴られた、と理解したのは吹っ飛ぶ最中だ。痛みが来たのは倒れてから。

「貴様に、貴様みたいな何の苦労も知らず、のうのうと平和な国で育った若造に何がわかる。私がここまで来るのにどれほどの努力を積み重ね、どれほどの苦渋を味わってきたか」

 否定はしねえよ。平和な国で、のうのう、だらだらと喰っちゃ寝してきたことはな。あんたらが血反吐はきながら闘い続けてるときも、何の苦労もなくのんべんだらりと生きてたさ。でもな。

「そんなもん、知るかぁ!」

 こっちだってすでに怒り心頭中だ。殴られたまま黙ってやることなど出来ない。飛び起きて体当たりを敢行、大統領の腹にぶちかました。体格差はあるものの、アドレナリン全開中の俺にとっては些細な問題だった。脳のリミッターも外れたのかもしれない。火事場の馬鹿力を発揮して十センチ以上でかい大統領を組みついたまま持ち上げた。その勢いのまま上手投げで放り投げる。大統領がうめき声をあげ大の字に倒れた。その上にまたがってマウントポジションを取る。

「俺が言いたいのはなぁ、そんな苦労を何も知らねえ自分の娘に押し付けんのかってことだよ!」

 拳を振り下ろす。鈍い感触と共に、大統領の顔が弾け飛んだ。

「未来を背負って立つとか、耳触りのいい言葉並べてたけどさぁ。結局自分が終わらせ切れなかった宿題他人に丸投げしてるだけじゃねえか!」

「知った口を!」

 大統領が力任せに俺の体を掴み、横へ投げた。殴ったままの態勢で体重が掛けられなかった、その隙をつかれる形だ。

「政治のせの字もしらん者が良く言うのだ。どれだけ国民のことを考え、政策を打ち出そうと、目に見えて効果が無ければ何をやっているのか、余計なことに税金をかけるな、能無しと。我々は十年先、百年先を見て計画を立てている。目先のことしか見えない輩に文句を言われる筋合いはない!」

 睨み合いながら互いに立ちあがる。

「ラスタチカの人間は古くから国家を支えてきた。アイシャも同じ道を進むのが当然だ!」

 風切り音を立てて大統領の右ストレートが見舞われる。それをなんとかガードして

「誰にとっての当然だっつの!」

 がら空きのボディを狙い撃つ。が、読まれていた。大統領の左手がそれをいなし、そのまま肘で打つカウンター。右頬を打ち抜かれた。たまらずたたらを踏んで後退する。

「アイシャだってわかっているはずだ。ヒルンドーは嵐の海に浮かぶ小舟。いつ転覆してもおかしくないのだ。今、ここが正念場なのだ! 大国と渡り合うために、我々が礎とならねば国家の未来は無いのだ!」

 追撃のために大統領が前に出た。体重の乗った右ミドルを繰り出してくる。それを俺は脇で受けた。体の芯に響くような痛みを無視して、その足を掴む。そのまま全力をかけて捻り投げる。ドラゴンスクリューだ。そのまま足極めてホールド。

「たかだか一人二人の礎が無くて転覆しちまうような弱い国家なのか? あんたらの国の人間は、本当にあんたらがいない程度で呑みこまれちまうような、貧弱な奴らかよ!」

 関節技の痛みに苦しむ大統領が暴れ人の顔を空いた方の足で蹴りつける。こっちは両手で足を封じているため、ガードできない。力の入らないキックとはいえ、さすがに何発も耐えきれず、とうとう離してしまった。たじろいだ俺を大統領は蹴り飛ばして距離を取る。

「たとえ一人一人に力があったとしても、舵取りなしでは迷うだけだ! そしてその舵取りこそ我らの責務なのだ!」

 立ち上がる途中の態勢不十分なところに大統領のラッシュ。顔、腹、ところ構わず殴りつけてくる。骨身にしみる痛みだ。打たれるたびに後退するが、絶対倒れるかと踏ん張り続けた。大統領で、国民の期待と尊敬のまなざしを一身に受けて、ついてきてくれる仲間が大勢いるこんなリア充に絶対負けてたまるか!

