コンプレックスの塊
メインレースの桜花賞。
たくさんの人の熱気に埋め尽くされ、スタンドを揺らすような大歓声が上がった。
その迫力に圧倒され、僕はゴール前で立ちすくんだ。
桜花賞は、3つある3歳牝馬限定レースの、最初のひとつらしい。
3歳馬限定のG1レースをクラシックレースと言って、桜花賞の他にも皐月賞、東京優駿(ダービー)、菊花賞、牝馬限定の優駿牝馬(オークス)、秋華賞の6つがあるそうだ。
皐月賞、ダービー、菊花賞は基本的に3歳牡馬のレースだけど、牡馬限定というわけでもなく、トライアルレースを勝ち上がり出走権を得る事ができれば、牝馬もレースに出走するのは可能らしい。
3歳馬は人間に例えると高校生くらいの若駒で、ダービーなんてのは高校球児の夏の甲子園みたいなものだとねえさんは言っていた。
馬にとっては、まさに青春時代の、一生に一度の特別なレース。
もちろん馬にとってだけでなく、関係者にとっても、他のG1レース以上の特別な思い入れがあるらしい。
「初めての競馬観戦で、目の前でG1観れるなんてラッキーやで。よう観とき。」
これから始まる桜花賞への期待で上気したねえさんの頬が、桜色に染まっている。
風に煽られたねえさんの髪が、隣にいる僕の頬を撫でた。
またあの香りがふわりと漂う。
ホントにいい香りだ。
ねえさんの色香にやられてポワンとしている僕の耳をつんざくように、ファンファーレが鳴り響いた。
たくさんの観客たちが、ファンファーレに合わせ丸めた新聞で手を叩いて、リズムを取っている。
ファンファーレが終わると、ものすごい大歓声が上がった。
「知ってるか?地方によってレースのファンファーレは違うんやで。関西はアップテンポやけど、関東はクラシカルやねん。もちろん中京競馬場も全然雰囲気の違うファンファーレがあるし、レースのグレードによってもファンファーレが違うねん。」
「へぇ…面白いですね。」
「てもやっぱり、関西のG1ファンファーレが一番興奮するな!!お祭り始まるでー!!って感じがするやろ?」
「確かに。なんだかワクワクします。」
「馬は臆病でデリケートな生き物やから、こんな大きい音出して怖がらせるべきじゃないんやけどな。」
「そうなんですか?」
「それでもこんくらいの事でビビッとったら、大きいレースでは勝てん。これに動じんくらいじゃないと、大物にはなれんのよ。」
「なるほど。」
ねえさんはまた競馬を熱く語る。
知らないおじさんにこんなに熱く語られたら、おそらくドン引きしちゃうんだろうけど、それがねえさんだと、全然退屈じゃない。
やっぱり美人だからか?
それともねえさんには、人を惹き付ける魅力みたいな物があるのかな。
そんな事を考えているうちにゲートが開き、レースは始まった。
ねえさんの説明を聞いたせいか、女子高生がゴールを目指して必死で走っているような気がしてきた。
レースが終盤に差し掛かると、ねえさんは興奮して身を乗り出し、拳を振り上げて、わー!とか、行けー!!とか叫んだ。
そして最後の直線で3頭が競り合いになると、更に興奮して、僕の頭を腕でガシッと胸に抱えた。
ね、ねえさん!!
胸っ、胸が当たってますけど!!
ねえさんの柔らかい胸に押し付けられた僕の顔の右側は、途端にカーッと熱くなる。
どうしよう?!
こんな事初めての経験でテンパってる!!
ねえさん、こんなんでも一応僕だって男です。
いろいろヤバイから、もうやめて…。
いや、こんなオイシイ事、もう二度とないかも知れない。
やっぱりまだやめないで…。
僕の頭の中は煩悩まみれだ。
馬の女子高生の美脚より、人間の大人の女の胸の方がいいに決まってる。
ああ…もう、このままどうなってもいい…。
「ぃよっしゃあ!!」
ねえさんは大声を上げて、僕の頭をボカボカ殴った。
「痛いっ、痛いです!!」
これは、ねえさんの胸にずっと顔をうずめていたいなどと、良からぬ事を考えていた天罰でしょうか?
