第3話

 小テストの解答欄を埋めてしまうと、もうすることがなくなった。だけど五分のテストじゃ、寝る暇もない。なんとなく、ペンケースからカッターを出した。

 刃を、昨日はがした鱗の、すぐ近くに沿わせる。鱗の上の皮膚に切れ目を入れてから、刃先を差し込んだ。あっけなくはがれる鱗。その下にのぞくピンクの皮膚。前にはがしたところは、まだそのままになっているけれど、しばらくしたら、元通りに生えてくる。

 なんのために、こんなものがあるんだろう。

 レピシスの存在が知られるようになってから、これまでテレビでは、いろんな説が流れた。新聞でも、たぶん、科学雑誌とかでも。論文もたくさん書かれたらしい。たとえば、環境破壊が続いたせいで、紫外線に耐性のある形に進化したのではないかとか。温暖化の影響で、いずれ世界中の土地が水没したときに、水辺で暮らすのに適応しようとしているのだとかいう、とても正気でいっているとは思えないような説もあった。あたしたちに鱗はあっても鰓はない。

 色んな説が、流れては消えて、また忘れたころに議論される。どの説がほんとうなのか、いっている当人たちにもわかっていないのに、あたしたちにわかるはずがない。

 一枚、二枚。はがした鱗を、消しゴムのカスといっしょに、机の端によせたところで、急に手首を掴まれた。

 びっくりして顔を上げると、担任の志木が横に立っていた。難しい顔をして、眉をひそめている。あたしがカッターを振り回して暴れるとでも思ったのだろうか。

 叱責を覚悟したけれど、志木は何もいわなかった。すぐに手を放して、前に戻っていく。

「五分たったな。さあ、採点するぞ」

 握られていた手首にのこる感触が、なんとなく気持ち悪くて、思わず手でこすった。



「霧生。ちょっと来い」

 放課後、HRも終わって帰ろうかというときに、志木から呼び止められた。

 まだ教室にいた何人かが、好奇心に満ちた目を向けてきている。それをつとめて無視しながら、志木のあとについていった。

 何の呼び出しだろう。委員会のこととか、そういう話なら、最初に用件をいうだろうと思えて、落ち着かなかった。カッターの件だろうか。だけど、刃を人に向けて振り回したとでもいうんならともかく、授業中にカッターの刃をだしてはいけないなんて、そんな馬鹿げた話はない。

 志木は無言のまま、どんどん廊下を進んでいく。歩きながら、その後ろ頭を見あげて、そこにちらほら白髪が混じっているのに気がついた。たしか三十代半ばのはずだけれど、年よりも少し、老けてみえる。後ろを歩いているだけで、ちょっと煙草くさい。

 職員室に行くのかと思ったら、志木は、その前を通り過ぎて、さらに奥に向かった。いやな予感がして、緊張感が背中を走る。

「ここでいいかな」

 生徒指導室。そのプレートをにらみつけて、あたしがじっと立ち尽くしていると、志木は、わざと作っているとしか思えない明るい声で、そういった。落ち着いて話すのにはちょうどいいからで、深い意味はないんだと、そういいたげなそぶりをしていたけれど、たぶん、最初から、志木はそのつもりだったと思う。

 こんなところに呼び出されるいわれはない。そう思ったけれど、言葉は口から出てこなかった。後に続いて中に入ると、志木はドアを開けたままにして、ソファに座った。これは正式な指導じゃないんだというポーズだろうか。

「あたしは何か、問題でも起こしましたか」

 思わず硬い声がでる。志木は苦笑して、ひげの剃り跡のめだつ顎を、片手でさすった。

「ちがうよ。そういうんじゃない。ちょっとお前と、話をしてみたかったんだ」

 その言葉を信じるつもりにはなれなかった。どんな説教をするつもりだと、身構えるようににらみ返していたら、志木は顎をなでる手を止めて、ふっと、真面目な顔になった。

「なあ、霧生。授業、退屈だろう」

 その問いかけに、あたしは答えなかった。何をわかりきったことを、というくらいのつもりだった。

「俺の英語だけじゃないよな。ほかの先生の科目もだ。お前には、ものたりないんじゃないのか」

 首を横に振る。授業はたしかに退屈で、まともに聴いていられない。けれどべつに、だからといって、もっと高度な授業をしてほしいと感じているわけではない。どうでもいいと思っているだけだ。