「我らが背負わされた重責を、貴様ごときが軽々しく口にするな!」

 とどめとばかりに大統領が右ハイを繰り出した。

「!」

 大統領が驚愕に目を見開く。大統領の蹴りを、俺は背筋を酷使して大きくのけぞることで回避した。そこから姿勢を戻す反動を利用して、態勢が崩れ、隙だらけになった大統領の背後を取りがっしと腰に手を回す。

「義務、責務、重責ってなぁ」

「は、離せ!」

 これからされることに嫌な予感がしたのだろう、大統領が腕を振り回す。肘が当たるが、今度こそ離さない。

「親だったら、そんなややこしいもん子どもに残すんじゃねえ!」

 渾身のジャーマンスープレックスで、大統領を床マットに沈めた。完全にのびている大統領に吐き捨てる。

「情けない事言うなよな。男親なら、子どもの前ではカッコよくいようぜ」

 子どもの未来に大人が作った問題を残さないのが、親であり、それこそ大人の義務だと思う。それがあまりに困難だからといって、自分の代じゃ無理と諦めて、「これ任せた」といって子どもの選択肢を奪うなんて、やっぱり気に入らん。自分から望んでそういう世界に行くなら止めることは無いけど、何もわからない子どもに、この世界しかないなんて押し付けるのはカッコよろしくない。あらゆる可能性、世界を見せて、選択権を与えるだけで十分だ。後は子どもが何とかする。

 そこで、俺にも体力の限界が来た。節々の痛みに耐えかねてその場で蹲る。

「お父様!」

 アイシャが駆け寄ってきた。後ろからサヴァーたちも続く。

「お父様! 大丈夫?!」

 父親にすがりつくアイシャをどかせて、サヴァーが呼吸や脈拍を取るなどして触診する。

「大丈夫、気を失っているだけです。命に別条はありません」

 アイシャが安堵の吐息を漏らす。そして俺に向き直ると泣きながら怒りだした。

「何バカなことしてんの! いきなり殴り合い始めるなんて訳わかんない!」

「その割には止めずにずっと見てたのな」

「私はすぐに行こうとしたんだけど、サヴァーが止めたのよ」

 彼女のすぐ隣に控えるサヴァーを見上げる。

「あんたらの方が止めると思ったけど」

「中立、平等、公正な立場で、と貴方が頼んだのでしょう?」

 律義に守ってくれたようだ。でも大統領が殴られるのは、この人が言う『害を与える』に当てはまらないのだろうか?

「男がわかり合うためには、時に拳を交えることも必要だと、以前読んだ本で学びました」

 一体何を読んだのか、本屋の店員としては気になるところだ。

「それに、旦那様にとっては必要なことではないか、とも思いました」

 サヴァーの言葉にアイシャが「え?」と振り向く。

「旦那様は偉くなりすぎました。立場は大統領、また私どもの目から見ても優れていて、誰もこの方に意見出来るものなどいません。旦那様に間違いなどないと誰しもが思っているのです。旦那様も周囲のそういう目に気付いておられたので、どうしても間違った道を選択できなかった。この方もアイシャお嬢様と同じ、自分の優れた能力と周囲によって選択肢を狭められていたのです」

 俺たちの視線が横たわる大統領に向けられる。端正な顔に刻まれたしわは、彼が抱える苦難、悩みを体現するかのように深い。

「私たちも間違っていたように思います。全てを旦那様に任せっぱなしで、誰もが国が抱える問題を深く考えようとしなかった。それが旦那さまやお嬢様を追いつめた一因です。私たちも考えるべきだったのですね。同じ国に住む人間として、国の未来のことを」

 ううん、と大統領が身じろぎした。彼の目がゆっくりと開かれる。

「お父様」

 アイシャが飛び付いた。自分にすがりつく娘の頭を、彼は愛おしそうに撫でた。その時の表情は、さっきまでの険しいものとは違う、慈愛にあふれたものだった。大統領の仮面が外れて素のジェルド・ラスタチカがでてきているのだ。