非常に痛いです、ねえさん。
「あー、ごめんな。思わず興奮してしもた。」
ねえさんは僕の頭をヨシヨシと撫でて手を離した。
僕はジンジン痛む頭をさする。
あんないい思いさせてもらった事を考えたら、これくらいの痛さ、どうって事ないです!!
…とは、口が裂けても言えない。
肝心のゴールを見逃してしまったけれど、まあいいか。
先輩の予想は見事に外れたらしい。
結局僕は、最終レースまで一度も自分の馬券を買う事もなく、ねえさんについてただひたすら競馬観戦を楽しんだ。
初めて観たけど、競馬って意外と楽しいかも。
それはやっぱり、ねえさんと一緒だったからなのかも知れない。
最終レースが終わると、おじさんが僕とねえさんを競馬場近くの小さな居酒屋に連れていってくれた。
その店は、おばあさんと呼ぶにはまだ少し若い女将さんが一人で切り盛りしている。
友人や先輩たちと行くようなチェーン店の居酒屋とは違う、温かみのある店だった。
「おねーちゃん、好きなもん頼めよ!」
「ほんならビールとモツ煮込みと揚げ出し豆腐ちょうだい!」
「アンチャンも遠慮すんな。何飲むんや?」
「それじゃ、僕もビールいただきます。」
おじさんはビールと、料理をいくつか適当に注文した。
「競馬の後、よく二人で一緒に飲みに来たりするんですか?」
「たまにな。おねーちゃんのおかげで大穴当てた時は、こうやってお礼するんや。」
おじさんはねえさんと僕、それから自分のグラスにビールを注いだ。
「ほな、お疲れさん。かんぱーい!」
「かんぱーい!!」
「乾杯!いただきます!」
三人で乾杯して、ビールを飲んだ。
普段はあまり飲まないけれど、今日のビールはなんだか美味しい。
それからしばらくの間、女将さんの美味しい料理をつつきながらビールを飲んだ。
ねえさんとおじさんは、今日のレースを振り返って随分盛り上がっていた。
興味深かったのは、僕が思っていた関西と、実際の関西が違う事だ。
ねえさんは自分の事を“アタシ”と呼ぶ。
関西の女性はみんな、自分の事を“ウチ”と呼ぶものかと思っていたけれど、実際は違うようだ。
「アタシのまわりで、自分の事“ウチ”なんて言う子、あんまりいてへん。」
「そうなんですか?僕、ほとんどの女性がそう呼ぶんだと思ってました。」
「アンチャン、テレビか漫画かなんかの見すぎちゃうか?関西言うても広いんやで。関西イコール大阪とちゃうしな。兵庫かって広いんやから、ここらへんと神戸は全然ちゃうし、県の北部なんかまったくちゃうからな。」
ねえさんは笑いながらタバコに火をつけた。
「そう言えば、ワイとか、おおきにとか、でんがなとかまんがなとか、言いませんね。」
「言わんな。それ、ベタな大阪やろ。」
土地が違えば、言葉も料理の味付けも違う。
女将さんの料理は出汁をきかせた優しい味で、素材の味が生きていて、とても美味しかった。
三時間ほど経って店を出た。
おじさんはすぐ近所に住んでいるらしく、店の前で別れた。
「アンチャン、電車か?」
「はい、電車です。」
「ほな、駅まで一緒に行こか。」
ねえさんと並んで駅まで歩いた。
ほろ酔い加減で頬を上気させて、ねえさんは鼻唄を歌いながら歩く。
「今日、楽しかった?」
「すごく楽しかったです。」
「そら良かった。今朝は柄の悪いやつに絡まれとったし、小鹿みたいにビクビクしてかわいそうやったもんなあ。」
小鹿みたいって…。
弱くて頼りなくて、みっともない所を見られたもんだと、今更ながら恥ずかしい。
「あれは怖かったですよ。でも、そのおかげでねえさんにもおじさんにも会えたし、いいかなって思います。」
「前向きやな。ええこっちゃ。」
ねえさんは笑いながら、僕の背中をバンバン叩いた。
「いつもそうやってな、背筋伸ばして顔上げとき。ちょっとは男前度が上がるわ。」
「男前度…ですか?」
「そう。少なくともな、下ばっかり向いてるよりは、ハッタリでもええから堂々としてる男の方が、アタシは好きやで。」
堂々としてる男の方が好き?
