第五話
「最後は一気に端折ったね」
「聞かなくても何となく察せるから別に良いけれど」
うう、もうどうとでもして下さい。私はミリューネ様を愛しているので、もう愛を知ってしまったので、そういう事はその……えっと、まぁ……はい、一応距離をおきます。
「一体何人
「え……っと、校内校外合わせて4じ……聞かなかったことにして下さい」
私が馬鹿でした。はい、申し訳ございません。
「でも、誑かされる子も皆分かってたんでしょ? 皆に慕われてる誑しって聞いたけど」
実さんがそう言うので、私は頷いてみせました。勿論のこと、誰かを泣かせるつもりも無かったので、あくまでもその……そういう行為のみ、という前提で。私を好きになってしまいそう、という子もいましたが、慣れた物で、元のさっぱりした関係に戻ることも出来ました。まぁその話はミリューネ様がいる今となっては過去も良いところ、置いておきましょう。
「それで? 私と体を重ねたいかしら?」
「いえ、全然」
「え゛」
妙な声を上げたのは実さんです。思わずと言った様子で驚きを洩らした彼女は、慌てた様子で表情を取り繕いました。私とミリューネ様の視線を受けた彼女は、しばらく苦笑いを続けた後、ちらと私の顔を窺ってから気まずそうに口を開きます。
「いや、気に入った子は必ず食べちゃうって聞いてたから」
食べちゃうって言ってもバリネコらしいけど、と小さな声で付け加える実さん。その情報は要らなかったです。
「私じゃ不足かしら?」
尋ねるミリューネ様に、当然の如く首をぶんぶんと振ります。
「逆です、畏れ多くてとてもとても」
「一体どんな関係……」
物凄く微妙な顔をする実さん。「そ」、とそれだけ言って興味無さそうに横を向くミリューネ様。しばらく沈黙が続いた後、実さんがふと尋ねてきました。
「それじゃあ、私には抱かれたいと思う?」
「勿論です」
「………………」
にっこりと笑ってみせれば、実さんはほんのりと頬を染めました。ミリューネ様の気配がほんの少し棘を増した気がするのは、私の願望でしょうか。ともかくも、実さんは凄く可愛いですし、タチだそうですし、すでにそういう経験もあるみたいなので、私としては抱かれることに異論など唱えられようもありません。二人きりになったら前触れもなく唐突に、とかも凄く良いですね。察してくれると良いですけど。
「出会って一日で抱かれたいって、流石誑しね」
ぐさぁあっ!
クリティカルヒットしました。ふらっ、と体から力が抜け、腰掛けていた上質のベッドに意識ごと預けたくなります。棘のあるお言葉ががんがんと頭の中で木霊し、私の愚かさを一層知らしめました。そうですよね、あまりに節操が無さすぎます。ミリューネ様を思い出した今となってはその手の事を遠ざける……少なくともそのつもりだと先程自分に言い聞かせたばかりですのに、その矢先にこれです。
「あはは、美利ちゃん嫉妬してるね?」
「まさか」
実さんが言葉を発した瞬間に切って捨てるミリューネ様。またも心が抉られ、私は力の入らない体を無理矢理起こして、部屋の出口へと向かいました。
「ちょっと怜那、どこへ行くつもりなの?」
「お花を摘みに」
「え」
「嘘仰い、もしそうなら荷物はおいていきなさい」
今は、今はミリューネ様に顔向けなんて出来よう筈もありません。私は「申し訳ございません」と振り向かずに謝ると、部屋から飛び出して――勿論扉は静かに閉めましたが――いきました。すぐに扉が開いてミリューネ様と実さんの呼ぶ声が聞こえましたが、その声から逃げる様に自分の部屋に向かいます。
部屋に辿り着いた私は、飛び込んで鍵を掛けた上で部屋の在室表示を不在にしました。そしてすぐそこに置いて有った低反発枕で自分の頭を殴ります。ぼふぼふの枕は重量が有ってかなり痛いですが、勿論足りないくらいでした。
なんと愚かなことをしてしまったのでしょうか。
ただ、あそこで実さんに「はい」と言わないことは出来ませんでしたし、そのことに後悔があるわけでは有りませんが……しかし、抱かれたいかとの問いに肯くことと、その先を想像してうぇへへとなる……つまり現実に欲することは別です。私はあくまで質問に肯定の意を示せば良かっただけですのに、あの時の私はあわよくば一時を過ごしたいと考えていました。ミリューネ様がいるにも関わらず、です。
私はミリューネ様に相応しい人物にならなくてはいけません。そうじゃないと、あの方に仕えていることを私が許せなくなってしまいます……って!!
