第2話
バスを降りると、むっと熱気が押し寄せてきた。
ほとんど空っぽの学生鞄を肩にかけて、家のほうに歩き出しかけてから、迷った。足を止めて、振り返る。霧生亜希子の、いつも姿勢のいい背中が、あっという間に遠ざかっていく。追いかけるのをあきらめて、踵を返した。
霧生にああいいはしたものの、そういう俺だって、試験勉強なんて、まともにする気にはなれなかった。勉強が嫌いというよりも、試験のためだけに焦って詰め込むのが、性に合わない。
もっとも、ろくな対策もしないで受けた試験の結果は、霧生とは比べ物にならないけど。なんであいつは、いつも授業なんて聴いてもいないような顔をしてるくせに、いざあてられたとなったら、すんなり問題を解けるんだろう。頭の出来がちがうっていうことなんだろうけど、ときどき、割に合わないような気がする。
バスに乗る前、霧生を呼び止めたとき、自分が何をいおうと思ったのか、自分でもよくわからなかった。何か、霧生と話さないといけないことが、あるような気がする。顔を見るたびに、そう思うのに、実際には、いつも言葉が出てこない。俺はもしかして、自分で思っているよりも、頭が悪いのかもしれない。
それでも昔は、もっと何でも気軽に口に出せたような気がする。いつから俺は、ここまでしゃべるのが下手になったんだろう。
中一の秋、森崎大地が学校に出てこなくなった。
――久慈、わるい。これ、森崎に届けてくれるか。
俺の家が一番、大地のところと近いというので、そのころよく、先生からプリントをあずかった。
ただ家が近いだけじゃなくて、大地とは、仲がいいほうだと思う。ほんのチビの頃から、よく一緒に遊んでいた。
たしかにあいつには、もとからちょっと引っ込み思案なところはあった。だけど、この頃、表情が暗くなってきたと思ったら、ある日、急に出てこなくなった。何をそんなに悩んでいたのか、訊いてもいわない。何日かおきに迎えにいっても、いちおう顔はみせるけど、玄関から一歩も出ようとしない。
あのときも、そうだった。いいたいことはいくらでもあるような気がするのに、大地を説得するための言葉は、ろくに口から出てこなかった。何でだよとか、出てこいよとか、そんなつまらないことしかいえない自分が、情けなかった。
帰りにプリントをもっていくのは、そのときが初めてじゃなかったけど、その日、ちょうど中間試験の前で、部活もなかったので、時間がいつもよりだいぶ早くなった。
バスを降りてから自分の家までには、道を少し引き返す。その日は大地の家に寄るために、いつもと反対方向に向かった。そうしたら、同じバスから降りた霧生が、へんな顔をして振り返った。
――久慈。なに、どうしたの。
手にしたプリントを振ってみせると、霧生はそれだけで、事情がわかったらしかった。ああ、という顔をして、それからちょっと、足を止めた。
――あたしも行く。
その言葉は、そんなに意外でもなかった。学年が上がっていくにつれて、なんとなく、男子は男子同士、女子は女子だけでつるむようになったけど、昔はよく一緒になって転げまわっていた。霧生と大地と、俺と、ほかにも何人か。大地の家に遊びにいったことも、ウチに遊びに来たことも、ガキの頃にはよくあった。
インターフォンを鳴らすと、すぐに大地のおばさんが出てきて、二人そろって玄関に通された。
――あら、亜希ちゃん、久しぶり。ずいぶんきれいなお姉さんになったねえ。
おばさんが、声をひっくりかえしてそういうと、霧生はもぞりと肩を動かして、居心地の悪いような顔をした。
――大地。直くんと亜希ちゃんが、来てくれたよ。
おばさんが階段をあがっていって、しばらくのあいだ、ごちゃごちゃといい争うような声が聞こえていた。来なれた家のはずなのに、なんとなく落ち着かなくて、俺は身じろぎばかりしていたけど、隣で無言のまま待っている霧生は、平然としているように見えた。
――なんだよ、霧生まで。
意表をつかれたんだろう。出てきた大地は不機嫌そうな声でいったけれど、顔のほうは、怒っているというよりも、どっちかっていうと戸惑っているように見えた。
――出てきなよ、森崎。
いつもどおりの、素っ気ない口調で、霧生はいった。
――お前に関係ねえだろ。
大地が目を逸らしながらそういっても、霧生はひるまなかった。
――関係ないけど。でも、出てきなよ。ガッコ来ても、面白いことないかもしんないけど。
大地は黙り込んだ。渡すタイミングを見失ったプリントを、手持ち無沙汰に丸めながら、俺はその表情を、じっと見ていた。
――やなことあるからって、いつまでも逃げてても、キリないじゃん。一生、家に閉じこもってるわけにもいかないんだし。
つっけんどんないい方をしているようでいて、霧生の顔つきは、ものすごく真剣だった。もしかしたら霧生は、同じことを、自分自身にもいい聞かせていたのかもしれない。
――お前みたいなやつには、わかんねえよ。
大地は、目を逸らしたまま、そういった。
――あたしみたいなやつって、何。
霧生は怒ったようだった。ひどく尖った声でそういうと、唇を引き結んで、大地をにらんだ。大地は、少し気弱げな、昔と同じ表情になって、肩を縮めた。その目が、霧生の半袖からのぞく鱗のあたりを、落ち着かないふうに見ていることに、俺は気づいた。
――霧生みたいな、強いやつには、わかんねえよ。
――ばっかじゃない。
即座に、ほとんど怒鳴るようにして、霧生はいった。
――どこに目、つけてんの。あたしは……
いいかけて、霧生は口をつぐんだ。それから、短くため息をついて、
――もういい。好きにすれば。
そういい捨てると、さっさと帰っていった。残された大地と俺は、居心地の悪さをもてあまして、しばらく顔を見合わせていた。
――怖えな、あいつ。
しばらくして、大地がぽつりと呟いた。それから無言でさし出してきたその手に、ようやくプリントを渡して、俺は頷いた。
――たしかにな。
ふっと、大地が笑った。つられて、俺も少し、笑ったかもしれない。
夕飯を食べていけというおばさんの誘いを、苦労して断って、帰り際、もう一度振り返ると、大地は玄関の奥で、所在なさげに肩をゆすっていた。
――出てこいよ、大地。お前がいないと、つまんねえよ。
大地は返事をしなかった。
それからも、まだしばらく時間がかかったけれど、冬になる前には、大地は学校に来るようになった。それでもときどき、急に休むことはあったし、最初のころは、ひとりでじっと机に座ったまま、誰が話しかけても口数少なく、ぼそぼそと答えていた。だけどいつの間にか、だんだん笑うようになって、気がつけば昔みたいに、普通に話すようになっていた。
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