そんな事言われたら、単純な僕は少しでもねえさんに近付けるならと、反り返るほど背筋を伸ばして大股で歩いてしまいそうだ。
「ねえさんがそう言うなら、これからはそうしようかな。」
「そうしとき。」
「それで少しはモテるようになれば、言うことないんですけど。」
少し酔っているせいか、不意に本音がこぼれ落ちた。
ねえさんは笑う。
「なれるなれる。頑張ってアタシが惚れるくらいのええ男になりや。」
「どれくらい頑張ればなれるのかなあ…。」
思わず呟くと、ねえさんは笑いながら僕の頭をポンポン叩いた。
「そんな事言うてるようやとまだまだや。そんなん言うてるとこ見ると、アンチャンは恋愛の方もアンチャンやな?」
思わず立ち止まった。
確かに僕は恋愛した事も、女性経験もない。
ねえさんから見たら、僕なんてまるきり子供なんだろう。
大人の男なら上手な口説き文句も知っているんだろうけど、僕はそんなハイレベルなスキルは持っていない。
見たままの僕でしかないのが悔しい。
こんな事が僕にとって一番のコンプレックスだなんて、ねえさんは知らない。
何気なく言ったはずのねえさんの一言が、僕には“女も知らないつまらない子供だ”と言われたように聞こえた。
「僕は背も低いし、童顔で子供みたいで、口もうまくないですからね。今まで好きな子がいても、振られるのが怖くて告白する勇気もなかったんです。恋愛した事も、女の子と付き合った事もないけど…いけませんか?」
下を向いてこんな事を言う自分が情けなくて、拳を握りしめた。
「ん?あかんことないよ。でもな、背が高いとか見た目がどうとか、そんな事より大事な事があるわ。」
ねえさんは華奢な腕を伸ばして、僕をギュッと抱きしめた。
「もっと自分に自信持て!」
その後、駅前で人と会う約束をしていると言うねえさんと改札口の前で別れ、一人で電車に乗った。
真っ暗な夜の街を走り抜ける電車の窓に写る自分の顔を、思わずじっと眺める。
自信持て、か。
……ヤバイ。
またドキドキしてるよ…。
まさか、あんなふうに抱きしめられるとは思ってもみなかった。
ねえさんは温かくて柔らかくて、いい香りがして、少しだけお酒とタバコの匂いがした。
女の人に……いや、ねえさんに抱きしめられるって、こんなに気持ちいいんだって思った。
ほんの少しの間だったけど、僕はどうしようもないくらいドキドキして、ねえさんを思いきり抱きしめたい衝動に駆られるのを、拳を強く握りしめて必死に抑えた。
あれはかなりヤバかった。
僕のなけなしの男の本能が、暴れだしてしまいそうだったから。
僕ってホントに、女の人に対して免疫がないって言うか。
こんなんでこの先、彼女なんてできるんだろうか。
今日初めて会った人がこんなにも気になるなんて、自分でもどうしてだろうと思う。
今日一日一緒にいたと言っても、競馬の事を教わったくらいで、それ以外たいした話はしていない。
そう言えば不思議な事に、ねえさんとおじさんは、居酒屋でも競馬の話と世間話くらいしかしなかった。
お互いの事はあまり話さないみたいだ。
それは僕に対しても同じで、どこの出身なのかとか、歳はいくつだとか、どんな仕事をしているのかとか、どこに住んでいるのかとか、そんな事はひとつも聞かなかった。
だから僕も聞かなかった。
今日一日一緒にいたからと言って、特に親しくなったわけでもない。
もしかしたら、二度と会わないかも知れない。
また会うかどうかもわからない相手には、深入りしないのかも。
それが暗黙のルールなのかな?
