第6話

 美術室にむかうために、廊下を歩いていた。いつもだったら、紗枝と一緒に移動する。いまも、途中までは一緒に来ていたのだけれど、忘れ物をしたから先にいっててといって、紗枝は引き返してしまった。それで、わざとゆっくり歩いていた。

 ほかのクラスも移動教室が重なっているのか、廊下はひとけが多くて、騒々しい。声高な雑談、走ってどこかに向かう男子、上がる明るい笑い声。開け放した窓から入ってくる蝉の大合唱と混ざり合って、もう何がなんだかわからない。耳が変になりそうだった。

 見慣れない長袖が、ぱっと目に入った。

 一年の江嶋だ。背中を丸めて、小さくなって歩いている。そうしているところを、はじめて見たわけではないのだけれど、目に入った瞬間、ぴりっと、頭のどこかが痺れるように熱くなった。

 なんで隠すの。堂々としてなよ。そう叫びそうになる自分をおさえて、目を逸らした。

 それを咎めるのは、酷、なんだろう。だけど廊下をいく生徒たちは、ときどき振り返って、江嶋の長袖を見ては、何かいいたげにしている。どうせ校内で長袖なんて着てたら、目立つんだ。隠しても隠さなくても一緒なら、堂々としていたらいいのに。もどかしいような気持ちになる。

 行きちがう直前、視線を感じて、顔を上げると、江嶋があたしのほうを見ていた。正確には、あたしの腕の鱗のあたりを。

 その顔が、くしゃりと歪んで泣きそうになるのを、あたしは見た。だけど、話しかけようとは思わなかった。ただなんでもないように視線を外して、すれちがう。

 ――そういうおまえの態度が、ほかの人を傷つけることだってあるんだ。

 いつだったか、小学校の先生にいわれた言葉が、耳の奥に響いた。

 ――先生はなにも、おまえが間違ってるとか、悪いとかっていってるんじゃない。正しいと思うことを、ちゃんと口に出していえる、それは霧生のいいところだ。それは先生もよく知ってる。だけどな、いうときの態度とか、いい方なんかを、ちゃんと選ばないと、いわれたほうは傷つく。なあ、霧生は頭がいいから、先生のいってること、ちゃんとわかるだろう?

 先生からの押しつけがましい説教というのが、あたしは昔から、我慢ならないたちだった。そのときもとっさに反発して、何も答えずに、顔を背けてしまったと思う。自分が正しいときにも、間違っている相手にあわせろなんていう話は、筋が通ってないと思った。

 だけどたぶん、あのとき先生がいったのは、本当のことで。頭のどこかでは、わかっている。だけど、そんなふうにふるまえるくらいなら、とっくに……。

 ふっと、紗枝の顔がうかんだ。

 紗枝はすごい、と思う。いい方が柔らかくて、それになにより、よっぽどのことがないかぎり、人のことを否定しない。だけど紗枝は、あたしが馬鹿にされたり、意地悪をされたときには、真っ先に怒ってくれる。自分が誰かに意地悪されても、めったに怒らないくせに。

 紗枝は自分が誰かにひどいことをいわれても、黙って傷つくか、そうでなければ、笑って許してしまう。そういう紗枝を、あたしはずっと、尊敬している。自分には、真似のできないことだから。

 紗枝がもし、江嶋と話すことがあったら、なんていうだろう。

 すれちがって少ししてから振り返ると、江嶋はもうこっちを向いていなかった。背中を丸めて、教科書をほとんど抱きかかえるようにしながら、階段を下りていく。その頭のてっぺんが見えなくなるまで、あたしはじっと、江嶋の姿を目で追っていた。



 職員室や購買部なんかがある旧校舎と、教室の入っている新校舎のあいだは、渡り廊下でつながっている。二階の渡り廊下は、雨よけの屋根はいちおうあるものの、半分は屋外みたいなもので、手すりの上がぽかんと開いて、中庭が見下ろせるつくりになっている。雨が降ったらふき込んで濡れるので、みんな二階のほうは、晴れの日しか使わない。

