紫鱗に透ける

朝陽遥

第1話

 カッターの刃を、少しだけ出す。指で押さえながら、ゆっくり、音をたてないように。

 窓の外からは、うねるような蝉しぐれ。教壇からは、たいくつな数式のたいくつな解説。昨日もやったような問題を、どうして今日もまた大真面目に説明しているのか、意味がわからない。教師って人種はそろって、中学生なんてみんな馬鹿だと思ってる。

 腕にうっすらと浮いた汗をぬぐって、カッターの刃先を、軽くあてる。ゆっくりと、浅く、切れ目を入れる。皮一枚だけ。

 皮膚の下、鈍く光る鱗と鱗の境目に、刃を滑り込ませる。

 鱗のある部分は、ほかよりちょっとだけ、皮膚が薄い。ひっかけた刃先を、軽く持ち上げる。かさぶたをはがすのよりも、もっと軽い手ごたえ。ぴり、とちいさく痺れるような痛み。

 はがれた鱗が、かすかな音を立てて、ノートの上に落ちる。ちょうど爪くらいの大きさで、爪よりはずっと薄い。その下に透けて見える、書きかけて途中で飽きた数式。

 どうしてノートって、いつまでも紙のままなのかなと、いつも思う。先生たちは、あたしたちのカバンが軽くなるのが、ただ気に入らないだけなんじゃないのかな。紙に手で書いたほうが、キーボードで打ったり、タッチペンで書いたりするより、もっと記憶に残りやすいんだなんていうけど、そんな話には、ぜんぜん説得力を感じない。

 ――じゃあ、最後に校庭五周。

 外から聞こえてくる、体育教師のむやみに大きい声。ばらばらとあがるブーイング。音楽室からかすかに届く、気の抜けたような笛の音。ちらりと黒板を見る。さっきの問題から、まだ進んでいない。

 腕に視線を落とす。はがした鱗の下の皮膚は、少しだけ赤くなっている。

 腕からはがれた鱗は、透明なようでいて、ほんの少し、淡く紫がかった色をしている。いつからこんなだっただろう。昔はもっと、色が薄かったような気がするのに。

「じゃ、それ宿題な。ちゃんと解いてこいよ。明日、あてるからな」

 その言葉に顔を上げて、時計を見ると、終業二分前だった。やっと解放される。十分間だけの自由。ディスプレイに表示していた教科書を閉じて、端末をスリープさせる。このテキスト、ちゃんと授業で使ってるページを開いているかどうか、オンラインで監視されてるっていううわさがあったけど、ほんとなんだろうか。ほんとだったら、教師っていうのは、よっぽどヒマなんだろうと思う。

 ひとつ前の席で、プリントをまわすために振り向いた久慈直弥が、眉を動かして、何かいいたそうな顔をした。その目線の先に、ノートの上の鱗。

 無言で、その手からプリントをひったくる。久慈から視線を外したくて、いそいで後ろを向くと、ひとつ後ろの席の男子は、豪快に熟睡中だった。わかるやつも、わからないやつも、みんな退屈してるんだったら、何のための時間なんだろう。拘束されることに慣れるための訓練?

 馬鹿みたいだ。口の中で呟く。寝てるそいつの頭の上に、プリントをのせる。まわりで上がる、抑えたくすくす笑い。

 チャイムが鳴る。起立、礼。号令の余韻が消えるよりも早く、皆、ばらばら席を離れ出す。

「亜希子、ごめん、英語の宿題うつさせて!」

 先生が教室を出て行くなり、紗枝が駆け寄ってきて、両手を合わせて拝んだ。笑ってノートを渡して、無意識に、はがした鱗のあとをさする。かすかにひりつく皮膚。そこだけ変になめらかな感触。

「あーもう、二年生になってから、宿題、多すぎ。先生たち、ぜったい手抜きしてるよね? 授業だけでわからせる努力をしろっての」

 あわてて書き写しながらの愚痴に、まあね、と適当にうなずいて、紗枝のつむじを観察する。右巻きの、やわらかいくせっ毛。天然パーマを、本人は気にしているけれど、それは紗枝の童顔によく似合っていて、可愛いと思う。いうと怒るから、黙ってるけど。

「あー、なんでこんなに、あわてて詰め込まなきゃいけないんだろ。どうせ高校受験なんてするやつ、ほとんどいないのにね」

「あれ、でも、高等部にあがるときに、いちおう試験があるんじゃなかったっけ」

「形だけだよ。落ちるやつ、いないらしいもん。ねえ、亜希子、来週の日曜日ひま? 買い物いこうよ。ぱっと気晴らしにさあ。試験も終わるし」

 そうだね。頷いたのと同時に、ひそひそ話が耳に飛び込んできた。

 ――きいた? 一年生のさ、江嶋だっけ。プール、ぜんぶ見学するんだって。

 ――えー。そんなのアリなん? アレのときとか、風邪ひいてるときならわかるけどさ。

 ――ほら、見られたくないんじゃないの? だってあいつ、普段も長袖じゃん。

 くすくす笑い。聞こえないようで聞こえる、絶妙な声の大きさ。あたしの腕に、ちらりと向けられて、すぐにそらされる視線。紗枝が立ち上がって、噂話をしていた渡辺たちのグループをにらみつけた。