翌日の昼休み。
僕は約束通り、先輩に昼飯を奢ってもらった。
会社のそばの安い定食屋の、日替わり定食。
安くて速くて量が多くて美味しいから、いいんだけどさ。
先輩、男の後輩にはお金を遣わない主義なんだな。
しかしイケメンと言うのは、安い定食屋で焼き魚を食べてるだけでも絵になるもんだ。
男はやっぱり見た目か?
「先輩、身長何センチあるんですか?」
「身長?182やったかな。」
182もあるんだ…羨ましい。
一体何を食べればそんなに大きくなれるんだ?
「なんや、急に。」
「背が高くていいなぁと思って。」
先輩は味噌汁で口の中のご飯を流し込んで、向かいに座っている僕をチラッと見た。
「あー、悪くはないな。おまえは?」
「163.4です。」
僕がミリ単位まで身長を言うのがおかしかったのか、先輩はきんぴらごぼうを箸でつまみながら吹き出した。
「俺、中1の最初にはそれくらいあったぞ。成長期逃したんか?」
成長期はあった。
あったけど、期待していたほどは伸びなかったっていうだけだ。
「これでも伸びたんですよ。僕、生まれた時から小柄で、中1の最初は150もなかったんですから。」
「ほーぉ。のびしろが足りんかったか。」
世の中は不公平だ。
先輩は顔がいいだけでなく、背も高くて何もかもがカッコ良くて、僕にないものをたくさん持ってる。
「これからでも伸ばせないかな…。せめて170くらいは欲しいんですけど。」
「ハタチ過ぎても伸びるヤツもおるけどな。せいぜい何ミリか、よう伸びて1センチやろ。」
「やっぱりそうですよね…。」
先輩を追い越すほどとはいかなくても、せめて日本人の成人男性の平均身長くらいは欲しい。
数ミリじゃ追い付かない。
「そんなに気になるんやったら、毎日牛乳飲んでめざし食うて、日光浴でもしとけ。成長促進するサプリとか食品なんかもあるはずや。」
「へぇ…。」
よし、あとでネット検索してみよう。
「そんなに背が気になるって、なんか理由でもあるんか?」
「いっぱいありますよ。僕は背が低いだけじゃなくて童顔ですから。どこに行っても年齢確認されるんです。」
「ほう、それから?」
「背の高い女の人にはちっちゃくて可愛いとか言われるし…。同級生の女の子からも弟みたいだとか言われて、全然男として見てもらえないし。」
先輩はお茶を飲み込んで、にやっと笑った。
「おまえ、男に迫られた事あるやろう?」
「なんでわかるんですか…。」
思えば僕のモテ期は、男子校に通っていた中学から高校の6年間。
ただし、相手は男ばかり。
もちろん僕にはソッチの趣味はないから、付き合ってくれと何度迫られても、頑なに拒んだ。
たまに強引な男に襲われそうになりながらも、なんとか必死でこの身を守ってきたんだ。
「いかにもソッチの趣味の男に好かれそうな顔しとるもんなあ。この際やから、ソッチの世界に飛び込んでみたらどうや?」
先輩はほんの軽い冗談のつもりで言ったんだろうけど、僕は何度となく経験した恐怖体験を思い出して、背中に変な汗が流れた。
「やめて下さいよ…。優しくて頼りになるいい友達だと思ってたやつに、ある日突然好きだって押し倒されて、襲われそうになるんですよ。もうあんな恐怖は二度とごめんです。」
「そら怖いわ…。すまん、もう言わん。」
女の子にモテる先輩にはまったく縁のない話なんだろう。
本気でドン引きしている。
「とにかく…僕は見た目こんなでも、男ですからね。男にモテても全然嬉しくありません。」
そう言って僕がごはんの最後の一口を口に入れると、先輩は湯飲みを置いて腕組みをした。
「おまえ、女にモテたいんか?それとも好きな女でもおるんか?」
今の僕には好きな女の子なんていないはずなのに、“好きな女”と言う先輩の言葉に、一瞬ドキッとした。
なんだこれ?
