第9話
亜希子と別れて家に帰ってから、夕飯を食べる気になれなくて、自分の部屋に閉じこもっていた。携帯を手にとったり、枕元に置いたりしては、窓の外をぼんやり眺めて。
昼間、亜希子と一緒に歩いて、ときどきお店をひやかしながら、ずっといおうと思って、いえなかった言葉があった。自分の勇気のなさに、腹が立つ。
窓から入ってくる風は、生ぬるくべたついていて、だけどエアコンをつける気にもなれなかった。ベッドに転がって、天井をぼんやりと見つめる。気温は蒸し暑いくらいなのに、LEDの冴え冴えとした明かりが、寒々しかった。
――あんたも大変ね。
姉がいったひとことは、あたしの胸の深いところに、いまもとげになって刺さっている。
普段はほとんど忘れている。忘れようとしている。だけど、ふとした瞬間によみがえって、じくじく痛む。
亜希子のことが好きだ。その自分の気持ちに、嘘はないって思う。
だけどときどき、姉の言葉が耳の奥に木霊する。
中一の夏、亜希子といっしょに、はじめて隣の市まで買い物に出かけた。バスにのって子どもだけで、っていうのは、もしかしたらその日が初めてだったかもしれない。普段のちょっとした買い物なんかは、たいてい家の近所で間に合っていたから。
待ち合わせ場所のバス停で、先について待っていた亜希子は、いつものように、半袖のTシャツを着て、なんでもないような顔でそこにいた。それは、あたしには見慣れた姿だったけれど、ひとつだけ、いつもとちがうことがあった。
道を歩いている人たちが、振り返って、亜希子をじろじろと見る。それは、半分くらいは亜希子の腕を覆う、薄紫の鱗のせいで、そして残りの半分は、亜希子がきれいだからだったと思う。
亜希子を振り返った人たちは、横を歩くあたしまで、ちらっと見る。その人たちが、何か噂をしているのが見えたけれど、その言葉の中身まで、耳に入ってきたわけではなかった。
――あんた、比べられちゃうんじゃない。
あのとき、あの姉の言葉さえ、あたしが思い出さなかったら。
最初、毅然と胸を張って歩いていた亜希子は、うつむきがちに歩くあたしを見て、顔色を変えた。
罪悪感に打ちひしがれたような、あのときの亜希子の表情は、工藤に鱗のことでいじめられたときの顔と同じくらい、はっきりあたしの記憶に焼きついて、いまも離れない。
亜希子は最初に入ったお店で、黙って長袖のシャツを買うと、さっさと羽織ってしまった。みんな半袖を着ている、暑い日だったのに。それを見て、あたしは亜希子の誤解に気がついた。
ごめん、ちがうのって、その場でさらっといってしまえばよかった。あたしが恥ずかしかったのは、亜希子がレピシスだからじゃないって。だけど、あたしの口は、どうしても開かなかった。
――建物の中は、クーラー強いね。半袖じゃちょっと寒いわ。
亜希子はわざと明るい口調でそういって、それからちょっと早口に、いろんな話をした。学校のこと、弟の悠晴君のこと、読んだ本のこと。歩きながらの会話は、どれも他愛のない話ばっかりで、あたしが謝ろうとするのを遮るように、亜希子はいろんな話を次々に持ち出した。
あれから亜希子は、二人で出かけるときには、いつも長袖の服を着ている。
そしてあたしはいまだに、亜希子に謝れないでいる。今日もそうだった。いつものように、長袖で現れた亜希子に、今日こそはちゃんと話そうって、そう思ったのに。
自分が情けなくて、泣きたくなる。あたしにも、亜希子みたいな強さがあったら。人と比べられたって、そんなの知ったことじゃないって、あたしはあたしだって、そんなふうに思える強さがあれば。
手の中の携帯を、じっと見つめる。亜希子の番号を呼び出して、発信しようとしては、ためらう。いつもそうだ。やっぱり、明日会ったときにいおう。次に出かけるときにしよう。そうやって、ずるずると先延ばしにしてしまった。だけど、いつまでもこのままでいいはずがなかった。
窓の外を、車が通り過ぎていく。夕飯を食べなかったのを心配しているのか、たぶん母さんが、二階に上がってきて、ためらって降りていくような足音がした。母娘ですることが一緒だ。そう思って、ちょっと笑った。
携帯を握り締めて、深呼吸をした。
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