ぱっ、と起き上がり、汚い部屋を見直しました。そうです、まずは掃除をして心機一転するに限ります。
まだ開いていないダンボール、クローゼットにしまわれていない服、机の上に重なった教科書、まともに配置されていないごちゃごちゃした置物たち……。ミリューネ様のお部屋との違いに眩暈がしますが、そんな自分を叱咤して、手早く片付けを始めてしまうことにしました。
熊の置物はどうにも部屋では浮いてしまって、どうして持ってきてしまったんだろうと途方に暮れたのはまた別の話です。
――――――
夕飯も食べ、部屋でシャワーも浴びて、綺麗になった自室を眺め少しばかりの満足感とともに更に気を引き締めなくてはと自分に言い聞かせていると、コンコン、と部屋の戸がノックされる音が聞こえてきました。
びくっ、となりますが一先ず応対です。躊躇いがちにドアを開けると、けれどそこにいたのはミリューネ様ではありませんでした。見た事のない子で、背は私と同じくらいあります……ちなみに私は女子の平均よりも高いです。幾らとは言いませんが。髪は肩の少し上で梳いてあって、爽やかな印象を受けます。そして印象通りの爽やかな笑みを浮かべた彼女は、「黒羽怜那さん?」と尋ねてきました。
私は勿論戸惑いながらも、頷いてみせます。
「そんなに怯えないでも大丈夫。私は同じ一年の橋本
そう笑ってみせた彼女は、しばらく左右を見遣ってから、潜めた声で続けました。
「ね、今夜の予定ってもう入ってる?」
「……あー」
なるほど。そして少し驚きです。私はてっきり探さなくてはいけないものだと思っていましたが、存外有名になっていた様ですね。そしてどうしましょうか、勿論のこと、頷くわけにはいきません。いえ、その……昨日までの私なら頷くことも吝かでは無かったでしょうが、しかし例えどんなに可愛かろうがカッコ良かろうがテクが凄かろうが、ミリューネ様に敵う人はいないのです。なんて言うと失礼ですね、すみません。ともかくも、断るのは前提条件です。
「え、っと、私、そういうのはもう」
「……何で?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、私は「本当に好きな人が出来たんです」と若干の羞恥と共に答えました。橋本さんはそんな私の様子を見て「うぁっ」と顔を反らしましたが、しばらくして若干赤い顔で「えー、でも黒羽さんは完全にアレだけって聞いたけどなー」と尋ねてきます。ちょっと過去の自分をぶん殴りたくなりました。
「えぇ、そうだったんですけれど。……今はあの方だけを見ていたくて」
「うひゃっ……惚気るねー」
更に赤くなった顔で、「断ってるのにどんどんその気にさせるとか、真正の誑しだねホントに」と苦笑した橋本さんは、「オッケー、分かった。私もいつかそんな恋が出来ることを祈るよ」とそう言って下さって、真っ赤な顔のまま手を振っていきました。
……どんどんその気にさせてしまっていたんでしょうか。自分の言動を振り返っても別段妙な様子は無い様に思えるので、ひょっとすると無意識に態度で誘ってしまっていたのかもしれません。またも落ち込んでしまいました、が。
しかし、一つの誘惑を断ることができました、小さいですが確かな前進です。橋本さんも納得して下さいましたし、今度会ったときは良い友達になりましょう。
そうやってぼけっと扉を開けたままあれこれと考えていると、唐突にミリューネ様が目の前に現れました。
「っへええええええ!?」
「大袈裟よ」
化物でも見たような反応は止めて頂戴、と迷惑そうにいうミリューネ様に、慌てて口を塞ぎました。しかし、私の驚きは消えてくれません。一体いつの間に、というかどうして私の部屋が分かったのか、そしてミリューネ様にわざわざ足を運ばせてしまったのだという事実に、己の主の意向を例え伺わずとも察し得るべく行動してきた筈の私自身に腹が立って、一先ず引っ繰り返った声で「申し訳ございません」と言いました。
「謝る必要は無いわ。貴女の部屋を知らなくて貴女から会いに来てくれないなら、私から探して歩くしかないでしょう?」