「ここは、どこだ。確か私は」

 体を起こそうとして、生じた痛みに顔を歪めた。それをアイシャ、サヴァーが支える。

「この痛み、思い出してきたぞ。私はあの生意気な若造と」

 顔を上げた大統領と目があった。

「ど、ども」

 片手を上げて挨拶。ちょっと気まずい。アイシャに向けていた優しい表情から一転、眉間にしわを寄せた鬼の形相だ。

「貴様は、痛つつ」

「あんまり動かない方が良いですよ。俺も動こうとすると酷く痛むし」

「貴様のせいだろうが! 一国の大統領をスリーカウントホールドするなど前代未聞だ!」

「はて、俺がのしたのは、娘を迎えに来た頑固親父です。大統領など知りません」

 プイと明後日の方を向く。

「こ、このガキャ・・・」

「旦那様、あまりカッカしない方がよろしいかと」

「サヴァー! 君も何で娘とこんな奴の悪巧みに加担した! 君ならば娘を捕まえてくるくらい簡単だったはずだ! いや、そもそも君なら娘が逃げ出すのを防げたはずだ! わざと逃がしたんだろう!」

「その点につきましては誠に申し訳ございません。ただ、私もお嬢様のお世話役をさせていただき五年。表面上は普段通りふるまわれるお嬢様にも、悩みがあることを察知しておりました。僭越ながら、その悩みを解決する、これは良い機会かなと思った次第です」

「それが、くだらない計画に加担した理由か・・・」

「お父様」

 起き上った大統領の正面にアイシャが正座した。

「私は、これからもラスタチカ家に恥じないよう努力するわ。怠けることなくひたすら精進していくことを誓う。だからお願い」

「ふん、お前の我が侭を許可しろと?」

 ゆっくりと大統領が立ち上がる。

「帰るぞ。時間が惜しい」

「お父様! まだ話は」

「うるさい。私とて、テーマパークに来るのは初めてなのだ。一つくらいアトラクションに乗らねばもったいないだろうが!」

 どんな一喝だよと俺は苦笑した。

「いいか、私は視察でここに来ているのだ。けして娘を迎えにきたなどと言う私情ではない。わが国にもテーマパーク、国民の憂さを晴らすエンターテイメントが必要だ。常々導入しようと考えていたのだ。直に体感せねば、その良さがわからんだろうが。アイシャ!」

「は、はいっ」

「先に見学していたのだから、案内しなさい。どれがお勧めだ」

「ええと、絶叫コースター《傲慢》がお勧めです」

「わかった。行くぞ。それが有益か否かで、お前の提案を検討する」

「お父様、それって」

「勘違いするな。お前が今日一日好き勝手したことが本当に意味のあることなのかを証明してもらうだけだ。もし有益であれば、お前の我が侭も少しは役に立つと認めてやる」

 その親子の会話を、俺はニヤニヤしながら聞いていた。それって実質彼女の自由を認めてやるということじゃないか。素直じゃないな。

「おい。貴様」

 大統領が振り返った。

「何か?」

「その忌々しい笑みをひっこめろ。これは、断じて貴様が考えているようなものではない」

「了解です」

「それと、名前を聞いておこう。娘が曲がりなりにも世話になったのだ。礼の品を後で届けさせる」

「鬼灯律です。以後、お見知りおきを」

「ホオズキ、リツだな。覚えておく。だから、貴様も覚えておけ。次に会うのは徒卯卿ドームの特設リングの上だ。負けたままなど気が収まらん」

「バイトが休みであればいつでも。リベンジマッチ、受けて立ちます」

 ふん、と大統領は鼻を鳴らして、娘とメイド、護衛たちに連れられて出て言った。残ったのは俺一人だ。

「そろそろ、行くか」

 誰に訊かせるわけでもなく呟く。多分、これで俺の演技は終了。お後がよろしい時間帯だ。最初の控室に戻ることにする。着替え一式と財布と携帯を取りに行かなければ。

トワイライトキャッスルを出たところで、足を止める。出口に実行委員が待ち構えていたのだ。演技終了だから、迎えに来たのかと、そう思った。だが、彼らは硬い表情をして、無言で俺の両脇を固めた。

