第7話

 自分の呼吸の音を聞きながら、地面を蹴る。足を踏み出すリズム。腕の振り。かかとの着地する角度。川沿いの遊歩道を延々と走っていると、ときどき、それ以外のことを何もかも忘れている自分に気がつく。

 忘れていられたらいいのに、と思う。わずらわしいこと全部。教室のなかを飛び交う、小さな声での陰口、しのび笑い。自分のタイムが伸びない苛立ちをもてあまして、人の足を引っ張ろうとするやつらの、遠まわしな嫌味。隆太のことを気の毒がる親戚の連中の、わかったような同情。それに小さくなって礼なんかいっているお袋の、卑屈な表情。そういうわずらわしいことを、何もかも忘れたまま、いつも走ることだけ考えていられたら、そうしたらきっと、もっと息がしやすいのに。

 走るのは、昔から好きだった。おまえは長距離向きだなと、顧問にいわれる前には、100mのタイムを伸ばすことばかり考えていたけれど、いまではそのとおりだったと思う。そんなわけないのに、何時間でも、何日でも、いつまでも走りつづけていられるような気がするときがある。

 空はよく晴れている。それでも前方に、押しせまるような入道雲がそびえているから、早めに切り上げたほうがいいかもしれない。夕立に降られたって、風邪を引くような季節でもないけど。

 土手の傾斜がゆるやかになっている一角にさしかかった。すぐ下に、河川敷。ちょっとした広さがあって、子どものときにはよくここで近所の友達と遊んだ。いまも、どこかの親子連れがキャッチボールなんかやっている。

 ――兄ちゃん、もう助けてくれなくていいよ。

 隆太がそういったのは、二年前、俺が六年生のときだった。この土手で、泣かされている隆太を見つけて、いじめっ子をぶん殴った。そいつらが憎まれ口を叩きながら、逃げていったあとで、隆太はべそをかきながら、そんなふうにいった。

 気が弱いところのある隆太は、昔からときどき、近所の悪ガキなんかに、いじめられることがあった。それでも隆太がちびのときは、話は簡単で、そういう場面を見かけたら、飛んでいって助けてやれば、それでよかった。泣かされて、傷なんかこさえて帰ってきたら、誰にやられたのか問いただして、次の日にでもやり返してやればよかった。

 ――おまえ、兄貴がいないと何もできないんだろって。あいつら、そういうんだ。上級生の手を借りるなんて、卑怯じゃないかって。

 泣きながらそういった隆太に、あのとき、思わずいい返していた。

 ――だったら、おまえもいってやれ。おまえらこそ、よってたかって大勢で、ひとりをいじめるなんて、卑怯じゃないかって。

 隆太は鼻をすすりながら、首を振った。ひとりでなんとかするから、兄ちゃんは、もう手を貸さないでって、そういって。

 腹が立った。弱っちくて、いつもすぐ泣きついてくるくせに、おまえひとりで何とかするなんて、できるもんか。そう思った。だけど、それから一回も、隆太が泣きついてきたことはない。泣かされて、傷をこさえて帰ってきても、前のように誰それにやられたといって、頼ってくることはなくなった。

 ときどきかっとなって手が出る俺とはちがって、隆太は人にひどいことをいわれても、殴りかかったりはしない。殴られても、ほとんど殴り返しもしない。そのかわり、つらいことがあると、じっと歯を食いしばって、耐えるようになった。

 そういう態度を、いったい誰に似たんだろうなと、ときどき親父は苦笑しているけど、あれは、もしかしたら、霧生を真似してるんじゃないかって、そう思うときがある。

 隆太はよく、霧生の弟のところに遊びにいく。話を聴くと、どうやら姉貴のほうにも、なついているらしかった。亜希ちゃんがね、と、隆太が目を輝かせて話すのを、何回聞いただろう。

 霧生が同じ状況になったら、やっぱり、喧嘩に人の手を借りるのを、いやがるだろうか。人にかばってもらわなくたっていいとか、そういうことをいって。

 あいつなら、いかにもいいそうだ。もっとも、拳の出る喧嘩ならともかく、女子どうしのいさかいに口を挟むことなんて、頼まれたって無理な気がするけど。

 実際の話、霧生は、何をいわれても堂々としている。無視するか、正面きっていいかえすか。誰かに意地悪をされて、いわれっぱなしでへこたれているところなんて、ほとんど見ない。手足の鱗を隠そうともせずに、人からへんな目を向けられても、まっすぐ顔を上げて、なんでもないって顔をしている。本当になんでもないわけじゃ、ないんだろうけど。

 気がつけば、日もまだ沈みきっていないのに、あたりは薄暗くなっていた。顔を上げると、分厚い雲が近くに迫っている。

 考え事をしながら走っていたせいか、いつもだったらなんともない距離なのに、いくらか息が上がっている。家の玄関に飛び込むなり、雨のにおいが追いかけてきて、そのほんの一呼吸あとには、夕立が屋根を叩いた。