なんだこのドキドキは?!
「そりゃまあ…人並みにはモテたいですよ。」
「彼女欲しいんか?」
「…欲しいです。」
ええ、欲しいですよ。
欲しいですとも、ものすごく。
「じゃあ、今度合コンセッティングしたる。それか紹介の方がええか?」
「お任せします…。」
本当は合コンとか紹介なんて苦手だけど、今の僕にとって新しい出会いは貴重だ。
先輩の紹介してくれた相手が僕を好きになる保証なんてないけれど、ねえさんが言ってくれた通り、せめて堂々としていよう。
午後3時。
僕は先輩に自販機コーナーへ連れ出された。
お茶休憩をする人たちで、自販機コーナーは賑わっている。
先輩に飲み物の入ったカップを差し出され、僕はお礼を言ってから、その甘い香りに一瞬首をかしげた。
なぜゆえにミルクココア?
もしかしてコーヒーも飲めないほど子供だと思われてるのかとも思ったけれど、先週は一緒にコーヒーを飲んでいた事を考えると、おそらく先輩は、僕が身長を伸ばしたいと今も思っているのを知ってカフェインを気にしたんだろう。
無駄な気遣いのような気もするが、こういうところはいい人だと思う。
「今週の金曜の夜、空けとけよ。」
「え?金曜ですか?」
「おまえの望み通り、合コンやったる。」
は、早い…!!
合コンしてやるって言ってから、まだ2時間半ほどしか経っていないのに、もうセッティング済み?
「おまえ、女と経験ないやろう?」
「……男もありませんけどね。」
「おまえみたいなやつはな、最初は歳上の女の方がええねん。可愛がってもらえるからな。」
可愛がってもらえるって…。
「誠に不本意なんですが。」
「ええねん、最初は慣らしてもらえ。そこでいろいろ学んだらええ。」
……やっぱり不本意なんですが。
確かにあれこれ経験してみたいと言う気持ちがないわけじゃない。
いや、大いにあるけれど、だ。
僕はそれより純粋に恋愛がしたい。
…なんて言ったら、少女趣味だとか思われて、また子供扱いされるんだろうか。
「とりあえず金曜の夜、空けとけよ。」
「わかりました…。」
せっかく先輩が気を遣ってくれたんだから、断るのも申し訳ない。
おそらく僕に拒否権などないんだろう。
自分から積極的に出会いを求めて行けるタイプではないんだし、ここは素直に先輩の話に乗っかるとしよう。
なんとか無事に今週の仕事を終えた金曜日。
定時が近付くにつれ、僕はソワソワして落ち着かなかった。
一体どんな人が来るんだろう?
なんとなく、イヤな予感もする。
今までだって、こういった機会はあったけど、大概、歳上の女の人からは、可愛いだのなんだのと頭を撫で回されて、それで終わりだ。
僕を仔犬か園児と勘違いしているのかと、腹が立った事もある。
可愛いなんて言われて喜ぶ成人男性、いないだろう?
いくら相手が歳上でも、それは喜べない。
僕だってもう社会人だ。
小柄でも童顔でも成人男性だ。
人並みの恋愛願望だって、性欲だってある。
いい加減、可愛いだけの男からは卒業だ!