「いや、このあいだ、進路希望を出しただろ」

 黙って頷いた。たしかに少し前に、調査票を書かされたことがあった。でもまだ二年生だし、そもそもたいていの生徒は、そのまま高等部に進むから、そんなに悩む必要もない。志木はちょっと間をおくと、指を組んで、身を乗り出すようにした。

「お前、ウチの高等部にいくのは、ちょっともったいないんじゃないかって、思うんだよな。お前ならもっといい学校、狙っていけるだろ」

 そこまでいって、志木はふっと苦笑した。

「まあ、こんなこと俺がいったら、高等部の先生に怒られちまうかな」

 それは冗談のつもりだったらしく、志木はひとりで笑って、ひとりでうなずいた。だけどあたしは、少しも面白くなんてなかった。

 お前は頭がいいからと、そういわれるたびに、いわれた当人がどんな気持ちになるか、この男は、考えたことはあるだろうか。子どもだから、ただおだてられて、素直に喜ぶとでも思っているのだろうか。

 怒りを堪えて、ひとつ息を吸い込んでから、声を振り絞るようにしていった。

「うちの両親は、ちゃんと入学金と授業料を、払っているはずです。それともあたしは、何か追い出されなきゃならないような不祥事でも起こしましたか。そうでないなら、あたしには、ここに通う権利があるはずです」

「ちょっと、落ち着けって」

 志木は手のひらを見せて、なだめるようにそういった。

「お前が、ウチの高等部に進みたいっていうんなら、もちろん、それでいいんだ。ただ、お前には、ここは窮屈なんじゃないかと思ったんだよ」

 志木はゆっくりと、子どもにいいきかせるように話す。それが気に入らなかった。いっている中身も。遠まわしなだけで、要はあたしに出ていけといっているんじゃないか。

「話は、それだけですか」

「霧生」

「失礼します」

 あたしはほとんどソファを蹴るようにして立ち上がって、振り返らずに部屋を出た。

 廊下には、人影はなかった。誰も来ないうちにと思って、足早に階段に向かう。生徒指導室から出てきたところなんて、誰かに見られたら、なんて噂されるかわからない。

 腹が立っていた。志木の無神経さにも。それから、いいたいことがあるならはっきりいえばいいのに、遠まわりにいさめるような、もってまわったいい方にも。授業をまじめに聞いていないことを、あるいはクラスの中で浮いていて、うまく溶け込めないでいることを、もし面と向かって叱られたなら、あたしにだっていい分はある。

 通りかかった国語の先生が、驚いたようすで足を止めて、何か声をかけてこようとしたけれど、話しかけられたくなかったので、足を速めてすれちがった。立ち止まったまま、背中を見送られているような気配がした。あたしはどんな顔をしていただろう。足早に歩きながら、自分の顔をこする。

 階段をおりる足音が、荒れている。いちいち振り回されて感情的になる自分がいやだった。いつでももっと、堂々としていたいのに。



 そのまま下校するつもりが、図書館の建物が目に入って、足を止めた。

 高等部と共有になっていて、同じ敷地内に別棟として建てられている。思いたって中に入ると、司書がちらりと視線を向けてきて、すぐに逸らした。

 利用している生徒は、意外と多い。本を読みにきているというよりも、高等部の生徒が、冷房のきいた涼しい場所で勉強をしているらしかった。

 奥の棚の、医学の本と人文科学の本のあいだ、どっちつかずのところに、レピシス関連書籍がまとめておいてある。その前に立って、目で背表紙を追うと、前に読んだことのあった本も、そこには混じっていた。母が家においている本も。この鱗に関する研究は、まだ盛んに続けられている途中で、学説も論文も、あたらしくどんどん発表されている、らしい。何せ、世界ではじめてのレピシスが生まれてから、まだ二十年にもならないのだ。あたしだって、前には、研究に協力してもらえないだろうかと、近くの大学病院から話があったくらいだ。母が断って、それきりになっているけれど。