 放課後、購買部に寄った帰りに、そこを通って教室に戻ろうとしていると、志木が煙草を吸っていた。携帯灰皿なんかもって、中庭を見下ろしている。

 顔をしかめて通り過ぎようとしたけれど、呼び止められた。

「なあ、霧生」

 いやそうな顔を隠さずに振り返ると、志木は体の向きを変えて、真顔で頭を下げた。

「このあいだのことだけどな。俺のいい方が悪かった」

 拍子抜けした。まさか謝られるとは、思ってもいなかったし、頭を下げられるとは、もっと思っていなかった。

 いえ、とあいまいに首を振ると、手招きされた。あまり話をしたくはなかったけれど、無視まではできなかった。

 蝉がわんわんやかましく鳴いている中、大声でもないのに、志木の言葉はふしぎとはっきり耳に届く。

「誤解させたと思うんだけど。俺はさ、おまえを追い出したいとか、そういうんじゃないんだよ。誓っていうけど」

「……はい」

 不承不承、うなずきながらも、この人は、「先生は」とはいわないんだなと、ふとそんなことに気がついた。教師はよく「先生は君たちに」みたいないいまわしをする。それが、立場にものをいわせているように思えて、昔からずっと、嫌いだった。

「あのさ。成績とか、学歴とかって、おまえ、馬鹿にしてるだろ。見てりゃわかる。馬鹿な大人に採点されて、かってなレッテル貼られたって、それがどうしたって、思ってるだろ」

 思わず黙り込んだ。ほとんど図星だったので。志木はちょっとうなずいて、手遊びのように、指のあいだの煙草を揺らした。

「べつに、それはそれでいいんだ。馬鹿にしてもいいさ。でもな、将来とかそういうことだけじゃなくて、けっこう思うより、ちがうものなんだよ。偏差値の高い学校と、そうじゃないところってのはさ」

 煙草をつぶしながら、志木はいう。あたしは何も口を挟まなかったけれど、納得していないのは、表情で伝わったのかもしれない。志木はちょっと苦笑した。

「そりゃべつに、偏差値の高い学校に、いいやつが集まるってわけじゃないさ」

 たださ、と、志木は真面目な顔になった。

「自分と頭の回転の速さが近い人間と話すほうが、おまえが楽なんじゃないかって、思ったんだよ」

 なぜかその言葉に、ぎくりとした。べつに頭の悪い人間が嫌いだなんて、思ってるわけじゃない。ただ、同級生と話しているときなんかに、いっていることがすぐに通じなくて、もどかしい気がすることは、昔からときどきあった。

 志木は、新しい煙草を出しかけて、指をちょっとさまよわせ、ひっこめた。

「俺はさ、自慢じゃないけど、家族がみんな、すげえ頭のいいやつばっかでな」

 志木の身の上話になんて、興味はなかったけれど、あたしは黙って聞いていた。どこかの部活の、威勢のいい掛け声がグラウンドから聞こえてくる。志木は自分の頭を指で軽くつついて、話をつづけた。

「なんでか俺だけひとり、家族の中で、ちょっとココの回転が鈍くてなあ。仲が悪かったわけじゃないと思うんだけど、親や弟のいってることに、ちょくちょく、ついていけなくなってさ。そんでガキの頃、家の中にいるのが、けっこうつらかった」

 だからさ、と志木はいう。

「逆もたぶん、そうなんだろうなって思うんだよ。自分の話のペースについてけないやつらに囲まれてんのもさ、それはそれで、しんどいんじゃないのかって」

 あたしは頷きも、否定もしなかった。志木から眼を逸らして、足元を見つめる。低レベルな嫌味を遠くから投げかけてくるような、くだらない連中に、うんざりすることはある。だけど、それは、成績のいい学校にいったらなくなるものだとも、思えなかった。たぶんやり方が変わるだけじゃないかって、そんな気がした。