「……申し訳ございません」
より深く頭を下げることしか出来ません。私が逃げる様に部屋を後にしたばっかりに、ミリューネ様に大変な御足労を強いたようです。私が地面を見つめて悔いていると、少しばかり怒ったような「頭を上げなさい」との声が降ってきました。勿論の事、その言葉を聞いて俯いたままでいられる程図太い神経は持ち合わせていません。
恐る恐る顔を上げると、不機嫌な表情で唇を尖らせたミリューネ様が「そんなに謝られると私が心が狭い人間と言っているみたいじゃない」と言いました。勿論海より深く反省しましたが、すんでのところで三度目の謝罪を口にせずに留めます。「心に刻みこんでおきます」と真面目な顔でそう言うと、どうしてかミリューネ様はおかしそうに笑い出しました。
しばらく笑ったミリューネ様は、不機嫌な気配などどこかへ消し去り、とてもお美しい表情で私に微笑んで下さります。それだけで私の人生は報われたものと言いたくなる笑みですね、これはヤバい。
「入っても良いかしら? 内密な話なの」
「勿論です!」
掃除を手早く済ませてしまって良かったです。
ミリューネ様を丁重に持て成すべく部屋中の点検を秒速で終えた私は、そのお手を静かに拝借し、緩やかに室内へとご案内しました。
「随分手慣れた先導ね」
「えっ……あ、っ……あ、あはは」
ついいつものクセでやってしまいました。というのも、私が女の子を招き入れる時には必ず、今のように手を取って迎え入れていたからです。そして女の子を招き入れるということはそういう事であって、そして勿論今の状況とは全然違うのですが、悲しいかな、連想が働いた私の頭は、ミリューネ様が相手だというのに沸騰し、顔を紅潮させ、手を汗ばませてしまいました。
「……顔が赤いわね。ひょっとして、いかがわしいことでも考えたのかしら?」
「っそんなことは!!」
ミリューネ様のために私の一番のお気に入りのクッションを用意し、それをベッドの上に丁寧に敷くと、私の為の座布団をベッドの前の床に敷きます。ミリューネ様の言葉に簡単に裏返ってしまった自分の喉を恨みながら、膝を折り曲げ居住まいを正し、ベッドに腰掛けたミリューネ様と相対するように正座しました。
「否定の仕方が怪しいわね。というか、喋り辛いから隣に座りなさい」
「全然怪しくないですよ! はい、隣ですね、分かりました!!」
誤魔化し倒しましょう。自分でも下手な嘘を自覚しながら、ミリューネ様と人一人分の距離を開けて座布団を敷き、そこに腰掛けます。すぐ隣に座ってしまえば私が押し倒されるいつもの……というか良くある、が正しいですが……構図になってしまうので、距離を開けて理性を保とうと――。
「隣っていったでしょう?」
「っ……は、はい!」
保とうとした途端に、ミリューネ様が距離を詰めてきます。カチコチになった私を見て、ミリューネ様はやけに嬉しそうな顔で「あらあら、意外と初心な誑しさんね」と言いました。
「わ、私はそんなつもりでは」
「ふふ、もっとくっついてみる?」
「! いえ! 結構です!!」
ぶんぶんと首を振ります。理性が飛んでしまえば、誘いを掛けてしまいそうで怖いです。ひょっとするとさっきの橋本さんの時のように無意識で誘っているのかもしれませんが、とにかくもこれ以上やられると色々不味い事態になりそうなので、私は蚊の鳴く様な声で「許してください……」と言うしかありませんでした。最早何故許しを乞うているのかは分かりません。
というか先程そういう事を後悔したばかりなのに、あろうことかミリューネ様本人に理性を飛ばしそうになっているとは一体どうしたことでしょうか。畏れ多いミリューネ様。その気高いお体に私が触れるなど到底出来よう筈もありませんが、もしもミリューネ様から誘って下さるなら……ミリューネ様は私をネコだと知っていて、するとひょっとするとそういう事も……?ってああぁダメです、こんな考えばかり膨らませるからいつまで経っても私はってにゃあああああああ!!