「紗枝」

 腕を引いて、座らせる。

「だって」

「いいから。好きにいわせときなよ」

 いうと、紗枝は渋々、英語のノートに視線を落とした。手を動かしながら、唇をかみしめている。

 やだ、こわーい。ひやかすような笑い声があがる。ちょっと、やめなよ。そう止める声も、笑っている。

 いいたいやつには、好きにいわせておけばいい。ねえ、なんであんたは隠さないの、みっともないとは思わないのって、あの子たちは、そういうことをいいたいんだろう。

 一年の江嶋が、夏服だって特注で長袖にして、腕を覆う鱗を、いつでもぴったり隠しているみたいに。世間の多くのレピシスが、その肌を隠しながら、街を歩いているみたいに。あんたはどうして、ほかの連中みたいに、こそこそ小さくなって生きないのかって、つまりはそういうことだ。

 だからどうした、と思う。

 隠したって、なくなるわけじゃない。好きで鱗なんてもって生まれてきたわけじゃない。それでも笑いたいなら、笑えばいい。同情するなら勝手にすればいい。もう慣れた。遠まわしにちくちく嫌味をいってるだけの連中なんて、気にする価値もない。うわべだけの言葉には、こっちだってうわべで答える。偏見を持たないでほしいなんて、そんなことは、はじめから期待しない。

 紗枝はまだうつむいている。

「ありがとね」

 小声でいうと、その薄い肩が、ぴくりと揺れた。



 レピシス、という。

 それは、ほんの何年か前に使われはじめた呼び方で、近頃では、どうやら定着しつつある。それまでは、いろんな学名だの俗称だのが持ち上がっては、差別用語なのではないかと取り沙汰されるたびに、あるいは世間がその響きに飽きるたびに、忘れられていった。

 この鱗ははじめ、ある種の病気だと考えられていた、らしい。だけどいまでは、人類の突然変異だといわれている。皮膚の下を覆う鱗は、ただそこに生えているというだけで、体には何の害もない。手足の外側と、肩と、それから背中。長袖の服を着込んで、スカートの裾とソックスの長さにちょっと気をつけさえすれば、外からはぜんぜんわからない。

 このあいだなにかの番組でいっていたけれど、この世界に最初に生まれてきたレピシスの子は、中東の、イスラムの戒律の厳しい地域の、女の子だったそうだ。

 その子の両親は、その子の肌を覆う鱗の存在を、ひた隠しに隠したまま育てた。けして誰にも相談しなかった。そのおかげで、世界がその存在に気づくのが、ほんの何年か、遅れたわけだ。

 あたしの生まれた年には、新生児のおよそ千人に一人に、鱗が生えていたそうだ。

 それが、去年生まれた子たちのあいだでは、七人にひとり。レピシスは、急激に増えつつある。その原因は、不明。このままいけば何十年か先には、鱗のない子のほうが珍しくなるのではないかと、そういわれている。

 いまだけの我慢だよ、と、母さんはいう。それはたぶん、本当に、そうなんだろうと思う。いまだけだ。珍しがられるのも、眉をひそめられるのも、あと何年か、長くてもきっと、十何年かのこと。

 十年先の自分なんて、ぜんぜんイメージできないけど。



 帰りのバスが混むのがいやで、コンビニで時間を潰していた。

 ころあいを見はからって校門の前に戻ると、バス停はがらんとしていて、だけど、完全な無人でもなかった。久慈がひとり、立っている。

 ほかに誰もいないのに、なんで座らないんだろう。薄っぺらいカバンだけ、ベンチに置いて、道路の向かい側をにらみつけている。このごろ久慈は、いつも難しい顔をしている気がする。そんなふうに思ったところで、目があった。

「霧生」

 向こうから話しかけてきたのは、久しぶりのことだった。小さいころには、家が近いこともあって、よく一緒に遊んでいたけれど、この頃ではほとんどしゃべる機会もない。

 声をかけてきたはいいけれど、そのあとに続ける言葉がなかったのか、久慈はそのまま黙りこんでしまった。

「なに、陸上部サボリ? めずらしいね」

 間がもたなくて、そう訊くと、変な顔をされた。

「試験休みだよ。どこの部も一緒だろ」

 いわれてみれば、いつもはよく響いている野球部のノックや掛け声が、今日は聞こえてこない。蝉がうるさいのに気をとられていて、気づかなかった。

 そういえば、もうすぐ試験なんだっけ。口に出してはいわなかったけれど、考えたことが顔に出たのか、久慈はちょっと眉を上げた。

「お前、試験勉強とか、したことないだろ」

「ないよ」

 正直に答えると、久慈は呆れたような顔をした。はいはい、どうせあたしはいやなやつですよ。そんな顔しなくても、わかってるって。

「あ。そういえば一昨日、隆太、ウチにきてたよ」

 話を逸らすつもりで、久慈の弟の話をふった。隆太はウチの弟と同い年だ。二人とも、ここの初等部に通っている。家が近いこともあってか、昔からよく遊びに来ては、二人でゲームかなんかやっている。