 志木は手すりにだらしなくもたれて、雨避けの隙間から空を見上げた。つられて顔を上げる。よく晴れている。風が、渡り廊下に淀んだ熱気を、ほんの少し、吹き払っていく。

「ま、俺がこんな話してたって、ほかのやつには、いわないでくれよな。クレームが来ちまう」

 志木はいって、苦笑いした。手すりから体を持ち上げて、首を鳴らす。こき、とけっこういい音がした。

「けどな、おまえがここでやっていきたいっていうんなら、もちろん、それでいいんだ。人間関係とか、そういうの、また一から作り直すのも、それはそれでしんどいだろうし」

 余計なお世話だと思った。知らない人の間に飛び込むのが、怖いわけじゃない。ここから、いまの状況から逃げ出すようにして、外部進学するのがいやなだけだ。そう思いはしたけれど、反論はしなかった。じっと黙り込んでいるあたしを見て、志木はちょっと鼻の頭をかいた。

「いますぐ決めろってことじゃないさ。まだ進路希望は何回もとるし、なんなら受験してみてから決めたっていいんだ。お前なら、その気になれば、どこの高校にだっていけるだろうし。……ま、ゆっくり考えてくれ」

 引き止めて悪かったなと、志木はいって、のんびりとした足どりで職員室に戻っていった。



 家に帰ると、久慈隆太が遊びにきていた。悠晴の部屋から上半身をつき出して、手を振ってくる。

「おー、亜希ちゃん、お帰りい」

「あんたにお帰りといわれる筋合いはないよ」

 けらけらと笑って、隆太は手まねきした。

「亜希ちゃんも、いっしょにゲームしよう。悠晴、強すぎ。ぜんぜん勝てなくてつまんない」

 それで、あたしに勝ってうさを晴らそうってのか、このガキは。そう思いはしたけれど、悔しかったのでいわなかった。制服を着替えてから、悠晴の部屋にいくと、ちょうど格闘ゲームの画面で、隆太の操作していたキャラクターが地に伏していた。

 あたしと交代すると、悠晴は飲み物をとってくるといって、階段を降りていった。コントローラーがべたべたしている。またお菓子かなんか食べながらゲームしてたんだろう。

 一回目の勝負は、あっさり負けた。一分ともたなかったんじゃないだろうか。

「亜希ちゃん、弱すぎ」

 得意げに笑っている隆太を、思わず軽くどつこうとしたけれど、察して、ひょいと身軽に逃げていく。

「文句があるなら、悠晴と遊んでな」

「あいつは強すぎ。たまには手加減するように、亜希ちゃんからいってやってよ」

「いいけど、手加減されて勝って、あんた、うれしいの?」

「場合によっては」

 答える隆太は、悪びれず笑っている。その笑顔が、初等部のころの久慈とよく似ていて、ちょっと不思議な気分になった。そんなに似ている兄弟でもないのだけれど、なにかの拍子に、急にそっくりな顔をする。

「おれ、コンビニいってくる」

 飲み物がきれていたらしく、階段の下から悠晴がそう叫んで、飛び出していく気配があった。

「ねえ、亜希ちゃん」

 何回目かの対戦の途中で、隆太が、画面を見つめたまま話し出した。

「レピシスって、増えてるんだよね」

 あたしは思わず指を止めて、隆太の横顔を見た。隆太は画面から眼をそらさずに、そのままで話しかけてくる。

「これから、どんどん増えていくんだよね。鱗があるのが当たり前になって、おれらのこと馬鹿にしてるやつらのほうが、そのうち、少なくなるんだよね」

 そうだといってくれと、訴えかけるような必死さで、隆太はいった。珍しかった。隆太が、同じレピシスであるあたしに親近感を抱いているのは、前からなんとなくわかっていたけれど、これまで直接その話題を持ち出したことは、一度もなかったのだ。