「にゃななあな、何をっ!?」
「あら、目覚めのキスよ。ぼーっとしている様だったから」
もうダメです。理性は吹き飛びました。私は頬に残る柔らかい感触を確かめながら、自然に――本当に自然に、ミリューネ様へと身を寄せました。
「わ、私を誘惑したら、知りませんよ?」
恐る恐るそう言うと。
「……何を言っているの? 話が有るって言ったでしょう、ちゃんと真面目に聞きなさいな」
物凄く意地悪な表情のミリューネ様は、間違いなくわざとやっています。私は高鳴る胸を必死に鎮め、不規則な呼吸を努めて抑え、その他色々を頭から消し飛ばしてしまうように念じました。
「それで……貴方の中では、私はどういう存在なのかしら?」
「…………へ?」
ミリューネ様の言った意味が分からずに、私は間抜けに聞き返してしまいます。ミリューネ様は恥ずかしそうに咳払いすると、「だから、」と先程の言葉をもう一度繰り返しました。その頬が赤く染まっていてもう色々ヤバいです。とにかくも、そういうことなら勿論答えは決まっています。
「私の全てです。一番大切な方です」
「っ……そ、そう、分かったわ」
向こうを向いたミリューネ様は耳まで赤くて、これはひょっとして食べてしまっても怒られないのではという恐ろしい考えまで浮かんでしまう程でした。いえ私ネコなんですけど、しかし同じネコの子にもその気にさせてまぁごにょごにょして貰ったりもしたので、それほどまでの誘惑なら食べてると表現して差し支え無い気がします。
「それはそれで良いのだけれど」
ところがミリューネ様は、次の瞬間にはいつもの雰囲気を取り戻していて、紅潮した頬の赤みも一瞬で引いてしまいました。その様子に正気を取り戻し、慌てて首をぶんぶんと振って雑念を払います。真剣な表情になったミリューネ様は、その深く包んでしまう闇色の瞳で私の目を吸い込んでしまいました。
「貴女は、私と一緒に戻ってくれるかしら?」
「勿論です」
即答します。ミリューネ様にあの目で見られたら、もう本音で答える以外に方法はありません。嘘なんてすぐに見透かされる目ですから、私は心の底からの本心を返しました。
「……貴女は惜しくは無いの? ここでの人生が」
「えっと……惜しいと言えば惜しいですが、けれどミリューネ様がいてこその私ですから、私がファレイナである限りどこまでも付き纏います」
「それは嫌な宣言ね」
ただのストーカーじゃない、と苦笑を洩らすミリューネ様のお顔を見ながら、私はなるほどと納得していました。
私は今までの人生をそれなりに楽しんできました。まぁ楽しみ方が少々ずれてはいましたが、しかし私に合った方法であったことは間違いなく、今までの黒羽怜那としての人生を大切に思っているのは本当です。
私の話を聞いたミリューネ様も、きっとそれを感じ取ったのでしょう。そしてひょっとすると、私がミリューネ様とフォエラに戻るという選択肢でなく、こちらの世界で生き続けるという選択肢を取り得ると考えたのかも知れません。そのために私の発言に怒り、そして私の真意を確かめたと言うのなら納得出来ます。
「安心して下さい、ミリューネ様。私はいつまでもミリューネ様の忠実な
「……言っておくけれど、後ろからついて回るくらいなら隣を歩きなさいよ?」
「肝に銘じておきます」
私が真剣な顔で頷いてみせると、何だか呆れた表情で微笑まれてしまいました。
――――――
「それで、本題なのだけれど」
空気がまた一変し、ミリューネ様は再び前を向きました。
本題……先程までの話が違うようなので、この状況ならば、あの魅了を使った者、或いはフォエラに戻る方法でしょう。
ところが、ミリューネ様が続けた言葉は全く違う物でした。
「二年生の代表挨拶をしていた、篠崎先輩って覚えてるかしら?」
「あぁ!?」
「えっ」
「……すみません本当にすみません」
つい条件反射で息を荒げてしまいました。というかどうしてミリューネ様の口からその名前が出てくるんですか! さてはあの時に何か吹き込まれたのか? すれ違いざまに何て卑怯な男……今度会ったらただじゃ
「っにゃああああああああ」
「ぼーっとしたら駄目でしょう?」
キスされたくてわざとやってるのかしら? と楽しそうに笑うミリューネ様に真っ赤な顔を向けながら、私はけれど険しくなる目を止められませんでした。
「ミリューネ様……あの野郎に何かされたんですか?」
「え?」
「私見てました! あいつ、擦れ違いざまにミリューネ様に何か言いましたよね? どうしてあのような凡俗の輩に会釈をしてやったのですか!? ミリューネ様の笑顔を頂くという権利があんな野郎に有ったのですか!? ひょっとして、何か弱みを握られててああせざるを得なかったんですか!? それともあいつを鼻で笑ってやっただけですか!? ミリュー――むぐっ」