「え、何? 何なの」

「少々、御同行願います」

 有無を言わさぬ感じで、俺は強制連行された。連れていかれたのは参加者控室前だ。

「いや、別に強引にしなくても、戻ってくるところだったんですけど」

「いいから、中へお入りください」

 何なんだ一体。怪訝に思いつつも俺はドアノブを開ける。中にいたのは演技がすでに終了した他の参加者ではなく

「来たか」

「鷹ヶ峰、さん?」

 予選の時に会った、鷹ヶ峰十六夜その人だった。

「何でこんなところに? 徒卯卿に居たんじゃないんですか?」

 それとも、選手権のお偉いさんだから現場を視察する義務がある、とかだろうか。だが鷹ヶ峰は俺の質問に答えず「とにかく座れ」と椅子を指した。気の抜けた返事をして俺はパイプ椅子に腰かける。座った瞬間、また痛みがぶり返して顔をしかめる羽目になった。

「まずは、準々決勝、ご苦労だった」

 彼女は立ったまま、ねぎらいの言葉をくれた。

「はあ、どうも」

「しかしながら、君は少々問題を起こした。ゆえに、私に呼び出された」

 問題? 起こしただろうか。首をひねり、考えて、思い当たる。

「もしかして、他の俳優さんを殴ったことですか?」

 それしか考えられない。いやしかし、こっちだって本気で殴る蹴るの暴行を加えられている。この痛みは本物だ。失うものは何もないので、裁判なら受けて立つぞ。

「やはり、君は大きな勘違いをしているようだな」

 と鷹ヶ峰は言った。

「ところで、君はニュースを見るか?」

 突然話が変わった。戸惑いつつ「一応」と答える。

「では、ヒルンドー国という国を知っているか?」

 さっきも同じような質問をされた気がする。確か、スワロウ、アイシャにだ。もちろん知っている。さっきまでそういう設定のシナリオで演じていたのだから。

「君がジャーマンスープレックスを決めたのは、その国の大統領だ」

 ・・・・・・・・何と?

「い、いや、待ってください」

 しばらくの熟考時間を経て、何とかそう答えた。

「それ、あれですよね。俺が今まで演じてきたシナリオの設定の、大統領役の演者さんのことですよね」

「いいや、正真正銘、ヒルンドー国大統領、ジェルド・ラスタチカ氏だ。さっきまで私と交渉していたのだから間違いない」

 マジもんの大統領だったんすか? 劇じゃなかったのか? 確かにところどころ違和感がいくつかあったけど。

「な、何かの、冗談、ですよ、ね? ね?!」

「こんな冗談を言うために疲れている君を呼び出すわけが無かろう。だから私は問うたのだ。ヒルンドー国を知っているか、ニュースを見ているかと。見ていれば、彼が空港から降り立ったときの映像がニュースで流れたのを目にしたことがあるはずだ。頻繁に訪れてらっしゃるからな」

 他国の大統領の顔なんて覚えてるわけねえでしょうが。自国の首相だって怪しいのに。

「今日私は、彼とヒルンドー国のレアメタル採掘権についての交渉を行っていた。鷹ヶ峰もかの国のレアメタルを狙っていたからな。私はその交渉役だったのだ。

会談もそろそろ佳境かというその時、緊急連絡が彼に入った。彼の娘、アイシャ・ラスタチカが行方不明になったという連絡だった。私たちもすぐに捜索隊を編成して、捜索に乗り出してしばらく経った時だ。街頭の巨大なモニターに派架田で行われている準決勝の模様が映し出された。映っていたのは爆発炎上するタクシーからその娘を救い出した君の姿だ。その時の私の気持ちがわかるか?」

 今日はよくよく人の気持ちを聞かれる日だ。と現実逃避。

「生まれて初めて卒倒しかけたぞ。これでも大概の問題を経験し、乗り越えてきた私がだ。もしアイシャ嬢に何かあれば下手をすれば国際問題だ。今行っている採掘権の話だって無くなる。損害賠償などを含めて、損失は数千億、兆に届くだろう」

 今日の俺の行動って、国家予算クラスの損失と紙一重だったのか。あれ? そこから鑑みるに、サヴァーさんって本物のメイドで元傭兵なのか? その事実の方が俺には驚きだ。アドレスとか交換しておけばよかった。大統領以上に二度と会えないであろう希少人種との縁が断たれてしまった。