「おれらのほうが、ほんとはすごいんだよね。亜希ちゃん、頭いいんだろ。兄ちゃんがいってた。レピシスって、そうなんだって、本でも読んだよ。病気もあんまりしないし、普通のひとより強いんだって」

 隆太が読んだのは、あたしが図書館で見たのと同じ本なのかもしれない。

 あたしの操作していたキャラクターは、体力ゲージが0になって、あっけなく地面にうずくまった。隆太はもう勝負のついた画面から目を逸らさずに、無意識なのか、自分の腕をさすっている。服の上から、鱗のあるあたりを、何度もこすっている。

「そうかもね」

 自分でも思わないほど、突き放したような声がでた。

 その声の冷たさに、びっくりしたように、隆太は振り返った。

「なんで怒ってるの」

「怒ってないよ」

「怒ってるじゃん」

 いわれて、顔をこする。怒った顔になっているだろうか。あたしは何に腹をたてているんだろう。思わずちょっと、考え込んだ。考えて、口を開いた。

「あんたに怒ってるわけじゃないよ。でも、あんまり好きじゃないんだ、そういうの。あたしはさ」

 隆太はでっかい目でじっと、あたしの眼を覗き込んできた。

「鱗があるからって、それがどうしたんだよって、あんた、思わない?」

 少し迷って、隆太は頷いた。

「それと、おんなじだって、思うんだ。ちょっとくらい体が頑丈で、ちょっとくらい頭がいいからって、それがどうしたんだって。寿命が長いかもしれないっていうけど、百年も二百年もちがうわけでもないだろうし、そのくらいのちがいが、なんだって」

 そういうと、隆太は黙ってうつむいた。いいすぎたかな。あたしのものいいは、ただでさえ、きつく聞こえるらしいから、思わず慌ててしまった。

「あのね。おれさ、この前」

 長い沈黙のあとに、隆太はぽつぽつといった。

「休み時間に、おんなじクラスのやつがさ。床に落ちてた、おれの鱗を見て、汚えなって……」

 そのあとの言葉を続けきれずに、隆太はうつむいたまま、ぼろぼろと泣き出した。涙が床に落ちて、電灯の明かりを弾くのを見ながら、ああ、と思った。この子も、戦ってるんだ。いつも明るい顔で笑ってるけど、毎日、戦ってる。

 誰にもいえなかったんだろう。兄貴にも親にも、たぶん、悠晴にも。思わず、その肩を抱きしめていた。

 がさ、と物音がした。振り返ると、悠晴が驚いた顔をして、ドアのところに立っていた。帰ってきていたらしい。何かいおうとして、だけど何もいえずに、そのまま途方に暮れたように、立ち尽くしていた。

「あたしも、似たようなこと、いわれたことある」

 肩から手を放して、そういうと、隆太は泣き顔のまま、顔を上げた。ほんとうだろうかと疑うように、じっと見上げてくる。

「あんたと同じ、五年生のとき。そのときにね、あんたの兄ちゃんが、かばってくれたんだよ。ソレいった男子を、こう、ぶん殴ってさ」

 殴る真似をしながらいうと、隆太は、目をぱちぱちさせた。その睫毛から、涙がぽろりと零れ落ちる。

「あんたも、そんなこというアホは、ぶん殴ってやんな」

 兄ちゃんに殴ってもらいなよとは、さすがにいわなかった。チビでお調子者だけど、隆太にも男の子のプライドは、あるだろうから。

 隆太は頷いて、くしゃくしゃになったティッシュをポケットからだすと、鼻をかんだ。へへ、と、照れくさそうに笑って、頬をこする。

「おれ、ポカリね」

 隆太は立ち上がると、なんでもないように、悠晴のもっているコンビニの袋に駆け寄っていった。

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