「――――――!!」
頭が沸騰しました。目出度く理性は吹き飛びました。何か喚いていた気はしますが、そんなことはもう既に時空の彼方へ姿を消しました。私は今人生初の楽園にいると思います。今まで誰も到達したことの無い様な域の幸せを味わい、どうしようもなく私の思考はストッ
「―-っ、本当に、キスされたくてわざとやってるのかしら?」
淫らにも唇から糸を引いたミリューネ様が、妖艶に微笑んでいます。いえその、多分先程の様に意地悪く微笑んでいるだけなのですが、理性が飛んだ私の目にはどう見たって促されている様にしか見えません。私が掠れた声で「は、い」と頷くと、ミリューネ様はあんぐりと口を開きました。
「ちょ、ちょっと、ファレイナ?」
「キス、されたくて。悪い子でごめんなさい」
「えっ!? お、落ち着きなさい」
「私、でもその、それでもミリューネ様にキスされたいんです」
「……はぁ」
悩ましげな溜め息を吐いたミリューネ様は、私の全身を視線でさっと一舐めし、それから艶のある澄んだ声でこう言いました。
「眠りなさい、そして落ち着いたらまた目覚めなさい」
その言葉を最後に、あぁこの世界でこの姿でもミリューネ様はそのお力を使えるんだな、と思いながら、私は悩ましく前足で空を掻いて眠りに落ちました。
――――――
とっ……
潜められた扉の閉まる音で、私は目を覚まします。辺りは暗く、目を凝らせばどうやら自分の部屋の様でした。一体何時でしょうか、掃除の途中に眠ってしまったのかも知れません。うーんとか言いながら伸びをした途端に、一発で目を覚ますお声が耳に飛び込んできました。
「あら、起こしてしまったかしら」
ごめんなさいね、と微笑むミリューネ様のお顔を見て、先程までの自分が思い起こされて。
「……ちょっとファレイナ、一体何をしているの?」
「お顔を合わせられません」
「ベッドの下に潜られたら落ち着いて話も出来ないでしょう」
「お顔を合わせられません」
「……ねぇファレイナ、あれは私がふざけ過ぎたのもいけないわ。貴女がそうだって知ってるのにあれだけからかったのは私だもの」
ミリューネ様はそう言って下さいますが、ただ単にふざけただけのことにああも反応してしまった己が情けなく、またミリューネ様にどう謝罪して良いか分からずに、私はベッドの下の奥の方で体を丸めていました。
そうしていると、溜息一つの後にパチン、と軽快な音で部屋の電気が点灯し、明るくなったベッドの外でミリューネ様が屈むのが見えました。
「ああそう、貴女がそこから動かないなら私もそこに潜るわ」
「えっ……ちょっと待って下さい今出まふっっあだ!?」
慌てて動いた瞬間に脳天を横木にぶつけ、それでも慌ててベッドの下から這いずり出ました。申し訳無さで顔を上げられないまま「ミリューネ様、ベッドの上でお話ししましょう」と言った声は痛さで涙声になっています。
「……ホラー映画みたいな這いずり方だったわよ」
若干引いた声に「う゛っ」となりながらも、何とかミリューネ様の隣に腰掛けました。
「全く、貴女の過ぎた態度はいっそ不快よ、もっと気楽に接してちょうだい」
「……申し訳ありません」
不機嫌そうなミリューネ様に何も言えずに、一層顔を俯かせます。すると、私の首がぐいと持ち上げられ「だから気楽に接してちょうだい」というミリューネ様と目が合いました。その下の唇をふと見てしまって、またも顔に熱が集まります。
「は、はいっ!」
弾かれる様に返事をして前を向くと、横から溜め息が聞こえ、それからミリューネ様が少しだけ息を吸いました。
「……どこまで話したかしらね?」
「えっと……あの野郎に話し掛けられたとこ」
「篠崎先輩でしょう」
「……あいつに」
「篠崎先輩」
「…………嫌です」
「…………どうして」
どうしてもこうしても、私はあいつを好きになれそうにないからです、とは流石に言えずに、私は「いやいや」と首を振りました。丸きり子供です。ミリューネ様はどうにも諦めてくれたようで、「まぁ良いわ、そのうちきちんと呼びなさいよ」と言うと、話を続けます。
「そう、篠崎先輩にあの時声を掛けられたのだけれど、生徒会に誘われたのよ」
「断りましょう」
「……貴女ねえ」
深―い溜め息が聞こえてきて、私はハッとしました。ミリューネ様の意志に自分の感情を介入させようとするなど愚の骨頂です。「申し訳ありません、つい勢いで」と慌てて謝ると、ぽす、と小さな力で頭をはたかれます。
