第8話
試験の終わった次の日曜日は、よく晴れた。ちょっと晴れすぎだろうというくらいに。
強烈な日射しがじりじりと肌をやく。アスファルトから立ち上る陽炎が、むせかえるような熱気を持っている。待ち合わせを、バス停じゃなくて屋内にすればよかったと思いながら、次々にやってくるバスを目で追っていた。
「ごめん! 待った?」
紗枝がバスを降りてきたのは、ほとんど時間ぴったりだった。なにも謝ることなんてないのに、紗枝は申し訳なさそうな顔をする。
「ぜんぜん。なに買うの?」
「ほしいスカートがあるんだ。亜希子は何か、買うものある?」
「あとでCD見たいかな」
おっけー。はしゃいだ調子の紗枝と並んで、歩き出す。気温は高い。着てきた長袖のシャツが、うっとうしかった。道行く人々は、もうほとんど半袖かタンクトップになっている。
普段なら、どこにだって半袖ででかけていく。家の近所なら、もうあたしがそうだっていうのは有名だし、慣れている。街に出てくるときには、さすがに目立つけれど、気にしない。気にならないわけじゃないけど、でも、気にしない。ひとりだったら。
だけど去年の夏、初めて紗枝と二人でこの辺まで出てきたとき、通りを歩き出したあたしは、半袖の服を選んだことを、すぐに後悔した。
人が振り返って、あたしの腕と顔を見る。中には、隣を歩く紗枝の腕まで目で追っていくやつもいる。ひそひそ声が耳に入るたびに、自分のことをいっているんじゃないかって思えるけれど、そういうのを意識して聞き流すことに、あたしは慣れていた。だけど、紗枝はちがう。
自分がいやな思いをしても平気だからって、それを紗枝にまで押しつけるのは、望みじゃなかった。だからそれ以来、一緒に出歩くときは、長袖を着ることにしている。
「あっ、あれ可愛い! ちょっと見ていっていい?」
紗枝がセールのTシャツに目を留めて、顔を輝かせた。
「いいけど、お金足りるの?」
「ちょっと見るだけ、安いかもだし」
もう夢中になっている。笑って後についていきながら、目がほとんど無意識に、紗枝の二の腕を追っていた。紗枝は色がとても白くて、きれいな肌をしている。
あたしはショーウインドウを見て、ぎくっとした。ガラスに映りこんだあたしは、羨ましいというような顔をしていた。
紗枝と別れて、帰りのバスで、後ろのほうの席に座っていた。ぼんやりと窓の外を眺めていると、ちょうどバスが、学校の前を通りかかった。もう日は暮れかかって、外はうす暗い。
バスが止まり、ぷしゅうと気の抜けるような音がして、ドアが開く。誰か乗り込んでくる。知った顔がいるだろうかと、何気なく乗降口を見た。
久慈がいた。
「霧生」
話しかけてきた久慈は、学校指定のスポーツバッグを持っている。部活帰りなのだろうけれど、それにしては、一人だけのようだった。
「なに、あんた、友達いないの?」
そんなわけがないのを承知でそういうと、久慈はいやそうな顔をした。
「自主練だよ」
「あ、そう。えらいね」
適当にいうと、久慈はむすっと唇を曲げた。
そのまま前のほうの席にいくかと思ったけれど、久慈はどういうつもりか、近くに立った。この暑い中でさんざん走ってきただけのことはあって、汗臭い。
何か話でもあるんだろうか。もしかして、隆太のことかもしれない。そう思って見上げると、久慈は何かいいたそうな、いうのを迷うような、そんな顔をしていた。
「なに」
つい痺れをきらして訊くと、久慈は顎を引いて、小声でいった。
「なんで、今日は長袖」
不意をつかれて、ぐっと詰まった。
久慈はじっと、あたしの腕を見下ろしている。その視線がいたたまれなかった。
いつも、鱗のことなんてひとことも口にしないくせに、なんで今日に限って、そんなこと訊くんだろう。いま、いちばん触れてほしくなかったことだ。
腹が立った。無視しようかとも思った。それとも、適当な答えを返すか……。