「あいつら、仲いいな」

 そうだねと頷いたら、もう話題が尽きた。

 久慈の弟はレピシスだ。ちょっと人見知りするけれど、打ち解けるとよくしゃべる子で、あたしにもしょっちゅう話しかけてくる。

 隆太がウチによく遊びに来るのは、もしかしたら、ただウチの弟と仲がいいからだけじゃなくて、ふつうの子の家よりも、気安いのかもしれない。三つ下の隆太の学年でも、まだまだレピシスは珍しい。

 世間には、レピシスの子どもをもつ親どうしが集まって、悩みを打ち明けたり、相談したりするような団体がある。うちの母親も、そこに参加している。必然的に、子どもたちのあいだにも、面識ができる。でも、レピシス同士でつるんでいる連中は、何を話していても傷の舐めあいみたいな感じになって、それが悪いとはいわないけれど、あたしはなじめない。

 だけど、隆太は可愛い。無愛想な兄貴とちがってよく笑うし、悪戯小僧だけど、することにいやみがない。

「霧生。お前さ」

 久慈が、何かいいかけた。だけど、続きの言葉をまっているあいだに、バスが来た。

 通学ラッシュをすぎたせいか、バスはがらがらだった。冷房が効いていて、肌寒い。席がいくつもあいているのに、わざわざ隣に座るのも気まずくて、離れて座った。

 気の抜けるような音を立てて、乗車口が閉まる。発車、とやる気のない車掌の声が、車内マイクを通してひび割れた。

 乱暴な運転に揺さぶられながら、前のほうの座席、背もたれから飛び出している刈り上げ頭を眺めていた。

 久慈はさっき、何をいいかけたんだろう。

 いつごろからだったか、久慈は、口数が減った。昔はそんなことはなかったと思う。むしろ、よく笑ってよくしゃべる、賑やかなやつだった。



 あれは初等部の、五年生のときだった。よく覚えている。掃除の時間。寒い季節のことで、掃除当番は誰も雑巾がけをいやがった。私立のクセに、うちの学校は暖房設備が貧弱で、教室に置かれたストーブ一個では、ろくに温まらなかった。

 ――拭き掃除は、霧生がやれよ。

 突然、同じ班の工藤にそういわれて、あたしは振り返った。

 ――はあ? なんで。交代でするって決めたじゃん。

 ――お前の鱗が、ホウキじゃうまくとれなくて、面倒なんだよ。自分で掃除しろよ。

 絶句した。顔がみるみる赤くなるのが、自分でわかった。鱗は、そう頻繁に抜け落ちるようなものではないのだけれど、何かの拍子にはがれて、またあたらしく生えてくる。知らないうちに床に落ちていることは、実際、ときどきあることだった。

 ――なんでそんなこというの。

 そのときも同じクラスだった紗枝が、声を振り絞るようにして、そいつに抗議した。驚いて振り返ると、紗枝は悔し涙をにじませて、ぶるぶる震えていた。昔からずっとそうだった。いつだってあたしがいやな目にあうと、あたし自身よりも、紗枝のほうが傷つく。傷ついて、かわりに怒る……。

 けれどそれで、工藤は、ますます調子づいたみたいだった。

 ――なんだよ、ホントのことだろ。ホントのこといって、何が悪いんだよ。

 そのときだった。久慈が、そいつをぶん殴ったのは。

 みんな驚いて、ぽかんとしていた。久慈がもう一度そいつを殴ろうとしたので、何人かの男子が、あわてて止めに入った。

 久慈は工藤とは、仲がいいはずだった。よくつるんでいて、気があっているみたいにみえた。それなのに、そんなのはぜんぶ嘘だったみたいに、久慈は顔を真っ赤にして、本気で怒っていた。

 それからしばらくのあいだ、久慈は工藤と険悪になって、口もきかなかった。

 あのとき、自分の弟のことがあったから、久慈は怒ったんだと思う。それでもあたしは、嬉しかった。

 だけどそのことで、いっとき、久慈はクラスの皆からさんざんからかわれた。お前、霧生のこと好きなんじゃないのとか、そういう、いかにも小学生らしい冷やかしだ。それでちょっと気まずくなって、あたしたちはしばらく、口をきかなかった。だけど、あの一件で、久慈が工藤と気まずくなってしまったことや、からかわれていやな思いをしたことに、あたしはずっと気が咎めていた。

 だいぶ経ったころに、ようやく謝るチャンスがあった。あのときはごめんって、あたしがそういうと、久慈は不機嫌そうな顔になって、何も返事をしなかった。

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