「我々実行委員はその時にすぐさま連絡を取って、競技の中止を君に伝えるべきだった。だが、爆発の影響か、君のイヤホンは故障してしまい、指示が届かない状況にあった」

 指示が一つもないのはおかしいなと思っていたけど、そんな理由があったのか。別に俺の演技が良かったわけじゃないんだとちょっとショック。

「我々はすぐさま大統領に報告した。同時に即競技を中止し保護するように動き出していた時に、大統領から待ったがかかった。すぐにでも連れて来いというのかと思いきや、彼は「もう少し、放置しておいてやってくれ」と言った。自分の部下があそこにいて護衛しているから問題ないとのことだったが、本当のところはどうだろうな。娘がアトラクションで歓声を上げるたび嬉しそうにしていたから」

 なんだよ大統領。とんだ親馬鹿じゃないか。じゃあ、映像越しにどういうふうになってるか知ってたんじゃないか。はじめから、娘のために動く気満々だったんじゃないか。

「何を笑っている」

 鷹ヶ峰の冷たい声で我に返った。

「君は事の重大さがわかっているのか? 一国の大統領をKOしたんだぞ? 外交と経済に多大な悪影響を及ぼすところだったんだ。そのことを理解しているのか?」

「そ、それはもう、重々承知しております」

 とにかく謝るしかない。けれど、一応弁解させてほしい。あの性質の悪い予選を経たんだぞ? 今回のだって何か裏があると思うじゃない。そもそも俺のスタート開始時間に偶然アイシャが現れることなんて神ならぬ人の身の俺にわかるはずがない。

「それで、俺は、どうなるんですか? 選手権失格ですか? まさか傷害罪とか、政治犯とかで逮捕、起訴のコンボですか?」

 それはまずい。悪夢再来だ。テレビと新聞の一面を飾る未来が簡単に想像できる。

 フラッシュの嵐、ほとんど暴力な取材、気がつけば罪状が増えている取り調べ、トラウマ級の過去をほじくり返される法廷。

終わった、間違いなく俺に人生ここで終わった。

 俺のことは良い。それよりもバイト先の大山書店だ。間違いなく世間からのバッシングに見舞われる。店長も、ヒナも、そのご家族もだ。それだけは何とか防がねば。

「あの、厚かましいお願いなんですが、鷹ヶ峰さんの力で、俺の周りの人々に迷惑をかけないよう取り計らってもらえませんか?」

 もともと彼女たち企画実行の選手権でもある。それくらいしてもらっても罰は当たらないはずだと開き直ってやる。すると鷹ヶ峰は苦笑して、「落ち着け」と手で制した。

「早まるな。そんな事実は無い。逮捕も起訴もない。安心しろ」

「じゃ、じゃあなんで呼び出したんですか。実行委員長に呼び出されたらそれくらい考えますよ」

「呼び出すさ。だって、結局君は、我々が用意した競技に参加してないじゃないか」

 あ。

「気付いたな。君はラスタチカ家の問題は解決したが、我々の選手権をほぼ放棄していたようなものだ。そこで、実行委員を招集して協議した。参加してないのだから失格にすべきか、大勢の視聴者が支持したのだから参加したとみなすべきか」

 そこで鷹ヶ峰は咳払いをして、一旦言葉を切った。ごくりと唾を呑みこみ、沙汰を待つ。

「結果は、参加を認める、だ。それと同時に、鬼灯律の準決勝進出が確定した」

「え、もう確定ですか? 他の方の演技は」

「とっくに全員終了している。君待ちだったんだ。君がここに連行されてくるあたりで結果が出た」

 ポケットからタッチパネル式のタブレットを取り出し、書かれている内容を読み上げる。

「総得票数一億票、内、君が獲得したのは約六千万票、審査員が持っている全六千ポイントの内、君は半分の三千ポイントを獲得してる。圧倒的大差だな」

「大統領ぶっ飛ばした男に投票するなんてどうかしてる」

「私もそう思う、が、彼らの気持ちがわからなくもない、というのも正直なところだ。君だって、政治家や私たち企業家、経営者に一言物申したいという時があるんじゃないか?」