うわべだけで接してくる連中には、こっちもうわべで答えればいい。だけど、久慈はどうだろう。
たぶん、ちがう。昔から、真面目なやつだから。
だけど、本当のことをいうのもいやだった。久慈はじっと黙りこんで、あたしが答えるのを待っている。
「長袖だと、なんか悪い?」
とっさにつっけんどんな声がでて、いうなり自分に嫌気がさした。だけど久慈は、そんな態度にはぜんぜんひるまないで、しばらくじっと、あたしの長袖を見下ろしていた。それから、呟くようにいった。
「負けんなよ」
それはどこか、もどかしいような声だった。
あんたには、関係ないじゃない。そういおうとして、どうしてだか、いえなかった。あたしが何も答えられずにいると、久慈は、言葉を足した。
「つまんないやつらのいうことになんか、負けんな」
とっさにうつむいて、唇をかみ締めた。
なんなんだろう、こいつ。
反論する言葉をさがそうとして、そのどれもが、ひどくいいわけがましいような気がして、何度も飲み込んだ。
何がそんなに悔しいのか、自分でもうまくいえないけれど、とにかく、やけに悔しかった。言葉が、頭の中をぐるぐる回る。人の気も知らないで、勝手なこといわないでよ。あんたにはわかんないよ。だってあんたは、ちがうじゃない。
だけど、実際に口をついて出たのは、ぜんぜんちがう言葉だった。
「あたしだって、一人で出かけるんだったら、長袖なんて」
途中で、はっとした。慌てて口をつぐむ。
いま、あたしは誰を責めようとした?
うつむいたまま動揺していると、少しして、あたしの膝に落ちる影が、揺れた。久慈が頭を下げたんだと、その動きでわかった。
「ごめん」
顔を上げられなくて、久慈がどんな顔をしているのか、わからない。
バスが着くまでのあいだ、久慈はじっと黙ったまま、そこに立っていた。何度か、何かいいたそうな気配を感じたけれど、結局、それから降りるまで、ひとことも口をきかなかった。
久慈と、降りるバス停は同じだけれど、そこからは反対方向だ。背を向けて歩き出すまで、かろうじて泣かないですんだことにほっとしながら、あたしは家に向かった。
日は落ちてしまっている。昼の、目が痛いほど明るく、蝉の喧しい道路とは、まるで別の道のようだったけれど、熱気のなごりは残っていた。
自己嫌悪が、胸の中をぐるぐるしていた。いいかけた言葉の続きが、喉の奥をしめつける。あたしだって。あたしだって紗枝と一緒じゃなかったら、他人の目なんて……。そんなふうに思う自分が信じられなかった。
紗枝はいいやつだ。あたしが悪くいわれると、紗枝は自分のことみたいに傷つく。あたしが笑われたり、ひそひそ話されたりしたら、自分がそうされたみたいに、辛い顔をする。あたしが馬鹿にされたら、自分が馬鹿にされたときよりも、よっぽど怒る。それがあたしは、いつも嬉しくて、ほんとに嬉しくて。
だけど、紗枝が怒ったり、うつむいたりするのを見るたびに、それが嬉しいって、ありがとうって思う気持ちの片隅の、端っこのほうのどっかで、あたしは……
あたしのこれは、やっぱり恥ずかしいのかなって。
紗枝は、あたしといると恥ずかしいのかなって、そんなつまんないことを、気持ちのどっかで考えてしまう。
あたしがもっと折れて、手足も隠して、クラスのみんなに合わせる努力をして、うまく溶け込んでいたら。そしたら紗枝は、あんな顔、しなくてすむはずなのに。あたしが強情なせいで、紗枝にまで恥ずかしい思いをさせてるんじゃないかって。
あたしはときどき、それがしんどくて。気持ちの中のどっかで、ほんの少し、あたしは紗枝のことが。
ちがう。そうじゃない。わかってる。悪いのは紗枝じゃない。悪いのは、レピシスが珍しいからって、じろじろ見たり、つまんないいやがらせをしたりする奴らのほうだ。ちゃんとわかってる。