「ねえ、兄ちゃん。あのシャツ、今年は着ないの」

 隆太から急にそう訊かれて、思わず目を瞬いた。

 シャワーを浴びてきて、頭を拭きながら、着替えのシャツを引っ張り出しているところだった。雨はあっという間に通り過ぎて、すっかり止んでいる。

「どれのことだ?」

「ドクロのやつ、黒いの」

 眉を上げた。そのシャツはたしかに、去年の夏にはよく着ていたけれど、冬のあいだに背が伸びたので、小さくなってきて、そのまましまいこんでいる。

 着替えながら、ちょっと考えた。

 それを、隆太がほしいというのなら、べつにやってもよかった。どうせ俺はもう着れない。まだ隆太には大きすぎる気はするが、問題はそこじゃなかった。あのシャツは。

 着替え終えて振り向くと、隆太はじっと俺を見上げている。その目が、真剣だった。

 半袖だけど、いいのか。そう訊こうとした言葉を、飲み込んだ。

「お下がりでいいのか」

 かわりにそう訊くと、隆太はおおまじめな顔で頷いた。半袖のシャツを買ってきてと、母さんには頼みづらいんだろう。

「そこのタンスの、下の段じゃないかな。母さんが捨ててなけりゃ」

「着ていい?」

「やるよ」

 いうと、ぱっと頬を紅潮させて、隆太は笑った。それを見ながら、複雑な気分になった。

 あれは、ほんのチビのころだった。

 どうしてぼくのシャツは、長袖ばっかりなのと、ある夏の日、急に隆太がそういった。まだ四歳とか五歳とか、そのくらいだったと思う。ちょうど、なんでも俺の真似ばかりしたがった時期で。兄ちゃんは半袖なのに、なんでぼくのはちがうのと、そんなことをいいだした。

 母さんはそれを聞いて、ちょっと困ったような顔をしたけれど、隆太がだだを捏ねるとすぐに折れて、次の日、半袖の、戦隊もののキャラクターTシャツを買ってきた。

 それを着て、はしゃいで外にでた隆太の顔は、あっというまに曇った。近所の人々が振り返って、自分の腕をちらちらと伺うその視線に、隆太はすぐに気がついたようだった。

 なぜ注目されるのか、気の毒そうに目をそらされたりするのか、隆太は多分、わけもわかっていなかっただろうと思う。俺もそのときには、まだ小二のガキだったけれど、そのころには、もうおぼろげに、わかっていた気がする。レピシスがどんな目で見られているのか。親の態度から、なんとなく感じるところもあったし、その頃は、まだ霧生と一緒に遊ぶ機会も多かった。そこで俺は同じような視線に、何度も行き会った。

 いまより珍しかったとはいっても、レピシスを露骨に差別する人間は、そんなに多くはなかったと思う。それでもじろじろと視線を向けてくるやつや、気まずそうに目を逸らすやつは、いくらでもいた。

 ――ぼく、長袖でいい。

 家に帰るなり背中を向けて、隆太はいった。母さんもだまって、いつも来ていた長袖のシャツを出してやった。

 それ以来、隆太はずっと、夏でも長袖で通してきた。家の中ではランニングでもうろうろするけれど、外に出かけるときには、きっちり手首まであるのを着ていた。

 その隆太が、半袖のシャツをくれといって、嬉しそうにしている。それは多分、いい兆候なんだろう。だけど、不安もあった。

 お前、大変だぞ。

 いおうかと思ったけれど、やめた。堂々としていればいいと思う。他人に何をいわれても、気にしなければいい。

「そういえばね、兄ちゃん。亜希ちゃんがね」

 タンスの中身をひっくりかえしながら、隆太がいった。

 なんだ、お前。急に半袖着るなんていうから、何かと思ったら、あいつの真似してんのか。そういおうかと思ったけれど、これも、苦笑して飲み込んだ。

「霧生が、どうしたって」

「小学校のとき、兄ちゃんに助けられたって、いってたよ」

 面食らった。何のことをいっているのか、一瞬、わからなかった。少し遅れて、思い当たる。たしかに、あいつの鱗のことをからかった工藤を、殴ったことがあった。

 隆太はまるでそのことが、得意でならないというように、目を輝かせている。

「そうか」

「うん。それでね、へんなこというやつがいたら、お前もぶん殴ってやれ、だって。亜希ちゃんって、クールなふりして、けっこう過激だよね」

 それがおかしくてたまらないというふうに、隆太は笑っている。つられて思わず口元が緩んだ。たしかに、霧生は見た目とちがって、けっこう過激なやつだ。

 隆太はさっそく、ドクロのプリントされたTシャツを引っ張り出して、頭から被っている。それを見守りながら、小五のときの騒動を思い出した。

 一度記憶を引っ張り出してみれば、案外、よく覚えていた。掃除のときだ。殴られた工藤のほうが、一瞬ばつの悪い顔をして、俺から目を逸らした。

 そういえばあのとき、霧生は珍しく泣きそうになっていたようだった。ふっと、不思議な感慨を覚える。あいつのあんな顔を見たのは、ほとんどあの一回きりだったんじゃないだろうか。

 あいつ、そんなこと、まだ覚えてたんだな。

 隆太はぶかぶかのTシャツを着て、照れくさそうに鼻をこすった。その腕には青い鱗が目立っている。隆太はちらっとそれを見下ろして、一瞬、ためらうような顔をした。それから吹っ切るように、顔を上げた。

 ちょっとコンビニいってくるね。そういって飛び出していく、Tシャツの背中を見送りながら、思っていたよりも隆太の背が伸びていることに、いまさらのように気がついた。

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