「疲れるから今ので最後にしてね。とにかく、舞台上では短く挨拶を褒められて、生徒会も宜しくと言われただけだったんだけれど」
集会の後、先輩に少し捕まったのよ。
その言葉に殺意が沸きました。まさか、この世に自らの都合でミリューネ様の大切なお時間を浪費させる愚か者がいたとは。これはもう許す訳にはいきませんね、見掛けたらぶん殴ってやりましょう。しかしミリューネ様の前でそんな気配をおくびにも出してしまえばまた怒られるので、何も無いフリをして話を聞きました。
「その時に一番初めに言われたのが、『絵衣には何も感じなかった?』だったの。最初は二年生の先輩が三年生の先輩を呼び捨てにしているとは思わなくて、誰のことを言ってるか分からなかったけど……まぁ状況から察するにあの人しかいないわよね」
勿論首を振ったけど、と言ったミリューネ様に自らの力の無さを恥じ、唇を噛みます。不意打ちとは言え、あんなに大勢を対象にした魅了に掛かってしまったとは……物凄く悔しいです。ともかくも、ミリューネ様は話を続けました。
「私が否定したら篠崎先輩は驚いたみたいだけど、すぐに『生徒会へ入りたいかい?』って聞いてきた」
もう少し考えます、と言ったらしいミリューネ様は、すぐに疑問を抱くことになりました。どうして、篠崎先輩は生徒会の質問よりも優先して井上先輩について尋ねたのか。呼び捨ての件もあるし、気になると。そこで、私へとお話が有るようです。
「私は生徒会に入ろうと思うけれど、ひょっとすると貴女も付いてくるかも知れないじゃない?」
「勿論です」
ミリューネ様が得体の知れない卑怯な男の元に単身乗り込むなんて悪夢は見たくありません。私が御傍についてあの野郎を牽制しなくては。ところが、決意を固めた途端にミリューネ様が首を振りました。
「駄目よ、貴女まで同じ場所にいては調べる手が少なくなってしまうでしょう?」
「調べる手?」
一体何を、と言おうとしたところで気が付きました。ミリューネ様が部屋に来て初めに確認したこと……即ち、また戻りたいかどうか。私ははいと答えましたが、しかし如何せん方法が分かりません。恐らくそのことでしょう。
「残念ながら、強力な魔法は使えないみたいだわ。空間に対しても、天候に対しても、まして異世界に飛ぶなんて真似も出来ないわ」
どうやら試したようで、ミリューネ様はそう言いました。部屋に懐かしいミリューネ様の魔力香が残っているので、多分私が眠っている間にでも色々使ったのでしょう。
「人に対しては魔法が使えるけれど、でもそれだけじゃ魔法陣を生成する……それも、フォエラに帰るための魔法陣を作成するなんて、とてもじゃないけれど無理ね」
「そんな……」
ミリューネ様に無理なことが、私に出来るわけないです。つまりはここで、自力で帰るという方法は絶たれたようです。
「でもひょっとすると、この世界では少し違った方法で魔法陣を描いたりするのかもしれない。或いは、全然別の魔法陣で世界を渡ったり、魔法とは別の方法でフォエラに帰れるかもしれないわ」
そう言うミリューネ様の言葉にはっとしました。オカルト研究会に入ると言っていたあいつ……名前は残念ながら記憶の彼方へと消え去ってしまいましたが、ともかくもそういう存在でフォエラに戻る方法を模索しなくてはいけないかも、と考えた事を思い出します。
「そして、井上先輩がその希望の鍵の一つを握っているかもしれない。……少なくとも、あのレベルの魅了を使える時点でまともじゃないことは確かだわ」
「……そのために生徒会へ入るんですね」
「そう。……そして貴女には、別の場所で調べて欲しいの」
私は納得して頷きました。断じてミリューネ様があの野郎の元に行く事に納得したわけではありません! ただ単に、私が他でフォエラに戻る方法を探すことに同意しただけです。
「貴女も一つくらい聞いたことが有るんじゃないかしら? この学校には、幽霊の噂や怪談話の類が驚く程多いのだけれど」
「……具体的なのはまだですが、そういう話が多いということは今日聞きました」
まさにイケメン君が言っていたことです。満月が好きとか抜かしやがったので到底好感は持てませんが、しかし私の予測通り、関わる羽目になってしまったようです。
「その手の噂の殆どが実際にこの学校で起こっていることで、それを解決しているのがオカルト研究会だそうよ」
それも噂だけれどね――。
そう言って微笑むミリューネ様。
私の入部先は決定したようです。
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