「まあ、多少は」

「でも実際には出来ない。そもそも本気でそこまで出来る人間はいない。メリットが無いしな。そういう鬱憤を解消するためにドラマや映画などがある。一般人はそういうものを見て、自分と政治家たちを照らし合わせるのだ。その効果が表れたんだろう」

 でもこの人なら、気に入らないこと、道理の合わないこと、筋の通らないことが嫌いっぽいから、政治家の一人や二人ぶん殴ってるんでは、と邪推する。

「さすがの私もそこまではしないぞ。次の選挙に協力できかねると言ったことがあるだけだ」

「・・・あの、俺声に出してました?」

「いいや? だが私が政治家をぶん殴ったんじゃないかという目で見ていたものだから」

 うっかり変なこと考えられねえな。なにこの小さな新人類は。

「小さいのは遺伝だ。それにまだ成長している。失礼だぞ」

「・・・すいません」

 もう謝るしかない。この人の前では心を読まれないよう心を無にするしかない。

「とにかく、鬼灯律。準々決勝、勝ち抜きおめでとう」

 良かったな、と鷹ヶ峰が手を差し出してきた。俺はその手を握り返す。見た目は小さいが、弱々しいところなど一切なく、しっかりしていて何より温かい。活力が満ちているとはこういうことかと感じる。ボクシングや相撲など、格闘技とかで連戦連勝してノっている選手は体から気力が溢れ、近づくとポカポカしているという。彼女もまた、戦い、勝ち続けている戦士なのだ。

「あ、ということは、大統領たち、ヒルンドー国との交渉には影響しなかったんですね?」

「影響どころか」

 彼女は笑った。達成感に充ち溢れた生き生きとした表情だ。

「レアメタル採掘事業は我が鷹ヶ峰と契約を交わしたぞ。ついさっき連絡があった。《どの国の企業も魅力的な条件を提示してくれたが、月本国、鷹ヶ峰グループと提携することに決定した》だそうだ。日を改めて契約書を交わすことになる。今日は、少し忙しそうだからな」

 鷹ヶ峰は窓の外を見た。つられて俺も見る。夕焼け空の下、あの頑固な親子はつかの間の休息を楽しんでいるのだろうか。

「《全ての企業のプレゼンテーション内容は横並びだった。最後の決め手をくれたのは、あの忌々しいクソッタレの若造だ。他者を思う仁義の心、最善を考え正しい事を絞り出す智恵と恐れず実行に移す勇気を兼ね備えていた。娘のために、自分の身も省みず大統領たるこの私に挑む、あんな生意気な若造が育つ国と良き関係を結んでいたいものだ》と、大統領は仰っていた。ある意味お手柄だ。君のおかげで契約を取れたと言っても過言ではない」

 俺はそんな褒められるような人間ではない。自分が気に入らないからという自己都合だったのだ。嬉しそうな彼女の手前、その内情は墓まで持っていく所存だ。

「そう言っていただけると、ほっとします」

「本当だぞ。もしあれで大統領に何かあったり、機嫌を損ねておじゃんになっていたら、私は怒りのあまり君を消していたかもしれないな」

 鷹ヶ峰は笑顔だ。笑顔なのに、なぜこんなに背筋が凍るのか。つっ、と汗がこめかみからアゴのラインに沿って滴り落ちる。寒いのに汗をかくとはこれいかに。

「ははは、本当に、無茶をしてくれたな」

 ぎゅうぅっと彼女の手に力が込められる。イコール、俺の手が悲鳴を上げる。

「い、痛い、痛いです鷹ヶ峰さん! 指が、手がァ!」

「おっとすまない。その時のことを思い出してつい力が」

 ははは、と鷹ヶ峰は乾いた笑いを上げた。全く離してくれる気配がない。その間も俺の手は軋み音を立てて粉砕骨折一直線の軌跡をたどろうとしている。

 次の競技のために出発しなければならない時間になったところで、ようやく俺の手は鷹ヶ峰の圧手から逃れられた。握手ではない。断じてない。プレス機も驚きの握力だ。あのちっこい手からなんであんな力が出るのか訳がわからない。人体の神秘だ。