 その中で、最近入荷したらしい、あたらしい一冊を手にとる。近くにほかの生徒がいないことを確認してから、ページをめくった。飛ばし読みでいい。べつに専門家になろうってわけじゃない。

 目新しい知識は、ほんの少しだった。前にもどこかで聞いた内容がほとんどだ。

 レピシスは総じて免疫力が高く、比較的、病気にかかりづらいこと。免疫に関係する遺伝子と、鱗の有無を決定する遺伝子が、位置的に近く、どうやらそのことが関係あるのではないかということ。

 初めにひとりのレピシスが生まれたあとに、その子孫が増えていったのではなく、世界各国でほぼ時を同じくして出現し、ほんの数年間に急激に数を増していった。そういうこれまでの経過を見る限り、それは急な変異というよりも、人類の遺伝子に、はるか昔から書き込まれていたのだという説が、有力になってきていること。それがなぜ急に発現したのか、まだたしかなことは誰にもいえないと、その本を書いた人間は、あいまいに逃げていた。

 鱗のある部分は紫外線に強いこと。全体の傾向として、レピシスの子たちは知能指数が高い場合が多く、また、身体的な成長速度が、平均すると、そのほかの子達よりもわずかに遅いらしいこと。もしかすると、それは、長寿を意味しているのかもしれないこと……。

 レピシスの発生を、人類の進化だという人たちがいる。そしてそれはたぶん、間違いではない。

 ――いつか俺たちの方が、スタンダードになる。

 ネットの掲示板で見かけた、誰か知らない人間の書き込みが、ふっと記憶の中から立ち上る。ふとした瞬間に、何度となく思い出す。不快なのに、ぬぐいされない言葉。

 ――そのうちレピシスじゃないヤツの方が珍しくなって、肩身の狭い思いをするんだ。自分の肌に鱗がないことを、みっともないと思うようになる。それまでせいぜい、でかい面してればいい。

 そのあとの応酬は、荒れた。賛否両論、レピシスとそうじゃない人間と。遺伝学や倫理観みたいな理屈から、感情論から、激しい口調での書き込みが続いて。全部読む前にいやになって、画面を閉じてしまった。

 いつかあたしたちのほうがスタンダードになる。そのとおりだと、同調したい自分がいる。けれど、その言葉には共感できるようで、できなかった。

 たぶんそれは、書き込んだ人間が、いま自分の鱗のある肌を、みっともないと思っているからだ。普段は肌を隠して暮らしていて、いまはネットの向こうに顔を隠して発言しているからだ。それがあたしは、いやだったんだと思う。

 その言葉を書き込んだ人間が、それまでにどういう思いをしてきたのか、あたしは知らない。誰かに手ひどく苛められたのかもしれないし、まわりに傷つけられてきたかもしれない。わからないから、同調できなかった。

 図書館に独特の、どこかほこりっぽいような、古い紙のにおいの混じる空気を大きく吸い込んで、ため息にかえた。それから飛ばし読みを続けたけれど、興味を引く事実は書かれていなかった。

 あまり収穫のなかった本のページをめくり終えたところで、表紙の裏にくっついた、貸し出しカードの存在に気がつく。何気なく手にとって、顔をしかめた。一番上に、志木の名前が印字されていた。

 先生が、図書館の本を借りたって、何もおかしいことなんてない。だけど、不愉快だった。こんなものを読んで、志木はいったい、何の参考にするつもりだったんだろう。

 教師としての責任感だかなんだかしらないけれど……

 本を床に叩きつけたいという衝動をおさえて、歯を食いしばる。にじみそうになった悔し涙を、とっさに堪えた。泣くもんか、と思う。レピシスだとかそうじゃないとか、頭がいいとか悪いとか。人をそんなふうに、勝手なカテゴリーに分類して、指図することしかしらないような、つまらない大人のために、泣いてなんかやるもんか。

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