…なんて、意気込んではみたものの。
先輩の友人らしき女性たちは、実際の年齢よりもずっと大人に感じた。
いや、違うな。
大人と言うよりは老けて見えたと言うか、言い方は悪いがケバく見えた。
きっちり化粧をして、小綺麗な服を着て、高そうなブランドバッグを持っていて、僕が苦手な強めの香水の匂いがした。
そして案の定僕は、ちっちゃい、可愛いと撫でまわされ、仔犬か園児扱いだ。
彼女たちは僕が関東出身なのが珍しいのか、地元の神奈川だけじゃなく、東京の事ばかり尋ねられた。
関東イコール東京じゃないって。
僕は大学卒業まで地元にいたから、東京の事なんてたいして知らない。
正直に知らないと答えると、あからさまにがっかりされてしまう。
居心地悪い。
香水臭い。
彼女らの鼻にかかった声が癇に障る。
何を話しても疲れるばかりで面白くない。
ビールもちっとも美味しくない。
早く帰りたい。
そんな事ばかり考えてしまう。
ビールをチビチビ飲みながら観察しているうちに気付いたのは、結局この人たちは、僕なんかにはまったく興味がないって事。
そりゃまあそうだろう。
そして、みんな先輩狙いなんだと言う事。
僕をだしに先輩に取り入ろうって魂胆だな。
先輩がいくら僕に気を利かせてくれたところで、結局僕は先輩の引き立て役にしかならない。
なんだ、この惨めな感じ。
やっぱり男は見た目なんだよ。
なんかもう、どうでもいいや。
僕だってこの人たちには興味ない。
うわべは綺麗に見えるけど、化粧落としたら別人なんじゃないの、なんて意地の悪い事を考える。
つまらない。
無理やり作られた出会いなんて。
それよりもっとつまらないのは、人を羨んで妬んでばかりの、卑屈で情けない僕。
背が低いとか童顔で子供みたいだとか、そんなのは、ただの言い訳に過ぎない。
見た目がどうだって、中身がこんなんじゃ、誰にも好きになってもらえるわけがない。
こんな僕に一番嫌気がさしているのは、ほかでもない僕自身だ。
僕はまた、背中を丸めて下を向いた。
ようやく合コンが終わり、二次会を断って帰路に就いた。
電車に揺られながら、また窓に写る自分の顔を眺めてみる。
情けない顔だ。
吐き気がする。
思わず視線を真っ暗な窓の外の景色に移した。
線路沿いに並ぶ桜の木が、残りわずかな花びらを散らしている。
桜…か。
『背が高いとか見た目がどうとか、そんな事より大事な事があるわ。』
不意に、ねえさんの言葉を思い出した。
ほんの少しの間、僕を抱きしめてくれた、ねえさんの温もりが蘇る。
『もっと自分に自信持て!』
また、ねえさんの言葉が脳裏をかすめた。
持てる自信なんて、僕のどこにあるって言うんだ。
少なくとも今の僕には、自信なんて一欠片もないじゃないか。
ハッタリでもいいから堂々としていろなんてねえさんは言ったけど、そんな気力もないよ。
こんな姿、ねえさんには見せられないな。
……ああ、そうか。
見せるも何も、また会う約束をしたわけでもないし、よく考えたら、名前も歳も、どこに住んでいるのかも知らない人じゃないか。
僕がねえさんの事を何も知らないように、ねえさんも僕の事を何も知らない。
それなのになぜ、ねえさんはあんなにも僕の心を温かくしてくれたんだろう?
僕はなぜ、こんなにもねえさんの事を考えているんだろう?
なんだか無性に、ねえさんに会いたい。
土曜日。
お昼前に目が覚めた。
まだ慣れない仕事のせいで疲れていたのか、それとも夕べの合コンでのダメージからか、外に出る気にはなれず、部屋にこもって過ごした。
昼下がり、退屈しのぎにつけたテレビからは競馬中継が流れている。
ねえさんは今日も競馬場にいるだろうか。
おじさんとパドックで会った時、週末一番長い時間を共にするのはおじさんだと言っていた。
無性にねえさんに会いたいと、夕べは思った。
けれど、ねえさんに会ったからと言って、何になるだろう?
情けない僕を抱きしめて慰めて下さいとでも言うつもりなのか?
それこそ情けないじゃないか。
ねえさんだって大人の女の人だ。
僕の事なんて、頼りない弟か、弱くて放っておけない仔犬くらいにしか思ってないだろう。
ねえさんはきっと、たった一日競馬場で一緒にいただけの僕の事なんて、すぐに忘れちゃうんだろうな。
それでも会いたいと思うのは、なぜだろう?
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