家の前まで着いたけれど、すぐに入る気になれなくて、しばらくそのまま、立ちすくんでいた。いつもどおりの態度で、母さんや悠晴に声をかけきれる自信がなかった。隣の家の犬が、怪訝そうに吼える。家の中からは、夕飯の味噌汁と、たぶんハンバーグの、いい匂いが漏れ出していた。
しばらく空を見上げて、立ち尽くしていた。あれだけ晴れていた空が、いつの間にか半分くらい、雲におおわれている。夜には、雨が降るのかもしれない。
どれくらい、そうしていただろう。何度か深呼吸をすると、自分の頬を叩いて、玄関のドアを開けた。
ただいまと、無理やり明るい声を出して家に入ると、母さんが心配そうに、おろおろと階段を見上げていた。
「ああ、おかえり。ご飯、もうちょっとでできるからね」
「うん。……どうしたの」
「悠晴が、部屋から出てこないのよ。訊いても、何もいわなくて」
亜希ちゃん、ちょっと様子を見てきてくれると、母さんにそういわれて、階段を上った。心当たりはあるような気がした。隆太のことだろう。
ノックすると、なに、と暗い声が返ってきた。
「なに。あんた、こないだのことで、まだ落ち込んでるの」
ドアを開けるなりそういうと、ベッドに腰掛けていた悠晴が、顔を上げて、無言で見つめ返してきた。とっくに日は暮れているのに、電気もつけていない。あたしが電灯のスイッチをいれても、何もいわなかった。いつもだったら、反発してくるのに、今日はやけにおとなしい。本当に落ち込んでいるらしかった。
散らかった床に座ると、悠晴は、何度か口を開きかけて、ためらった。それでもじっと、何もいわずに待っていると、悠晴はやがて、ぽつりと言葉を落とした。
「おれ、全然しらなかった」
やっぱり、隆太のことで悩んでいたらしかった。悠晴はうなだれて、自分のつま先をじっと見つめている。
「あんたはその場にいなかったんでしょ。しかたないよ」
そういうと、悠晴は力なく首を振った。
「隆太が気にしてたことにも、気がつかなかったし」
無理もないと思う。隆太自身が、気遣われたくなかったんだろうから。隆太はいつも、明るくふるまっている。このあいだ、この部屋で泣いたときも、その直前まで、いつもどおりに陽気にしていた。
「姉ちゃん。おれ、どうしたらいいのかな」
悠晴は、自信のないような声で、そう訊いてきた。だけど、あたしにだって、自信なんかない。いわれなくても人の気持ちがわかるような、細やかな神経には、あいにく持ち合わせがない。
「あたしは隆太じゃないから、あの子の気持ちはわかんないけど」
そう前置きしてから、ちょっと考えて、いった。
「何もしなくていいと思うよ」
でも、といって、悠晴はばっと顔をあげた。あたしはそれを手で制して、話を続ける。
「あんたが、隆太がレピシスだってそうじゃなくたって、そんなのなんにも関係ないって顔して、普通に一緒にいたら、あの子はそれが、いちばん嬉しいんじゃないかと思うよ。何をしてもらうよりも」
悠晴は口ごもった。何か反論しかけて、飲み込んで、それからうつむいて、じっと考えるようだった。
「……そうかな」
長い間をあけて、そう確認するようにきいてきた悠晴に、あたしは肩をすくめた。
「たぶんね」
悠晴はちょっと頼りなさげな顔をしたけれど、あたしは隆太じゃないから、わかんないよ。もしあたしだったらって、そういうことしかいえない。
母さんが一階から呼ぶ声がする。
「ほら、ご飯たべるよ。あたしも着替えて来るし」
そういって、自分の部屋に入りながら、思わず頭をかきむしった。
自己嫌悪に駆られていた。他人事だから、えらそうなことをいえる。自分のことも、ちゃんとできてないくせに。
どうしていいのかわからなかった。途方に暮れながら、自分の胸に問いかける。
あたしはどうしたいんだろう。紗枝に、どうしてほしいんだろう。
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