「これが次の行先だ」

 鷹ヶ峰が手渡してきたのは、豪華客船エデン号のチケットだった。まだ痛む手を軽く振りながら受け取る。

「船は午後九時に仮名河県世古濱へ向けて出港する。世古濱スカイタワーが決勝の舞台だ」

「決勝が世古濱、ってことは」

「察しの通り、準決勝が船で行われる。内容は、到着してからのお楽しみだ」

 どうせまたイカレた課題なんだろう。ちょっと慣れてきた自分が嫌だ。嘆いたって仕方ねえと開き直ってチケットを仕舞っていると「ふふ」と鷹ヶ峰が微笑んだ。

「何です」

「なに、一回戦のときは嫌々、渋々といった感じだったが、今は不満を漏らすことなく、それどころか次の競技に向けて意識を向けていると思ってな。男子三日会わざれば刮目して見よ、とはよく言ったものだが」

「やめてください。これはただ、逃げるのを諦めただけです。やけくそ精神が上手くいってるだけでしょうよ」

 彼女が何を言おうとしているか感じ取ったから、すかさず先手を打った。まだ彼女は、俺に才能があるなどというつもりだろうか。それだけは聞けないんだ。みじめになるから。

本物の才能、例えば目の前の鷹ヶ峰やアイシャのような天才を知ると嫌でもわかってしまう。自分はただの人で、ヒーローにはなれないってことに。

もちろん、彼女らが人並み以上の努力を積み重ねてきているのは想像に難くない。だからこそ今の彼女たちがある。天才などという言葉でひとくくりにされたら彼女たちに失礼だとはわかっている。それでも、持たざる者の僻みだ。嫉妬ってのはどうしようもなく、腹の底の方でどす黒く渦巻いてしまうんだ。嫉妬の対象が輝けば輝くほど、それは黒く黒く俺の中に影を落とすんだ。

彼女らのような人種を見るたび、俺のような普通以下の人間はその輝きに目が眩む。才能の塊たる鷹ヶ峰から才能があるなどと言われて信じられるはずもなく、彼女には悪いがウザいとしか言いようがない。さっさと切りあげてここから離れよう。

「時間なんで」

スマートフォンのディスプレイ画面を見ると、ぎりぎりの時間になっている。俺は鷹ヶ峰に挨拶して踵を返した。

「鬼灯」

 後ろで鷹ヶ峰が呼んだ。立ち止まり、顔だけ巡らせる。

「あらゆる分野の、最前線で活躍している人間に共通していることがある。何か解るか?」

「さあ? 無知なもんで。解りませんねぇさっぱり」

 さすがにイライラしてきて、わざと卑屈な態度を取った。だが鷹ヶ峰はさして気にするふうでもなくこう言った。

「『逃げられない』だ。前へ進む以外の道が全く失われるのだ。非常口すらなくなる。逃げ道のない一本道で問題という化け物と対峙するしかなくなる。がむしゃらに挑むしかなくなる」

 でも、一流の人は、才能のある人はそれを乗り切れるじゃないか。それだけの力があるじゃないか。俺に、そんなもんがあるとでも? 馬鹿馬鹿しい。

「非常口がなくて非情口しかないなんて、何て不親切な建築設計だ」

 馬鹿にしたように吐き捨てて、俺は歩を進めた。

「才能なんて言葉は、結果を出した人間に対して、結果を出せなかった人間が使う捨て台詞だ。ただの言葉でしかないんだ。ここではその結果が全てで、君は結果をだしてここまで来た。その事実にそろそろ気づけ」

 それでも鷹ヶ峰は俺に声をかけてくれた。ここまで気にかけてくれることを、感謝すべきなんだろうと思う。だが、どうしても信じられない。ならなぜ、俺はこんな人生を歩いてきたんだ。いまさら泣きごとを言っても変えられない過去から、俺の未来も過去とそう変わらないものだと予測が付いてしまう。

「決勝まで来い。鬼灯律。君自身が否定するその力で、道を切り開いてこい」

 風に乗って、鷹ヶ峰の言葉が届いた。聞こえなかったふりをした。

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