第5話

 国語の先生が朗読をしているあいだ、ぼんやりと、斜め前の席の、亜希子の横顔を見ていた。

 ぱっちりした目と長い睫毛。ほっそりした顎。もし亜希子が、美人じゃなかったら、とたまに思う。そうしたら、渡辺たちも、亜希子がレピシスだからっていうだけでは、あんなに目の仇には、しなかったんじゃないだろうか。

 でも、そういうことじゃないのかもしれない。もし亜希子がもっと目立たなくて、おどおどした子だったとして、隅っこで小さくなっていたら、こんどはそれを笠にきて、いじめにかかるのかもしれない。

 実際、あたしは初等部の低学年の頃、亜希子と友達になるもっと前にも、渡辺に何度か、意地悪をされたことがある。髪を引っ張られたり、机にいやな落書きをされたり。だからたぶん、あいつらは攻撃する対象がほしいだけなんだろう。

 そうひとりで納得しながら、なんとなく、気が滅入った。こんなとき、ふっと耳の奥によみがえる声がある。

 ――あんたも大変ね。

 あたしが姉からそのひとことをいわれたのは、小五のときだった。



 家で、晩御飯を食べながら、あたしは皆に、学校であったことを話していた。

 ――それでね、そのとき、亜希ちゃんがね。

 その頃、あたしはよく亜希子のことを、家族に話して聞かせた。四年生のときのクラス替えで、はじめて一緒のクラスになって、それ以来ずっと、亜希子は自慢の友達だった。

 亜希子はすごく頭がいい。成績だけじゃなくって、いろんなことを知っていて、運動神経だってけっこういい。家庭科のときの縫い物とか、そういうときの手先はちょっと不器用だけど、ほかのたいていのことは、すっと器用にこなしてしまう。でも、そんなことより何より、亜希子は昔からとても公平で、さっぱりした性格をしていて、そして、強かった。

 相手のいうことが理不尽だって思ったら、亜希子はときどき、びっくりするくらい手厳しい。だけどその分、自分が間違ってたって思ったときには、潔く謝る。そういうはっきりした態度が、あたしは好きなんだけど、そのおかげで、人と喧嘩になってしまうこともある。

 だけど亜希子は、ちょっと誰かに意地悪されたくらいじゃ、ぜんぜんめげなかった。負けるもんかって態度で、いつもまっすぐ顔を上げていた。もうちょっと妥協して、てきとうに流したらいいのにって、思うときもあるけど、それ以上に、亜希子のそういうところに、あたしは憧れていた。すぐにおどおどして、人の目を気にしてしまう自分に、ちょっと嫌気がさしていたから。

 ――その亜希ちゃんて子、かわいいの?

 そのとき、姉はもともと何かあって、機嫌が悪かったんだと思う。そう訊いてきた声にはとげがあったけれど、あたしは深く考えずに、何度も頷いた。

 ――うん。キレーな子なんだよ。美少女、って感じ。それでね。

 ――ふうん、あんたも大変ね。

 姉は急にそんなふうにいってきて、言葉を遮られたあたしは、ぽかんとした。

 ――だって、そんな子とつるんでたら、あんた、比べられちゃうんじゃない?

 姉はそういって、意地悪く笑った。

 あたしは昔からとろくさくて、運動もだめだし、頭はすごい悪いってわけじゃないけど、成績も普通で。顔だって、不細工だとは思わないけれど、鼻が低いのと、丸顔のせいで太って見えるのが、ずっとコンプレックスだった。

 だけどそのときまでは、そんなふうに考えたことはなかった。亜希子の隣にいたら、比べられちゃうんじゃないかなんて、そんなふうには。

 母が、姉の意地の悪い口のききかたを怒った。何よ、ほんとのことじゃない。そういい返す姉と、それを叱る母とのやりとりを、聞いてはいたはずだけれど、それは、ほとんどあたしの耳には入ってこなかった。

 そのとき、あたしはちょっと前にあった出来事を、思い出していた。

 一学期、掃除の時間だった。亜希子の鱗のことで、同じ班の工藤が、ひどいいい方をした。

 亜希子はそのとき、真っ赤になって、うつむいてしまった。普段だったら、ちょっといいがかりをつけられたくらいのことじゃ、亜希子はいわれっぱなしになんてならない。堂々といい返すか、冷たく無視する。だけどその亜希子が、黙り込んでうつむいた。

 あの日、久慈が怒って工藤を殴って、それでちょっとした騒ぎになって。いっとき教室の中の空気が、ぎこちなかった。

 だけど、あたしは知ってた。ほんとは工藤は、前からずっと、亜希子のことを気にしてたんだって。

 あたしはあの頃、工藤のことが、ちょっと好きだった。だから、よく工藤のすることを見ていて、それで、すぐに気がついた。工藤はしょっちゅう、亜希子のことを盗み見ていて。

 それなのになんで、工藤があんなことをいったのか、男子の考えることは、ぜんぜんわからない。意地悪してでも気を引きたかったのかもしれない。もしそうなら、ほんとにバカだと思うけど。

 とにかく、その一件以来、あたしは工藤のことが嫌いになった。もしそれが、ふつうのちょっとした意地悪だったら、たぶん、そんなことはなかった。だけど、あたしは亜希子のあのときの顔が、忘れられない。真っ赤になってうつむいて、いまにも泣き出しそうだった、あの顔。

 小五の一学期。あのころ、工藤が亜希子のことを好きなんだろうなっていうのは、ちょっと複雑ではあったけれど、少なくとも、それをひがむ気持ちは、なかったと思う。工藤のことを気にしてはいたけれど、あたしには工藤より、亜希子のほうがずっとずっと大事だった。

 あのころ、あたしが亜希子みたいに美人だったらとか、そんなふうにひがむような気持ちは、あたしの中にはなかった。あの姉の言葉を聞いた、そのときまでは。



「じゃあ、次。ここ五行目から、誰かに読んでもらおうかな。二十二番は――三ツ谷さん?」

 急にあてられて、はっと物思いから立ち返った。とっさに立ち上がったのはいいけれど、すっかり上の空だった。何ページのことをいわれているのかわからない。

 声に詰まって視線をさまよわせると、亜希子がこっそり、ペンの背中で自分の端末をさししめした。そのディスプレイの、拡大表示されたページ番号が、かろうじて見える。あわてて自分の端末をつついた。

 周りで小さな笑い声が起こる。あたしが教科書を開いていなかったことは、すぐにわかったんだろうけど、先生はちょっと眉を上げただけで、怒りはしなかった。

 つっかえつっかえ、教科書を読み上げながら、ちらりと見ると、亜希子はもう素知らぬふりで、退屈そうに窓の外を見ていた。

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